南モラヴィア〔チェコとスロヴァキアの中間にある歴史的地域〕の緑野と古城。

 

 

 

 

 

 

 

 

【55】 プラハの序曲 ――「人間の顔」が見えるまで

 


『1960年代初期、チェコスロヴァキアが政治と経済で危機に直面していることは否定できなかった。かつて、ハプスブルク帝国の高度に発展した地域〔…〕だったものが、いまでは東欧圏で最も生活水準の低い国となっていた。専門職』『訓練を受けた青年層の多くが、単純な職務にしか就けなかった。〔ギトン註――1956年のフルシチョフ演説以来きざしていた〕非スターリン化は〔ギトン註――チェコスロヴァキアでは〕あからさまに否定された。

 

 1960年に公布された新憲法で〔ギトン註――チェコスロヴァキア〕政府は、社会主義が完成したと宣言し、国名をチェコスロヴァキア社会主義共和国と変えた。「全人民の国家」と称した共和国には、もはや「階級対立」は存在しないとも主張された。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.74-75. .  

 


 しかし、公認化された・こうした “修正版スターリニズム” の「主張は、〔…〕白黒二元論の〔…〕思考と結びついた〔レーニン/スターリン主義の〕暴力に代わって、法律家的な真の[社会主義的合法性]への道を拓いた。〔…〕1940年代に熱烈なスターリン主義者」の若者だった人びとは、「今では 30代半ばから 40代前半になって」おり、ユーゴスラヴィアにも行き、イタリアベルギーも訪れて視野を広げ、「社会主義」と言ってもその在り方はひと通りではないと考えるようになっていた。ズデニェク・ムリナーシ〔1930 - 1997〕とその仲間たちは、ユーゴの「自主管理に感動し」、戦禍から目覚ましく復興した西側の国々を見て驚く一方、チェコスロヴァキアの「社会主義が約束を果たしていないことを毎日のように目撃し、〔…〕真摯にその原因を探ろうとした。」共産主義のもとで否定されていた社会学が「学問として復権」するやいなや研究者たちは、新憲法に書いてあるのとは違って「社会階層が依然存在していることを」ただちに「実証した。」

 

 とはいえ彼らは、「社会主義共和国」の将来にたいして・政府と同じくらい楽観的だった。「残されたすべての問題は、[科学・技術革命]をいっそう進展させることで解決が「可能と思われた。」それは「体制自らが示唆」していたことでもあった。「ソ連が最初の人工衛星を宇宙に送った」ニュースが、彼らに希望を抱かせていた。

 

 「専門家たちは、いまや技術が経済発展を実際に駆動していること、技術支配層 テクノクラート は進歩的労働者階級と見なされるべきことを指摘した。」

 

  テクノクラートの興隆、その万能への信頼とともに、それとはある意味矛盾する 「より主観主義的で人間主義的なマルクス主義」を求める方向が「抬頭してきた。」カレル・コシーク〔1926 - 2003〕は若い頃「スターリン主義者で、ナチに対する抵抗運動に加わり〔…〕収容所にとらわれ」たあと、「レニングラードで学び〔…〕プラハのカレル大学で哲学教授となった。今では彼は〔…〕人間主義的マルクス主義を唱えていた。」チェコの他の知識人たちは、実存主義やグラムシの遺稿と格闘しはじめていた。(pp.75-76.)

 

 

ヴルタヴァ(モルダウ)河の岸に聳えるヴィシェフラト(高い城)は、10世紀後半

に築造が始まったプラハ郊外の丘の城砦。プラハのシンボル。©prague-now.com.

 

 

 

【56】 プラハの春 ――

ドゥプチェク:「人間の顔をした社会主義」

 

 

 「1968年の[プラハの春]は、〔…〕ソヴィエト型社会主義を」内部から「改革する試みの」ゴルバチョフ以前にあっては「最後の大がかりなものだった。アレクサンデル・ドゥプチェク〔1921 - 1992〕指導のもと、チェコスロヴァキア共産党は、彼らが楽観的に[芯から民主的で、チェコスロヴァキアの条件にかなった新しいモデルの社会主義社会]〔…〕と呼ぶものの建設に取りかかった。」彼らはまたそれを、「人間の顔をした社会主義」というキャッチフレーズで呼んでいた。「市場的要素が導入され、価格統制は緩められた。」のちにドゥプチェクが振り返って述べているように、「わたしの仲間もわたしも、〔…〕社会主義を捨てるなどとはみじんも考えていなかった。〔…〕社会主義は市場向けの環境のもとで・いっそうよく機能できると信じていたのである。」

 

