赤い線は 10月10日の,青い線は 10月11日の軌跡。 .
きのうの「柳本駅」から出発する。雨が降りそうな天気だ。きのう眼を付けておいた「黒塚古墳」に、まず寄ってみる。
きれいな前方後円墳の形をしている。きのうの「天皇陵」のように後世の工事で形を整えたものではないから、これは本物だ。
古墳時代前期初頭(3世紀後半)ということだから、きのうの2基の「天皇陵」より 50~100年ほど古い。はじめは、このくらいの大きさで、その後しだいに大きなものが造られるようになったのだろう。
古墳の埋葬の形式は、初期の時代は「竪穴式石室」〔棺を入れた後、上から覆土する〕、のちには「横穴式石室」〔横に羨道を開くので、棺を入れた後でも出入り可能〕を設けて、棺や副葬品を収める。「黒塚古墳」は竪穴式で、棺も「割竹形木棺」なので、木棺も遺体も残っておらず、棺を載せていた赤土粘土の土台に形が残っているだけだ。
付設の「古墳展示館」では、石室の実物大復元模型を展示していた。博物館によくある断面図とか見取図ではなく、発掘された状態そのままの再現だ。
現地の説明板を撮影。 .
©jalan.net / こぽら. .
石室のへりに、おびただしい数の銅鏡が落ちている。これらは、布製のものに包まれて、木棺の上に載せられていたと推定されている。
石室の壁は、たくさんの石を積んで築いており、下部は大きめの石塊、上部は平たい石を積んでいる。天井が、どのように造られていたのか、説明がなかったが、↑正面奥と同じように、平石をずらして積んだアーチ構造かもしれない。初期的ではあるが、それなりに精巧な造りだ。私は、朝鮮半島の「積石塚」を思い出した。
関心が深い人のために、(読みにくいが)詳しい説明も出しておこう↓。
「展示館」を出ると間もなく、雨が降り出した。国道まで行って、「柳本」バス停で雨宿りする。
30分たらずで小降りになったので、雨具をかぶって出発。「ウェザーニュース」によれば、このあとは止む方向だ。↓右に昨日の「行燈山古墳」が見える↓。
昨日の分岐点に到着↓。土曜日とあって、「雨ニモマケズ」な旅人が多い。ここで「山辺道」に入る。
小雨のなか、「長岳寺」に到着。寛永年間 1640年に再建された「大門」↑〔「総門」を、この寺ではそう呼ぶ〕だが、その手前で通せんぼしている太い縄は何だろう? 「しめなわ」ではないようだ。左のほうに、不可解な弧形まで垂れさがっている↓。
「野神」祭事に登場する「ジャ」に似ているような気もするが、まったく分からない。
「長岳寺」の創建は平安初期とされるが、盛期は鎌倉~室町時代で、興福寺の末寺として、また、この地方の楊本 やなぎもと 氏の庇護のもとに広大な寺領と大伽藍を擁した。応仁の乱などの戦乱で焼かれて衰退したうえ、豊臣秀吉に寺領を没収された。
徳川家康によって寺領100石が寄進され、以後、徳川時代には復興が進んだようだ。現存する建築物は寛永・正保年間〔将軍家光の時代〕のものが多い。↑「大門」もそのひとつ。
「大門」をくぐって入ると、次に来るのが、とびぬけて古い「鐘楼門」↑。下層は室町~戦国期の再築だが、上層は平安時代の終わり頃と推定される。上層に、梵鐘を吊っていた遺構がある。
「大師堂」↑。正保年間 1645年築。
「弥勒・石棺仏」↑。古墳から掘り出された石棺を利用したものらしい。時代は不明だが、見た感じからすると江戸時代のもの。明治以降は、古墳石材の利用はできなかっただろうから。
「石棺仏」は、裏山の高所にある。そこから山道が延びていて、「八十八か所道」として多数の石仏が点々と置かれている。鎌倉時代のものもあるようだ。寺の高さに降りて来ると、庭園は↓このように半ば自然の繁茂に委ねられた風情。小雨のなかの樹々も、ふんいきがあって良い。
「山辺道」に戻って、先へ進む。雨は落ちて来なくなった。山を見ると、だんだん雲が上がっていくのが分かる。アラカシ,シラカシ,コナラ,クヌギ,ヒノキなどの雑木林を過ぎる。
「中山観音寺」に到着。「大和神社御旅所」という柱看板がある。「旅所 たびしょ」とは、祭礼の時に神輿 みこし が逗留する場所。境外に2棟の祠があって「歯定 はじょう 神社」「歯定大権現」「大和神社御旅所坐 います 神社」と表示されている。
↓こういう祭りが行われるらしい。なかなか盛大なものだ。
寺と神社の間に、「しめなわ」のかかった3体の「立石」がある。
