フランソワ・ガルニエ〔1914-1981〕『椰子』。

François Garnier, Le Palmier. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【70】 ミシェル・フーコー ――

「構造主義」の旗手として

 

 

 「ポスト・モダン」「ポスト・モダニズム」「ポスト・モダニスト」は、直訳すれば「後・近代主義」、つまり「近代」的価値を否定するような傾向の思想を指す言葉です。しかし、「近代の価値」と言ってもその範囲は広く、言葉通りには「自由」も「人権」も「進歩」も「マルクス主義」も含んでいます。実際の「ポスト・モダニスト」は、そのすべてを否定するわけではない。では、どこまで否定すれば「ポスト・モダン」なのか?‥正確な定義はないので、この用語を使う人によって意味内容も指称する範囲も異なってきます。

 

 これにたいして、「ポスト・構造主義」は、レヴィ=ストロースらの自覚的な思想運動「構造主義」・に取って代わる新たな思想潮流という意味です。が、じっさいには「ポスト・構造主義」と「ポスト・モダン」は、ほぼ同義に用いられます〔日本語版Wiki は、ポスト構造主義をポストモダニズムの下位概念だとする〕。とくにフランスではそうです。つまり、「ポスト・モダン」は、1980年代以後の特定の時代思潮をあいまいに指す言葉なのです。たとえば、「構造主義」以前の「実存主義」:サルトル,ハイデガーなどを「ポスト・モダン」とは呼びません。



『ポストモダニズムとポスト構造主義の政治的意義については、それを認識する〔あるいは、そう呼ばれる思想を主張する――ギトン註〕人の視座〔※〕に大きく左右される。ミシェル・フーコーの知的軌跡が、このことをよく物語っている。

 

 フーコーは 1926年にポワティエ〔フランス西部の県都。ボルドーに近い――ギトン註〕のブルジョワの家庭に生まれた。』父は『地元で非常に尊敬される医師であった』が、ミシェルは『同じ道に進むことを〔…〕拒否する。パリのエリート養成学問機関:アンリ4世高校から〔ギトン註――父の意向に反して医学部ではなく文系最高学府の〕高等師範学校〔エコール・ノルマル・シュペリウール〕へと進み、そこで哲学と心理学を学んだ。高等師範学校出身者は〔…〕パリで本格的な学問の道に入る前に数年間地方で教育に従事』するタテマエだったが、フーコーの場合は『外国で文化外交官として勤務』した。赴任先の『ウプサラでは〔…〕スウェーデンの社会民主主義』に、『誰もが幸福で豊か』な未来を約束されている社会を見いだし、『ワルシャワでは、凍結した「人民民主主義」を溶かそうともがいている「ポーランドの自由の粘り強い太陽」を経験し』た。

 

『1960年代中葉までには、フーコーは『狂気の歴史』の著者として〔…〕構造主義の旗手として広く認められるようになった。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.169-170. .  

 註※「ポストモダニズムの認識/主張」: 「ポストモダン」という呼び方は、論評者による他称であって、自称する思想家はジャン=フランソワ・リオタールが唯一。フーコー,ドゥルーズなどは、この名称に分類されることを激しく嫌う。

 

 

エーベルハルト・マルティン・シュミット『シュタイアーマルクの湖』1962年。

Eberhard Martin Schmidt, See in der Steiermark. ©Wikimedia.

 

 

 「構造主義」とは、もともとは言語学における一つの考え方(構造言語学)で、ソシュール,ヤコブソンを代表とする。言語というものは、それを使用する人間が意識しないような隠れた「構造」を持っている。「文法」もその一つだが、ソシュールらが解明したのは、言語には、さらに深層の・意識されず変化しにくい様々な構造があるということだった。レヴィ=ストロースは、この考え方を文化人類学に応用して成功を収めた。その結果クローズアップされたのは、未開社会には、文明社会の「知」とは異なる「野生の知」があることだった。そこから、文明社会における「知」の歴史を再解明して思想・風俗・社会史の常識を覆したのがフーコーだったと言える。フーコーに続いて、ヨーロッパ社会の「意識されない」さまざまな「構造」を剔抉して見せる「社会史」の探究が盛んになった。

 

 「構造主義」は、「恒常性と無意識性を強調し」つつ、それらの「見えない構造」を明らかにすることによって「社会全体の行動を説明できると主張するようになっていった。」このアプローチは、一見するとマルクス主義の「史的唯物論」に似ているように見えるが、マルクス主義のほうは、かつてのカウツキーのような「客観的な歴史法則」一点張りからは、すでに脱していた。ルカーチは、歴史におけるプロレタリアート(及び、その階級意識を先導する知識人)の主体的役割を強調した。「個人の自由を強調する実存主義」に立つサルトルは、さらに主体性を強調して「史的唯物論」を再解釈した。サルトルの考えでは、社会主義は「歴史的必然」ではなく、人類が自らを「賭け」て創り上げるものだった。サルトルは「構造主義」を評して、「ブルジョワジーがマルクス主義に対抗して立てた最後のバリケードだ」と主張した。サルトルからすれば、「構造主義」は「人類には自らの歴史を構築してゆく能力が一切ないと言っているように」見えたのである。

