アルフォンス・ツァイライス 『レングスタールの険しい森の小径』1949年。
Alfons Zeileis, Steiler Waldpfad im Längstal, Aquarell. ©Wikimedia.
【41】 「人民民主主義」―― 水で割ったスターリニズム
『鉄のカーテンの向う側では、当初「人民民主主義」と呼ばれ〔…〕た・急進性を失ったレーニン主義がつづいた。大量テロや戦時共産主義といった緊急手段を控えはしたが、社会主義的人民を造り、共産主義のコミューン国家へと彼ら人民を導く資格を唯一前衛党がも』つ『国々である。そこで一貫して主張された民主化は、複数政党制を意味するものではなく、単一の政治的プロジェクトへの積極的参加か、せいぜい人民と党=国家とのあいだの溝の縮小を指していた。
「人民民主主義」も「社会主義的民主主義」も〔…〕新しいものではなかった。スターリン主義が最初の雛形を用意していたからである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.9-10. .
「前衛党」が総力をあげてお膳立てしたデモ行進,パレード,圧倒的多人数の集会と熱烈な討論に、大衆は「積極的参加」を求められ集団の力で洗脳される、それは事実上の強制動員であり、ソ連の「スターリン主義」体制と同じものでした。人民の「民主主義」と呼ばれたのは、大衆が心から進んで「強制動員」に参加する・そのような体制でした。
このことを、前節で見た “西側” の体制と比較すると、「キリスト教民主主義」がなぜ “西側” で支持を得たのかがわかります。「キリスト教民主主義」は、決して参加を強制しなかったのです。それは、「退屈」なほど生ぬるいかわり、市民が政治に疲れた、嫌気がさした、と思った時には無関心になることを許容したのです。いやむしろ、無関心を歓迎した。大衆が、熱烈に体制を支持するよりも、老練な政治家に任せてくれるほうが、“西側” の体制にとっては好都合だったからです。もちろん、大衆にとってもそのほうがラクだった。
それでは、「人民民主主義」は、ソ連の共産主義体制とどこか違う点があったのか?
戦後、ソ連赤軍が占領した諸国で施行された当初の「人民民主主義」は、㋐「各国独自の社会主義への道」を模索する面と、㋑「すべての国がソ連のモデルに近づ」いて行か「なければならない」とする面とを、併せ持っていました。たしかに、「社会主義化」はソ連軍の侵略と武力占領によるものでしたが、各国内ではそれを「喜んで迎えた」人びとも多かった。「1945年に中・東欧の多くの人びとは、」戦間期のファシズム体制、「伝統的権威主義」体制、「西側の資本主義体制」、いずれも「決定的に失敗したと感じていた」からです。
「人民民主主義」をモデルとした諸政府は、「土地財産の没収を実行し、ドイツ人マイノリティの追放を通じて均質の国民国家を樹立していた。スターリンは」㋐ が強まることを警戒しつつ、㋑ の方向へ推進し、じっさいに各国の「追従者」を通じて「脅迫と選挙操作によって」それを実現していきました。1945年に中・東欧で成人を迎えた世代は、「熱烈なスターリン主義者になった」。彼らは、「ヒトラーの[新ヨーロッパ]のもとで[人間以下]」に扱われた「恐怖に深く刻印されていた。」(pp.59-60,29.)
チェスラフ・ズナミエロフスキ『緑色の湖』1955年。Czeslaw Znamierowski,
The Green Lake, Tamoikin Art Fund collection. ©Wikimedia.
『スターリンのソ連同様、中・東欧の政治体制も、民主主義的な諸価値のカタログを利用した。名目上独立した諸政党や労働組合が社会主義に向けて協働する「人民戦線」というものが叫ばれ、唯一本物の民主主義として永続的な大衆参加が呼び求められた。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.61. .
