(赤線は 25日、青線は 28日の軌跡)  .  

 

 

 源氏山」の展望は、残念ながらいまいちだ。

 

 

 

 

 「鎌倉駅」付近から見上げると、↓こうなふうだ。うっそうとした樹木に覆われている。見えているのは尾根の先端だろう。

 

 

 

 

 ふもとの「寿福寺」に、山名の由来を記した碑があった。

 

 


 

 どうやら、前九年の役〔1050-1062〕が関係しているらしい。が、頼義が陸奥国守として赴任したのは 1051年で、義家が参戦したのは 1057年の「黄海 きみ の戦い」から。頼義・義家父子がいっしょに「奥州征伐」に向ったというのは史実と合わない。しかし、頼義は戦後の 1063年に「鶴岡八幡宮」を創建しているので、鎌倉の地と深いつながりがあったのはまちがえない。山麓に源氏の邸宅があったので「源氏山」と呼ばれた、ということなら、信ぴょう性が高いのではないだろうか。

 

 源氏山から下りて、尾根伝いに極楽寺のほうへ南下する。「大仏ハイキングコース」という表示がある。

 

 

 


 

 

 「ハイキングコース」と言うが、舗装道路ではないか。でも、ときどき展望が開けるので、ハイキング気分は楽しめる。

 

 

 

 

 まもなく舗装は終って、山道らしくなった。たいしたアップダウンもなくルンルン散歩。

 

 

 

 

 

 あっというまに、大仏の近くまで来てしまった。

 

 

 

 大仏へ下りる道を分けたところで、休憩所らしきものがあったので、昇ってみる。

 

 

 


 

 

 

 なるほど、山に見えたのは水道の貯水槽だったわけね。観光客の雑踏に揉まれずに、ゆったりとくつろげるのは、ありがたい。

 

 このあとは住宅地に降りて、極楽寺谷の長い谷底をひたすら歩く。

 

 

 

 

 

 極楽寺・山門前に到着↓。閉門時間に、ぎりぎりで間に合った。

 

 

 

 

 

 

 本堂↑。

 

  「極楽寺」の開創は 12-13世紀にわたる諸説があってはっきりしない。が、真言律忍性〔1217-1303〕の入寺〔1267年〕とともに当寺の実質的活動が始まったことはまちがえがない。活動とは、貧民,非人,ライ患者の救済を中心とする社会活動、およびその原資を募る勧進 かんじん 活動だ。(⇒:東アジア仏教史(8)【25】)

 

 当時、この極楽寺谷は、死骸が遺棄され・行き場を失った流人が集まり「地獄」の様相を呈していた。北条氏は、首都鎌倉の汚辱と言うべきこの地域を改善したいと考え、そのために極楽寺を開基した、そういう縁起を伝える文書もある。「極楽寺」という名称は、浄土信仰にみちた清浄な聖域を思わせるが、事実は全く逆だったのだ。忍性のもとで、極楽寺には、「施薬院」「療病院」「薬湯寮」などが設けられていた。貧者向けの粥などの炊き出しも多く行なわれた。14世紀には、対貿易によって伽藍修復の原資を稼ぎ出していたとの記録もある。(⇒:wiki

 

 

 

 

 

 「忍性墓」もこの寺域の背後にあるが、ふだんは非公開。来春の公開日には忘れずに来たいものだ。

 

 「江ノ電」の線路の上を渡って、「極楽寺」駅へ向かう。↓1907年竣工、レンガ造りの隧道「極楽洞」。明治の赤レンガ建造物が、そのまま現役で使われているのは珍しい

 

 

 


 

 

 「極楽寺」駅。気温もほどほど、それなりに晴れて好日だった

 

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20250925 [無印は気圧高度]
 (3)から - 1412源氏山[91mGPS]1430 - 1531「大仏切通し」分岐[66m]1540 - 1547大仏方面分岐[41m 43mGPS] - 1551水道局貯水場[75m] 1600 - 1620極楽寺[26m 21mGPS] 1633 - 1640「極楽寺」駅[24m]。

 

 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

タイムレコード 20250928 [無印は気圧高度]
 鎌倉駅西口[9mMAP]1315 - 1328寿福寺[17mMAP] - 1344海蔵寺 山門前[28mMAP]  - 1418海蔵寺 本堂[34mMAP] 1423 - 1454鎌倉駅西口。

 

 踏査記録⇒:YAMAP