2026年2月2日の軌跡 .
「天園ハイキングコース」に戻り、「瑞泉寺」の裏手の尾根上を北へたどっていく。「瑞泉寺」奥の「徧界一覧亭」にさしかかる手前、路の右手に「やぐら群」が現れる。
やぐら穴「ロ」↓は、土砂でほとんど埋まっている。やぐら穴「イ」「ロ」ともに、「袖」が無く浅い穴だ。
少し左へ移ると、上下2段の「やぐら群」になる↓。
上段の「やぐらA」↓は、半ば埋もれているが、方形の開口部をもつようだ。「袖」は無い。
下段には2つの「やぐら穴」が隣り合っているが、内部は連絡していない。左の「やぐらB」↓は、中に五輪塔がある。方形で、「袖」付きのようだ。
さらに左へ行くと、2個ずつ隣り合った「やぐら穴」が横に並んでいる↓。内部の連結は無い。
やぐら穴L,M↓。あいだの隔壁が突き出て “円柱” 状の形をつくっているが、穴は連絡していない。M,Lとも「袖」が無く方形で奥行きは浅い。
その左↓。
やぐら穴N,O,P↓、いずれも方形で奥行き浅く、「袖」は無い。
やぐら穴Q,R↓。風化で天井が無くなっており崩壊著しいが、「袖」の無い「やぐら」と見てよいだろう。
以上から、この「やぐら群」は、おおむね「室町時代様式」の小「やぐら」の集合体だと言ってよいだろう。
「やぐら群」から数分歩くと、道の左側(下に瑞泉寺がある崖の側)の尾根上に小さい堂宇が見える↓。夢窓疎石創建の「徧界一覧亭」のようだ。尾根筋の森林は、アラカシ,タブノキなどの照葉樹に、コナラ,クリ,スギが混じる。
「徧界一覧亭」からまもなく、路の右側に古い石標を見つけることができる。これが、「北条首やぐら」への路を指示する道標だ。注意して歩かないと見過ごしてしまう。
「 瑞泉寺山内
従是右 北條家御‥‥」
「文政十二年丑‥‥」
「文政12年」は 1829年、化政文化の時代。前年に「シーボルト事件」が起きている。「是より右」とあるが、右には、斜面を昇っていく小径と、水平に巻いていく曖昧な踏み跡がある。昇る径をたどってみよう。
ピーク↑に出るまで何もない。ピークには「胡桃山」の山名標がある。その脇に、下にあったのとよく似た古道標がある↓。
「 瑞泉寺山内
従是左 北條家御一門御廟所」
「文政十二年丑正月吉辰」
「願主
黒川惣助」
こんどは、「是より左」。しかし、石標の「左」には急な崖斜面があるだけだ。踏み跡もない。ちょうど登ってきたハイカーに聞いてみたが、ここに来るのは初めてで何も知らないと言う。しかたないので、来た路を戻って、曖昧な巻きみちのほうへ行ってみる。
しばらく巻いていると「やぐら群」が現れた↓。どうやらこれが「北條家一門廟所」のようだ。ネットに出ている「北条首やぐら」の写真と同じだ。
「北条首やぐら」は、1333年の新田義貞鎌倉攻めで幕府が滅亡した際、自害した北条高時以下一族主従の首級を葬ったとされる場所。一門自害のあと、首級を敵に渡すまいと、首を抱えて逃げ回っていた家来に地蔵菩薩が現れ、法螺貝を吹いて、この「やぐら群」に埋葬するよう導いた、との伝説も伝えられている。その「貝吹き地蔵」の石像も、近くにある。
「黒川惣助」はどんな人か判らないが、おそらく江戸時代の地元の名主だろう。この「やぐら群」は北条高時らの首を埋葬した墓所だ、との口承が地元に伝わっていたにちがいない。もっとも、徳川光圀が編纂させた『鎌倉志』には、高時らの墓所は「光触寺の北」にあるとの記述があるそうだ。ここは光触寺からは離れすぎている。『鎌倉志』が正しいとすると、ここの石標と「首やぐら」伝承は疑わしいことになる。
タイムレコード 20260202 [無印は気圧高度]
(5) から - 1237「明王院」分岐・「天園ハイキングコース」戻り☆ - 1310「胡桃山」[111mGPS]1314 - 1318「北条首やぐら」[105mGPS]1350 - (7) へつづく。


