たとえば「1949年のハンガリー」の選挙では、「600万の有権者を動員するために 20万人の煽動者が全国に派遣された。」そんなことをしなくとも「選挙結果は初めからわかっていた」が、圧倒的大衆が熱烈に党の候補を支持するという「民主的参加のお芝居」を何が何でも成功させようとしたのだ。それをもって、「人民民主主義」は「西側の体制」よりも優れていることを示し、大衆を社会主義の正統性に酔わせなければならなかったからだ。ルカーチ・ジェルジュは、1946年にジュネーヴで開かれた「西側」知識人との会合で、↓こう述べている:
『真の争点は、民主主義が形式上法的および政治的なものにとどまる〔西側の体制――ギトン註〕か、それとも、人民の真の生活形式になるか、という問題をめぐるものである。〔…〕わたしの見るところ、大衆とのイデオロギー的、政治的一体化だけが、新しいヨーロッパを創り出すことができるのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.61-62. .
ルカーチの言う「大衆との一体化」とは、正しく言い直せば、「大衆の、党への強制的一体化」です。なぜなら、「大衆」というものは、外から強制力を加えないかぎり、決して「一体」でも一様でもないからです。
スターリンのタヒ後、1956年からフルシチョフ〔ソ連共産党第1書記:1953-64〕によって行なわれた「スターリン批判」も、この「大衆の一体化」を改めるどころか、むしろその不十分さを責めたのです。フルシチョフのスターリンに対する非難は、じっさいのところ、「党生活の規律を無視し」「集団指導というレーニン主義の原則を踏みにじった」点にのみ向けられたからです。彼は、大衆の上に「英雄」を立てる個人崇拝を批判し、「レーニン主義政党の役割およびその[大衆との不可分な一体性]を称揚した」のです。(p.62.)
【42】 キリスト教と「民主主義」の永い反目
――「キリスト教民主主義」の誕生まで
「キリスト教民主主義」は、20世紀半ばにカトリック思想の歴史にも、「カトリック教会の歴史にも」そして「ヨーロッパ史」全体にも大きな転換をもたらしました。それをひとことで言えば、近代初頭以来、反民主主義と「反革命の伝統」を担ってきたキリスト教とりわけカトリックが、史上初めて「民主主義」と結合したからです。
カトリックは「宗教改革」に反対し、「イエズス会」を組織してあらゆる近代思想と進歩の抑圧に努めました。ガリレイらの近代科学を「異端審問」にかけました。英国では、清教徒革命に反対する・王党の最右翼を構成し、フランスではプロテスタント商工業者(ユグノー)の弾圧・追放を推進し、資本主義の発展を「100年以上遅らせた」と言われます。フランス革命以後は、共和制にも立憲王政にも反対し、イタリアで統一王国が民選選挙を始めると、ローマ法王は信徒に投票を禁止しました。こうしてカトリック教会は、内に向かっては厳格なヒエラルヒーで「教権主義」を固め、外に向かっては「文化闘争」を遂行しました。
エドワール・ドゥバ・ポンサン『ある朝のルーヴル宮城門』1880年。Édouard
Debat-Ponsan, Un matin devant la porte du Louvre. Musée d'Art Roger-Quilliot.
1572年「サンバルテルミの虐刹」のあと、ユグノー刹戮の跡を視察する
母后カトリーヌ・ド・メディシス。 ©Wikimedia.
