ハンス・ブラインリンガー『河沿いの風景』1962年。Hans Breinlinger, Landschaft

  am Fluss, Hans Breinlinger Museum. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【62】 西側の「1968年」――

アニョーリ:「答えのない」 反議会主義

 


『学生やその他の批判者たちが、戦後の議会が単なる表舞台であり、真の権力は舞台裏の密室でコーポラティズムのやりかたで交渉していること、いつも同じ配役であることを見てとった時、多くの点で彼らの指摘は当たっていた。西ドイツで 1966年に大連合〔1966-69年に成立したキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)と社会民主党(SPD)のキージンガー大連立内閣――ギトン註〕が結成されると』議会内の野党勢力は無力となり、『「議会外反対派」結成の呼びかけへとつながった。イタリアではキリスト教民主党が万年与党であり、〔…〕フランスではド・ゴールの統治が〔…〕政治的安定を保障しはしたが、ますます大統領独裁の様相を帯びていた。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.107-108.   



 ヨハネス・アニョーリは、「イタリア,ドロミテ地方の小村」の裕福な家庭に生まれ、少年の時からムッソリーニを崇拝していたが、ドイツ国防軍に志願入隊してユーゴスラヴィアでパルチザンと戦い、戦後は西ドイツで学位を得て帰化、ドイツ社会民主党に入党した。「彼はファシストとしての自分の過去を公言して〔…〕憚らなかった。」(pp.108-109.)

 

 アニョーリは、「68年を代表する思想家」と言っても過言ではない。「議会主義と多元主義に対する彼の批判」は、「1980年代までも多くの」人びとの「左派的思考の基礎でありつづけた」。彼の「反議会主義」は、戦後民主主義と「合意の政治」の不誠実な舞台裏を暴露し、それが実は巧妙に粉飾された「エリートの支配」にほかならないことを告発する、というものだった。しかし、それではどう改革したらよいのか? という問いに対しては、明確な答えは無く、ただ「改革不能」を示唆するにとどまるのだった。

 

 

アニョーリと彼の支持者たちは、資本主義の諸条件のもとでは本当の民主主義は実現できない、という前提から出発する。ブルジョワ国家は人民の願望の自発的表現の場を意図的に狭める』からである。が、『大衆の政治的自己決定の願望を統制し別方向に向ける〔ギトン註――ブルジョワ国家の〕ファシズム戦略が失敗した後、ブルジョワ国家既存の議会制民主主義変革が不可能になるように変貌させ〔て、大衆の政治的自己決定を不可能ならしめる装置に変え――ギトン註〕た。こうした「民主主義の変容」は、〔…〕大衆社会への適応という意味において「国家の近代化」を意味し、〔…〕支配手段の近代化という意味で一つの改良なのだ、とアニョーリは主張した。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.109. .  

 

 

 アニョーリによれば、このような「近代化の必要は、〔…〕[一本化された支配集団の利益]からも駆り立てられた。」本来、議会制民主主義は「両義的」性質をもっており、ブルジョワジーに奉仕することもできるが、労働者が絶対多数であるという「社会における基本的対立を正確に反映して社会主義への跳躍版として用い」られることも可能なものである。ところが、戦後西ヨーロッパの「変容された民主主義」は、「ファシスト国家が一党支配によってようやく強制できたのと同じ〔…〕政治的均一性」を、「編成された多元主義を通じて」もたらしえていた。言い換えれば、その「多元主義」とは、「イデオロギー上の多様性が存在するように見えて、実はすべて同じイデオロギーなのであった。」「議会に陳列された多元主義」は、資本家と労働者の「基本的な敵対関係」を「巧みに覆い隠し」、「政党間の交渉」すなわち、雇用者団体,労働組合の各利益代表者間の交渉を通じて、「大衆の民主的政治参加という幻想」を維持したのである。こうして「一本化された利益」からの要請に応じて、「議会制」は、両義的制度から、「変革を不可能にする」制度へと変貌した。「西ドイツの」労・資の「エリート」たちは、「きわめて不誠実な形態の疑似民主主義を樹立したのであった。」

 

 「こうした[変容]を経ても、民主主義という公式イデオロギーはそのまま維持された。」そして、労働者代表は「階級闘争」の用語に代えて「人道主義」と「科学技術の支配 テクノクラシー」という言葉を用いるようになり、「包括的 キャッチ・オール 国民政党」は、「労働者と資本家ではなく、人間」および人間らしい生活についてのみ語るようになった。「政党はもはや政策目標を実現するのではなく、技術の客観的命令に従うだけの存在となった。」

 

 

1968年5月1日、西ドイツ,ウェストファーレンの緊急事態条項(憲法改正)

反対デモでのプラカード。「ナチス鍵十字」に見える文字で抗議するとともに、

「鍵十字」の表示を違法とする「戦う民主主義」体制を挑発している。同月30日

キージンガー大連立内閣は、連邦議会で改憲案を通過させた。 ©Wikimedia.