 この改革を、ソ連は支持しなかった。ブレジネフ〔ソ連共産党第一書記。在任:1964 - 1982〕ドゥプチェクと会見するや直ちに、「資本主義への回帰だ」との非難を浴びせた。ドゥプチェクは「市場の状況を改善し、人びとの生活を楽にするためには私有セクターが必要だと答えたが」、それに対してブレジネフは、「小規模職人だと? おまえらの資本家どもだって工場を始める前は小規模職人だったろうが!」と恫喝した。「教義へのソ連の偏執狂ぶりを変えることは、どうしてもできなかった」とドゥプチェクは回顧している。

 

 「ドゥプチェクが権力の座に就いた 1968年1月以降、検閲がまず緩和され、のちに廃止された。」が、「その間ドゥプチェクは一貫して、共産党」が「権力独占〔一党独裁〕を放棄することはないと」表明し、それゆえ「改革は少しも[党=国家]を脅かすものではな」いと主張した。たんに、人びとに開かれた「参加の[空間]や[範囲]を拡大することが」めざされているにすぎないと言うのだった。

 

 そして、「いまや共産党」自身が、民主化改革の「担い手として動き出さねばならなかった。〔…〕他の中・東欧諸国やスロヴァキアと違って」チェコ共産党は、「戦後に選挙で実際に勝利したことのある唯一の共産党」だった。そんなことは、レーニンのボリシェヴィキでさえ成し遂げたことがなかった。「その経験が、」暴力を用いなくても「いまでも何とか人民の正統的な支持を得ることができるという幻想を強めた。」

 

 「ワルシャワ条約」機構「を離れる動きさえしなければ、モスクワの介入は無い、とドゥプチェクは計算していたようだ。」条約離脱を宣言したのが「ハンガリーの致命的失敗だったと彼は考え」た。

 

 じっさい、当時「多くの観察者の眼には」、ドゥプチェクの「上からの管理された自由化」によって共産党の「正統性はまちがいなく強化されたと見えた。」ハンガリーとも、また後ちの「1980年代初頭のポーランドとも違い」、チェコスロヴァキアの人民は、労働者評議会自主管理労組のような「国家に対抗」する「自分たちの組織を造」ろうとはしなかった。それでも、にはソ連に忠実な「古い指導者」たちもいて、対立は、彼らと、ドゥプチェクを支持する党員・非党員大衆のあいだにあった。 

 

 とは言っても、ここには一言、注釈が必要でしょう。ドゥプチェクら改革派が、どれだけ真の意味での「支持」を得ていたのか、あるいは恒久的に「支持」されうるだけの根拠――ウェーバーの意味での支配の正統性――を持ちえたのか? ‥という点です。なるほど、当時西側から見えていた限度では、彼らへの「大衆」の支持は――スロヴァキアではともかく・少なくともチェコでは――完璧であるように見えた。が、彼ら改革派の正統性は、共産党という前衛党正統性に依存したものではなかったか? ハンガリーの党内改革派が抱えていたのと同様の問題を、チェコの改革派も免れてはいなかった。ただ、その点にかんする著者の見解は、↓このあと・すべての一部始終の最後に、「改革共産主義」の評価を述べる際に、明らかにされることとなります。

 

 

ヴィシェフラトから、ヴルタヴァ(モルダウ)対岸プラハ市街を望む。

 

 

 ドゥプチェクを支持する党員大衆のなかで、ムリナーシは 1968年4月『共産党共同綱領』に共同作成者として加わり、「さらに一歩進んだ」構想を示した。共産党は、十分な準備をしたのちに一党独裁制を放棄し、「1970年代の終りまでには自由な選挙を」行なって「戦い、そして勝たねばならない。」そのようにして完成される改革は、共産党のゆるやかな指導のもとに、「社会主義経済と多元主義的民主主義との総合」をめざすものだった。「多元主義」とは、一種の「コーポラティズム」を意味した。すなわち「工業,農業,サービス業での労働者の要求を表現する国家主導の利益代表制」であった。は「指導的役割を維持するけれども、社会の[万能の管理者]としてではない。党は「社会主義的自発性を喚起し、〔…〕体系的説得と共産党員の人格的垂範を通じて、すべての労働者の支持を得」なければならない。つまりは「カリスマとしての役割に立ち戻るべきなのである。」

 

 「チェコスロヴァキアの改革共産主義は、技術者支配 テクノクラシー の傾向が強かった。専門家,経済学者,そしてとりわけ社会学者による包括的社会工学(または工学的社会再編)への信仰である。」ハンガリーなどと違って・のもとでの「イデオロギー上の制約があるなかで、改革者たちは他に何が言えただろうか。〔…〕労働者評議会自主管理の要求」が無いわけではなかったが、党と国家の主導のもとでの控えめな実現が提案されるにとどまった。

 

 総合して言えば、「プラハは、わずかばかりの多元主義立憲主義をめざす改革運動」であって、そこにとどまりつつ圧刹されたのである。(pp.73-74,76-77,81-82.)

