キジル千仏洞 飛 天
【10】 北魏の「廃仏」と再興
―― 中国化と「護国仏教」
439年、「五胡十六国」の華北は、鮮卑族拓跋氏の「北魏」によって統一される。北魏第3代太武帝は仏教を保護していたが、寇謙之〔365 - 448. 道教を体系化し教義・経典・儀式を確立した〕を重用して道教を国教にすると、446年「廃仏の詔」を出して仏教を禁圧した。「寺院,仏像,経論を破壊して僧侶はすべて穴埋めにするよう命じた。」禁圧のきっかけは、太武帝が「反乱を平定するため長安に入った際、僧尼が飲酒にふけり、寺院から大量の武器が」押収されたためといわれる。
452年に太武帝が宮廷の内紛で刹されると、即位した孫の文成帝は「仏教復興の詔」を出したが、「廃仏」によって仏教界が被った打撃は大きく、そのショックは教義にまで及んだ。これを機に、北朝仏教は、道教など中国思想の影響を大きく取り入れて変貌してゆくこととなる。破戒と堕落が「廃仏」の原因になったとの反省から、「菩薩戒」や修業階梯が整備されてゆく。また、「廃仏」が撤回されたとは言っても、僧の数などは制限され、仏教に対する国家の統制が確立してゆくこととなった。(pp.86-87.)
他方、伝統的な儒教からの仏教批判も、それ以前から厳しかった。
『儒教側は、自らを〔…〕「中華」と称し、周辺諸国を「夷狄」と見る伝統的な』華夷思想『をインドにもあてはめ、夷狄の教えである仏教を採用してはならないと説いた。〔…〕王族や貴族たちが』競って『豪壮な寺院を建て、民衆を動員したことも、儒教からの反発』を強めた。『南朝においては〔…〕仏教信者の一部までが、インドの習俗の採用に反対している。そうした姿勢が貫かれれば、教義の面でも中国風な仏教が形成されていくのは当然だろう。』
北朝の北魏でも、『廃仏が終ると、仏教側は〔…〕中国人の要望に合わせた擬経〔※〕を続々と作成していった。〔…〕
またこの時期には、唯識や如来蔵思想を説く経論がつぎつぎと訳され、心の探究がさらに進んでいる。
〔ギトン註――古代の中国では、〕儒教』でも『老荘思想』でも『心そのものにかんする詳細な議論〔…〕心の分析はなされなかった。そこに仏教が精密な心の分析をもちこみ、自らの煩悩や執着に気づかせたのだ。またその一方で、煩悩のなかにあってけがれない「自性清浄心」という新たな概念ももたらされ、注目を集めた。〔…〕
〔ギトン註――南朝・宋で、インドから来たグナバドラが漢訳した〕『勝鬘経 しょうまんぎょう』は、煩悩に覆われた法身〔ほっしん:永遠不変の真理そのもの〕である如来蔵のことを、けがれることのない「自性清浄心」と呼び、真理と心を結びつけた。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.81-82,40. .
