【前回】⇒ 試される民主主義(28)

 

ゲバラ!』(原題: Che!)は、マルクス主義革命家チェ・ゲバラが初めてキューバに

上陸した1956年からボリビアで処刑された67年までを描く1969年アメリカ合州国

の伝記映画。ゲバラは、当時欧米の若者に神格化された革命家の典型だった。

 

 

 

 

 

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【59】 西側の「1968年」―― 状況と原因

 


 西側での『抗議の最も直接的な動機はヴェトナム戦争、もっと広く言えば第三世界に対する西側の偽善への憤りという感覚であった。〔…〕すべての学生が自分たちの支持する目的を知っていたわけではなかったが、何に反対しているかという点では〔…〕共通の理解が存在していた。〔…〕偽善に対する怒りの裏面として、第三世界の解放闘争の理想化、とりわけゲリラ指導者の神秘化が生じた〔…〕。1970年代のテロリスト・グループが自ら「都市ゲリラ」のスタイルをとったのは偶然ではない。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.90-91. .  



 「理念」があるようで無いようで…、そして「感覚」ないしそれ以前の「気分」の優越。これを、サルトルの哲学小説を踏まえて「実存的好悪」の感覚と呼ぶのが適切かもしれません。「68年」の若者たちを動かしていたものの一つは、たしかにヴェトナム戦争にたいする「実存的嫌悪」でした。「が、他にも性質のまったく異なる、しかもより身近な諸原因があった。」ここでは、3つの原因が剔抉されます。

 

 ひとつは、西・中欧諸国が迎えていた「高等教育の危機」です。「戦後に〔…〕各国の教育改革は、大学の大幅拡大をもたらしたけれども、伝統的な」大学の「制度的枠組みを変えずに進められたため、問題が生じた。」

 

 各国の高等教育改革は、政府が教育機関に対して「上から」命ずる形で行なわれたが、その「上からの改革は通例、完全に技術者支配 テクノクラティック 的で経営的な言語で」大学にたいして “改革” を迫った。ある「イタリアの本は、大学を〔…〕[企業]として分析した。こうしたトップダウンで効率最重視のアプローチに対し、」たとえば、「急進的な学生活動家たちの手で書かれ」た「ストラスブール宣言」は、〔まるで昔を懐かしむ保守主義者のように〕こう嘆いた:(pp.91-92.)

 

 

『昔々、大学はある種の威信をもっており、学生は大学にいることが幸福だとどこまでも信じた。しかし、いまの学生は〔…〕司祭や警察官と並んで、〔…〕フランスで最も軽蔑される存在である。機械的で専門化された教育〔…〕彼の知的水準同様に押し下げられた。なぜなら、現在の経済システムは、考えることを不可能にされた無教育な学生の大量生産を要求しているからである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.92.  

 

 

 第2に、「1960年代の運動に決定的な形を与え」たのは「テレビ」である。「68年は、テレビによる初めての革命であった。〔…〕種々の学生指導者たちは、テレビを通じて〔たがいに相手の行動をまの当たりに見ることで〕事実上知り合うことができたし、〔…〕励まされることも少なくなかった。ヨーロッパの学生たちは、〔…〕アメリカでの公民権運動と学生の抗議運動の手法を多く輸入することになる。〔…〕コミュニケーションの国際化とともに、革命もいまや必然的に国際的な性格をもたざるをえなくなった。〔…〕テレビは、同じ時間を経験しているという感覚〔…〕彼らの行為が世界史的重要性をもっているという感覚をすべての人にもたらした。いま起こっていることは重要であるにちがいない。なぜなら〔…〕テレビが取り上げているのだから、というわけである。」

 

 しかしそれだけでなく、 “革命” が広がった第3の原因として、「抗議行動に対する当局の反応は不器用であり、驚くほどの自信のなさを露呈」していたことが挙げられる。当局者たち、政治家たちは、事態をまったく理解できず、暴言を吐いて片づけようとすることしかできなかった。ド・ゴールは、「改革は結構だが、バカ騒ぎはダメだ」などと言って叱った。「イギリス労働党政権の教育相は、[学問世界のゴロツキども]と罵」って「事態を悪化させた。」フランス共産党の指導者は、68年5月「学生蜂起」の指導者コーン=ベンディットを「ドイツの無政府主義者ふぜいが」と呼んだ。

 

 が、これら無理解な権威に同調する多くの大衆がいたことも事実である。「ド・ゴールは支持者に訴えかけ、それに応えて 100万人のフランス人がシャンゼリゼを行進した。その際、大多数がマルセイエーズを歌い、一定数は[コーン=ベンディットをダッハウ〔ミュンヘンにあったナチスの絶滅収容所〕に送れ]と叫んだ」。(pp.92-94.)

