ジャン=ポール・サルトル、1961年。 ©Ida Kar / npg.org.uk.
【39】 戦後政治思想へ ――
アーレント,サルトル,「誤解したままの反省」
『ハンナ・アーレント〔※〕は、〔…〕全体主義の経験がヨーロッパ史における深い断絶をなすこと、過去はもはや現在を照らさないこと、そしてナチが・誰にも不可能と思われたことを試みたため・それを目撃した世界では政治的思考を根本的に再検討する必要が生じたこと、を強調した。〔…〕
アーレントは、大衆の出現が全体主義の前提条件であったという考えを提示した。そのさい大衆は、固有の自己を持たないという意味で、「余計者」で「無個性」という印象によって特徴づけられた。彼女はまた、「大衆的人間の主たる特徴は、野蛮さや後進性ではなく、孤独と、通常の人間関係の欠如である」と主張した。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.4-5. .
註※「ハンナ・アーレント」:Hannah Arendt〔1906-75〕ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者。フッサール,ヤスパースに学ぶ。ナチスの迫害を避けて 1933年フランスに、1941年米国に亡命、UCバークレー等教授。主著『全体主義の起源』〔1951年〕。『エルサレムのアイヒマン』〔1963年〕では「悪の凡庸さ」を強調して世界的論争を巻き起こした。
しかしながら、ヨーロッパの思想界・政治圏一般においては、アーレントのように・自ら迫害を経験して深い洞察を得た人は、むしろ少なかったのです。ファシズムの出現と世界大戦の再発を反省するとは言っても、戦前思想の延長のように「大衆蔑視」に流れる見解が主流でした。「彼らの “時代診断” は」、20世紀の大変動は「[大衆]の興隆に起因しているという〔…〕陳腐な紋切り型のもの」でした。オルテガの『大衆の反逆』がベストセラーを記録していました。「大衆の政治への闖入という不吉な運命のお話は、フランス革命に始まっていたが、どんどん引き延ばされて」、いまや、「大衆」の野蛮さを体現した男たち〔ヒトラーやムッソリーニ〕が第2次世界大戦という・人類の未曽有の不幸を引き起こした、ということになったのです。
つまり、たいへんに皮相的な「野蛮な大衆」元凶論が主流になったので、アーレントの洞察が予想させるような・「人間性」にたいする深い反省は導かれませんでした。そこで、「不幸」を繰り返さない対策としては、「野蛮に対する防波堤として高級文化 ハイ・カルチャー を擁護する風潮」が、さしあたって主流を占めました。「たとえばマイネッケ〔1862-1954:ドイツ史学界の大御所。ワイマル保守派としてナチズム,カール・シュミットを批判した。〕は、ドイツ全域で[ゲーテ共同体]を組織すべきだと考え」た。
とはいえ、「高級文化」を再興して「大衆」を牽制しようという試みは、ほとんど見込みがありませんでした。「伝統的なヒエラルヒーと権威関係の解体は、第2次世界大戦を通じていっそう進んでおり、〔…〕いまでは誰もが[大衆]」であった。「ヨーロッパの旧体制の残滓は最終的にタヒ滅した」。「高級文化」の担い手であった「貴族」という階層が、文化的にも社会的にも、いまや消滅していたのです。
ゲシュタポのユダヤ人移送局長官でアウシュヴィッツへのユダヤ人大量移送に
従事したアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴するハンナ・アーレント。
1961年4月11日、エルサレム。 ©Wikimedia.
こうして、「大衆の野蛮さ」にすべての責任を押しつける方法では、ヨーロッパの文化と政治の未来は開かれないことが明らかになってきました。そこで、むしろ、すべてが破壊されようとした大戦の経験そのもののなかから、戦後の出発点を得ようとする傾向が現れてきました。旧い自由主義と「高級文化」が前提とした「人間性」の既成観念を否定し、「真の白紙状態 タブラ・ラサ」を道徳と政治の出発点とする考え方です。既存の政治体制ではなく「もっと道徳的な政治〔…〕が可能であることを、戦中のヨーロッパの多様な抵抗 レジスタンス 運動における連帯の経験が示したように見えた。」
こうした「戦後 アプレ・ゲール」の思潮のなかで、「最も鮮やか」に「過去との決別を約束し、最も根源的な自由の把え方を強調したのは」サルトル,ボーヴォワールらの「実存主義であった。」(pp.4-6.)
