「古墳公園」から出た処で、ルートは二手に分かれる。奈良県の公式サイトの地図にあるルートと、現地の掲出地図・指導標のルートが違うのだ。“原則” にしたがって、山に近いほうのルートにする。それでこそ「やまのべのみち」だ。
選択の結果は正解だった。どちらのルートも車道歩きだが、山ルートは、上り坂の並木がカエデで、紅葉を楽しめたからだ。
カエデの種類が判らない。葉の形はイタヤカエデ~エンコウカエデなのだが、ふちに浅い鋸歯がある。モミジバフウかも。
天理大学ラグビー部のグラウンドを過ぎると、道は折れ曲がって下りに転じる。
溜池のほとりに古い道標が立っている。
右 いう? いせ
左 こくうそう〔虚空蔵〕寺 道
側面↓:
□文政四辛巳年十一月吉日
弘仁寺
文政4年は、1821年。伊能忠敬〔1818年死去〕と間宮林蔵の測量に基く日本全図『大日本沿海輿地全図』が完成。23年にはシーボルトが来日。25年には「異国船打払い令」が発令されている。
ここを折れて山路に入る。まもなく「弘仁寺」だが、その前に「虚空蔵山」に登頂しておこう。
「虚空蔵山」へは、まず「弘仁寺」の石段を昇る。それから山路になる。アラカシが主体の暖帯林で、ミズキ,サカキなどが混じる。
山頂近くに小さな祠がある。わきの石碑には「鏡明神」とある。
山頂↑は樹木に囲まれていて、展望はない。「弘仁寺」に下りる。
「本堂」↑の隣りに「明星 みょうじょう 堂」↓がある。
「明星堂」の本尊:「木造明星菩薩立像」は、平安時代初期の作で、現在は奈良国立博物館に預けている。「弘仁寺」の創建伝説は幾通りもあるが、いずれも平安時代初期・9世紀前半のもので、「明星菩薩像」の存在から考えて、創建時期はそのころと見てよい。
その一説によると、空海が、明けの明星がこの地に隕ちるのを見て〔金星が墜落したという伝説??〕、807年に建立したという。明けの明星は、「虚空蔵菩薩」の化身だという。「明星菩薩」とは「虚空蔵菩薩」のことなのか?! ともかく当寺には、両方の木像があって、「虚空蔵菩薩像」のほうは本堂に安置されている。両方とも、空海が彫ったとされている。ほかにも、平安~中世の作とされる仏像・諸像が多い。
中世には華厳宗を奉じて、東大寺の修行道場として繁栄したが、れいによって松永久秀の焼打ちで焼失。江戸時代に再興された。現在の堂宇はみな、寛永ないし元禄年間以後のもの。
「賓頭盧 びんずる 尊者」↑。「釈迦十六弟子像(朝鮮李朝作)」の一部だろうか? 賓頭盧は「十六羅漢」の第一とされ、日本では堂の前に置いて「なで仏」としている。当寺では「べんづるさん」と表示していた。
寛永13〔1636〕年奉納の絵馬↓。
実をつけたナンテン。
「弘仁寺」を出て、里に下りる。
空き地があればコスモスの種子が落ちて乱れ咲く。
上のほうのは筆柿。
ここにもナンテン。常緑樹なのに、葉も色づいている。
ユズとナツミカン。
生駒山が正面に見える。
雑草として生えたアサガオ。
「山村町」付近。ここで「山辺の道」は、大きく山のほうへ折れる。
しかし、「円照寺」方向に行くのはよいとして、いきなり出てきた「伝・山の辺の道」とは何だ?! そんなものは、奈良県のサイトの地図には無かった。現地案内板の地図には、それが青の点線で書いてある。この道は、いったいどこから来たのか ??
帰ってから調べても判らない。「伝・山の辺の道」はナゾのままだ。
この折れ曲がり点には、いろいろな碑が並んでいて、万葉歌碑↓もある。
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情 なさけ あらなむ 隠さふべしや
『万葉集』巻1-18, 額田王 .
近江京への遷都で、ヤマトをあとにして近江へ移る際に、名残りを惜しんで詠んだという和歌。たしかに、このへんを通って行ったのだろう。しかし、この場所から三輪山は見えない。歌碑を建てるなら、他の場所がよかったのではないか?
丘陵の尾根先のような分岐点から、谷地の奥へ下ってゆく。ときどき木の間から盆地の展望があるが、ガイドに書いてある興福寺の五重塔は見あたらない。
「竜王池」畔に到着。たまたま水を抜かれて底が出ているが、ふだんは水を湛えている。案内板には「大川池塚古墳」と書いてある。赤い鳥居のある島が古墳で、後世〔近代?〕にその周囲を掘って溜池にしたもののようだ。
鳥居のある小島の存在といい、広々した谷地奥の風景といい、湛水していれば「竜王」の昇天も想像できただろう。
案内板によると、「大川池塚古墳」は「円墳 直径 4㍍ 高さ 1.5㍍」。ずいぶん小さい。島の叢林の中にあるのだろう。銅鐸が出土したというから、よほど早期のものかもしれない。ほかにも、この周囲には古墳,古墳群が幾つかある。
ここまでに、万葉歌碑が2つあった。ひとつは、この池畔にあり、その返歌の碑が、100メートルほど離れた道端にある。
あしひきの 山ゆきしかば 山人 やまびと の 我れに得 え しめし やまづとぞ これ
『万葉集』巻20-4293, 元正太上天皇 .
あしひきの 山にゆきけむ 山人 やまびと の こころも知らず 山人や たれ
『万葉集』巻20-4294, 舎人親王 .
元正太上天皇〔上皇〕は、聖武天皇の先代で叔母。ハイキングに行って帰って来た時の御製歌で、お供の人びとに、返歌を作るように催促して示したという。山行の場所は「山村 やまむら」、つまりまさにこのあたりの山だ。山で「山人」〔山の住民〕にもらったお土産が「これだ」。じっさいにお供らにお土産をくばったのか、それとも、この歌が「おみやげ」だ、ということなのかは不明。
即座に返歌を詠んだのが舎人 とねり 親王で、こちらの歌では「山人」は仙人を意味する。上皇は山中を歩まれて、すでに仙人(仙女)になっておられるのに、その上皇に向って、自分が仙人だぞ、と言わんばかりに現れるとは、そんな身の程知らずの仙人は、いったい誰だったんでしょうね――と、ゴマ摺り放題の返歌だが、元正は、道教が気に入っていたようなので、この返歌はお気に召したかもしれない。
元正天皇と聖武天皇の「詔 みことのり」を比較してみると、前者がほどほどに道教用語をちりばめているのに対し、後者は異常なほど仏教にのめり込んでいる。元正は、道教的な明るい自然讃美を好んだようだ。そのあたりのことは、聖武と行基集団(35)【114】に書いた。
タイムレコード 20251111 [無印は気圧高度]
(2)から - 1158古墳公園[117m]1208 - 1227「白川グラウンド」裏・道路最高点[145mGPS] - 1253「弘仁寺」※[156m] - 1322「虚空蔵山」[186mGPS]1325 - 1335「弘仁寺」※1353 - 1455「山村町」バス停・分岐[100mGPS]1515 - 1525竜王池[99m]1538 - (4)へつづく 。













