 

 

 結局のところアニョーリは、「こうした状況に」対して「どんな治療法があるのか」、明確な解答を示すことは無かった。彼の論理を進めれば、「変容した民主主義は改革不能」とするほかはないし、事実彼はそれを示唆していた。「ブルジョワ国家」とその「見せかけの議会」を消滅させる以外に、解決の道は無いかのようだった。

 

 もっとも、アニョーリと彼につづく理論家たちは「2つの前提を立て、そこから決してぶれなかった。ひとつは、自由主義ファシズムをもたらしたのであり、いつ何時でも再びもたらしうるということ。いま一つは、先進資本主義がいまや「[非合理的支配]を廃止してもやっていけるまでに成熟したという前提である。」したがって、もたらされねばならないのは「政治形態の真の変化」であって、議会制度の単なる編成替えや選挙制度の改良などではないのである。それらのような「既存の制度への統合は必ず失敗する運命にある」のだと。

 

 「真の変化」とは、どのような変化なのか、――があいまいなことは、すでに指摘したとおりだが、それだけでなく、アニョーリらは、そうした変革を要求し推し進める「革命の主体」がどこにいるのかを、示すことができなかった。それというのも彼らによれば、高度の「消費社会」における労働者は、「電気冷蔵庫によって買収され」て無力化しているのだから。

 

 この「変革主体」の問題を含め、「68年」から立ち上がって多少とも明確な政治思想を示し、広汎な影響を与えた理論家は、ナチスの迫害を避けて移住したアメリカから、まだドイツに戻れないでいた〔1979年、帰郷の途上で急逝〕ヘルベルト・マルクーゼである。(pp.109-111.)

 

 

 

【63】 西側の「1968年」――

理論なき反官僚主義・反権威主義

 


『世界中の 68年の中核的な概念〔…〕は、自律・自治 オートノミー であった。〔…〕個人的かつ集団的な自己管理として理解された自律・自治こそ、技術者支配 テクノクラシー 官僚制の――ウェーバーの言う鋼鉄の容器――によって支配されていると見られた戦後世界・の対極に位置するものであった。とりわけ技術者支配が政治から政治的意思を奪い去り、あまつさえ個人生活でも意志を抹殺していた。個々人は、生活を産業社会の命じる仕事と消費の型にしたがって形造らねばならないのである。ハンナ・アーレントのような批判者の眼には、政治的な独自領域がすべて産業「社会」に呑み込まれてしまったように見えた。フォルストフ〔ドイツの保守的法学者。社会の中核はもはや国家ではなく、「完全雇用と経済成長」を特徴とする「産業社会」だと主張した。――ギトン註〕たちがすでに主張していたように、同調的な(従って完全に予測可能な)「行動」というものが個人主義的な「活動」に取って代わったがゆえに、戦後世界はかくも安定的になったのである。ヨーロッパの「就業者社会」では、構成員は、これまで保持してきた個性を捨てて、「機能的タイプの行動」を身につけることを要請される。アーレントが鋭く指摘するように、「現代の行動主義理論の問題点は、それが誤っていることではなく、それが真実になりえたところにある」〔…〕

 

 したがって、抗議運動が問題にしたのは、〔…〕個人と集団双方の「政治的意思の統合独立性 インテグリティ」の復興であった。〔…〕すべての官僚制、すべての集権的指導を拒絶することであった。〔…〕およそ権威は、たとえそれが委任されたもの〔選挙によって――ギトン註〕であったとしても、嫌疑の対象である、〔…〕

 

 

マルグレート・ホーフハインツ=デーリング『風景』1969年。

Margret Hofheinz-Döring, Landschaft, Strukturmalerei. ©Wikimedia.

 

 

 とはいえ、個人主義的な反権威主義を、〔ギトン註――集権的で前衛党的な〕革命の理念と調和させるのは困難だった。革命は結局のところ、〔…〕組織と、〔…〕見るも怖ろしい権威さえも必要とするからである。どのような革命主体が、カリスマ的でありながらも、常に反権威主義的なやりかたで活動できるのか。そして、レーニン主義的な前衛党に転じないですむのか。それらはまったく未解決の問題であった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.111-113.   
 

