飯能/日高市境の森を抜けると、道は、向かいの山腹に見える「聖天院 しょうでんいん 」をめざして、まっすぐに延びる。高麗川を渡ると、「聖天院 」への道と「高麗神社」への道が岐れる。
橋から眺める高麗川。下流方面と上流方面。
橋を渡ると、道岐れの道標。まえはこんなに完備していなかった。
「聖天院 」。近づいていくと、まず迎えるのは「将軍標 チャングンピョ」。天下大将軍、地下女将軍。「長生標」ともいう。むかしの朝鮮農村では部落の入口に建てられていた、一種の魔除け。
下から上へ: 雷門、本堂、多宝塔。
「高麗王若光 じゃっこう」の墓廟↑。山門(雷門)の横にある。「高麗」が氏 うじ で、「王 こにきし/こきし」は倭朝廷から贈られた姓 かばね。故国・高句麗で王位に就いていたわけではない。「王」姓は、外国の王族に与えられるタテマエだから、高句麗の王族だったはずだが、高句麗王家との続柄は諸説あって確定しない。高句麗最後の宝蔵王の王子の一人とする説もあるが、滅亡〔668年〕前の 666年に使節として来朝した「玄武若光」と同一人物で〔「玄武」は高句麗五部制の「北部」〕高句麗「北部」の王族だ、との説もある。後者の説だと、宝蔵王の使節としてやってきた王族が故国に帰れなくなり、そのまま倭国に定住したことになる。
なお、高句麗の国号は、中国の史書では「高句麗」「高麗」「狛」「貊」などがあり、近代以前の日本では、これらはみな「こま」と読まれた。のちの「高麗」王朝〔918-1392年〕は、高句麗国の復興を標榜して「高麗」と称したもの。「句麗」は、新羅語の「骨 コル」〔→骨品制〕と同語源で、城市〔城壁で囲まれた町・村〕を意味するとの説が有力。「狛 はく」「貊 はく」は民族名であるようだ。他方、「こま」は、現代朝鮮語「kom」〔クマ〕の古語だとする説がある。
中にある石塔↑は見たことのない形だが、鎌倉時代の日本のもの。多層塔の各層のヒサシ(屋根)が無くなっているので奇妙に見えるだけ。
「高麗王廟」の隣りに「高麗殿池」という庭園がある↓。史跡指定されている理由は分からないが、若光の子孫「高麗氏」〔現在まで代々「高麗神社」の神職を勤める〕の屋敷跡なのかもしれない。「高麗氏」は、聖天院 にある 1261年の銅鐘の銘では「平」姓を名乗っている。鎌倉幕府のもとで関東武士の一脈として活動したのだろう。「刀狩り」以後は剣を捨て、名主兼「高麗神社」宮司としてひっそりと系譜を保ってきた。聖天院 には現在まで、若光の持仏「大聖歓喜天」像が本尊〔秘仏〕としてあり、高麗神社には、若光以来の系図がある。
「山門(雷門)」↓。東京の浅草寺の「雷門」と同じく、左右に「風神」「雷神」像がある。大提灯も同じ。江戸時代後期〔1832年以前〕の築だが、浅草寺のまねをしたのだろうか?
「阿弥陀堂」↓。室町時代の築。13世紀前半造立の木造阿弥陀如来を安置。
「多宝塔」↓。境内の最上部に、ごく最近建てられた。ウィキ掲載の全景写真には、この建物が無い!!
「多宝塔」よりも興味を惹くのは、そばにあるこの笠塔婆だ↓。
「延宝三年夘十月八日/武州高麗郡□高息村」
延宝 3年は 1675年。鎖国〔1639年~〕、寛永の大飢饉〔1640-43年〕の後、延宝年間にも飢饉があり、また、2度の大地震があった。これらが収まったあと、元禄年間〔1688-1704年〕を迎える。
鐘楼の脇に、「高麗王若光」の石像がある。
高麗王の目線の先にあるものは何だろうか?
墓地の奥に、「在日韓民族慰霊塔」がある。
鼓 者
いたつきてゆめみなやみし、
(冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗 こま の軍楽、
うち鼓して まちを過 よ ぎりぬ
かの線の 工事了 をは りて
あるものは みちにさらばひ
あるものは 火をはなつてふ
いづちにか ひとは去りけん
宮澤賢治『文語詩稿50篇』下書稿より。 .
「王仁 わに 博士」。たしかに…、渡来人の元祖は、この人だった。
「聖天院 」から「高麗神社」までは、数分の距離。
乙未、従五位下・高麗若光に王姓を賜る。
『続日本紀』巻3、大宝3年4月乙未条。 .
辛夘、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野・七國の高麗人千七百九十九人を以て武蔵國に遷し、始めて高麗郡を置く。
『日本書紀』霊亀2年5月辛夘条。 .
ふたたび高麗川を渡って、「高麗川」駅へ。
タイムレコード 20260117 [無印は気圧高度]
(1) から - 1451森から出る・車道交叉[95mGPS] - 1520「聖天院」雷門※[82m] - 1558「聖天院」多宝塔[130mMAP] - 1612「聖天院」雷門※[79m] - 1617「高麗神社」[75mGPS]1627 - 1700「高麗川」駅[80mGPS]。
踏査記録⇒:YAMAP





































