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2026年2月2日の軌跡  .

 



 


 「明王院」の裏手の尾根へ昇っていく。下から見たとおりの照葉樹林に、植林からタネが飛んできた杉が少し混じっている。スダジイ,クスノキ,アラカシ,ユズリハ,下生えのアオキ

 

 

 

 

 

 この形の葉↓は、落葉樹なら、シロモジ,ダンコウバイなどあるが、今は冬で、こんなに青々しているのは常緑樹だ。カクレミノらしい。同定するのは初めてだが、丘陵に多いと、図鑑に書いてある。

 

 

 

 

 

 尾根上に出ると、いままでの照葉樹林にコナラ,クリ,サクラが混じってくる。これらは今は葉がない。樹皮で見分けられるだけだ。

 

 

 

 

 

 「はじめ弁天」↓。ここは小さなピークで、3つの尾根が集まっているので分岐になる。それを見過ごしてしまい、道を間違えてしまった。しばらく往くと、下り始めたので、気がついて戻った。

 

 

 

 

 樹林の中の尾根路がつづく。

 

 

 

 

 

 YAMAP のクチコミで「富士ビューポイント」という場所がある。残念ながら、きょうは雲が多くて、富士山は隠れている。(こういう日のほうが、ヤグラの撮影には適している。)箱根は、シルエットで見えた↓。右から、金時山,明神ヶ岳,神山,駒ヶ岳

 

 

 

 


 分岐点↓。奥から来た。左へ行けば「天園ハイキングコース」。手前へ行けば、瑞泉寺に下る。瑞泉寺で「やぐら」を見たいので、手前に下る。

 

 

 


 「瑞泉寺」。ハイキングコースのほうから来ると、「総門」と「入口」(拝観受付)のあいだに出る。「総門」↓。

 

 

 

 

 「入口」から入ると参道が続き、石段を上がった処が「山門」になる。

 

 

 

 

 

 

 「瑞泉寺」「本堂」↓。

 

 

 

 

 「本堂」の隣りが「書院」で、「書院」の裏手に、開山の禅僧夢窓疎石が造った「石庭」がある。その「石庭」の背景の崖に多数の「やぐら」が穿たれているのだが、あいにく「石庭」と崖の工事をしていて立ち入り禁止だ。

 

 

 


 そこでまず wiki で、「石庭」と背景崖のふだんの様子を見ておこう↓〔2枚。左から右へ撮影されている〕

 

 


 

 


 右側に見えている建物が「書院」。この「石庭」は、永らく土砂で埋もれていたのを、最近の発掘によって掘り出し、復元したものだそうだ。発掘の際の調査で判明したところによれば、池と、岩の小島、崖の「やぐら」穴も、鎌倉時代末に凝灰岩〔砂岩? 鎌倉石のことらしい〕の岩盤を穿って造形したものらしい。それが、夢窓疎石の設計・指揮のもとに行われた「瑞泉寺」創建時の造園であったらしいのだ。

 

 「瑞泉寺」は、鎌倉末期の 1327年に、鎌倉幕府の幕臣で・この地域に拠っていた二階堂氏が夢窓疎石を開山として創建した。一説では、夢窓疎石がこの寺を開いたのはもっと前で、その後 1325年に後醍醐天皇の招へいで京都・南禅寺の住持となっていた疎石が、26年に職を辞して戻って来たのだという。wiki「夢窓疎石」には、↓こう書かれている:

 

 

「正中2年(1325年)、後醍醐天皇の要望により上洛。勅願禅寺である南禅寺の住持となる。翌嘉暦元年(1326年)には職を辞し、かつて鎌倉に自らが開いた瑞泉寺に戻り徧界一覧亭を建てた。」

 

 

 「徧界一覧亭」は、この背後の山の尾根上に現在もある(のちほど、そこへ行く。次回掲載)。ともかく、この「書院」の裏の「石庭」も、その背後の「やぐら」群も、崖のはるか上にある「徧界一覧亭」と、そこに至る七曲りの登路と斜面の庭園も、みな 1327年前後に夢窓疎石の指揮のもとに造営された事実は動かないようだ。

 

 夢窓疎石〔1275-1351〕は、はじめ天台宗に入門し東大寺で受戒したが教学に疑問を抱き、禅宗に移って京都・建仁寺,鎌倉の建長寺,円覚寺などで学び浄智寺で印可〔開悟の証明・免許〕を受けた。鎌倉,甲斐,美濃,土佐など各地で禅寺を建立したほか、北条氏,後醍醐・南朝方,足利氏に多数の帰依者を見出し、政治力を発揮して「観応の擾乱〔足利尊氏・直義・高師直間の足利幕府内乱〕を調停するなどした。

 

 夢窓疎石は、墨蹟や造園に才能を発揮したことでも知られる。京都の西芳寺〔苔寺〕,龍安寺,天龍寺をはじめ、各地に夢窓疎石作の庭園を現在も見ることができる。

 

 wiki「瑞泉寺」によると:

 

 

〔「瑞泉寺」は〕文学や学問とゆかりの深い寺でもあり、夢窓疎石が庭園の後の山に建てた徧界一覧亭は、鎌倉五山の僧による五山文学の拠点として栄え、〔…〕

 

 夢窓疎石はまた優れた作庭家という一面も持っていた。夢窓国師の作庭した美濃の虎渓山永保寺や甲斐の恵林寺、京の天龍寺〔…〕西芳寺の庭園は、瑞泉寺の庭園ともども、国の特別名勝・名勝に指定されている。〔…〕

 