 

 

【64】 ヘルベルト・マルクーゼ

――「豊かさ」と「貧困・抑圧」が同居する社会

 


マルクーゼは、ワイマル共和国時代に〔ギトン註――ドイツ・フライブルク大学の〕ハイデガーのもとで学んでいた。第三帝国が成立すると亡命し、アメリカではフランクフルト社会研究所〔研究所ごと亡命していた――ギトン註〕の周辺で、そしてまた戦略事務局〔OSS. CIAの前身――著者註〕のためにも仕事をした。〔…〕1945年以後ドイツ帰還を試みたが果たせず、1960年代にはカリフォルニアで教えていた。〔…〕彼の政治的・哲学的影響力〔…〕はグローバルなものとなり、その広さに匹敵』する哲学者は『その後出ていない。マルクーゼはヨーロッパの高級理論と、1960年代を支配したアメリカの大衆文化との奇妙な混合を体現していた。『プレイボーイ』誌が取り上げるマルクス主義者は、彼以外には考えにくいだろう。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.113-114.  


 

 マルクーゼには、一方では 「[先進産業社会の支配的イデオロギー]への厳しい評価」がある。「先進産業社会」は未曽有の「豊かさ」を作り出したが、その反面で「自己安定的」な社会であり、「異論を吸収する」強靭さを具えている。その結果として「[強制的に均質化]された文化」によって特徴づけられた社会なのである。

 

 他方でマルクーゼは、「先進産業社会」が「豊かさ」とともに、「貧困と抑圧」を併存させており・一群の「端に追いやられた人びと」を造り出していることを指摘する。そして、 彼ら「西側社会の周辺的グループ」と「第三世界の解放運動」とが「合流」し手を結んだときに、「(革命ではないにしても)根源的 ラディカル な変容をもたらすことができるだろうと主張した。」

 

 「物質的に過剰に豊かな社会」という・自社会に対するマルクーゼの評価については、「68年が、朝鮮戦争に始まって〔…〕1973/74年の石油危機で終る西側経済の長い好景気の最終局面」であったことが銘記される必要がある。「先進産業社会」の「豊かさ」にたいする彼の診断は、フォルストフのような「産業社会の擁護者」と出発点を共有していた。「しかしながら、」彼らとは異なってマルクーゼは、「技術というものは中立的な道具ではなく、支配の一手段であって、産業社会の要請に完全に適応する」ような「特定の人格を形成する」ものだと考えた。マルクーゼが「支配」と言うとき、それは単なる「統治」のニュアンスではなく、フロイトの意味での「抑圧」であることが含意されている。「同時代の左翼の多くと同様に彼は、資本家がプロレタリアを効果的に買収する方法としての消費主義の流行〔…〕、そこから生じる福祉国家と戦争国家の〔…〕融合を批判した。」

 

 このような、「豊かさ」による文化の「強制的均質化」というマルクーゼの評価は、さらに、「芸術」や高度文化が現代の産業社会において果たしている役割にも及んだ。「偉大な芸術」は、かつては「社会的画一主義」を拒絶する手段として役立っていたが、「いまや現状維持を強要する方法の一つ、〔…〕悪い場合には利潤創出の手段に成り下がってしまったという。[魂の音楽が販売術の音楽でもあるのだ]」。「文化全体が」利潤追求のみに集中する「一次元になってしまったのである。」同様にして、「民主主義こそ〔…〕最も効率的な支配体制」すなわち抑圧体制「となりそうだ」と彼は診断した。

 

 

1967年、西ベルリン「ベルリン自由大学」で講義するヘルベルト・マルクーゼ

会場いっぱいに詰め駆けた学内外の若者たちに、彼はまるで「救世主」のように

迎えられた。 ©Jacobin.com / Getty Images / Jung / Ullstein bild.

