【前回】⇒ 試される民主主義(25)

 

ジャン=ポール・サルトル嘔吐』1938年。

 

 

 

 

 

【前回】⇒ 試される民主主義(25)

 

 

 

 

【49】 「制約された民主主義」

――戦後憲政秩序とヨーロッパ統合

 

 

 戦後ヨーロッパの新しい「立憲主義」体制は、選挙によらない “非民主的” 権力機関によって国民主権を抑制し、ファシズムと権威主義への堕落を防ごうとする点に特徴がありました。同時期に西ヨーロッパで進められた「ヨーロッパ統合」もまた、このような「新しい[憲法精神]に十分に適っ」たものでした。それは、個別主権国家の人民主権・「に対する不信を内蔵して」おり、加盟国は、国内の行政機関にたいしてさまざまな監督制度を設けて監督するとともに、ヨーロッパ共同体のような「超国家 スープラナショナル 機関」に権力を与えて「自由民主主義的合意を[固定 ロック・イン]し、権威主義への堕落を防」いだのです。

 

 「欧州司法裁判所」は、「1963年と 64年の画期的判決で、ヨーロッパ共同体(EC)法が国内法に優位すること、加盟国に直接効力を及ぼす〔EC法は、加盟国の法律が無くとも、直接に国内適用される〕こと」を確定させた。「これによって、」EC加盟国の市民個人は、EC法の適用を主張して自/他の加盟国の裁判所に訴え出ることができ、「その判決を」当該「加盟国に強制できることになった。」

 

 このことは、……「ヨーロッパ」とは、「選挙による民主主義」に対する「一連の制限を意味する」外枠だ……という考え方を強めた。「欧州司法裁判所」は、「[加盟国は、限られた分野」で「自身の主権を制限し、〔…〕国民と自身とを拘束する」、そういう「法団体〔つまり EC〕を創設したのである]と自信をもって宣言した。

 

 さらに「欧州司法裁判所」の 1969年の判決では、基本的人権は「共同体法の一般原則に含まれて」おり、ある権利が「原条約〔EC設立条約〕に言及されていない場合でも、欧州司法裁判所の手で守られる」と判示された。この、「基本的人権」に関する「欧州司法裁判所」の権力優位の確立は、「ドイツイタリアの憲法裁判所が」、「戦う民主主義」などの自国憲法の規定によって「ヨーロッパ法に対抗する〔…〕恐れ」に対処するため「促進されたものであった。」

 

 つまり例えば、ドイツの憲法裁が全体主義政党の結社の自由を侵害した場合、欧州司法裁判所によってその判決が覆される余地があることとなったのです。こうして「欧州司法裁判所は〔…〕並外れた法的権力」の「地位によじ登った。〔…〕そして、各国の裁判所と政府は、おおすじにおいて欧州司法裁判所の権力を受け入れた」のです。(pp.44-45.)

 

 

 

【50】 「制約された民主主義」の幻滅

――「民主主義の空洞化」か?

 

 

『戦後の憲政秩序の中核は、無制約の議会優位という考え方がイギリス以外では正統性を失った〔…〕点にある。議会弱体化の裏面は行政権の強化であり、それが極端なまでに進んだド・ゴール治下のフランスの国民議会は、西側で最も弱い立法府となった。民主主義の正当化は、各自の見解〔いわゆる「民意」――ギトン註〕が効果的に議会に代表されることよりも、責任ある政治エリート選挙を通じて定期的に交代することを保障する点におかれるようになった。

 

 

ジョルジュ・ルオー 『ホモ・ホミニ・ルプス(人は人にとりて狼なり)』 

1944-1948年。 ポンピドゥー・センター、パリ。 ©Centre Pompidou.

 

 

 これは、ヨーゼフ・シュムペーター〔…〕が、世紀中葉に唱えた民主主義の解釈そのものであった。〔…〕シュムペーターは、ウェーバーと同様に・一貫した人民の意志など存在しないと考えていたし・普通の人びとにとって政治参加は意味がないと考え『ていた。しかし他方でウェーバーとは異なり・公的領域に特別の』意義を『認めなかった。投票をめぐるエリートの競争は望ましい。しかし、それ以外の民主主義イデオロギーは、経済から独立した』政治領域へのウェーバーの「価値創造」の期待『も含めて、幻想でしかない。戦後の思想家の多くが同様の想定を〔ギトン註――シュムペーターと〕共有していた。たとえば〔ギトン註――イギリス〕労働党の指導的知識人〔…〕クロスランド〔…〕述べている。「あらゆる経験に照らして、参加を望むのは人口のごく少数のみである」。大部分はつねに「家庭生活の満喫と庭の手入れのほうが好きなのだ」と。』


 政治領域の意義〔政治が創り出すべき意義〕および『政治を通じて達成される人格的実現への期待』が失われる『とともに、集団的自由の場としての公共圏の感覚も失われてしまう。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.45-46. .  