 〔「瑞泉寺」の〕本堂裏の庭園は、夢窓疎石による・岩盤を削って作られた禅宗様庭園で、書院庭園の起源となった。荒廃していたのを後に〔1969-70〕発掘復元した。〔…〕凝灰岩盤をえぐる彫刻的手法により造られた池庭が、ほぼ創建当初の地割に従い発掘復原され、錦屏山上の一覧亭にいたる登坂路とともによく保存されている。〔…〕

 

 夢窓疎石の作庭による方丈書院の庭園。全域にわたって長らく埋もれて荒廃していたものを、1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)に古図面と発掘調査の結果に基づいて、ほぼ創建当初の地割にしたがい発掘復元したもの。凝灰岩の岩盤を掘り込んだ、大胆な造形が見どころとされている。鎌倉にのこる鎌倉時代の唯一の庭園として、また書院庭園のはじまりとして貴重である。」

 

 

 さらに、「瑞泉寺」公式HPによると:

 

 

「それは鎌倉石の岩盤に地形に応じ地質に即して巧みに大いなる彫刻をほどこした、鎌倉ならでは性格のものでした。境内の北の一隅の岩盤の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には坐禅のための窟(坐禅窟・葆光窟)を穿ちました。

 

  天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とせば坐雨観泉となるしつらえとなっています。池の西側には二つの橋がかかり、これを渡るとおのずから池の背後の山を辿る園路に導かれます。」



 現在中央の大きな「やぐら穴」は「天女洞」と呼ばれ、その東(向かって右)に「坐禅窟」「葆光窟」があるという。「やぐら」崖を、まず左から右へ概観する:

 

 

 

 

 


 工事中のハシゴがかけてある。ここが「書院」の裏手になる↑。よく見ると、奥に洞窟が一つ見えるが、「坐禅窟」なのか「葆光窟」なのか分からない。

 

 

 

 

 「天女洞」とその周りを、もっと詳しく見ておこう:

 

 

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 「天女洞」の上には3つの小さな「やぐら」穴が見える。その右と右下にも4つほどある。まず、「天女洞」のズームを上げてみよう:

 

 

 

 

 

 両袖があり、開口部はいびつな「かまぼこ形」だ。中はがらんどうで五輪塔も石仏も壇も見られない。奥の壁に何かあるので、さらにズームを上げてみる:

 

 

 

 

 右は、壁龕に石を嵌め込んでいるようにも見える。何かレリーフが彫られているかもしれない。左は逆に、出っ張っているように見える。床面からの壇なのかどうか、はっきりしない。

 

 「天女洞」の上の小「やぐら」3穴を左から右へ:

 

 

 

 

 

 

 小穴は、いずれも奥行き浅く、開口部はいびつで、あえて言えば「かまぼこ形」。「方形」ではない。「袖」は無い。

 

 その右へ移る:

 

 

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 これらの小穴も同様だ。奥行きは浅く、「袖」が無く、開口部は不定形。下の穴だけは方形に近いが、やはり「かまぼこ形」だろう。

 

 様式で言えば、すべて「室町時代様式」だ。夢窓疎石の造園は、鎌倉時代といっても末期だから、鎌倉時代の本来の様式から変化していたとしても、おかしくはない。しかし、そうは言っても、これら小穴もふくめて、ここの「やぐら」すべてが 夢窓疎石による「庭園造り」の一部だと解するのは無理ではないか、という印象をもつ。

 

 この「やぐら」群を庭園造成の一部だとする見解は、再考の余地があるのではないか。「天女洞」などの来歴もふくめて疑ってみてよいかもしれない。この点を検討するためには、もっと近づいて見る必要があるのはもちろんだが、それだけでなく、夢窓疎石作とされる各地の庭園をじっくり鑑賞してみることも有益ではないか、と思った。

 

 瑞泉寺の「やぐら群」は、夢窓疎石発案の書院庭園の一部として建造されたものなのかどうか。この問題は、なお探求の余地があるだろう。「やぐら群」の来歴と庭園とのあいだに、何らかの関係があることは間違えないとしても。

 荒削りの天井と床面、荒々しい肌理
 きめ や岩肌をあえて残した仕上げ。開口部のアーチ状の羨道。そこに、「半ば人為を加えて造形された自然」という思想を読みとることも、あるいはできるのかもしれない。つまり、禅宗の思想に通じるものを。―― 自然の流れに合わせて自己を変え、しかも自然に埋没するのではなく、自然の中で自己を聳立するという考え方だ。

 「鎌倉は鎌倉だけ見ても解らない」。各地の夢窓疎石庭園を、つぶさに見たいと思う。その資するよころは、「瑞泉寺やぐら群」のみの理解にとどまらないだろう。

 当時における夢窓疎石の権威と影響力を考えれば、瑞泉寺の「やぐら・庭園」造形が、報国寺,浄光明寺,等々鎌倉の他の「やぐら群」にも影響したことは十分に考えられるからだ。


 「瑞泉寺」を出て、来た道をなぞり、寺の裏の山へ上がっていく。

 

 「天園ハイキングコース」の分岐点まで戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20260202 [無印は気圧高度]
 (4) から - 1037「明王院」[27mGPS]1046 - 1126「富士ビューポイント」[90mGPS]1132 - 1134「天園」分岐☆[93mGPS] - 1138「理智光寺谷」分岐◎[89mGPS]  - 1144「瑞泉寺」入口◆[35mGPS] - 1158「瑞泉寺」本堂裏[71mMAP]1212 - 1220「瑞泉寺」入口◆ - 1223「瑞泉寺」総門[37mGPS] - 1233「理智光寺谷」分岐◎ - 1237「明王院」分岐・「天園ハイキングコース」戻り☆ - (6) へつづく。