石仏群 山梨県上野原市秋山。
【8】 鳩摩羅什の弟子たち
――「霊魂不滅」観の発生
クマーラジーヴァの仏典漢訳は、中国に大乗仏教の基礎を据えた。彼の訳業は、単なる翻訳にとどまらなかったとの指摘も多い。もとのインドの経典や論書をそのまま訳したのではなく、彼独自の見解を加えたと言うのだ。少なくとも、原典の大意を・中国人に分かりやすく伝えるために編集の手を加えた、とは十分に言える。これは例えば、現存するサンスクリット語『法華経』と、鳩摩羅什・漢訳『妙法蓮華経』とを照合してみれば明らかだ。
それというのも、彼は単なる伝達者ではなく「独自の思想を有していて説教も巧みだった」。「羅什訳の経論〔※〕、とくに論書は、〔…〕羅什の〔ギトン註――翻訳というより〕講義録といった面を持っている。」また、長安に集まった・中国の伝統的な「教養に富んだ弟子たち」の影響も見逃せない。彼らの関与によって、「訳は中国風な色彩を帯びていた。」
※註「経,論,律」: 「経」は、釈尊の教え。「論」は、経書の注釈・および経書の教理をまとめたもの。「律」は、教団の規則。総称して「三蔵」という。
漢訳を次々にこなすのと並行して、「羅什は〔…〕遠方の僧侶や貴族の信者と手紙でやりとりして大乗仏教の意義を強調し、中国における大乗の優位を確立した。」
クマーラジーヴァの弟子たちのなかで、とくに注目したいのは慧遠〔えおん:334-416年〕だ。慧遠は、正確に言えば孫弟子で、南朝の東晋の人だったから、南北朝の戦乱のために自分で長安に行くことはできなかった。が、クマーラジーヴァとは手紙をやりとりして師事した。慧遠は江西省廬山の山中から 30年以上離れず、教理の研究と禅観〔瞑想による真理の洞察〕に専念した。
儒教が中心だった中国では、「忠」と「孝」の君臣・家族倫理が絶対的で、どちらにも属さない仏教僧は「不道徳だ」と見られがちだった。仏教は「礼に反する」として禁圧する権力者も、南朝には多かった。そこで「当時の仏教徒たちは、亡き父母を敬う仏教は[大孝」であるとし、〔…〕仏教は儒教以上に道徳的な統治に役立つ」と主張した。慧遠も、仏教は「人々を救うため」に権力と「家」から離れて修行するのだから「不忠でも不孝でもない」、と主張して、僧侶取締り政策を撤回させている。
このように、中国に仏教が浸透し始めると、伝統的な考え方との衝突も大きくなり、仏教徒はそれと闘いつつも、部分的には中国思想の影響を受け、部分的には中国思想に対抗して・より極端な考え方に向う、といったことで、教義やその解釈が変わってしまうことは避けられなかったのです。そこで重要なのが、「輪廻」にかんする考え方の変遷です。
キジル千仏洞壁画 飛 天 ©smile-chinese.sakura.ne.jp.
本来インド仏教では、「[輪廻]とは、業〔ごう:生前の善行/悪行の影響〕の存続であって、輪廻の主体となる何か〔魂,霊など〕が生まれ変わっていくとする教えではなかったが」、のちの部派仏教のなかには、「霊魂の不滅・生まれ変わり」に近い主張をする部派も現れた。中国でも、タヒんだ人の霊を「鬼」と呼んで敬う民間信仰はあったものの、儒教は「鬼神を語らず」としてタヒ後の問題には関わらない態度をとったので、タヒ後の世界を信じる考え方は無かった。ところが仏教徒と非仏教徒の間で「輪廻」説の是非をめぐる論争が白熱してくると、非仏教側は「伝統思想に基いて輪廻説を否定し、[神]〔精神〕は肉体と一体である」から「タヒんで肉体が滅びれば精神も滅すると主張した」。これに反論して仏教側の「僧侶や在家信者たちは、[神不滅]〔精神ないし霊魂の不滅〕を主張するようになったのだ。」
慧遠も「神不滅」を主張し、「神不滅だからこそ、身・口・意の行ないがもたらす業(三業)が消えずに報いがある」。「応報には、現世ですぐ報いがある場合、来世で報いがある場合、それ以後の世で報いがある場合の3種が存在する〔★〕と説いた。」
★註「3種の応報」: ここで注意しておきたいのは、「親の因果が子に報い」というような応報は、仏教では有りえない誤解だということである。「輪廻」は、中国的なヴァリエーションでも、タヒ者は、まったく別の人や動物の子となって生まれるのであって、自分の子孫に生まれることはありえない。親の「業」が子に影響することは有りえないのである。「親の因果が子に報い」は、東アジアの祖先崇拝観念との過度の習合によって日本近世に生じた誤信仰であり、それを布教の手段として利用した近代の新興宗教は、仏教ではなく詐欺である。