神社が背にしている山は「中山大塚古墳」だ。古墳時代の初めころの前方後円墳だというから、3世紀半ば頃だろうか〔「前方後円墳」の築造が「古墳時代」開始のメルクマールだが、その年代については諸説あって決着がついていない〕。けさ見学した「黒塚古墳」よりもさらに古い。中国の史書で「倭王卑弥呼」が君臨したとされる時代、ないしそれより少し後の時代だ。
古墳を撮りたいと思ったが、近すぎて全体を画面に収められない。↓これは、前方部のへりから後円部に向けてカメラを構えている。
石室の石積み↑は、「黒塚古墳」とよく似ている。が、ずっと荒い積み方のようだ。露頭から伐り出した石をそのまま大小混合で積み上げている感じがする。やはり、初期だからだろう。ということは、古墳の築造技術は、埴輪などと同様に、外来よりも倭国独自に発達をとげた面が大きいということだ。銅鏡,銅剣などの外来文化とは大きく異なる点だ。
このあとは古墳だらけだ。「大和 おおやまと 古墳群」というそうだ。いちいち説明板もないが、まずこれは「燈籠山古墳」のようだ↓。これも前方後円墳。画面に収まらないので、2枚の写真をつないだ。
「西殿塚古墳」、別名「衾田陵」↓。前方後円墳。3世紀後半頃。この古墳に限らず、「大和古墳群」は、早い時期のものが多い。
まったく画面に入らないので、2枚でお目にかける。
「山辺道」に戻ると、「猿田彦のミコト」が迎えた。
「西山塚古墳」↓。前方後円墳。古墳時代後期前葉、ということは、6世紀前半だろうか。「大和古墳群」で唯一の後期・大型古墳。こちら側からは、後円部だけが見えている。
まだ発掘調査は行われていない。時代推定は、採集された埴輪の形態による。
このあたり、撮影者の背後の「萱生 かよう 町」と、この先の「竹之内町」は、「環濠集落」として知られる。奈良盆地には「環濠集落」が多い。「環濠集落」とは、水路で囲まれた集落で、独特の慣行と社会編成を伴なっていた。詳しくは、こちら〔⇒:馬子と聖徳(17)【47】〕の見学記を見てほしい。
↑この「西山塚古墳」の濠も、「環濠」の一部を兼ねている。「環濠集落」の「環濠」の一部が、古墳の濠として利用されたのか? それとも、古墳の濠を一部利用して「環濠集落」を築いたのか? …これは難しい質問だ。
たしかに、「環濠集落」は弥生時代からあった。が、たとえば巻向 まきむく 地域〔昨日歩いた玄賓庵~「ひもろぎ」あたり〕では、古墳時代の開始とともに「環濠」が埋め立てられ、閉鎖的だった弥生集落は解体されて「大王」〔卑弥呼,あるいは初期天皇のような〕の下での一元的統治に服するようになったと考えられている。その一方、中世を通じ・近世まで存在した「環濠集落」の成立を遡れるのは、奈良時代までだ。奈良時代以後の「環濠集落」は、弥生時代の「環濠集落」がいったん消滅した後で、あらためて発生したのか? それとも、巻向以外の地域では、弥生時代の「環濠集落」がそのまま続いて中・近世の「環濠集落」になるのか? …それはまだよく分かっていないようだ。
晴れ間が出てきた。
「龍王山」が姿を現した。
2人の僧形が描かれたレリーフ地蔵↓。溜池を掘る工事をしていたら出土した、との言い伝えがあるそうだ。碑面に「三□‥‥」と読めるのは、その池の名「三間塚池」または「三間塚」〔このあとの「夜都岐神社」の案内板から〕ではなかろうか。
「波多子塚古墳」。前方後方墳。「おおむね4世紀前葉」。前期の古墳で、石室も竪穴式と推定されている。
古墳群の地図が掲示されていた。なるほど、古墳だらけの古墳と古墳のあいまを縫ってきたわけだ(青い点線が山辺道)。
夏みかん?
「龍王山」。すっかり雲から抜けた。
「二上山」↓。見る場所によって、形が大きく変る。
「生駒山」↓。きょうは、頂上のテレビ塔まで見分けられる。
タイムレコード 20251011 [無印は気圧高度]
「柳本」駅[71mGPS]933 - 950「黒塚古墳展示館」[81m=GPS]1025 - 1030「柳本」バス停[88mGPS]1055 - 1104「山辺道」岐れ★[90mGPS] - 1123「長岳寺」大師堂[107mGPS] - 1130「長岳寺」石棺仏[118mGPS] - 1206歯定神社・中山観音寺[86mGPS]1216 - 1237「衾田陵」前[107mGPS] - 1258「波多子塚古墳」前[106mGPS]1310 - 1315「大和古墳群」説明図[99m]1321 - 1352「夜都岐神社」[86mGPS] - (4)へつづく 。
























































