観音菩薩石像 寛政6(1794)年。  大地峠、山梨県上野原市。

 

 

 

 

 

 

 

 

【4】 「大乗」とは何か?

 

 

 日本の大乗仏教の指導者たちはしばしば、「大乗〔マハー・ヤーナ〕」とは「大きな乗り物」だ、という語義を引いて、「多くの人が乗れる乗り物」として教派を正当化します。しかし、インドの大乗教派の人びとが「大乗」を自称するようになったのは後ち後ちのことで、当初彼らの核心的主張は、「ブッダ〔悟りを得た者〕」の範囲、ブッダとなりうる者の範囲を拡張することにあった。

 

 シャカ生前には、すべての修行者は悟りを得たとシャカに認定されれば「ブッダ」と称されたのに、部派仏教は「ブッダ」の範囲を局限し、シャカその人だけが「ブッダ」となりうる、としました。そのために、シャカ自身も、じつは「ブッダ」となるために・数限りない前世において「捨身」をはじめとする人知を超えた修業を重ねてきた・との伝説(ジャータカ)が創作されました。これは、教団社会として見れば、高位修行者を頂点とするヒエラルヒーの形成を正統化する意味があります。部派仏教時代に例外的に「未来仏〔未来のブッダ〕」として認められた「弥勒」も、その「未来」は 56億7000万年という途方もない先に設定されたのです。

 

 このような「階層化」にたいする再反動として、在家信徒のあいだから、「ブッダ」の範囲拡張を求める声が上がり、「大乗」教派の形成を促したと言えます。つまり、こんにちの「大乗」指導者たちが言うのとは、原因・結果の関係は逆であったかもしれないのです。

 

 こうして、「ブッダ拡張」の願いに乗って、「大乗」諸経は、シャカ以外の諸仏を創造し、シャカ自身が阿弥陀仏などの諸仏を讃えた事績を創作しました。またその一方では、「ブッダ(仏)」たる本質は、出家修行者のみならず在家信徒をふくむすべての人の「うちにある」との教義(如来蔵)を確立するとともに、ブッダの「菩提〔悟り〕」に向かうべく・日常生活のなかで利他行を実践する「菩薩」という修業段階・を最高のものとして称揚し、在家信徒の宗教的地位を高めたのです。

 

 諸仏が構成する宇宙的世界の構想は、仏教が、インド在来のヴェーダ教やギリシャ思想の影響を取り入れて独自の世界観を構築してゆく過程でもあり、これは、原始仏教→部派仏教→大乗をつらぬいて発展してゆく趨勢でした。

 

 このように、部派仏教から大乗への宗教運動は、一面では確かに、在家信徒からの平等化要求に応えて進められたのですが、その一方で現実の教派組織において階層化がいっそう進展していったことは否定できませんでした。

 

 それでも、「如来蔵」思想によって在家信徒の宗教的(名目的)地位が上昇し、社会生活のなかで実践される「利他行」「菩薩乗」という修行方法が、山林隠棲と瞑想による仏教本来の修行方法「縁覚乗」にも増して重視されるようになったことは事実です。

 

 その半面で、「如来蔵」は、現状追認にもなりうる欠点を有しています。誰にでも最初から「仏性」があるのだとしたら、なにも苦労して修行などする必要は無いではないか。どんなに刹生を重ねても成仏できるのなら、戦闘をためらう理由はない。‥このような傾向に陥ることが、くりかえし問題とされることになります。世俗での利得優位の活動や、階級秩序、差別、偏見などが教団内に持ちこまれることにもなります。仏教本来の反世俗的・利他的な、社会に対しては改革的な傾向と、この現状追認的な傾向との鬩ぎ合いは、仏教史をつらぬく大きなダイナミズムを構成してゆくのです。

 

 

弥勒菩薩交脚像 ガンダーラ、2-3世紀、灰色片岩。

平山郁夫シルクロード美術館。 ©artagenda.jp,

 

 

 

【5】 「因果応報」の衝撃

――「金色の巨人」に驚いた中国貴族

 

 