このように考えるからこそ、「タヒぬと動物や別の人間に生まれ変わる」「悪人がタヒぬと地獄に落ちて裁きを受ける」「阿弥陀仏を信じてタヒぬと、極楽浄土に生まれる」といった思想は、具体的な現実性を帯びてイメージされることとなります。私たちが「仏教」では当たり前だと思っている死生観は、本来のインド仏教にも古代中国にも無く、両者の衝突と相互干渉のなかで南北朝~唐の時代に発生したものなのです。
慧遠は、阿弥陀信仰の普及にも功績があり、「のちに白蓮社と呼ばれるようになる念仏結社を組織し〔…〕阿弥陀仏の像の前で[西方往生]の誓願を立てた。」しかし、慧遠の当時には「念仏」とは、瞑想によって仏のイメージを観想することであって、「ナムアミダブツ」と唱える「称名 しょうみょう」ではなかった。本来の観想「念仏」には、精神の集中によって仏が見えるようになるまでの厳しい修養を必要とした。(pp.71-73.)
【9】 「如来蔵」と「菩薩戒」――
『涅槃経』と「山水」の自然観
南朝では、『涅槃経』の漢訳・大成を契機に「如来蔵」思想がひろがり、それは「自誓」による仏教入門を認める「菩薩戒」の成立とも関わっていました。さらに、「如来蔵」思想の浸透は中国人の自然観を大きく変え、「山水」画と「山水」文学の世界を開花させたのです。
初期の山水画: 「洛神賦図巻」部分(東晋,4世紀後半)北京故宮博物院。
「曹植と洛神との恋愛物語が、洛河を舞台とした自然景観のなかで展開するため
山水表現がふんだんに取り入れられている」©avantdoublier.blogspot.com.
『涅槃経』の将来と漢訳に大きな役割をはたしたのは、インドに往復した法顕〔ほっけん:337-422年〕です。法顕は中国に帰って来ると、五胡に占領された長安には戻らず、南朝「東晋の建康に至り、『涅槃経』の古い成立部分であ」る『大般泥洹経』を漢訳します。そのなかで、「すべての人はみな[ブッダ・ダートゥ〔仏となる原因〕]を持っているという箇所を[一切衆生皆有仏性]と訳した。」この「仏性」という訳語は、古くから「性善説」「性悪説」など人間の本性にかんする思考に慣れている中国人には馴染みのある表現でした。それは、教育や訓練によって変えることのできない・天から与えられた本性というニュアンスが強く、「如来蔵」説は、「すべての人は仏になる天性を有している」という人間観として展開されてゆくこととなるのです。
その一方で「『大般泥洹経』は〔…〕仏となることのできない最悪のイッチャンティカがいるとも説いており」、《どんな悪人でも〔どころか悪人こそ当然に〕成仏する ⇔ しない》という鋭い対立と「宗教的緊張」を生み出してゆくこととなります。
法顕と並行して『涅槃経』を訳した曇無識〔どんむしん:385-433年〕の漢訳では、イッチャンティカにも成仏の可能性を認めており、「原文とは対応しない場合でも[仏性]の語を多く用いている。」くだんの部分は、曇無識訳では、「一切衆生悉有仏性」となっており、法顕訳の「みな」よりも「ことごとく」のほうが、例外を認めないニュアンスが強いかもしれない。以後の仏教史では、「悉有仏性」のほうが普通の表現になってゆく。
「曇無識は〔…〕『金光明経 こんこうみょうきょう』も訳している。『金光明経』は懺悔滅罪の効果を強調し、懺悔の儀礼である懺法 せんぽう 流行の一因となったうえ、この経典を受持・供養する国王・人民・国土を四天王が守って安穏にすると説いていたため、東アジア諸国で尊重された。」「懺悔」とは、悪い行為を悔い改めることですが、仏教の場合には、キリスト教のような個人の反省や告白ではなく、集団での大がかりな・しばしば絢爛豪華な儀式を催すことに意義があります。すなわち「護国仏教」にふさわしい教義だったのであり、東アジア諸国では『金光明経』は重視されていきます。また、その意義も、中国から日本へ伝わると変質し、「滅罪」よりも「穢 けが れを祓 はら う」意味を強めることになるのです。