 

 

 マルクーゼの・フロイト理論の用い方には、独特のものがあった。「先進工業文明は」19世紀のプロテスタント・ブルジョワジーのように「いたずらに性的なものを[抑圧]するのではなく、リビドーの疑似的な解放と現代世界の[脱エロス化]を組み合わせることで支配を強化しているというのである。」マルクーゼが持ち出す喩えで説明すると、中世の「市壁の外」の草地での恋人たちの奔放な愛の営みと、「マンハッタン通りでの散歩」および「クルマの中での行為」とを比較せよ、ということになる。後者のような「脱エロス化」された閉塞性の強要が、「リビドーの疑似的な解放」による真の抑圧支配である。

 

 すなわち、マルクーゼによれば「先進資本主義のもとで」こそ、「人びとは性的に〔…〕深く抑圧されている。」〔リビドーの抑圧こそが人類の文明を築き上げてきたとするフロイトとは異なって、〕「文明」というものは「抑圧的であってはならない」と彼は終始一貫して主張した。そして、「先進産業社会」は、十分な「豊かさ」によって解放の条件を準備しながら、真の解放には至っていないと断定するのである。マルクーゼによれば、「現体制は[過剰抑圧]を特徴としている〔…〕。その抑圧は、性の解放だけでは克服できない」。マルクーゼは、「[リビドーの変容]〔…〕によって克服できる〔…〕。[生殖器優位のもとで抑制された性から、全人格のエロス化]への変容」によってこそ真の解放に到達できると言うのだが、「全人格のエロス化」とは何を意味するのか、は明らかでなかった。じっさい、それではフロイトの「抑圧的昇華」〔が文明を支えているとフロイトは主張した〕とどこが違うのか?‥と疑われてもおかしくなかったのだ。

 

 しかし、② 政治的「解放」の戦略展望に移ると、彼の話はいくらか明瞭な輪郭を現わす。「真に自由な主体性のための前提条件は、」豊かな「現代の西側資本主義では」すでに「整えられている。課題は、〔…〕政治闘争を通じて〔…〕そうした主体が〔…〕出現するよう支援することである。」(pp.114-116.)

 

 

『浮浪者とアウトサイダーの下層者、異なる人種、異なる皮膚の色の・搾取され迫害されている者、失業者と就職不可能な者、彼らは民主主義の過程の外に生きており、彼らの生活こそが、耐えがたい条件と制度を終わらせる最も直接的で最も現実的な必要性なのだ。かくして、彼らの反対行動は革命的なものになる。〔…〕彼らの反対行動は体制を外から撃』つので、『体制によって捻じ曲げられることはない。それはゲームのルールを踏みにじる初歩的な力であり、ルールを踏みにじりながらゲーム自体がインチキであることを暴き出す。〔Herbert Marcuse, One-Dimensional Man, 1964〕

 

 〔…〕「発展途上国の戦闘的な解放運動こそ、根源的変容をもたらす最も強力な潜在力を代表している」とマルクーゼは付け加えている。〔…〕マルクーゼは諸勢力の合流に希望を託していた。第三世界の解放運動と西側社会の周辺グループと学生とが、すべて一緒に活動する場である。〔…〕

 

 経験的研究に基きつつ、しかし規範的・哲学的な目的に枠づけられた理論化をおこない、それを、変化を引き起こしうる実在の歴史的主体と結びつける、というフランクフルト学派の本来の企図に、マルクーゼは忠実だったように見えるのだ。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.116-118.  

 

 

ヨーゼフ・ショイプライン『ヴェトナムの女』1966年。

Josef Scheuplein, Vietnamesin. ©Wikimedia.

 

 

 「1967年の西ベルリンで彼は[救世主]のように迎えられた。」当時、彼の年代の「ほとんどの人ができなかったことだが、彼は、学生」たちを、とりわけ「彼らの動機づけを理解したようだ。〔…〕ともかく彼は、多少の改革などでは買収されない全面的拒否という考え方を理解できた。〔…〕フランクフルト学派の他の〔…〕メンバーと違って、彼は学生と直接かかわるだけでなく、」自らの「理論を乗り越えるよう学生」たち「を激励した。〔…〕最も重要なのは、〔…〕絶対的自由 リバタリアン 社会主義の唱道者として、稀にしか見られない誠実さで彼が学生に向き合ったことである。」

 

 彼が唱導する「根源的変革」を実現するために、どんな「具体的な組織的手段」が可能か、という点については、マルクーゼの主張は、ながらく不明確なままだった。しかし、その「必要性が強く感じられるようになると」、彼は「特殊な様式の政治活動を提唱しはじめた。」それは、「大衆政党にも」少数の集権的な前衛革命派にも「依拠しないで、地域・地方の[開かれた][自律的なグループ]を通じて、」新しい体制の「緩やかな拡散をめざす、というものであった。とはいえ、〔…〕最善の道は、運動の過程で発見されねばならない〔…〕。政治活動での実験と、地域の[改良主義]が、理論形成を支え続けていくべきなのである。」(pp.119-120.)

 

 

 

 

 

 

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