 仏教の「南伝」ルートでは、「大乗」も「小乗」も伝えられたということはすでに触れた。同じことは「北伝」ルートにも言える。西北インドのガンダーラから、西域――タクラマカン砂漠周辺のシルクロード都市――までは、部派仏教も「大乗」も伝わっている。ところが、西域から仏教を導入した中国では、「大乗」が圧倒的になった。どうしてか? 仏教導入の中心人物クマーラジーヴァ〔鳩摩羅什:344~413〕のはたした役割が大きかったようだ。

 

 

 西域から中国に仏教が伝わりはじめた紀元前後ころ『中国には儒教の堅苦しい道徳を否定して虚無・自然を尊ぶ老荘思想や、不老不死で空を飛ぶ仙人・に憧れる神仙思想、また道教の前身となる宗教も存在して』いた。


『中国仏教の特徴は、 鳩摩羅什の影響によって大乗仏教が主流となったことだろう。鳩摩羅什の少し後に 涅槃経』が漢訳され「仏性」の思想が広まると、大乗仏教はさらに盛んになった。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.55-56. .  

 

 

 つまり、 クマーラジーヴァの影響、および 涅槃経』漢訳による「如来蔵」思想の普及が、中国仏教が圧倒的に大乗中心となった2大因であるようだ。

 

 なお、南伝ルートでも並行して中国への伝播があったと思われますが、こちらは初期の状況〔紀元前後?〕はまだ判っていません。やや後代(3世紀後半~)の状況を見ると、ソグド人や西域出身の僧が中国とベトナムのあいだで活躍しているのが目立ちます。彼らは交易商人の子弟と思われます。中央アジアの隊商商人が南海貿易でも活躍していたようで、彼らが中国への南伝ルートを活発にしていたと考えられるのです。(pp.61-63.)

 

 中国の初期仏教について具体的に分かる最初は、袁宏〔ca.328- ca.376〕の『後漢記』によってです。記されている対象の時代は、後漢の明帝〔在位:後57 - 75〕代。

 

 

袁宏は』次のように記している:『「浮屠〔「ブッダ」の音写――ギトン註〕〔※〕」とは人々を覚 さと らせる存在であって、刹生を避けて慈悲の心を修め、欲を去って無為に至る道を説いており、それによれば、生前に行なった善悪の行為には報いがあり、人はタヒんでも「精神」は滅せずにまた肉体を得る』。そこで、『「精神」を修練して「無為」に至れば仏になれるという。

 

 また、仏は1丈6尺〔5メートル弱――著者註〕の大きさで黄金色をしており、うなじに光る日と月を帯び、自由に変化してどこにでも現れて人々を救う、〔…〕

 

 当時の中国では『仏のことを、〔…〕輪廻と因果応報の教えを説き〔…〕空を飛んだり姿を自在に変えたりする〔…〕異国の巨大な金色の神と考えていたことになる。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,pp.56-57. .  

 ※註「浮屠」: 「ほとけ」の語源説はいくつかあるが、「浮屠」を語源とする説も有力。「け」は、形あるものの意。つまり、「ほとけ」とは本来、仏像を意味したとする。

 

 

キジル千仏洞クマーラジーヴァ像

 

 

 これを見ると、初期の中国では「輪廻」や「縁起〔因果応報〕」が老荘・神仙思想のベースで理解されており、「菩提〔悟り〕」の境地は「無為」と言い換えられ、解脱・成仏は仙化せんげ:仙人になること〕のように見なされ、「輪廻」と「菩提」が混同されている感もあります。それでも、『後漢記』の別の箇所を見ると、仏教「輪廻」と「因果応報」の思想は、中国の貴族に大きな衝撃を与えたようです:



『仏は「虚無」を根本の立場とし、目に見えないタヒ者の世界を明らかにしたため、王族や貴族たちは輪廻と業報のあり方を聞いて茫然自失しない者は無かったと〔ギトン註――『後漢記』は〕述べている。を最も尊ぶ漢人にとって、〔…〕亡くなった父母が悪業によって地獄に落ちて苦しんでいる可能性があり、儒教ではどうすることもできないと聞いた時には、衝撃を受けたことだろう。』

石井公成『東アジア仏教史』,2019,岩波新書,p.57. .  