※註「擬経」: 仏教では、「経」とは釈尊の教えであるとのタテマエから、インド以外(中国その他)で作られた経典を「偽経」と呼ぶ。が、著者によれば、「偽経」とされるもののなかには、インドとその周辺で民間信仰を取り入れて書かれたものや、インド由来の多数の経書から中国の僧が抜き書きしてまとめたものも多い。そこで著者は、これらは必ずしも「偽」ではないという意味で、「擬経」の語を用いる。
雲崗 第20窟。 像高約14m, 砂岩。 北魏 5世紀。
中国での仏教に対する反発を仏教側が受け入れる過程では、本来は厳しく絶対的な仏教の「戒律」が、相対化されて理解されることもあった。そこには、伝統的な「華夷」思想がからんでいた。
南朝・宋の「重臣であった范泰〔355-438〕は〔…〕戒律は悟りに至るための方便にすぎず、道に達したら戒律は無くてもよいと論じた。〔…〕暦 こよみ の学者として知られる何承天〔370-447〕」は、「仏教が説く[慈悲と愛施]は中国と異ならないと認めたうえで、性質が清和で仁義の心を有する中華と、剛強で貪欲な夷狄とでは民の性質が違っており、仏教はだからこそ五戒を制定したのだ〔中華には五戒は必要ない〕と論じた。これに対して、謝礼運と並ぶ著名な文人〔…〕顔延之〔384-456〕は〔…〕反論し、普遍的な真理は外国も中華も変らないと述べ、人の本性に内外の区別はないと断言している。これは、華夷を区別して儒教の文化を誇ってきた中国思想史において画期的な発言だった。」
ともかく、年代から考えて、このような戒律軽視の風潮が、仏教界の風紀の乱れを誘い、それが「廃仏」事件の起きた背景にあったことは想像できる。
北魏で「廃仏」を撤回した文成帝は、「寺を各州に1つだけ認め、人数を制限して出家を許した。」同時に、僧侶を監督する官職を設け、僧官〔自らも僧である官吏〕を任命した。「沙門統」と呼ばれる最上位の僧官には、曇曜が任命された。「曇曜は〔…〕460年に雲崗に石窟寺院を造営しはじめ、崖を削って巨大な5体の大仏を造らせた。その際、4体の仏像は、初代から4代までの北魏の皇帝の顔に、残りの1体である交脚の弥勒像〔…〕は、当時の皇帝である孝文帝に似させた。皇帝と如来を同一視することによって仏教の保全をはかったのだ。」
こうして、中国的な皇帝の国家によって統制され、皇帝を「仏」と同等の存在として崇拝する東アジア「護国仏教」の原型が成立した。
「擬経」の作成が盛んになったのは、「廃仏」で失われた経典類の欠を補う意味があった。が、内容は多かれ少なかれ、中国人の嗜好に合わせたものだったようだ。伝・曇曜『浄土三昧経』は、「仏教の善行は長寿や繁栄や出世をもたらすとし、〔…〕説き終わった仏が空を飛ぶと、歓喜した国王や臣下たちも空を飛んだとする」。中国人に受ける現世利益に満ちているが、本来のインドで仏教徒が求めるのは現世での「長寿」ではなく来世の幸福である。その一方で、この経典は、「仏は実に人を度さず、人自ら度するのみ〔仏は本当は人を救済しない、人が自分で自らを救済するほかはない〕」つまり「各人が仏の教えと戒を進んで実践してこそ救済される」という「人間中心主義」に特色がある。これは、当時の中国「擬経」に広く見られる考え方で、のちには「禅宗へと流れていく。」
「ほぼ同時期」の偽経『提謂波利経』は道教の影響を強く受けており、「体内の五臓に住むそれぞれの神のようすを念じる道教の瞑想法を仏教風に改めた〔…〕観想のしかたを説いたり、悪事をなした者は泰山の地下にある地獄で報いを受けると説くなど、道教になじんだ北魏の民衆を仏教に」引き込む工夫をしている。「また、斎日を守れば鬼神の禍から逃れる〔…〕としており、懺悔して戒の実践を誓うこと」で「長寿やさまざまな福、さらには涅槃が得られることを道教風」に説いている。
こうして、道教と習合した仏教として中国に、さらには東アジア諸国に〔日本には直接または朝鮮半島経由で〕広がってゆく現世利益的な民間信仰は、この時期の「擬経」に起源があることが分かる。
雲崗 第25窟 弥勒菩薩交脚像, 砂岩。 北魏 ca.470-80.