しかし、19世紀末になると、カトリック教会は、「自由主義的で反教権的な」諸政府に対抗するために、所有権などの市民的権利の擁護を認める一方、「社会主義」の脅威に対抗して「社会問題への独自の解決法を提示」すべく、政治・社会問題にコミットするようになります。
1891年、教皇レオⅢ世の回勅「レールム・ノヴァールム〔新事態〕」は、「のちに[社会的カトリシズム]と呼ばれる方向を打ち出し、「大衆の窮状を緩和」することに努力する、そのための[最も基本的な原理は私有財産の不可侵である]と宣言します。この宣言は、「国家に対する原則的な不信」と「市民社会、つまり家族と自発的結社の決定的重要性を強調した。」そして、[資本は労働なしではやっていけないし、労働は資本なしではやっていけない]とし、[国家において、政治体のバランスを保つように、2つの階級が調和と合意のもとに暮らすことが、自然によって定められ]た理想の秩序であるとしました。
このようなカトリックの新しい政治・社会観は、大戦間期にファシスト国家,「伝統的権威主義」国家によって採用される・「コーポラティズム」を予想させるものでした。
しかし、この段階ではカトリック教会はなお、政治的「民主主義」を正面から認めたわけではありませんでした。1881年の回勅では、人民主権を明確に否定し、[政治権力を人民の意志に依拠させることは第一に誤りであり、〔…〕権威を、脆弱で矛盾した基礎に据えることになる]と批判しています。「労働者の環境を改善することと、彼ら」に「政治的決定を行なわせること」とはまったく別だったのです。また、教会は「政党政治」を否定し、「カトリック政党」をも「疑いの眼で見ていた。」自らが唯一の真理であるという「普遍主義を志向する」カトリック教会は、意見の違う多数の政党を認める「多元主義」になじまなかったし、「いわんや単なる利益集団」としての政党活動を認めることはできなかったのです。
「第1次世界大戦とその余波が分水嶺となった。」教皇ベネディクトXV世は、イタリア信徒に課されていた政治参加禁止を解いた。こうしてイタリアでも、キリスト教民主主義政党「イタリア人民党」が初めて結成された。しかし、第2次大戦期は、「ヨーロッパの多くの国の」キリスト教政党にとって受難の時代となった。「とくにイタリアとドイツではそうだった。」ファシズム政権は、最終的には教皇庁と組んで諸政党の弾圧に踏み切ったのだった。
他方、フランスを中心に、カトリック思想では「実りある成果が見られた。」エマニュエル・ムーニエらの「人格主義」運動は、「共産主義」をも「自由主義的個人主義」をも非難し、それらは「物質主義の双子」だとした。しかし、なかでも「自由主義的個人主義」は、「腐敗した議会主義」という「確立された無秩序」に責任があるとして、いっそう強く批判した。ムーニエは、それらに「代わるものとして〔…〕カトリックと穏和な社会主義を結びつけようと試みた。孤立した[個人]とは異なり、[人格]はつねに共同体の中で実現される。またそれは、この世の政治が吸収できない精神的な次元を保持している。」そして、「人格主義」が実践において要求したのは、集団生活の開花と「決定過程の分権化」であった。
「決定過程の分権化」という主張は、1931年の教皇ピウスⅪ世の回勅にも見られる。「この回勅は、明示的に共産主義と市場自由主義とに反対」し、「より小さな下位の共同体でできることを、大きな上位の共同体に割り振るのは、不正義である。」と断じた。
クララ・フォーゲデス『パーダボルン、再建されたリボリウス大聖堂』1946年。
Clara Vogedes, Paderborn, Der wiedererrichtete Dom zum Liborifest,
Paderborn, La cathédrale reconstruite. ©arthistoryproject.com.