 

 

 

【6】 「仙人」と思われた釈迦ブッダ

―― 後漢末から「南朝」まで

 

 

 その後、2世紀半ばから仏典の漢訳が盛んになり、はじめは部派仏教のアビダルマ〔宇宙論と自然哲学〕関係が中心だったが、3世紀に入ると、般若経典系,華厳経系の大乗経典の漢訳が開始された。地理的にも、仏教の伝播は山東半島や江南に達している。同世紀後半の西晋では、『法華経』『十地経〔『華厳経』の一部〕』などの重要な大乗経典が漢訳されている。

 

 この3世紀後半の漢訳で、浄土教典では、「阿弥陀」という音写とともに「無量寿」という意味訳語が用いられている。サンスクリットの原語「アミタープハ〔無限の光〕」は字義通りには「無量光」だが、西域での呼称「アミターユス〔無限の寿命〕」に従ったもの。それを受けた中国では、阿弥陀仏の世界は「不老長寿の神仙が住む仙境のように」理解された。「輪廻説が浸透しているインドでは、僧侶は輪廻の世界から離れること〔解脱〕を願い、在家信者は、快楽に満ち〔…〕寿命の長い天〔天上世界,極楽など〕に生まれること〔生天〕を願う」。「現世において〔…〕長寿を強く願う」ようなことは、インド仏教では無かったことでした。(pp.58-61.)

 

 このような「輪廻」に関する誤解ないし宗教意識の変容は、中国ではのちのちに尾を曳いていくことになります。その点でとりわけ重要なのは、中国在来の祖先崇拝,「」の倫理との習合であり、それは日本・朝鮮を含む東アジア仏教の特性を形づくることとなります。

 

 

二十三夜碑 と石仏3体 山梨県忍野村内野。

 

 

 317年、西晋は「匈奴などの北方民族に攻撃されて」江南に移り、東晋を建国、華北では北方諸民族の「五胡十六国」が交替して、「南北朝」時代となる。南・北それぞれの特徴ある仏教が発展します。

 

 南朝の仏教を特徴づけたのは、江南の「温暖で自然豊かな」環境に花開いた貴族文化を背景とする「玄学」と「清談の風」です。「玄学」は、『荘子』『老子』『周易』の思弁哲学的研究で、「清談」は、玄学を含む・洗練された言葉での哲学論議。それらのなかで、仏教も、老荘思想的な解釈を施されて繫栄しました。

 

 たとえば、大乗般若経典群が説く「般若波羅蜜」〔本来は、在家信者が修業によってめざすべき「智慧の完成した状態」〕とは、自在に「逍遥遊 しょうようゆう」する智慧であるとし、『荘子』「逍遥遊」篇〔夢の中で蝶々🦋になる話が有名〕の「対立を超えた[至人]の境地」として理解します。本来の「般若波羅蜜」は、「布施,持戒〔5つの戒を守ること〕,忍辱〔苦難を堪え忍ぶこと〕,禅定,般若」の「六波羅蜜」の実践によって達すべきものですが、一転して、極めておおらかなイメージに変わっています。また、「仏とは、[道]を体得して人々を救う存在だが」、意識的に行動するのではなく「人々の願いに自然に[感応]して動くのであって、[無為にして為さざる無き者]であると論じるなど、玄学が説く聖人そのまま」が「仏」だと理解していた。

 

 南朝ではまた、インドから伝わった仏教の行事が、中国風に呪術的に理解されて慣習化されています。「八関斎」は、インドの「六斎日」〔太陰月の 8,14,15,23,29,30日〕を受容したものですが、「六斎日」とは本来、インドラ神(帝釈天)の巡視日に斎戒沐浴して身を慎む習慣です。「これが中国では、災いを除く儀礼として受容された」。シャカの「五戒」を拡張した「八戒」を、この6日だけ守ることとし、僧侶を招いて食事会をするほか、「安楽に寝ない」という第六戒のために、眠気覚ましの話芸も催されました。のちに日本に伝わって盛んになった「十五夜」「二十三夜」「二十九夜」などの行事も、この流れです。