 

 

Daniel Cohn-Bendit en 1968.  ©AFP.

 

 

 

【60】 西側の「1968年」――

直接行動と「直接民主」の袋小路

 

 

(1) 政治プログラムの欠如‥‥というより排除

 

 「[落ち着きのない若者]は何か明確な政治プログラムを持っていたのだろうか。1960年代の風潮は、逆説的なことに哲学を基調にしたものであった。〔…〕アルチュセールのような・極めて特異で難解な〔…〕マルクス解釈、戦間期以来のフランクフルト学派の」再浮上、「イギリス経験主義を皮相的とし大陸ヨーロッパ」哲学に転じたペリー・アンダーソンらイギリス左翼。……、しかも、デモの学生たちの間で支配していたのは「理論無視」の風潮だった。「一人ひとりが行動を通じて学んでいくべきだ〔…〕進みながら作り上げていけばよい・という感覚が一貫して存在していた。〔…〕それと並んで、理論をすっかり放棄し〔…〕すべてのエネルギーを創造性と自発性に注ぎ込み、ショックと想像力とを革命の真の武器にしたいという誘惑も存在した。[想像力を権力に]〔…〕といったスローガンのほうが、こみいったマルクス主義的理論化よりも格段に鼓舞する力をもったのである。」「復興」を最優先する戦後資本主義のもとで高度「消費社会」に頭まで浸かって成長した若者たちは、スーパーの商品棚の前にいる時と同じく、書物と理論を軽視する思いつきのキャッチフレーズに、何よりもまず跳びついたのだ。

 

 しかし、「一つの点が〔…〕忘れられている。」彼らの運動の「指導者たちが実際に使用したのが、革命の言語だったということである。」指導者たちは「自らを[改良主義者]や[解放者]と考えてはいなかった。」内部から改革する,制度を作り変える,といった考えとは、彼らは無縁だった。彼らの信条は、「既存の政治的・社会的組織の内外の矛盾を」最大化させて、矛盾の破壊力によって「組織を壊滅させること」、まさにそれだけだった。「破壊と毀損」が彼らの目的と行動のすべてだったのだ。「[革命]は少数者によって仕掛けられるべきであり、挑発や[直接行動]によって、単なる[形式的民主主義]の恥ずべき性質と資本主義の病理とを多数派に実物宣伝すべきなのであった。〔…〕ドイツの学生たちは〔…〕[小規模の過激な少数派]」として非難されると、むしろそれを勝利の栄冠と見なして「われわれは小規模の過激な少数派だ!」と得意げに叫んで歩いた。

 

 

(2) 理論家たちのナイーヴすぎる「民主主義」

 

 「学生指導者の多くは〔…〕何に反対」するかの「点では認識が一致していた。それは、[形式的民主主義]であり、〔…〕ヘルベルト・マルクーゼが指針として示した[権威主義的福祉国家]や[抑圧的寛容]であった。」ところが、彼らが目の前の・民主主義や「議会制のような自由主義的制度」・を非難するときに、対比すべき理想的モデルとして用いたのは、「19世紀ヨーロッパの自由主義」にかんする・あまりにもナイーヴに理想化された幻像だった。そんな「自由主義」は、19世紀ヨーロッパのどこにも現実に存在してはいなかったし、そもそも「20世紀中葉の産業社会における大衆的民主主義という条件のもとで」は、19世紀とは異なる困難があるはずなのに、である。

 

 

ヴァルター・ヴォマツカ『人間、万物の尺度』1968年。ベルリン・ミッテ区所在

のモザイク壁画。Walter Womacka, Der Mensch das Maß aller Dinge, 1968,

 Mosaik: Friedrichsgracht 58, Berlin-Mitte, Deutschland.  ©Wikimedia.

 

 

(3) 「自治・自律」ないし「自主管理」

―― という直接主義

 

 「実際にもきわめて自由気まま」でいいかげん「だったのが、68年の再重要概念〔…〕自律 オートノミー]である。」彼らの見るところ「自由主義的」とはいえない既成の「諸制度に対し、学生と労働者は[自律]すなわち[自主管理 セルフ・マネージメント]をもたらそうとした。いわく、労働者評議会、学生評議会、農民評議会、直接民主主義、それに工場と路上における直接行動であり、すべてが既成の[産業的行政的君主主義]に取って代わるべく思いつかれたものであった。」共産党系労組などの既成左翼は、「自主管理 オート・ジェスチヨン」や「自律」「評議会」といった概念を、「中身のない公式だとして斥けた。」が、じつは彼らの既成左翼組織自身が、それらの古い社会主義や無政府主義,サンディカリスムの「長い伝統から生まれた」ものだったのだ。(pp.94-96.)

