ミシェル・オベール『セーヌ河、夜』(1975年)。

Michel Aubert, La Seine le soir, 1975. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【68】 フランスの 1970年代 ――

「自主管理論」から「反全体主義」へ

 


『国家〔…〕であれ〔…〕企業であれ存在する官僚制というものに対する深い疑念が、さまざまなフランスの知識人たちを活気づけ、1960年代末の騒乱以降彼らを著名にした。彼らは西欧共産党じたいに官僚的な硬直化の最たる例を見いだしており、正統的マルクス主義にも毛沢東主義〔…〕にも賛同しなかった。〔…〕

 

 自律・自治をその価値の中核に置いた新しい形の社会組織論・を追い求める新たな知識人世代が登場した。1970年代中盤から後半にかけてのキーワード〔…〕として「自主管理 オートジェスチヨン」があった。この用語は〔…〕1970年代に「第二左翼」と呼ばれ〔…〕た人たちによって〔…〕理論化された。〔…〕自主管理」という概念は、〔…〕東側の国家主導の社会主義にも、西側の伝統的な社会民主主義にも対抗できる新しい反官僚主義的な民主主義の形を描きだせるように思えたのである。何よりも「自主管理」は、市民社会の概念を復活させるものだった。市民社会とは、自律的な個人が自由に結社を造り、可能なかぎり国家からの介入なしに自らの問題を解決し統治するものなのだ。しかし、19世紀の自由主義者が是認していた市民社会とは異なり、自主管理論では、自己統治を経済分野にまで拡大〔→企業の労働者自主管理――ギトン註〕するはずであった。そこでロザンヴァロン〔1948 -. フランスの社会学者。キリスト教系労組 CFDT の理論家として労働者自主管理を唱え、フランス社会党に向けて政治綱領を提案したひとり。――ギトン註〕は、〔…〕企業において経営者が君主のごとく君臨するかぎり民主主義の実現は不可能だと論じた〔…〕


 〔ギトン註――ところが、〕自主管理」をめぐる議論は、やがて 1970年代中葉、全体主義に関する広汎な論争に吞み込まれてしまった。〔…〕多くの人びとをイデオロギーのまどろみから目覚めさせた衝撃が〔…〕「ソルジェニーツィン・ショック」〔ソ連社会主義体制の真相を赤裸々に暴いた『収容所列島』刊行の衝撃――ギトン註〕であった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.152-155.   



 「1972年にミッテランのイニシアティヴ」でフランス共産党とフランス社会党のあいだで「左派連合が創出され、5年間にわたる共同政府綱領が締結された。」これにより共産党が政権入りする可能性が出てきたことで、「反全体主義」をめぐる論争が活発になった。その後、 1978年大統領選挙での善戦をへて、1981年に社会党首ミッテランは大統領に選ばれた。が、ミッテラン大統領が就任後に行なった政策は「共同綱領」とはほとんど真逆だった。その経過は後ほど述べよう。

 

 

ジスカール=デスタン大統領との会見に赴く〔左から〕アンドレ・グリュックス

マン,ジャン=ポール・サルトル,レイモン・アロン。 

1979年6月26日、パリ,エリゼ宮。©philomag.com.

 

 

 ともかく、「ソルジェニーツィン・ショック」を経た 70年代末に現れためざましい現象は、アンドレ・グリュックスマンら「新哲学者 ヌーヴォー・フィロゾフ」たちの、新しいメディアを通じての活躍だった。彼らは「人気雑誌の誌面やブラウン管上で華々しく活躍した。彼らが主張したのは、社会主義やマルクス主義、そしてヘーゲルから着想を得たすべての政治思想」は「致命的なほど権威主義に汚染されているということだった。〔…〕東側も西側も、彼が呼ぶところの[植民地,秩序,労働」という範疇を共有したのである。彼の〔「左右の権威主義」に対する〕論難は、[考えることは支配することだ]という主張において頂点に達した。〔…〕「新哲学者」たちの著作は、〔…〕すべての形態の権力への反抗的姿勢と、根底からの歴史的ペシミズムに満ちみちて」いた。

 