【43】 ジャック・マリタン ――
自由・人権・民主主義に開かれたカトリック
しかしながら、その一方で第2次世界大戦は、カトリシズムの革新に大きな役割を果たした。ファシズムを打ち倒した戦争の衝撃は、「西欧で永く続いた反革命の伝統に〔…〕とどめを刺」すこととなったからである。「反革命の発祥の地フランスで、それが最も鮮明に現れた。」「ヴィシー政権」は、ドイツ軍による占領に協力することで、国民の大多数の抵抗 レジスタンス を受けて没落し、それといっしょに「王党派と宗教右翼運動の夢が〔…〕博してきた信用も失わ」れてしまった。
キリスト教にとって、第2次大戦の経験による最も大きな変化は、「近代世界」の諸価値――自由,人権,民主主義,人民主権――にたいする・聖職者や教権勢力に残っていた疑いや嫌悪が消え、キリスト教民主主義者たちは何の遠慮もなく仕事ができるようになったことである。「キリスト教民主主義者が本当に民主主義者になったのだ。〔…〕キリスト教民主主義者はさらに人権を、カトリック固有の世界観に不可欠なものとして受け入れた。」こうして融和が成立してみれば、近代的な諸価値は、カトリック思想とも聖書とも矛盾しないどころか、本来キリスト教が必要とする根本的概念の一部であることが判明したようにさえ思われた。「この展開は、フランスの哲学者ジャック・マリタンの役割を抜きにしては〔…〕理解できない」。
ジャック・マリタンの思想遍歴は、前節で見たカトリシズムの歴史をなぞったかのようです。① マリタン家は著名な共和派〔フランスの共和派は基本的にナポレオンびいき〕の家系で、ジャックも少年時にはドレフュース大佐を支持してユダヤ人差別に反対しています。が、② ソルボンヌ在学中にかなり右派的なカトリシズムに出会って生涯の信念とし、「アクション・フランセーズ」〔王党派ナショナリズム〕に接近します。
③ その後、右派からは離れますが、「依然として、近代世界にはきわめて批判的であり、とりわけプロテスタンティズムと自由主義にたいして厳しかった。」そこで、ムーニエのカトリック「人格主義」が、今の彼には「ぴったりだった。」前節で見たように、「人格主義」は、共産主義と個人主義的自由主義の双方を批判し、「[人格]は共同体の中でのみ実現される」と考えます。そういう「人格主義」の社会観は「温和な社会主義」であり、政治的決定過程の「分権化」を志向します。つまり、レーニンのような社会主義国家への集権を斥けつつ、共同体的な集団生活を理想としたのです。
④ しかし、折から勃発した「スペイン内戦」〔1936-39年〕がマリタンの方向を決定しました。フランスからも多くの左翼の若者が「人民戦線政府」側に参加し、カトリック右派の多くはフランコ将軍の「十字軍」〔右派の反乱軍〕を支援したなかで、マリタンは「十字軍」支援を拒否して「民主主義」擁護に進み、独自に「人権および民主主義とカトリックとの哲学的宥和という課題に」取り組んだのです。この方向決定には、「共和派」の家庭で育まれた基質が影響していたのかもしれません。
スペイン内戦。フランコ将軍を支援するドイツ空軍の爆撃で破壊された
ゲルニカ。1937年4月26日。 Bundesarchiv, Bild 183-H25224. ©Wikimedia.
⑤「1930年代半ば、アメリカとカナダの大学」から招聘されてしばしば講義に赴きますが、大戦勃発〔1939年〕を迎えると、マリタンは新大陸にとどまる決意をします。東海岸の大学で教えながら、マリタンは、「民主主義とキリスト教との間にある内的連関」を強調するようになります。1942年に書いたパンフレット『キリスト教と民主主義』は、「連合軍の飛行機でフランスの空からばら撒かれた。その中で彼は、[民主主義はキリスト教とつながっており、民主主義の衝動は、福音の霊感の道徳的表明として人類の歴史に初めて現れた]と主張した。」『新約聖書』の福音書に書かれているイエスの言葉こそが、人びとを民主主義に動かした最初の火種だった、というのです。
マリタンは、『「民主主義こそ、政治の道徳的合理化をもたらす唯一の道である」と宣言した。なぜなら、民主主義は、法に基づく自由の合理的組織化を意味するからである。さらにもっと強い調子で、「民主主義は、脆弱な器に人間のこの世の希望を、もっと言えば生物学的希望を入れて運んでいる」と言明したのだった。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,p.22. .