 

 一方、北朝では、より重要な中国仏教の発展がありました。

 

 

 

【7】 北朝仏教 ―― 高僧を奪い合う遊牧民国家

 

 

 北朝の仏教は「護国仏教」。中国の「護国」とは、でっかい寺を建てるとか、金むくの大仏を造って絢爛豪華な法要を催すとか‥ そんな生易しいものではありません。「北方民族が支配する〔…〕五胡十六国〔…〕の王は次第に漢訳経典に基く仏教を信仰するようになったが、彼らが仏教を尊重したのは、神秘的な力を持った高僧を抱えることによって国威を高め」るためだった。国威のためには手段を選ばない。ある国に法力の強い高僧がいる――という噂が広がると、周りじゅうの国が軍勢を差し向けて高僧拉致を目的とする戦争を仕掛けたのです。捕獲に成功して連れて来ると、絶対に他へ行きたいとは思わせないような手厚い待遇。才能は遺伝する…と信じて子孫を残させるために、専用のハーレムを造って、あの手この手で誘惑して戒律を破らせる王もいました。(pp.65-66.)

 

 

 

 

 掠奪の対象となる高僧は、西域〔タリム盆地〕のオアシス都市国家にいるさまざまな民族の仏僧が狙われました。彼らは、西北インドのカシミールなどに留学して最新の仏教教理を学んでいたからです。そのなかでも代表的な存在がクマーラジーヴァでした。

 

 クマーラジーヴァは、クチャ(亀茲)で国王の妹を母として生まれ、10代でカシミールに留学して初期仏典を学びます。当時、クチャはタクラマカン砂漠北辺で最大の都市であり、「鉱物などの交易で栄え、ギリシャ語系のトカラ語Bを用いていた。」西域では少ないギリシャ系住民の国だったのです。王は仏教を保護し、多くの寺院がありましたが、主流は部派仏教の「説一切有部」でした。それで、クマーラジーヴァの修学も、大乗ではなく部派仏教(小乗)から始まったのでした。(pp.48-49.)

 

 カシミール留学を終えたクマーラジーヴァは、西域の西端カシュガル(疏勒)に移って、アビダルマとヴェーダを習得します。これらも部派仏教です。しかし、次に修学したヤルカンド(莎車)で大乗仏教の須利耶蘇摩〔宮沢賢治『雁の童子』の「須利耶さま」〕に出会っており、感銘を受けて大乗に転向したものと思われます。

 

 クチャに帰国したあと、中国にまで名声がとどろいたため、「五胡十六国」氐族の前秦クマーラジーヴァを得ようと、382年、将軍・呂光の軍勢を送ります。呂光クチャを破り、クマーラジーヴァを連れて帰途に就きます。ところが、この間に前秦は、「淝水の戦い」〔383年〕で南朝の東晋に敗れ、呂光の軍が甘粛省武威まで来たところで前秦は滅亡してしまいます。呂光武威で「後涼」を建国し、クマーラジーヴァは「後涼で過ごすうちに漢語に熟達」した。

 

 羌族が建てた「後秦」の姚興は関中(長安周辺)を統一して皇帝に即位し、クマーラジーヴァを「得るために後涼を攻撃し」た。401年後涼を降伏させた姚興クマーラジーヴァを手厚く迎え入れた。クマーラジーヴァ長安で、多くの優秀な漢人の弟子たちに恵まれたことから、大乗の重要な経典を次々に漢訳することができた。それまでの訳者の生硬な直訳を改めて「流麗な訳文を工夫し、今日でも用いられている仏教用語を数多く作って定着させた。」『大品般若経』とその注釈である龍樹〔ナーガールジュナ〕の『大智度論』、龍樹の『中論』、『妙法蓮華経』などが代表的な訳業である。

 

 もっとも、クマーラジーヴァの訳経のすばらしさに感銘した姚興皇帝は、彼が跡継ぎを残すことを望んだため、「強引に妓女たちを与えて破戒させた。」そのためクマーラジーヴァは、みずから寺の外に出て住み、弟子の授戒も行なわなかった。(pp.69-71.)

 

 

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