偽・鳩摩羅什訳『仁王般若経』は、当時の「擬経」のうちでもっとも後代への影響が大きかった。その上巻では、「般若〔はんにゃ:仏の智慧の完成形態〕や菩薩にかんする諸経典の説明」の抄録で、「この経を受持すると護国の功徳 くどく があると説いている」。下巻では、「仏教統制を激しく批判」しつつも、「この経を読誦すれば百もの鬼神が〔…〕国土を守ってくれると〔…〕強調している」。『仁王般若経』に限らず、「仏教統制」批判は・この時期の多くの「擬経」に書かれているが、つねに・その部分は無視され、「護国経典」として後世に至るまで用いられた。
また、『仁王般若経』は、「菩薩の修行の段階」を「三十心」に区分している。修業階梯論はますます煩瑣になっているわけで、「役人の位階制度が発達していた中国では」菩薩にもヒエラルヒーを設けなければすまなかった。「如来を頂点とする詳細な階位」が設定され、どの「菩薩がどの階位」か、といった議論がなされた。最終的には、天台宗を創始した隋の智顗〔ちぎ:538-597年〕によって「五十二位」に整理され、「これが中国における菩薩の位階説の標準となった。」
5世紀半ばころに発生した偽・鳩摩羅什訳『梵網経』は、「出家と在家に共通する菩薩の心得を説」き、「しだいに東アジアの菩薩戒の標準となっていった」。「『梵網経』は、父母に仕えることが孝であり・孝とは親に[順]ずることだとする儒教の常識に従い、[孝順]こそが無上の法であって菩薩戒だとする。ここに至って、仏教の倫理は中国風の現世道徳に大きく変貌してしまったと言えます。日本に入ってきたのは、このようにして変換した仏教だったのです。(pp.84-85,87-91.)
【11】 北朝仏教の繁栄 ――
像・寺と祭礼、「如来蔵」と『大乗起信論』
『北魏では、皇帝,王族,貴族から〔…〕庶民に至るまで〔…〕金属,石,土,木,乾漆などさまざまな材料で大小の仏像を造っており、金属や石の仏像には発願の意図を記した銘が彫りこまれた。〔…〕「皇帝の奉為 おんため」を願う類 たぐい もかなりあり、この願いを筆頭とし』て『七世の父母、近しい人々、さらに一切衆生の成仏を願うといった形で列挙する例もよく見られる。「皇帝の奉為」を筆頭に掲げる銘は、〔…〕「邑義」と呼ばれた・地域の信仰仲間〔日本古代の「知識」に相当する集団か?――ギトン註〕が共同で誓願して造った仏像に多く、そうした邑義は僧侶によって指導されていた。つまり、僧が、仏教信仰と皇帝への忠義を』ともに『説いていたのだ。』
北魏は『494年に、〔…〕中国文化の中心であった洛陽に遷都〔…〕した。5世紀末には洛陽とその周囲には 1000以上の寺院があったという。それらはインド,中央アジアの煉瓦,石造りの寺院と異なり、中国の木造建築の技術を集大成したものであって、浄土を意識した庭園は、蓬莱山その他の神仙思想に色づけられていた。〔…〕
諸大寺は建築の華麗さを競っており、釈尊の祭日にはそれぞれの寺から、精緻なからくり仕掛けの人形などを乗せた巨大な山車が出発し、楽隊や曲芸の芸人たちがそれに従って大路を練り歩いた。行像 ぎょうぞう と称されるこの催しは、毎年タヒ者が出るほどの賑わいだった。』
石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.92-93. .
「隋唐洛陽城遺址」での春節(旧正月)の行事。芸人の演技を見る観衆。
正面は、復元された定鼎門(洛陽城の外城の正門)。河南省洛陽市 ©人民網.
