「本丸」の東端に高み(菱櫓跡)があるので、そこから俯瞰して撮りました↑。眼の錯覚? なんだか狭く見えます。写真を小さくすると、西御門がもっと遠くに見えますから、遠くの目立つ物が近くに見える眼の錯覚なんでしょう。
お濠 ほり のへりを通ってグランドに出るところが、発掘調査のせいで、うまく撮れなかったので、以前の写真を出しておきましょう。2017年9月21日撮影。
正面の繁みが、お濠に落ちる崖の先端、手前が「本丸」です。
↑右の低いネットがお濠の囲い。正面のグランドに出て振り返ると:
このグランド北東角のネット裏に、古くは花巻城の「時鐘」〔時を告げる鐘〕があり、これは、1674年に盛岡城から移されたものでした。明治維新後 1875年に一帯の土地が払い下げられると、「時鐘」は市役所の南側に移され〔のちほど行きます〕、残された鐘楼の土台が、「四ッ角山」と呼ばれていました。
「四ッ角山」の場所は、建てられたはずの標柱が見当たらないので正確に解りませんが、古い絵図↓を見ると、お濠との位置関係から、↑左の低いフェンスの向こう側あたりだったと思われます。現在では完全に平らに均されてしまっていて、小山のおもかげはありません。
賢治の童話草稿↓でも、「四ッ角山」の場所は「城あとのまん中」となっていて、このあたりは城跡の広大なヤブの中だったことがわかります。
「四ッ角山は小学校の校庭の隅にあって、子どもたちの遊び場になっていた。」との古老の回想がよく引用されますが、それは賢治の没後、「花巻小学校」がここに移転して、ここが小学校のグランドになった後のことです。
『 めくらぶだうと虹
城あとのおほばこの実は結び、赤つめ草の花は枯れて焦茶色 こげちゃいろ になり、畑の粟 あは は刈られました。
「刈られたぞ」と言ひながら一ぺんちょっと顔を出した野鼠がまた急いで穴へひっこみました。
崖やほりには、まばゆい銀のすすきの穂が、いちめん風に波立ってゐます。
その城あとのまん中に、小さな四っ角山があって、上のやぶには、めくらぶだうの実が虹のやうに熟れてゐました。
さて、かすかなかすかな日照 ひで り雨が降りましたので、草はきらきら光り、向かうの山は暗くなりました。
そのかすかなかすかな日照り雨が霽 は れましたので、草はきらきら光り、向かうの山は明るくなって、たいへんまぶしさうに笑ってゐます。〔…〕 』
宮澤賢治「めくらぶだうと虹」. .
「本丸」のヤブには「ぐみの木」まで生えてしまっているという「スケッチ」がありましたが、ここでも、オオバコ、ムラサキツメクサ、ススキのほかに「めくらぶだう」――ヤマブドウでしょうか? 蔓 つる をからませて稔っていたようです。城跡の一部――のちのグランドの平地?――は畑になっていて、アワが植えられていた。当時の岩手県は、花巻のような米どころでもアワを作っていたんですね。
グランドの南東角をまわり、幼稚園の前を通って「花巻小学校」の校門に向かいます。
校門のところに、「中御門 なかごもん 跡」という案内板があります。現在は字が磨滅しているので、2017年に撮った写真↑を出しておきます。
ここが「三の丸」から「二の丸」への上がり口で、手前には、今は埋められている濠 ほり があり、「役屋 やくや」「奉行役屋 ぶぎょうやくや」「蔵 くら」「煙硝蔵 えんしょうぐら」「馬場」「厩 うまや」「鐘堂」「文武の稽古場 けいこば」などがあったとのこと。これらの施設跡は、付図によると、現在のグランドに広く分散していました。「鐘堂」は、「時鐘」つまり「四ッ角山」でしょう。
「花巻小学校」は、1933年〔宮沢賢治の没年〕にこの場所に新築。
もともと花巻は、「城」をはさんで北側が「花巻町」、南側が「花巻川口町」に分かれていて、小学校も別でした。「花巻町」の「花巻小学校」は一日市町〔シーナシーナの向こうに見える高台〕にありました。賢治の住地が属した「花巻川口町」の「川原小学校」〔1873年創立〕は、校舎が各処に分散していましたが、1905年12月〔賢治は3年生〕に統合され、城の高台の南端に新校舎を建築、校名を「花城小学校」に改めました。翌年2月に火災があって新校舎焼失、1907年に再築されています。
「花巻小学校」は、新校舎を建てた 1933年頃に「花城小学校」を吸収統合し〔正式の統合は 1940年か〕、翌年から 1937年まで男子児童は「花城小学校」校舎に、女子児童は「花巻小学校」校舎に通学、37年からは男女とも「花巻小学校」校舎通学となります。(⇒:花巻市HP,花巻市民の会,現地の「花城小学校此処にありき」碑)
この校門前から、「花城小学校」跡地のほうへ歩いてゆくと、今回お目当ての「カギ形迷路」になります。
まず、下り坂になって突き当たります。
突き当たった道は、湾曲しています↓。もともと「岩手軽便鉄道」〔現・釜石線〕の線路敷きだったためです。旧・線路敷き東方を望む↓。線路は、花巻駅周辺の高台から、北上川沿いの低地へ下りていきます。
西方を望みます↓。奥の右側に、賢治が勤務していた「稗貫農学校」跡地があります。
『 栗鼠 りす と色鉛筆 〔1922.10.15.〕
樺 かば の向ふで日はけむる
つめたい露でレールはすべる
靴革の料理のためにレールはすべる
朝のレールを栗鼠は横切る
横切るとしてたちどまる
尾は der Herbst
日はまつしろにけむりだし
栗鼠は走りだす
水そばの苹果緑 アツプルグリン と石竹 ピンク
〔…〕
その早池峰 はやちね と薬師岳との雲環 うんくわん は
古い壁画のきららから
再生してきて浮きだしたのだ
〔…〕』
宮澤賢治『春と修羅』. .