 とはいえ、このような「新哲学者」の登場を、テレビの普及とソルジェニーツィンの衝撃によって引き起こされた大衆的反動とのみ見ることはできません。国家」をふくむ「すべての形態の権力」と、「考えること」のような通常は権力とは見られないことがらまでふくめて問題にする「新哲学者」の姿勢は、のちにミシェル・フーコーのような「ポスト・モダン」の思想家に受け継がれてゆくことになります。 それだけでなく、グリュックスマン自身、単に自らの売名のためにブラウン管から反動的教説を散布するタレント評論家とは異なって、獲得した名声を社会運動の統合のために用いることが自分たちの歴史的役割である――ということを忘れませんでした。たとえば、1978年、ヴェトナムの「ボート・ピープル」を支援する活動に、非共産党左派の大御所ジャン=ポール・サルトルと、右派自由主義を率いるレイモン・アロンを説得して迎え、知識界の2大対立陣営のリーダーを演壇で握手させた。サルトルアロンは、1947年以来はじめて言葉を交わしたのだという。1979年6月には、グリュックスマンはこの2人を伴なってエリゼ宮〔大統領官邸〕に赴き、大統領にこの事業への協力を訴えています。

 

 ヴェトナムの脱植民地化・祖国統一の陰で「社会主義化」の外へと掃き出された「ボート・ピープル」にたいしては、世界の社会主義系団体による救済活動は期待できません。グリュックスマンのような “第三極” の登場によってはじめて可能になった現象と言えるでしょう。(pp.155-156,158.)

 

 

『ソルジェニーツィン・ショックのあとに、〔…〕イデオロギー的対立を越えて、昔からの自由主義者,変節した左派,さらには再構築されていない左派たちのすべてを結集できる道徳的課題として現れたのが、人権であった。人権は、イデオロギーに根ざした幾多の将来構想が失敗に終った後の、最低限の道義的出発点のようなものだった。

 

 しかしながら、人権がそれだけで積極的な政治的プログラムを〔…〕作りうる概念かどうか〔…〕について、直ちに疑問が提起された。〔…〕人権は、権力の横暴を批判するときには非常に有効だが、』自らの力で政治的活動をなしうる『諸集団を造り上げるには、あまり役に立たない〔…〕、と。〔…〕人権は、抑圧的な体制にダメージを与えるには大いに効果的だが、他の理想目標を軽視して人権を優先する行為は、国家活動の積極的な理想像――とりわけ社会民主主義〔…〕――を掘り崩すことにもなってしまう。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.159. .  

 

 

 

【69】 フランスの 1980年代 ――

環境保護運動と「ポスト・モダニズム」

 


 フランス社会党とフランス共産党は、1972年に「共同政府綱領」を結んで政権獲得をめざしていましたが、実現したのは 1981年大統領選挙でのフランソワ・ミッテランの当選によってです。「自主管理」,企業国有化といった「共同政府綱領」〔それじたいは 1977年までの期限付き〕に近い何かが実現すると期待した向きも、恐れた向きもありましたが、ミッテランが実際に執り行なったのは、逆方向への「根本的な転換」でした。1984年、折からの「国際金融市場の強い圧力を受けて」ミッテラン大統領は「首相に、野心的な国有計画のすべてを放棄させた。」

 

 ドル・ショックに端を発する国際金融危機もさることながら、それをそのまま「共同政府綱領」の失墜に直結させたのは、「反全体主義」へ、という思想界の大きな転換でした。「[反全体主義]は、共産主義への親近」感ジイドからサルトルまで、フランスの知識層にはかなり強くあった〕を「徐々に弱らせることに成功したが、その・社会工学官僚制への攻撃は、〔…〕とくに社会民主主義を傷つける結果になった。社会民主主義は、明白に反共産主義の立場をとっていた」のに、である。「フランスでは〔…〕1980年代末までに、共産主義による対抗文化がほとんど完全に凋落してしまった」。ザンヴァロンらの「[第二左翼]という魅力的な理想」も、ミッテランに代わる後継大統領候補を立てたにもかかわらず、ついに実現されなかった。

 

 

アンドレ・グリュックスマン。©OSK / plaza.rakuten.co.jp

 

 

 19世紀末以来、比較的安定した政治勢力として続いてきた「社会民主主義」が、1970年代末~80年代にかけて消滅の脅威に晒されたのは、新たな3つの方向から圧力を受けたためであった。 一方には、「68年」周辺の「[新左翼]とそこから派生した社会運動があり、その代表はフェミニズムと「環境保護運動」だった。さらに、「[ユーロ・ミサイル]〔核弾頭を搭載したパーシングⅡミサイル〕の配備に反対して急速に勢力を拡大した平和運動」が加わった。もう一方には、 ハイエクフリードマンらアメリカの経済学者から影響を受けた「[新自由主義]と呼ばれる潮流があった。」

 