山車 だし 行列が練り歩く祭礼などは、幅広い真っすぐな道路をもつ人口調密な都市があってはじめて可能なことです。中国で成立した仏教文化は、碁盤の目の《宮城プラン》をもつ政治国家と一体の、いわば「文明のセット」であったと言えるでしょう。東アジア諸国が仏教を受容するということは、そのような・一体となった「文明のセット」を導入することにほかならなかったのです。
弥生時代と変らない住居に住み、弥生式に近い土器を使い、古墳を盛っていた社会が、いきなり長安・洛陽のような巨大都城を造営し、律令国家制度を整備した〔同様のことは百済,新羅にもある〕ことについて、日本の古代史学界では、隋・唐の侵略の脅威を意識した防衛努力だったと理解する傾向が強い。が、私は違うと思う。「文明」は、「セット」でなければ輸入できないのです。
北魏の洛陽では、「如来蔵」思想の集大成も進んだ。漢訳された『宝性論』は、「すべての人は[仏性]あるいは真理である[真如 しんにょ]を有していることを強調しており、これがのちの中国仏教に大きな影響を与えた。」
「如来蔵」と並んで「唯識」思想〔人間の無意識である「アーラヤ識」および随伴する様々な「識」の働きを探究する〕にも進展が見られた。『十地経』の注釈である・世親の『十地経論』は、たがいに解釈の異なる2種の漢訳が行なわれ、競い合った。
『十地経論』は、「菩薩の修行と唯心説〔この世すべてを心の働きと見る〕について解説している」。『十地経論』を、大乗諸経典の解釈マニュアルとして用いた北朝の僧たちは、「地論」学派と呼ばれた。「地論」学派のなかで、「唯識」思想の面が強い分派は「北道派」、「如来蔵」思想の面が強い分派は「南道派」と呼ばれたが、「南道派」は北魏の代々の僧統 〔そうず:僧侶を統制する最高位の僧官〕を務めたので、「北朝では」如来蔵を重んじる「北道派が主流となった。」
後の北朝では、「地論」学派は「仏性・如来蔵説を最上のものとし〔…〕『涅槃経』を最も重視した」。「『涅槃経』尊重派のなかには過激な主張をする者もいた。敦煌で発見された写本の一つ」は、仏像・仏画・経典を「真の仏宝,法宝ではないと切り捨てる。そして、自分が将来成る仏が、自分に最も近しい仏である以上、その仏」を礼拝すべきである。ないしは、「現在は我が身のうちに法身〔ほっしん:真理そのもの〕として存在する[自体仏]を拝むべきであ」るとする。「現在いる諸仏などは[他家の仏]にすぎないと断定」する。
しかし、この「自体仏」という考えは、のちの「禅宗」に通ずる。たとえば、新羅僧義湘〔625-702年〕は、入唐して長安近郊の「終南山で禅宗や三階教〔後述。唐の特異な宗派〕の影響受け」たが、彼の著書『華厳経問答』には、「自分が将来成る仏こそが、自分を修業させてくれる近しい仏だとして、[自体仏]を礼拝すべきことが説かれている。」
「隋唐洛陽城遺址」応天門博物館:復元された應天門,明堂,天堂。
河南省洛陽市 ©Wikimedia.
北魏の洛陽を中心とする北朝の仏教界で成立した「擬経」のなかで、とくに重要なのが『大乗起信論』である。
もともと仏教では、揺れ動く「心」を制御することが勧められ、「心を根本と見る唯識思想でも」、心の「認識作用である[識]を智慧に変換させるべきことが説かれていた。ところが、『大乗起信論』は、「大乗とは[衆生心]〔人々の心〕にほかならないと断言し〔…〕、根本である[一心]のうちに、言葉を超えた真理の面と、揺れ動いて生滅する面とが並存するとした。そして、真如と無明がたがいに働きかけ合うとし、人々がもともと備えている仏の智慧である[本覚 ほんがく]と、悟って得られる智慧である[始覚]とは区別がないと述べ、大乗を志向する心を起こすべきことを説き、信心のさまざまなあり方について論じたうえ、簡便な修業の手段として阿弥陀仏を念ずることも説いている。」
「[本覚]という語は、仏性と同様にきわめて中国的な表現だった」ので、『大乗起信論』はしだいに「東アジア仏教の基調となっていった。」である
阿弥陀信仰にかんしては、「当時は、願えば十方浄土のうち好むところに往生できるとする擬経の『十方随願往生経』が広まっていたが、」しだいに、阿弥陀仏にすがる「西方往生」の優位が説かれ、「末法の世にあっては、阿弥陀仏の他力による〔…〕以外に成仏の道は無い」とされるようになった。(pp.92-97,104-105,164-165.)
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