「曇無識は、菩薩戒にも力を入れた。」「伝統的な授戒では、三師七証と言われる 10人の正式な僧侶」の立ち合いが必要でした。「10人の正式な僧侶」の立ち合いは、決して容易なことではありません。10人とも、それぞれが「10人の立ち合い」で授戒された僧侶でなければならないからです。
菩薩戒は、それと違い「菩薩戒の護持を誓うだけで釈尊から授けられるため[自誓受戒]と呼ばれた。」また、菩薩戒の授戒は、面倒な「律」〔サンガの教団規則。250条ある〕の遵守を課せられないので、在家信徒に広く行なわれました。
弥勒菩薩三尊像 ガンダーラ
東アジア諸国で成立した「国家仏教」のもとでは、公式の「授戒」を経て僧尼の名簿に登載されると、免税や力役免除などの僧侶の特権が認められました。なので、「授戒」制度の在り方いかんは、仏教界にとっても国家にとっても重要な問題でした。
たとえば、仏教が伝来して 200年間、日本では正式の「授戒」を行なうことができず、高句麗,百済,隋・唐に留学して受戒していました。奈良時代に鑑真を招いたのは、弟子をおおぜい連れて来て、正式の「授戒」ができるようにしてもらうためです。それでも日本側の反発があって〔自誓授戒していた日本の僧は、無資格者になってしまう〕、鑑真は東大寺の戒師の地位から降ろされて、「唐招提寺」を建立して移ったのです。
しかし、「菩薩戒」も、中国で曇無識らが整備した正式の菩薩戒授与は、そうかんたんではありません。というのは、本来の菩薩戒は、シャカその人から授与されるタテマエだからです。もちろんシャカはすでに地上にはいない。そこで曇無識らが、それに代えて課した条件は、① 罪業 ざいごう を滅するための厳しい懺悔(悔過 けか)、② 瞑想や夢の中に釈尊や仏菩薩が現れて授戒すること(好相)、の2つでした。曇無識の弟子道進は、① を3年間つづけた後ようやく ② を見ることができ、師に受戒を認められました。
法顕と曇無識の漢訳を編集・綜合して『涅槃経』を大成したのは、南朝名門貴族の文人謝礼運〔385~433〕です。「謝礼運は、仏教用語を用いた漢詩を作り、仏教的なふんいきのもとで自然の美しさを描いた山水文学を生み出した。たとえば、〔…〕
清霄に浮煙揚がり 空林に法鼓響く〔澄んだ青空に ふんわりと煙が昇り、人けのない林に 儀式の開始を告げる寺の太鼓が響く〕
と詠っている。」それまでの漢詩は、自然を描くときでも「自然を儒教道徳の観点からとらえ訓戒の材料として描いてきた。」謝礼運の作品は、このような「漢詩の伝統を変えるきっかけとなった。」
謝礼運はまた、「インドの仏教は無限の修行を」段階的に「積んで聖人になるものであり、いっぽう中国の儒教は一生努力しても聖人に近いところまで」しか至らない、とし、「悟りとは頓悟〔とんご:一気に悟ること〕である」とした曇無識の弟子道生の「頓悟」の説を高く評価した。道生は、「究極的な[悟り]の世界を」儒教風に「理」と称したが、「理」とは「一切の区別が無い究極の境地」であって、そこに段階を設けるのはおかしいと言って、「悟るときは一気に悟るはずだ」と主張したのです。(pp.74-80.)
遊春図巻 隋代(581-618)。北京故宮博物院
「江南ののどかな春の光景を、俯瞰した遠い視点から描き、対岸
左奥に幾本もの砂州を重ねて続く平遠の景を構図する。緻密で
細密な描写は、春の情趣あふれ・見る者を惹きつける親和的な
世界を描き出している。」©avantdoublier.blogspot.com.
つまり、本来のインド仏教では、「悟り」とは、多くの修業による段階を経て進んでゆくものなのです。究極的に「輪廻」から脱する「解脱 げだつ」に達しても、それはまだ「阿羅漢」の段階であって、その先にはまだ「菩薩」としての長い修業があるのです。
ところが今日、日本のある仏教者たちは(どの宗派もそうなのかどうか、私には分かりません)、「悟り」とは1回限りですべてを覚 さと ってしまうかのように説いています。そして、「私は悟りました。」――よく、この世で生きてられますね、と言いたいww
仏教というよりも中国思想の一種である「頓悟」の説が、東アジアでは俗化して広まってしまっているのです。
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