このスケッチは、このあたりの「岩手軽便鉄道」のレールを渡る状況と思われます。賢治は、勤務先の農学校に朝早くから出ていたのですね。当時は、こんな町の真ん中に野生のリスがいた!!「樺」も、シラカバかダケカンバか分かりませんが、自然樹相の豊かさを見せています。「ミズソバ」は、水辺に生えるタデ科の一年生草本。ピンクで縁取られた白い小さな花が咲きます。「きらら」は、日本画で画面に散らす金粉などの光沢。「der Herbst デア ヘルプスト」は「秋」のドイツ語。リスの尾の動きを表した擬態語でしょう。
家がほとんど建っていなかったので、ここから「早池峰山」や「薬師岳」が見えていました。現在でも「本丸跡」からは見えますが、あいにく曇って霞んでいたので、写真は割愛しました。
「軽便鉄道」の旧線路に突き当たって右折すると、すぐにまた左折します↓。
上り坂になり、すぐに突き当たってまた右折。このようにジグザグになっているのは、城の「二の丸」「三の丸」から城下に向かう道で、外敵の攻城が難しいように、カギ形の道に造ったわけです。
‥‥右折し、すぐ先の工事中の建物(県庁の別館)の角で、また左折します。
↑この写真の左側、現在は「市民体育館」が建っているあたりに、小学生の賢治が通っていた「花城小学校」がありました。
『 けれどもジヨバンニは手を大きく振つてどしどし學校の門を出て來ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちゐの葉の玉をつるしたり、ひのきの枝にあかりをつけたり、いろいろ仕度をしてゐるのでした。
家へは歸 かへ らずジヨバンニが町角を三つ曲つてある大きな活版所にはいつて、靴をぬいで上りますと、突き當 あた りの大きな扉をあけました。中にはまだ晝 ひる なのに電燈がついて、たくさんの輪轉器がばたり、ばたりとまはり、〔…〕たくさん働いて居りました。
ジヨバンニはすぐ入口から三番目の高い椅子に坐つた人の所へ行つておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾つて行けるかね。」と云ひながら、一枚の紙切れを渡しました。ジヨバンニは〔…〕しやがみ込むと、小さなピンセツトでまるで粟粒 あはつぶ ぐらゐの活字を次から次と拾ひはじめました。
青い胸あてをした人がジヨバンニのうしろを通りながら、
「よう、蟲めがね君、お早う。」と云ひますと、近くの四五人の人たちが聲もたてずこつちも向かずに冷めたくわらひました。
ジヨバンニは何べんも眼を拭 ぬぐ ひながら活字をだんだんひろひました。〔…〕』
宮澤賢治『銀河鉄道の夜』,岩波文庫版. .