 

 

 

【57】 プラハの冬 ――

「そのしゃれこうべは二度と笑わない」

 


『8月21日、ワルシャワ条約軍はプラハ市内に轟音とともになだれこんだ。ずっと後にムリナーシは、〔…〕ゴルバチョフとの会話のなかで、党指導部に何が起こったかを〔…〕述べている:

 

 われわれは〔…〕ドゥプチェクと会議室にいた。そこに突然、タマン師団のソ連兵士がどっと入って来た。各兵士が、われわれ一人ひとりの後ろに立ってカラシニコフ自動小銃を構えた。〔…〕無意識のうちに、自動小銃を持ってわれわれの後ろに立つ兵士と社会主義が、直接につながっていることは了解できた。〔…〕

 

 ドゥプチェク〔…〕「正常化」〔…〕路線を強制された。その後、政府から追い出され、党から除名され、森林局で働かされた。コシークは党を去らざるを得ず、すべての出版を禁止された。秘密警察は研究ノートをも繰り返し押収した。ムリナーシ〔…〕除名され、国立博物館で甲虫類の研究に没頭することになった。〔…〕

 

 プラハの事件にたいし〔…〕ブレジネフは、「世界の社会主義体制の環のほんの一つが弱体化しても、すべての社会主義国に直接に影響する。それゆえわれわれは無関心に見過ごすことはできないのだ」と宣言した。』それは『すぐに「ブレジネフ・ドクトリン」として知られるようになった。

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.77-79.  

 

 

南モラヴィアの沃野。チェコスロヴァキア。

 

 

 「ハンガリー動乱は西側で〔…〕多くのマルクス主義同調者の信頼を失わせていた。〔…〕プラハの春の粉砕によって、改革されないソ連が存続するかぎり・東欧で〔…〕共産党が自己改革を遂げる希望は全く無くなった。西側の多くの社会主義者が、いまやすべての[人民民主主義]から距離を置くようになった。〔…〕多くの左派観察者は、チェコ」にワルシャワ条約軍がなだれ込んだ時には「うまく理解できず〔…〕とても混乱」していたが、その後の「[正常化]過程が進むのを見て、混乱から脱け出」すとともにすべての希望を投げ捨てた。いまや彼らは、東欧圏は社会主義国家ではなく「[官僚制的集団主義]国家で構成されていると言明」するようになった。「東欧の国々は」たとえ今は混乱していてもいずれは社会主義に向かう(良きにせよ悪しきにせよ)、との西側左派の想定そのものが「粉砕された」のだ。

 

 チェコ、ハンガリー、ユーゴスラヴィアの政権内改革派が抱いた構想:「改革共産主義」は、致命的な「構造的矛盾」を抱えていた。「レーニン主義に立つ前衛党が、共産主義への途上でどのようにして自己解体できるか説明できないかぎり」、「改革共産主義」は「大衆」の前で、恒久的な意味での「正統性」を持つことはできない。なぜなら、前衛党が自ら解体しないかぎり、それは「少数独裁」体制のまま存続し、社会全体を「共産主義」とは正反対の権威主義支配体制として凍結してしまうからだ。「プラハの春」の改革者たちも、彼らの構想においてさえも〔つまり、仮にソ連が戦車隊を差し向けずに、したいようにさせてくれたとしても〕、この壁を乗り越えてはいなかった。著者ミュラーの見解を推し測って言うと、こうなります。

 

 東欧各国の共産主義政権党は、いずれも、「戦争直後の時期には反ファシズムが若干の信頼性を付与したが、その時期が過ぎると、最悪の伝統主義と[官僚主義]」だけが残った。「非権威主義的共産主義というものは存在しなかったのである。テロ〔粛清,恐怖政治〕は無しですませられても、警察国家は不可欠だった。これこそ、ムリナーシ〔…〕引き出した教訓だった。」

 

 ヴァーツラフ・ハヴェル〔劇作家。「正常化」時代の反体制運動の中心。1989年共産党政権打倒後、大統領〕は、「楽しいことは確実に終わった」と端的に言った。「そして今や、[全体主義的消費主義の灰色の日々]が始まった。」

 

 「この骸骨 されこうべ は二度と笑わないだろう」――これは、1974年にポーランドから追放された哲学者レシェク・コワコフスキ〔1927 - 2009。自主管理労組「連帯」の結成に影響を与えた〕の言葉で、「このされこうべ」とは、自身が主唱した修正マルクス主義(改革共産主義)を指す。(pp.79-81.)