 

 

 たしかに、戦後の “西側” では、国民が進んで自らを「総動員」するファシズム体制や、人民の熱狂的集団活動だけを民主政治と認める「人民民主主義」への嫌悪から、人びとを政治(公共圏)の圏外に安住させてくれる・安定した生活を保証してくれるエリート政治が、歓迎されました。それこそが、ナチズムにも共産主義にも陥らないための要諦だとさえ信じられていた。

 

 しかし、ハンナ・アーレントら、ナチズムの脅威をかいくぐってきた人びとは、そこに疑問を呈したのです。大衆政治という「公共圏」が失われ、人びとが・みずから自由を克ち取るという意味での自由の感覚をなくしてしまうことは、まさに、全体主義への道にほかならないではないか。アーレントは主張します:

 


 戦後『ヨーロッパの自由主義者は、個人生活が干渉を受けない「消極的自由」を強調した。おそらくそれが、〔…〕集団的自己決定と〔…〕理解される「積極的自由」・の〔…〕名のもとに全体主義の悪夢が生じる〔…〕事態・を防ぐ唯一の道だったのだろう。

 

 しかし、〔…〕このような制限的自由主義は、実際には「大衆人」の孤独を強め、逆に全体主義への回帰を容易にする〔…〕。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.46. .  

 

 

 その一方で、アーレントとは逆に、国家による規制からの「消極的自由」を・より強く主張する側からの、戦後政治に対する批判も現れました。ハイエクら・いわば「古典的自由主義」者は、個人生活に安住したい人びとに「安定を約束」する「合意の政治」は、「福祉国家」という名の行政権肥大によって「全体主義が復活する」道を開くにちがいない、と考えたのです。

 

 

ハンナ・アーレント、1933年。 ©Wikimedia.

 

 

 

【51】 中間考察 ―― 歴史的与件:3つの大枠

 

 

  戦後のヨーロッパは、「自然法」と「基本的人権」に明示された「価値」を掲げる「制限された民主主義」のもとで、じっさいの政治過程は老練なエリート政治家たちに委ねられ、彼らの支持する「官僚制」行政国家が「安定」と個人の「消極的自由」を標榜しつつ、「福祉国家」の名のもとに事実上の統合支配を強化してきました。それは、かつてウェーバーが「鋼鉄の容器」に入れられた「魂の抜け殻」と表現した未来人の姿であるとも言えました。

 

 ハイエクの「自由主義」は、これに対抗して終戦当初から信奉者を増やしてきました。その後「1968年」を中心に噴出した「異議申し立て」の数々もまた、明らかにこの「安定」にたいするアンチテーゼの顕在化でした。その中心として登場するのは、ミシェル・フーコーらです。

 

 ところで、このような数十年単位の政治史の枠に対して、より長期的な枠組みを考えてみることができます。その一つは、ウォーラーステインが帰納的に提示した 「世界資本主義」ないし「近代世界システム」という 500年単位の枠組みで、それは、国家間政治システムとしての「主権国家システム」を伴なっています。

 

 しかし、東アジアに住む私たちは、現在ではこれに加えて、さらに長期的な枠組みを意識せざるをえません。 中国を中心とする「冊封体制」ないし「帝国/周辺」システムが、それです。 が「システム」の転換期に近づいて(すでに達して)きたために、これまでは  の植民地支配や「先進/途上国」関係に覆い隠されてきた  の枠組みが、国際関係を中心に意識されるようになってきているのです。

 

  の枠組み――本書でのミュラーの叙述――からも見えるように、こんにち「主権国家」というシステムは曲がり角に立っています。ヨーロッパ地域では、比較的早くから「国家間統合」を意識的に進めてきました。アジアには「国家間統合」を意識したものはありませんが、「ASEAN」は、その基礎になりうるとも言われています。

 