 さらに、©「ポスト・モダニズム」も社会民主主義に脅威を与える存在だった。「ポスト・モダニズムは、政治的な運動というよりも、ある種の政治的なムードであり、人類の進歩という[大きな物語 グランド・ナラティフ]への不信感や、とりわけ大衆民主主義の時代に重視されてきた技術者支配 テクノクラティック で「近代主義者 モダニスト 的」な言葉遣いへの不信感によって特徴づけられていた。

 

  フェミニズムと「環境保護運動」は、思想的にも運動的にも、「マルクス主義的なものからは恩恵をまったく受けていない」という特徴があった。それでもフェミニズムのほうは、従来は男性中心に編成されていた左派政党に、少しずつ入りこんでいった。しかし、「環境保護運動」は、既成政党とは別個の新政党「緑の党」を組織してはじめて政界に地歩を固めることができた。既成の左派政党は、マルクス主義,社会民主主義の「生産力中心」の思想傾向から容易に転換することができなかったからである。

 

 「生産力中心」の左派からエコロジー派への転換の先駆者は、アンドレ・ゴルツである。ゴルツは初め作家志望の工業技師で、サルトルボーヴォワールに引き立てられて『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌の創刊に加わった。「1970年代の中葉までに、ゴルツはエコロジーの重要性を強調するようにな」り、「それゆえ昔ながらのマルクス主義者から強く非難された。」なぜなら、「生産力中心」をやめることは、「労働者」を変革の中心と考えるのをやめることにほかならなかったからだ。

 

 ゴルツは 1982年に上梓した『労働者階級の葬送曲――ポスト産業的社会主義試論』〔下記 "Farewell to the Working Class", 1980 のことか??――ギトン註〕で、「プロレタリアートを革命の主体とみなすことをやめ、その代わりに、[時間からの解放]と[仕事 ワーク の廃止]を試みるよう」「未来の左派」にむけて提案した。

 


『これはつまり、賃金を対価とする労働の終焉を意味していた。とりわけゴルツは、雇用の有無にかかわらず全市民に支給する基礎所得 ベーシック・インカム を擁護した。これは、〔…〕自己実現としての労働という固定観念に囚われた状態、彼の言う「労働者主義」を乗り越える〔…〕決定的な一歩であった。ゴルツは、仕事廃止の要求はユートピア的なものでは全くないと論じた。それは、西側社会で現在進みつつある発展に完璧に沿ったものであった。ゴルツは、こう主張した:

 

現在の危機と技術革命という文脈のなかでは、量的な経済成長によって完全雇用を維持することなど、およそ不可能である。選択肢はむしろ、何とかして仕事の廃止を進めていくという異なる道にある。失業者があふれる社会の代わりに、時間が自由になる社会を造るのは可能なのだ。〔André Gorz, Farewell to the Working Class, 1980〕

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.163. .  

 

 

アンドレ・ゴルツ『労働者階級への告別』英語版。

 

 

 「完全雇用」を達成しようとして失敗するよりは、「ベーシック・インカム」の支給によって「時間が自由になる社会」にしてしまうほうがよい、というゴルツの主張は、必ずしも荒唐無稽なものではありません。たとえば、経済学の古い常識では、「恐慌は過剰生産から起こる」。産業社会における貧困(失業)は、社会の生産量が足りないから発生するのではなく、その逆なのです。したがって、「所得再分配」などという中途半端な措置を超えて、そもそも人びとが雇用され賃金をもらわなければ生きていけないような状態を変えてしまったほうが、生産と消費の循環は合理的になる。という考えは、有りえない理屈ではない。

 

 

ゴルツは、抜本的な変革の担い手として「非労働者という非階級」なるものを新たに定義した。伝統的な工業労働者階級〔…〕ではなく、非工業的で「知識化された」職業に就く男女こそがそれにあてはまる、というのである。

 

 〔…〕ゴルツの理論は、1968年以降のヨーロッパにおいて最も根源的 ラディカル な理論の一つだった。ゴルツが挑戦したのは、〔…〕戦後の左派の政治的発想一般に対してだった。彼は、無限の経済成長という讃美歌に疑問を提起した。さらに、左派であることが、労働者であることや労働者に味方することだけを意味するわけではないという示唆も与えたのである。ゴルツによると、「労働者として権力を勝ち取ることはもはや問題ではない。重要なのはむしろ、労働者としての機能を廃止するために権力を勝ち取ることなのだ。」』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.164. .  