 

 

 

【58】 西側の「1968年」――「混乱」か?「反乱」か?

 

 

 1968年前後に起きた出来事は、「西欧以外では、政治の比重が明らかに高かった。」ヴェトナム戦争のエスカレーションと反戦運動、「メキシコでの流血の学生弾圧」、中国の「文化大革命」、韓国の「維新」クーデター、ポーランドでのデモ弾圧、「そして[プラハの春]である。」

 

 ところが、「西欧では〔…〕政治の比重は最も低かった。〔…〕プラハの西では[誰もタヒなず、倒された政府も無かった。〔…〕西側の 68年、広くは 1960年代の動きは、甘やかされた少数の子供たちの革命ごっこにしか見えな」いと、さほど保守的ではない観察者までもが批評した。「フランスの自由主義を率いたレイモン・アロン」しかり。英国最後の共産党員エリック・ホブズボーム、しかりである。

 

 

Protesters from the Free Speech Movement marching through Sather Gate,

 the University of California at Berkeley, November 20, 1964.

©The Oakland Museum of California.

 

 

 しかも、60年代の実に「多様な出来事」は、「じつに多くの神話」に取り巻かれているので、「何かが起こったとして、実際はどうだったのか、〔…〕主役たちはどんな意図」で行動したのか、そうしたことはヴェールで覆われてしまっている。ある人は「68年」を「ヨーロッパにおける〔…〕左派絶対主義」誕生の場と見なし、他の人はそれを「政治的ロマン主義の復活」だと言う。「無政府主義の復活」あるいは「ファシズムの復活だと嘆」く。

 

 しかし、「はしか」のように起きては消えた一連の出来事のあとで、それら以前とは明らかに違う環境にいることに人びとは気づいた。それら「意図せざる結果」について、さまざまな解釈が唱えられた。「高級文化と大衆文化の境界はあいまいになり、社会生活」での「上下の区別が弱まり」、「異議や〔…〕市民的不服従〔…〕正常の民主政治の一部として〔…〕受け入れられるようになった。」

 

 他方で「当時 CIA はそれを、[世界規模の落ち着きのない若者現象]と呼んだ。」西ヨーロッパの保守派は、「68年は[文明の危機だった]と指摘するアンドレ・マルロー〔1901 - 1976。作家。ド・ゴール政権の文化相〕に同意」し、さらに、「68年世代は民主的な諸制度に対して根本的軽蔑を示した〔…〕、と主張した。〔…〕そうした制度はある種の権威の承認を意味していたからである。この反権威主義こそが、西側の政治文化を長期にわたって傷つけ」たと「保守派は非難する。」さらに一部の人びとは、ドイツの「赤軍派」やイタリアの「赤い旅団」など 1970年代のヨーロッパのテロ集団は、「68年」から直接生み出されたと主張する。

 

 しかしながら、「68年」の「当事者たち自身」は、「彼らの行動は政治思想と不可分だと」明確に「信じていた。彼らは、理論に駆り立てられて行動を始め、さらに自らの実践経験」によって理論をいっそう発展させてゆくのだと意気込んでいた。「きわめて狭い民主主義理解に基いた戦後の憲政秩序」、1950-60年代の意識的に「反イデオロギー的な[合意の政治]」、――これらが眼の前に立ち塞がっていると感じていた学生たちにとっては、「理論を強く押し出すこと」が必要だったのだ。

 

 「一見したところ[無思想]な安定性生産性」、「非政治化された私生活」、ド・ゴールのような「家父長的政治家の長い支配」――これら、「戦後民主主義」の特質が、若い世代の「政治的閉塞感を強めていた。」

 

 アメリカの社会学者C・ライト・ミルズが 1960年に述べた言葉が、ヨーロッパの学生たちにも響いたのは、そのためだった。ミルズは、「イデオロギーの終焉」という説に反対して、こう述べた。「それは、十分な政治哲学を展開することを拒否する立場」である。しかし、「鋭敏な人びとは今、そうした政治哲学が必要だと感じている。」ただし、「政治哲学は、行動に有益な手引きを示す場合にのみ、十分なものになりうる」。……それゆえ、ヨーロッパの学生たちにとっては、「理論化すること」自体が、「合意の政治」に反抗する「高度に政治的なジェスチャー」だったのだ。(pp.85-90.)

 

 

 

 

 

 

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