しかし、マリタンによるカトリシズムの「現代化」は、「19世紀末以来」の「カトリック政治思想の根幹〔…〕を消滅させるものではなかった。彼は、国家に懐疑的であり、とりわけ主権の概念に批判的だった。人民主権概念の創始者とされるルソーだけでなく、」主権国家の創設に寄与したルターも非難された。
マリタンは、こう論じた:[政治哲学は主権を言葉としても概念としても除去しなければならない。〔…〕主権の概念〔…〕は本質的に誤っており、〔…〕国際法の世界に〔…〕克服しがたい困難と理論的紛糾を〔…〕作り出すからである。]それというのも、「[主権]は分離と超越を意味」する。しかし、「国王も人民も、政体から適正に分離することはできない」からだ。神のみが「超越」であり「主権者」である。マリタンが「実現〔…〕を願った[神中心の]人間主義とは、[自然にして超自然的な全体存在としての人間]を正当に取り扱おうとするものであ」り、それは、「多元主義的で人格主義的な民主主義のもとで実現する」のであった。すなわち、「人格」の概念は、「神権的」な秩序ではなく、現世的・世俗的な秩序において成立するのであるけれども、それは、神の「超越性にたいして開かれている」のであった。
「マリタンの見解を支えていたのは、〔…〕強度にトマス主義的な自然法概念であった。」それは「究極的には神法に由来」するけれども、神のみには従属しない「人類固有の目的を特定する」。「したがって、マリタンにとって自由とは」、まったくの無制約でも、「欲望への恣意的従属」でもなく、「自由とは〔…〕自然法の与える目的の十分な実現にあった。彼が、労働者の権利や、〔…〕生存権全般の重要性に固執した背景は、ここにあった。そうした権利は、このような・人格の適正な実現に欠かせないものだったからである。」マリタンはまた、「国連の人権宣言作成にあたって中心的役割を果たした」。
「労働者の権利」や「生存権」などの「社会権的人権」は、ふつうの考え方では、個人主義的な人権思想の発展的帰結とされます。しかし、それで十分でしょうか? 個人の「自由」「平等」を最高の価値とする自由主義の原理は、「機会の平等」すなわち「形式的平等」という原則から離れることができません。個人個人の「実質的な不平等」という現実を認めつつも、能力主義を完全に否定してしまうことは困難です。「実質的な不平等」に対する国家の補填を当然の正義として認めてしまうと、それによって「自由」の価値が損なわれるリスクを否定できないからです。
が、それでもなお、社会における「実質的不平等」を緩和し「実質的平等」に近づけることは必要だと考えるならば、そこには「個人」以外の根拠が必要になるのかもしれません。しかも、そこにおいて、「個人の自由」を圧殺するような集団主義的,全体主義的,ないし国家主義的な根拠に逃避するのでないとすれば、マリタンの「人格主義」〔★〕――⇒共同体的扶助?――という宗教サイドからの提案は、深く考えてみる価値があるかもしれません。
人間を「個人(individuum)」としてではなく「人格(person)」として考えると、どうなるのか? それによって、「自由」と「社会的権利」を、両方とも十分に基礎づけうるようになるのだろうか? …いちど熟考してみるべきことかもしれません。(pp.22-23.)
註★「人格主義」: 「近代文明の土台である抽象的個人の観念が、他者から切り離された自己完結的な存在であるのに対して、[人格]の観念は、社会に向って開かれた共同体的性格をもち、超越的なものに対しても開かれている。〔…〕人格主義によってのみ、人間の孤立化と、物質的利害に汚染された文明を救出することができる」〔『岩波哲学思想事典』「ムーニエ」〕。人格主義は、「唯物論・自然科学主義に対しては、主体的人格の[絶えざる自己創出性]を顕揚し、〔…〕サルトルの[自我の不断の超越]に対しては、それが[価値]に向って方向づけられていることを強調する。〔…〕19世紀ブルジョワ思想の[私的個人主義]やアナーキズムの[反公共主義]に対しては、人間人格の[内面性]と[コミュニケーション]にこそ価値創造の根源場があると指摘する」〔同「ペルソナリスム」〕
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