 

 

『最も目立つのは、自主管理を筆頭にする学生たちの要求が、1945年以後の憲政問題の解決の中心をなした諸原則〔法の支配,権力分立など――ギトン註〕を正面から否定した点である。〔…〕学生指導者をはじめ多くの者が、あらゆる「権力の委任」〔すべての選挙と代議制度――ギトン註〕に真っ向から反対した。そうして事実、「委任の拒否」がヨーロッパじゅうの学生運動の特徴となったのであった。〔…〕ヨーロッパのエリートが 1945年以来是認してきた・きわめて慎重で制限的な民主主義概念に、直接民主主義が取って代わるべきだ、というのである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.98.  

 

 

 

【61】 西側の「1968年」――

「状況主義」から、何が受け継がれたか?

 

 

 西ヨーロッパにおける「68年」の政治思想の中心には、「状況主義者」と名乗る独創的な思想家たちがいた。その中心人物はギ・ドゥボールで、彼らのグループ「状況主義インターナショナル」は、前記の「ストラスブール宣言」〔⇒:【59】を公表していた。彼らは、左翼政治思想よりも「芸術的前衛に多くを負っていた。」芸術運動としての超現実主義 シュルレアリスム「とその言語への関心」は「知的に枯渇したと判断し」、それを「乗り超えようと望んでいた。」シュルレアリスムに代わって彼らがめざしたのは「ダダイストの審美的衝撃 ショック に立ち戻ること」で、そうした衝撃的な言語や芸術的手段を、「社会関係を深奥から変容させる手段として」用いることができると主張した。それによって彼らは、「消費資本主義に支配された生活とは根本的に異なる[別の生活]をめざした」。

 

 そこに、マルクス主義的な「疎外論」、とりわけ「ルカーチの物象化論」が、前衛芸術の思想に接ぎ木された。「資本主義下の生活では、人は他者との真実の交流に代わって物を追い求めさせられる」のだと。さらにドゥボールは、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』からも示唆を受け、「真の人間性」を、「生産や計画」ではなく「遊戯性のなかに見いだす道を拓いた。」「いまや問題は、遊戯の規則を恣意的な慣習の位置から道徳の基礎へと転換することなのだ」とドゥボールは書いた。

 

 

マルグレート・ホーフハインツ=デーリング『喜びの町』1961年。

Margret Hofheinz-Döring, Freudenstadt.  ©Wikimedia.

 

 

 それでは、どんな「遊び」をどのように実践することによって、「消費資本主義とは異なる生活」に移ってゆくことができるのか?「状況主義者」の発想は、「与えられた現実とは異なる本当の世界がどんなものか、それを垣間見させる〔…〕契機として状況を創造する」ことにあります。そのような「状況」は、「詩的強度」をもったインスピレーショナルな体験として、私たちに「別の生活」「本当の世界」の存在を知らせるのです。

 

 たとえば、「都市のなかで」の「[心理・地理的]経験」によってであり、「それは、街路を、社会から与えられた使用目的を無視して漂い歩く[漂流]の実践を通じて」「状況を創造」する。「漂流」とは言わば「短縮形」であって、そうした「状況の創造」が戦略的・長期的に行なわれることによって、「破壊的な[遊民]という存在」が創出される。

 

 つまり、「状況主義」という党派的な政治運動にあっては、「遊戯の規則〔いわば反・規則〕」の実践が、「戦略的」に「長期的な政治効果」をもくろんで行なわれることが重要であるわけです。「状況を構築することで大きなゲーム、つまり〔…〕やると決めたゲームを持続的に実現していくのだ〔…〕そこに情念の自由遊びが存在する」とドゥボールは言う。さらに、「われわれの街路の見方を変えること」を彼は強調する。「状況主義インターナショナル」というグループは党派性を強め、意見の違う者を排除するのは「毎度のこと〔…〕、メンバーの生活は統制され〔…〕、メンバーは私的な家族生活を持たないこと」が原則となった。

 

 このように、「状況主義者」は広い意味での《文化》〔芸術・科学などの高度「文化」ではなく、人間生活全般を意味する「カルチャー」〕を変革の対象としたので、彼らの闘争の場はデモでも集会でも議会でも工場でもなく、「日常生活」こそが力を集中すべき「戦場」でした。「生活における情熱の豊かさに直ちに参加すること」こそが真摯な「政治闘争」であって、それは単なる「快楽主義的娯楽」などではなかった。それこそが、「生産主義的・消費主義的社会」のただなかにおいて「本当の生活」を求める闘争でした。

 