 

 逆に、フーコーから見ると、実存主義およびマルクス主義の最も批判されるべき点は、「権力に対して道徳的真実を説く者としての普遍的知識人」という理想を自認して掲げていることだった。つまり、フーコーらの矛先は、共産主義「前衛」の知識人に向けられただけでなく、サルトルのように共産党や社会主義国家を断罪して「道徳的真実を説く」知識人に対しても向けられた。「フーコーは、[万人の意識の代表であり各人の良心そのものであるような]存在としての知識人像」を批判した。彼は言う:「思うに、〔サルトルら知識人の〕こうした考えは〔…〕色あせたマルクス主義が変質したものなのだ。というのも、プロレタリアートがその歴史的」役割の「必然性から・普遍的なるものの保持者であるとされるのに倣って、知識人も、」自覚的に洗練された形でプロレタリアートの役割を宣明することによって「普遍性の最も高い水準の保持者たらんとしているからである。」

 

 つまるところ、この段階では、サルトルとのあいだでは一種のオウム返しになっているように感じられます。サルトルは、「おまえらは、人類には歴史を創る能力がないと言って現状黙従を促している」と「構造主義」者を非難し、それに対してフーコーは、「おまえらこそ、自分らには歴史を見通す普遍的能力があるなどと傲慢な勘違いをしている」、と非難する。

 

 ただここで、「普遍的知識人」ないし「普遍的・知」がキーワードになっていることは注目に値します。フーコーによれば、そのような「普遍的」な絶対不変の「知」などは存在しないのです。

 

 とはいえ、フーコーは次の段階で、政治思想とその実践の面で大きく飛躍します。飛躍のきっかけは、「68年5月」のできごとでした。が、その時フーコーは、「学生革命」が起きたパリではなく、チュニジアにいたのです。(pp.170-171.)

 

 

クララ・フォーゲデス『プロヴァンス、モン・ヴァントゥの夕べ』1969年。

Clara Vogedes, Provence, Abend am Mont Ventoux.

 

 

 

【71】 ミシェル・フーコー ――

「歴史を創る主体」への転換か?

 


 「やがてフーコーは考えを変えるようになる。その変化とは〔…〕自らの歴史」を形成する人間の能力「に関してであった。」

 

 1968年5月に、フーコーはチュニス大学で哲学を教えていました。パリ「5月革命」に鼓舞された動きは元植民地のチュニジアにも飛び火し、「権威主義的なブルギバ体制〔★〕に抗議する学生運動」が燃え上がりましたが、チュニジア政府はフランス本国では考えられない「野蛮な弾圧」をもって応え「しばしばタヒ者を伴な」いました。

 註★「ブルギバ」: ブルギーバ〔Habib Ben Ali Bourguiba: 1903 - 2000〕はチュニジアの独立運動家。1956年、立憲王国として独立したチュニジアで初代首相となり、翌年王政を廃止して自ら大統領に就任、1987年まで長期政権を維持。1964年以後は社会主義化を進めたが、反対派や農民の反乱に対して厳しい弾圧を加えることでも知られた。

 

 

 この「社会主義の暴虐」――しかもブルギバは、イスラム指導者のなかでは最も開明的で、ヨーロッパ化・近代化・女性の地位向上を進めた――を目撃したことが、フーコーを強く揺さぶったようです。「フランスに帰国したフーコーは、[監獄情報グループ(GIP)]に深く関わるようになる。」折から「毛沢東主義の集団である[プロレタリアート左派]が政府によって活動禁止となり」、指導者たちが投獄されたが、残ったメンバーは GIP を通じて監獄内の処遇の実態を調査し、「世論の注目を集めようと試みていた。」

 

 フーコーは、1970年に「フランスで最も権威ある学術機関であるコレージュ・ド・フランス」教授に就任し、「知の体系の歴史」研究を担当していた。その一方で、囚人に面会した配偶者から監獄内部の情報を集めるべく質問票を送付し、戻ってきた質問票を集計・分析し、また、元受刑者にインタヴューして手記の執筆を勧めるといった、たいへんに手間のかかる政治活動に打ち込んだ。それは、古文書に取り組んだり、「普遍的知識人」として壇上から言説を述べるのとは全く異なる活動だった。「すべての政治的事件を解釈する枠組みとしてのマルクス主義が〔…〕信用を失墜した以上、いまや哲学者は〔…〕ジャーナリストとならなければならない」と、かねて唱えてきた自説を実行に移したのだった。

 

 こうしてフーコーは、1970年代には新たな思想を展開した:(pp.171-172.)

 


フーコーは「権力〔の概念――ギトン註〕を再構築し〔…〕た。権力には、国家によって上から行使される抑圧だけでなく、より精妙な方法で機能するものもある。それは、とくに病院のような慈善的な機関』を通じて、また、『自分自身によって規律化されるやり方〔個人の自己規律――ギトン註〕を通じて機能する。つまり、見世物社会ではなく監視社会なのであり、国家は執行者の役割〔…〕ではなく、「従順な身体」を欲するサナトリウムの医師の役割を果たすのである。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.172. .   