 


 こうしてゴルツは、「労働者自主管理」の理念にも反対した。「自主管理」によっては、「生産が社会という[巨大装置]によって究極的には決定される、という状況は変わらない」と判断されたからである。

 

 「1980年代を通して、社会運動は隆盛を極めたが、その将来像のほとんどは」、終末論とは言わないまでも「否定的なものであった。」ハバマスは 1985年に「ユートピア的エネルギーの枯渇」を論じ、とりわけ、「労働に焦点を当てたユートピアは、その魅力を決定的に失った」と診断した。つまり、「大規模で集団的な社会の自己変革は可能だ・という信念が徐々に、しかしおそらくは決定的に衰退したように思われたのだ。」

 

 ハバマスによれば、「この理想」は「啓蒙、および合理的進歩と重なるもの」であったが、それらは、「新たな保守主義」と 「ポスト・モダニズム」という2つの側から攻撃を受けていた。「新たな保守主義」は、「啓蒙」「合理化」には限界があるのであって、過度の「啓蒙」は阻止しなければならない、という考え方である。つまり、「伝統的な家族国民国家という制度は、絶対に変えることのできない」ものであって、それが「啓蒙」の限界である。そして、「資本主義が存続する一方で、それが個人及び生活世界に」もたらす「合理化」の被害については、「伝統的な価値や文化が、美意識を喜ばせる〔…〕慰みものとして埋め合わせてくれるというのだった。」

 

 

フォンス・ハインスブルック:オランダの夏の風景,1985年。 ©Wikimedia.

Fons Heijnsbroek, Dutch Summer landscape in province Groningen in 1985,

  ripe grain fields near the village Bourtange, gouache painting on paper.

 

 

 他方、㋺ ©「ポスト・モダニズム」および「ポスト構造主義」が「啓蒙」に対して向ける攻撃は、「[理性]を侮辱し、〔…〕[無媒介の情動],〔…〕個々人の[力への意志]など[理性]と対立するあらゆるものへの危険な称賛を体現してい」た。これらの知識人が求めているのは、「議論はできない」ような問題であり、「意志や身振りの問題」なのである。ハバマスによれば、このような非理性への傾向は、「問題を孕んだ[1920年代への回帰]であって」、当時の世界がファシズムへと向かったような「破滅的な政治的帰結をもたらす可能性」がある。(pp.164-168.)

 

 

『じっさい、多くのフランスの〔ギトン註――ポスト・モダン,ポスト構造主義の〕思想家が、主としてニーチェハイデガーに依拠しながら、理性の自律性にまつわるあらゆる観念に根本から疑義を突きつけたのである。〔…〕彼らは、「大きな物語 メタ・ナラティフ」への不信、とりわけ「合理的な進歩」という理想に対する不信を表明しただけではなく、その不信を態度として採用することを要求した。〔…〕最も高尚な理想の歴史を理解するためには、その起源が〔…〕暴力と結びついている〔…〕事実や、終りなき権力闘争の歴史』だという事実を『認めることが求められる。〔…〕つまり、ポスト・モダン的な歴史理解は、まやかしを暴いたり自信を失わせることに主眼があって、何らかの希望を見いだすような性質のものではなかったのである。

 

 さらに加えると、ポスト・モダンの思想家たちは、真実の生き方への探究を完全に放棄した。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.168. .  

 

 

 ここで言う「真実の生き方」とは、「真実の生」――たとえばマルクスならば、「疎外」の克服によって得られるはずの・真実の労働による「個人の自己実現」、あるいは、資本主義の廃棄によって訪れる「搾取のない社会」での生活、ということになります。「68年」の「状況主義者」でさえ、「見世物社会」として資本主義の現実を糾弾しながら、「見世物」の向こうには、回復されるべき「真実の生」が見えていたと言えます。ところが「ポスト・モダニスト」たちは、そのような、“本来あるべき生き方” を「取り戻すことができるという希望を持たなくなった」。むしろ、そのような希望を持つことは、「ポスト・モダニスト」にとっては「危険な幻想」なのだった。

 

 「となると残るのは、根源的計画を欠いた極端なジェスチャーか、アイロニーとパスティーシュ(模倣)を強調する〔…〕哲学的様式のどちらか」であった。「これこそが、ポスト・モダニズムを批判する左派が、最も警戒した事態だった。「懐旧の念 ノスタルジー」が「社会的希望に〔…〕取って代わり、進歩を志す大衆政治が弱まる一方、博物館が活況を呈する」こととなったのである。(p.169.)

 


 

 

 

 

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