 このような「状況主義者」の主張が、少なくとも、大衆「操作の度合いを」ますます「強めている消費・メディア社会に対する強い不満の兆表」であることは、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌〔Le Nouvel Observateur:フランスの報道週刊誌〕の論評も認めていました。ドゥボールの論考『見世物社会』は、「イメージと物理的暴力の威嚇とによって支配されている疎外された社会に対する処方箋として書かれた」。ドゥボールは、『資本論』の書き出しをまねた言い回しで、こう書く:「[近代の生産条件が支配している諸社会の全生活は、見世物 スペクタクル の巨大な蓄積として出現する。かつて直接生きられたすべてのものが、いまや単なる象徴表現となる。〔…〕見世物は、既存の体制の条件と目的に対する全面的正当化を提供している。]〔…〕見世物は全能で、人間の統制が及ばない〔…〕[見世物は、鎖に繋がれた現代社会の、もっぱら眠りたいという意志を表現する悪夢である。見世物は、その眠りの監視者」、人びとを眠ったままにしておくための監視者である。見世物は、「社会がみずから聞くことを許す言説の唯一の源泉である。」

 

 ドゥボールの「基本的分析の方向は、反国家主義的である。」彼はマルクスに倣って、「見世物の根底には、〔…〕最も古い社会的分業である」支配階級への「権力の特化」があると言う。「見世物が表現する」支配者と被支配者への「社会的亀裂は、近代国家と不可分の社会的分業の産物であ」る、と。そこから彼は、これまたマルクス主義者に倣って、「すべての決定権と執行権とを持ち〔…〕いつでもリコール可能な〔…〕労働者評議会」によって「労働の経済的解放が最終的に達成され〔…〕、生産者自身が目的とな」り、「疎外」は完全に克服されるのだとする。「見世物社会」という分析の出だしは華々しかったが、結論がこれでは、「旧弊な左翼の思いつき」以上のものではないだろう。

 

 じっさい、ドゥボールらの「状況主義」は、運動の末路においても腰砕けだった。ドゥボール自身、最後は上部ロワールの「高い石塀で囲まれた簡素な農家」を借りて引き籠もり、クラウゼヴィッツの『戦争論』に打ち込んだ挙句ピストル自刹した。1994年のことだった。

 

 

ラウール・デストリュエル『ドロームの風景』 1940-60年頃。

Raoul Destruel, Paysage Dromois.

 

 

 しかし、彼の「状況主義」は、何も残さなかったわけではない。そこで、評価を述べよう。「少なくとも、彼は疎外に関するマルクスの思想を」映画によって表現するなど「メディア時代に向けて説得力のあるしかたで現代化した」。「状況主義者こそ、のちに 68年として思い起こされ〔…〕る事柄の中心にいた〔…〕自由な主体をめぐる種々のスローガン、日常生活つまりもっとも広い意味での文化の強調」‥‥。

 

 「68年」の闘士のなかでも、より正統派に近い社会主義運動家や毛沢東主義者と、「状況主義者」とを「隔てる溝は深かった。」前者はまだ、「〔疎外論ではない経済的・政治的な〕マルクス主義の正しさに〔…〕強くこだわっており、〔…〕革命の大義」への「プロテスタント的〔禁欲的〕献身」が見られた。つまり、「幸福な社会」をもたらすためには、自らの「幸福」を我慢して闘わなければならない、という『何をなすべきか』の思想である。そして彼らは、「上下関係をもった」前衛「組織」を組み立てようと格闘していた。ところが、「状況主義者」は、それとは反対に、「組織の意義解体を狙う[破壊活動]を唱え」ていたのだ。

 

 が、そうした反組織志向の「絶対自由主義」は、禁欲的・前衛的な旧左翼運動には無かった新しい要素を現出させたことも事実だった。たしかに、「状況主義者」の「絶対自由主義的な[生活の実験]〔…〕は、しばしば最悪のセクト主義や・参加者の一部に対する激烈な心理的テロに陥った」現実があった。「にもかかわらず、そうした実験のかなり多くは、[もう一つの][自律的な]生活圏をヨーロッパじゅうに広く生み出すモデルとなった」。それらの「大部分は、明白に平和と環境保護、それにフェミニズムに専念していった。」つまり、「状況主義者」の「生活の実験」じたいは失敗に終わったものの、それをモデルとした多くの「自律的」集団生活のコミューンが、その後のヨーロッパに簇生したのです。(pp.99-106,35(31).)

 

 

『コミューンの住民たちは、ある点で、彼ら自身の[先取りの政治]の展開に努めたと言えよう。既成の政治の枠組みを力で転覆させなくとも、真に解放された平等な生活がどんなものか、ブルジョワ多数派に実物で示し〔…〕のである。これは、言ってみれば下からの「赤いウィーン」〔⇒:試される民主主義(10)であった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.106-107.   

 

 

 

 

 

 

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