 しかし、 のような伝統的な国家関係システムは、それについて無意識でいればいるほど、人びとの心性を不幸なほうへ導いてしまう恐れがあります。「中心」にいる人びとは、政府とは無関係な「ただの人」であっても、‥むしろそうであるほど、周辺(外敵)からの攻撃〔仮想であっても〕に敏感になりやすい。その結果は‥‥言うまでもないでしょう。逆に、「周辺」の人びとは、「中心」の人びとによる専断への危惧と、「周辺」どうしの角逐のために〔これらもしばしば仮想〕、盲目になりやすいのです。それぞれについて、誇張した宣伝を大衆に流布して利益を得ようとする人びと〔政府とは限らない〕がいます。


 このような危険な状況のなかで、とくに日本に関していえば、今もっとも危険なのは「自国中心主義」に固執することと思われます。福澤諭吉,伊藤博文,渋沢栄一,石原莞爾,‥‥これらの人物に関する《内外の》最近の論調をふりかえってみる必要があります。逆に、朝鮮、ベトナム、あるいはモンゴル、チベット、それぞれの国のカウンター・パートに関して、――私たちは何を知っているのでしょう?――どんなことが、各国で主張されているか。

 

 おそらく、中国よりも、他の「周辺国」の事情が重要です。なぜなら、どの国の人びとも、「中華中心主義」と「自国中心主義」のはざまで、同じ矛盾に直面し、しかしそれぞれ別様に対処してきたはずだからです。

 

 私たちは、いまほど視野を近隣に広げることが必要な時はないのです。

 

 

独立門 韓国、ソウル。1897年、徐載弼と「独立協会」の主導により、

それまで中国の使臣を出迎えていた「迎恩門」を取り壊し、

パリの凱旋門をモデルにして建てられた。 ©韓国観光公社.

 

 

 

【52】 ハイエク ――

「計画経済」は全体主義をもたらす、か?

 


ウィトゲンシュタインの遠い従兄であるフリードリヒ・フォン・ハイエクは、〔…〕世紀の知的諸潮流の実験室だった〔…〕ウィーンで育った。〔…〕1931年にオーストリアを去り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に最初の外国人研究者として赴任した。イギリスでハイエクは、ケインズを直接攻撃する論文を書いて〔…〕名を挙げた。しかし、〔…〕激しい意見交換も、2人の〔…〕敬意をもった個人的関係を害することはなかったようである。〔…〕

 

 ハイエクは大衆的な政治パンフレットにまで手を広げ、1944年には〔…〕『隷従への道』が刊行された。〔…〕ハイエクは、福祉国家の形成は必然的に全体主義への道をたどると言明した。もし〔…〕イギリスで社会主義政権が選出されるようなことがあれば、ナチは戦争で負けても理念〔…〕で勝利することになるだろう。社会主義は〔…〕必然的に、計画を担う中央の権威を樹立する〔…〕。そうした権威には、実践と精神の両面で問題がある。〔…〕

 

 社会主義は、近代社会が・広汎に分散した知識の利用の上に成り立っている点を見逃している。〔…〕われわれが資源を大がかりに利用できるのは、もっぱら何百万もの人びとの知識〔科学技術の知識だけでなく、どこで何がどれだけ生産され消費されているか、といった具体的な身の回りの知識――ギトン註〕〔ギトン註――市場システムによって無意識のうちに〕利用しているからだ〔…〕、中央の権威がこの知識を統率する〔できる――ギトン註〕という社会主義の想定が正しくないことは明らかであろう。〔…〕社会主義は、〔…〕拡大された社会〔近代の市場社会――ギトン註〕を可能にしているものに反対しているのである。利潤は、われわれの知らない人びとに奉仕するために何をする必要があるかを示す指標である。利潤を追求することによって、われわれは可能な限りで利他的になっているのだ。なぜならわれわれは、個人的に認知できる範囲を越えた人びとにまで、われわれの関心を広げているのだから

 

 〔…〕中央の権威は、財の配分をつねに寛大に行なえるわけではない。優先順位と価値の選択を迫られ、結局、市民の自発的な活動調整に代えて、良い生活のたった一つのヴィジョンを上から社会に押しつけることになる〔…〕全体主義にならぬ社会主義はありえないのだ。

 

 ハイエクは、〔…〕国家の役割は・一般的で予測可能な法の枠組みを作るだけでよいと主張し、ときには・すべての市民向けの一律最低所得ベーシック・インカム――ギトン註〕まで要求した。〔…〕

 

 

ハイエク『隷従への道』1944年。

 

 

 イギリスの左派社会理論家R・H・トーニーハイエクの仕事に敬意を表した。〔…〕「彼の誠意と能力には疑いの余地はない」。しかし、〔…〕「経済と政治のあいだの未解決の領野」に「すべてがかかっている」〔…〕。計画は「議会や公教育などと同じように、単純な範疇のものではない〔いまだ、よりよいものをめざして試行錯誤の途上にある制度である――ギトン註〕。計画の成果は、それに貼られた名札で決まるのではなく、それが仕える諸目的、目的実現のための諸方策、』および『両者の選択を定める精神によって決まるのだ」。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.47-50. .