この、ジョバンニが学校からアルバイト先の印刷所へ行く道が、「町角を三つ曲」がるカギ形になっているのは、賢治の小学校時代の通学路がそうだったからだと、よく言われます。しかし、賢治の生前には、「花巻小学校」は現在の位置にはありませんでしたし、賢治が通った「花城小学校」へ・賢治の家から行く道〔これから行きますが〕は、角を1回曲がるだけです。
思うに、現・花巻小学校からの「カギ形迷路」は、通学路ではなく、小学生たちの下校後の遊び場だったのではないでしょうか? 下校時に、家に帰るのとは反対のほうへ行って道草を喰うなど、先生に見つかったら叱られますが、それでもやめられないのが子どもたちです。
が、それがどうして、道草ではなく「学校から印刷所への道」という設定になったのでしょうか? ここには、『銀河鉄道の夜』の執筆時期の秘密が隠されています。
『銀河鉄道の夜』の・上で引用した部分は、「第4次稿」つまり最終稿で書き加えられた部分ですが、その執筆年代についてはまだ定説がありません。しかし、〈カムパネルラが、川に落ちた同級生を救ったが、自分は溺れて命を落とす〉という設定は、この「第4次稿」で初めて書かれたのです。賢治が亡くなった 1933年の 7月に〔賢治の死去は 9月21日〕、盛岡高等農林学校在学中の同人誌『アザリア』同人で賢治と親しかった河本義行が水難で亡くなっています。河本は鳥取県立農学校で教師をしていましたが、海岸で水泳訓練中に溺れそうになった生徒を救助しようとして飛び込み、生徒は別の人のボートに助け上げられますが、河本は流されて溺タヒしてしまったのです。この報せは、8月には高農の同窓会報にも掲載され、賢治にも届いています。カムパネルラの〈救助タヒ〉の設定は、河本の事故を知った衝撃から着想されて一気に書いたことが考えられるわけで、そうだとすると、『銀河鉄道の夜』の「第4次稿」――地上での場面の大部分――は、亡くなる前1か月くらいの間に、一気呵成に書き上げられたことになります。
この 1933年には、「花巻小学校」の新校舎が城あとの現在地に落成しており、「花城小学校」がそこに統合されることも、もう決まっていたでしょう。最晩年の賢治は、その移転を見越して、「花巻小学校」の新校舎をジョバンニの「学校」として設定したのではないでしょうか。
新校舎から「印刷所」へ、ということなら、たしかに「3回」カギ形に曲がります。
『銀河鉄道の夜』は、現存のテキストを見ても未完成な部分を多く含んでいます。「セロのような声」の登場に矛盾があり;「ブルカニロ博士」の場面を削除したものの、どこからどこまでが削除されたのか・あいまいで、それによって物語は大きく変ってしまいます。「ケンタウルの村」の場面には、原稿の欠落があります。そもそも、最後の終り方がすっきりしない(喋りはじめると長くなるのでやめておきますが)‥‥等々。もし賢治が、あと1か月長く生きたなら、これらの矛盾も推敲されて、おそらく私たちが憶測もできないような完全なストーリーが完結していたにちがいないのです。
お城の「時鐘」は、ここに移されています。
中に吊るされている鐘は本物で、県の文化財に指定されていますが、鐘楼は復元されたもののようですね。↓下の古写真の鐘楼と形が違います。
「花城小学校」の古写真。右に「時鐘」の鐘楼が写っているので、位置関係が分かります。
ところで、↑上の「時鐘」のいちばん上の写真で、遠くに赤い建物が見えています。そこを拡大すると:
これは「やぶや」という蕎麦屋で、賢治の時代からありました。賢治は、農学校の同僚教師たちとよくこの蕎麦屋へ行って、「天ぷらそば」や「うなぎ」を食べたことが伝えられています。エビとかウナギとか、賢治の菜食主義に反するのですが、同僚といっしょの時は気にしなかったようです。農学校では、飼育した豚をトンカツにして皆で食べています。もっとも、酒やビールは、さすがに飲まなかったようです。
「やぶや」には今も、「賢治セット」というメニューがあって、「天ぷらそば」とサイダー。元同僚からの聞き取りで伝えられているのと正確に同じ「賢治の好物」を試食することができます。
「賢治セット」も撮影したはずなのですが、今ちょっと見つかりません。見つけたら掲載するとしましょう。
市役所前から「やぶや」のほうへ歩いて行きます。
↑「市役所前」交差点。左へ折れると下り坂になり、賢治の家があります。建物は新しくなっていますが、いまも子孫の方が住んでおられるそうです。
左角の薄茶の建物がある場所は、斎藤宗次郎の「求康堂」。説明すると長くなるので、いまは省略。
さらに直進して「やぶや」を越え、「吹張町」交差点↓。矢印が「印刷所」のあった場所。当時は、花巻で唯一つの印刷所で、賢治は『春と修羅』〔自費出版〕の印刷をここに頼んでいます。見えるかな?
拡大しましょう。「まんじゅう屋」の看板がある建物です。「印刷所」が廃業して、戦後は「まんじゅう屋」になり、「まんじゅう屋」も看板を残して今は廃業しています。建物は、ずっと変わっていないようです。100年を超えているんですから、昔の木造建築は、しっかりと造られたんですねえ。
もっとも、「たくさんの輪転機」が入るようなスペースはなさそうです。賢治の筆には誇張がありますね。
タイムレコード 20250726
(1)から - 花巻幼稚園1049 - 1054花巻小学校 - 1113「時鐘」- 1132「吹張町」交差点。