 

ハイム・ゴルドベルク『橋のそばの気違いドライバーたち』1975年。

Chaim Goldberg, Mad Drivers by the Bridge. ©Wikimedia.

 


 そうすると、次なる問題は、個人はこのような監視社会から、どうしたら自己を「解放」しうるのか、「解放」されるのか、という変革の展望である――かのように見えます。しかし、フーコーは、このような「左派」ないし「普遍的知識人」のお決まりの思考回路をたどりませんでした。なぜなら、この「解放」ということが、フーコーの見るところ現代では、きわめて「問題をはらむ試みになっていた」からです。

 

 「68年」がもたらした・「解放の困難」よりも「前向きな教訓」として、「政治的変革は必ずしも・国家機関との正面衝突〔レーニン主義のモデルでは、中央集権化された官僚的権力の掌握〕を意味しない」という発見があった。極端に言えば、「状況主義者」とともに、こう言えばよい:国家権力を相手にする必要はない。「人びとは単に日常生活において異なる方法で振舞えばよい」。これを徹底すれば、個人はすべての「疎外」から解放され、完全な「自己実現」を生きることができる、と。

 

 あるいは、日本で解りやすい言い方にすると、「すべての権力は共同幻想なのだから、共同幻想に従って振舞うのをやめればよい。」

 

 このような考え方が現実的でないことは明らかですが、フーコーは、その点を理論的に解明していきます。そもそも「フーコーは、解放されるべき[真正なる自己]なるものが存在するとは信じていなかった。」それに加えて、「近代国家、とりわけ自由主義国家は、主体の自己規律化を、認識も破壊も難しいやり方で強化するものであり、そこから自由になるのはいっそう困難だ」と彼は考えたのです。つまり、われわれが個人の「自己規律」であり自らの自由を保障するものと思っているさまざまな振舞いが、じつは「権力の機能〔権力への服従〕」にほかならないのだとすると、われわれがそれを見分けることはたいへんに難しいだけでなく、それをやめれば様々な支障が出るので、「やめること」など不可能に近いのです。(p.173.)

 

 

フーコーは、「今日における政治的,倫理的,社会的,哲学的な問題は、個人を国家から解放することではなく、国家、ならびに・国家と繋がっていながら自分は自由だと信じているある種の個人、の双方からわれわれを解放することなのだ」と主張した。

 

 かくして、攻撃の的は、自由主義 リベラル な「統治様式」へと移っていった。自由主義的「統治様式」とは〔…〕、前近代的な国家や権威主義的国家で見られたように国家自由な主体を抑圧するのではなく、自由な主体が自分自身を効率的に律するように仕向ける・一連の統治の技術と「技法」なのである。〔…〕「個人に備わったすばらしい統一が、われわれの社会秩序によって切断され・抑圧され・取って代わられるということ〔←「疎外論」の主張――ギトン註〕ではない。そうではなくて、むしろそのなかで〔=現代の社会秩序の中で――ギトン註〕個人というものが、力と身体のあらゆる技術に従って、注意深く製造されるのだ」。近代における自由もまた、このように「製造されてきた」のであって、』自由とは、『自由主義者がこれまで考えてきたよう』『国家権力に直接的に対置される存在だったわけではない。

 

 そしてフーコーの主張では、自由主義的統治様式は、まさにこの時ハイエクの思想や〔…〕新自由主義的なフライブルク学派の思潮のもと、新たな洗練の段階に到達していた。


 フーコーによれば、自由主義とは、人びとの自由を阻害せぬようにする思想・を指すのではなく、むしろ・自らを自由と思いこむ人間ひとりひとりの挙動を・とてつもなく精妙なやり方で「操作する」国家にかかわることなのだ。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.173-174. .  

 

 

ミシェル・フーコー『監視と処罰――監獄の誕生』1975年。

 

 

 「[近代国家]とは、ひとつの生政治的な(biopolitical)企てだと、いまやフーコーは付け加えるだろう。国家は、人口の数のみならずその[質]すらも管理し、向上させようとするものなのだ。」「生政治(biopolitics)」とは、「国家が個人の身体に直接働きかける」という発想である。フーコーがこのような発想を持つようになったのは、ポーランドやチュニジアで、地下室での隠れた権力の暴行や、私語を他人に聞かれる恐怖におびえた人々の姿を見るという稀な体験をしたことによるものかもしれない。

 

 

『しかし、このような問題は、ずっと以前にウェーバーが、政治的な論考で提起したものでもあった。すなわち、近代はいかにして自己規律と「人民の質」を互いに関連させたのだろうか、という問いである。ナチの生物学的支配 バイオクラシー〔優生学に基く強制断種等――ギトン註〕は、じつは一般に考えられているほど西側の歴史の基本線から逸脱しておらず、』むしろ『それは「近代権力の夢」だったのではないだろうか?〔…〕フーコーによれば、「近代国家はある地点において人種主義と関わらないと、ほとんど機能しない」のである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.174-175. .  

 

 

 

 

 

 

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