  

 

 『隷従への道』はベスト・セラーとなり、勢いを得たハイエクは、同信の知識人たち――「思想の中古商」――を糾合して世論指導の組織「モンペルラン協会」を創立しました。

 

 が、けっきょくのところ「ハイエクとその信奉者の十字軍活動は、イギリスでもアメリカでもあまり成功しなかった。」1945年の総選挙でウィンストン・チャーチルは、『隷従への道』にインスピレーションを得た選挙演説で評判を得た〔少なくとも新聞紙上では悪い評判だった〕が、その選挙で保守党は大敗し、政権を取った労働党は、ハイエクの警告に逆らって国有化と計画への道を進んだ。「協会」の初会合は、どんな「自由主義ユートピア」をめざすかで紛糾し、「ある者は自由放任を論じ、ある者はキリスト教の再生が最も重要と」主張し、「協会」の名前さえ「アクトン=トクヴィル協会」か「ペリクレス協会」かでまとまらず、開催地の地名をつけてお茶を濁す始末だった。ただひとつ成功したのは財政だった。ハイエクにはアメリカの種々の財団から寄付が集まり、イギリスの富豪の援助でシンク・タンクも設立された。

 



The End of the Road to Serfdom...  Party’s over, pleb. ⓒpluralistic.net.

 

 

 英米と対照的に「経済的自由主義のルネサンスがつづいた唯一つの国はドイツだった。」もっとも、その西ドイツでも、マクス・ウェーバーの流れを汲む「社会哲学者たち」を中心に根強い批判があった。批判者によれば、ハイエクは 18世紀の市場万能の経済学モデルから一歩も出ていない。現代の「市場」には、独占資本などの競争阻害要因が厳然と存在することが無視されている。「市場の優位性を信じた点で」古い自由主義は「誤っていたが」、ハイエクはその誤りを引き継いでいる。現代では、「国家は市場をしっかりと規制しなければならず、とりわけ独占を禁止し、市場の競争を保証、場合によっては指導しなければならない」。

 

 西ドイツの批判者、たとえばリュストウは、「自由主義的介入主義」を唱えた。リュストウは、「小農のような独立財産所有者」で構成される経済を理想と考えた。もちろん、18世紀のような「小所有者の経済に戻ることはありえない以上、」政府が「自立的な経済行為者を支援する新しい方法を考え出さなくてはならない。そこでは市場も自然では」ありえないのであって、「国家の手で」市場の機能を「保証し」、自由競争にたいする「障害を取り除かなくてはならない。」そもそも、市場に参与する小生産者・自立的小所有者を「国家の手で創らなくてはならないのである。」

 

 この・「小生産者・自立的小所有者」を政府が育成するという考え方は、ドイツの伝統的な「権威主義的国家観」のもとで、政府は「大衆」に「自由経済秩序の美徳を身につけさせる一種の民衆教育に従事す」べきであるという提言に発展した。当時、ドイツではこれを「新自由主義」と呼んだ。「それは、のちの新自由主義〔…〕よりもずっと[社会的]であった。」それは「社会創出政策 ゲゼルシャフツ・ポリティーク」とも呼ばれ、「国家自由のために社会を形成すべきだという考え方が含まれていた。」他方、「社会的市場経済」という表現も唱えられ、「財産を所有する労働者、および、国家の設定した正しい枠組みの中で競争する経営者、という理想に訴えかけ」た。「これは、自由主義者とカトリックが合意できる妥協の定式」となり、「ドイツキリスト教民主主義」が政治勢力としてまとまる上でも寄与した。

 

 ハイエクは、当然のことながら・これらの介入主義的な考え方を、決して受け入れなかった。「ハイエクは、戦後の福祉・行政国家の勝利とともにますますドン・キホーテ的に見えるようになった思想に固執しつづけた。」(pp.50-53.)

 


 

 

 

 

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