赤い線(下方)は 11月11日の ,
青い線(下方)は 11月12日の ,
赤い線(上方)は 11月14日の ,
青い線(上方)は 11月15日の ,
各軌跡。.
復元された第1次「大極殿」。撮影が逆光になったが、かえって「平城宮」造営という事業の明暗を映し出しているように思える。この大工事は、どれほどの人命を犠牲にしたことだろうか。
復元「大極殿」のすぐ北西に、「御前池」〔↓上の写真〕,「佐紀池」〔↓下の写真〕という2つの池がある。この谷地には、階段状に4つの溜池が造られていて、そのうちの下2つだ。2池の東の畔に「佐紀神社」があり、西畔には、同名の「佐紀神社」と「釣殿神社」が並んでいる。3社の沿革に関する複雑な議論は「かむながらのみち」を参照していただきたいが、大ざっぱに言えば、東側の「佐紀神社」が勧請元で、そこから西の2社が分祀された関係にある。元社の東側「佐紀神社」は、寺院(明治期に廃寺)の鎮守であったらしい。
東側の「佐紀神社」は境内が狭く、荒れたようすだったので、撮影しなかった。でも、寺の礎石などが残っていたし、何といっても元社だ。われながら迂闊だったと思う。
西側の「佐紀神社」↓。江戸時代に広域の村が分裂したさいに2つの「佐紀神社」が分かれたのが起源とされる。が、天地悠久氏の考察によれば、創建はもっと古い。
「釣殿神社」↓。ここも、東側の「佐紀神社」からの分祀とのこと。しかし、「釣殿」という名称の由来は何だろうか? このあたりは、聖武天皇が「松林苑」を造営した範囲に含まれないだろうか? もし、貴族たちが遊んだ「釣殿」がこの神社の起源だとすると、奈良時代まで遡ることになる。何の史料も根拠もないが、素人はそんな想像をしてしまう。
「釣殿神社」付近から見た「御前池」↑。「御前」とは、何の「御前」なのか?
池の北には、「瓢箪山古墳」「猫塚古墳」などがある。「猫塚」は「松林苑」に取り込まれたため、破壊を受けている。「瓢箪山古墳」のおおよその方向を撮してみた↓。
「佐紀陵山古墳」(日葉酢媛陵)↓、古墳時代前期後半。
この付近には3基の大型古墳があり、天皇・皇后陵に指定されている。いちばん東の「佐紀陵山古墳」↑が最も古く、最も高い位置にあるが、大正時代に盗掘を受けたさい、その後処理のために、当時としては稀な陵墓指定地の調査が行われ、家・蓋・盾形の大型器財埴輪などが発掘された。
「佐紀石塚山古墳」(成務天皇陵)↓、古墳時代前期後半の前方後円墳。3段築成で、葺石を多用している。平安・江戸の盗掘時の記録によれば、竪穴式石室に長持形石棺を収めている。
「佐紀高塚古墳」(孝謙天皇陵)↓、4世紀〔古墳時代前期後半〕の前方後円墳。未調査のため、3段築成であること以外は不明。他の2基よりもひと回り小さく、それら大型古墳に圧されて、窮屈で不整形な形状になっている。孝謙天皇は聖武の娘だが、僧道鏡に執心して後世の評価を堕した。陵はここではなく、道鏡の宗教拠点だった西大寺の西方とする見解が有力。
近鉄「平城」駅に到着したが、踏切の向こうにある「神功皇后陵」を見ておくことにする。
「五社神古墳」(神功皇后陵)↓、4世紀〔古墳時代前期後半~中期初頭〕の前方後円墳。未調査で詳細不明だが、3段築成の1段目の学界立入り調査が開始された。葺石と朝顔・壺・盾・蓋・家形埴輪が検出され、竪穴式石室と長持ち形石棺が推定されている。見えにくいが、この古墳も周濠で囲まれている。
「平城」駅に戻る。4日間の旅の終結だ。思い残すところも多いが、まずは帰路につくこととしよう。
タイムレコード 20251115 [無印は気圧高度]
(9) から - 1412「平城天皇陵」[79mGPS]1423 - 1436「佐紀池」「御前池」の間[76mGPS] - 1454「日葉酢媛陵」[86mGPS]1530 - 1532「成務天皇陵」[86m] - 1540「孝謙天皇陵」[75m]1543 - 1556「神功皇后陵」[90mMAP]1600 - 1608「平城」駅[76m] 。
踏査記録⇒:YAMAP



