『人間は自分自身をゼロから作り上げることができる。あらかじめ定められた「人間の本質」などはなく、ただ実存だけが存在する。たしかに歴史というもの〔…〕を、ヨーロッパ人は最も恐ろしい形で経験したところだ。』そのような『進歩の確実性が存在しない』世界においてさえも、『自己超越し、新しい種類の行動を自ら選び、状況に倫理的に対決する個人の可能性は存在するのである。〔Simone de Beauvoir, Force.〕
〔…〕実存主義は、文化のスタイルとして途方もない影響力を持った〔…〕。
とはいえ、実存主義は、政党政治の世界への転身には成功しなかった。〔…〕ジャン=ポール・サルトルは短期間だけ、中間層と労働者の一部からなる反政党的政党「民主革命連合(RDR)」に関わった。RDR は、〔…〕西の自由資本主義と東の共産主義の間の中立的な「第三の道」を実存主義者流に探ったのである。レジスタンスから生まれた多くの理想主義的団体と同じように、RDR は 1940年代の終りには挫折した。〔…〕始まりつつあった冷戦の状況のなかでは、両陣営のいずれかを選ぶ以外の道はきわめて困難だったのだ。
〔…〕第1次大戦直後と違って、巨大なストライキの波は発生しなかったし、工場評議会なども生まれなかった。急激な変革をもたらす道具は、30年前より少なかった。公式に革命をめざす〔ギトン註――はずの〕前衛党:とりわけフランスとイタリアの共産党は、〔…〕自由民主主義体制を支持したのである。〔…〕フランス共産党〔…〕は、〔ギトン註――公式には「革命」イデオロギーを変えなかったが〕事実上「秩序の党」としてふるま〔…〕った。〔…〕
安定こそが、戦後西ヨーロッパの政治的想像力の主要な目標、希望の星となった。〔…〕政党指導者たちも、〔…〕過去の全体主義の再現を回避するよう設計された秩序を樹立しようともくろんだ。彼らの見るところ、ヨーロッパは〔…〕無制限の政治的ダイナミズム、制御のきかない大衆、それに、抑制をまったく欠いた政治主体――浄化されたドイツ民族共同体――に振り回されてしまった。それに対抗するため〔ギトン註――戦後の〕西ヨーロッパ人は、人民主権』への不信を強く意識した『――議会主義にさえも懐疑的な――高度に抑制された形の民主主義を作り出したのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.6-8. .
『ヒトラーに抗したキリスト教民主主義者たち――迫害と抵抗から
同盟へ』"Christliche Demokraten gegen Hitler: Aus Verfolgung und
Widerstand zur Union", コンラート・アデナウアー財団編、2004年
【40】 「抑制された民主主義」が安定をもたらす
――「キリスト教民主主義」の勝利
悲惨な帰結に終ったファシズムからのヨーロッパの政治的・政治思想的再建は、いわば「深い反省と自省」なくしては遂げられなかったと言えるでしょう。その意味で、「再生の萌芽」は2つの局地で芽生えていました。ひとつは、アーレントに代表される・被害/被差別体験に基づく尖鋭な洞察であり、もう一つは、実存主義を極とする・レジスタンスの連帯経験によるインスピレーションの共有です。それらは、それぞれに政治的思索と主張を発展させていったとはいえ、一般市民にも、政党政治の領域にも浸透することはありませんでした。ヨーロッパ社会一般においては、戦前からある皮相的な観念――「大衆」の抬頭が政治を野蛮化させたとの――によって混乱を意味づけ、処理しようとしていました。
とはいえ、この「大衆民主主義への警戒」という戦後の共通認識の上で、民主主義体制を回復しようとする方向が “西側” では主流になり、そこにおいて政治党派として中心的位置を占めたのは「キリスト教民主主義」でした。この体制構想は、キリスト教の教義を直接に政治に適用しようとするものではなくとも、間接的に、カトリックの伝統的観念や「自然法」「人権」の観念をふまえて「大衆民主主義」を抑制しようとするものでした。戦後の世界で主流となった民主主義は、この意味での「制約された民主主義」であったのです。
そこで主張された価値は、「人権」にしても、元来の啓蒙主義的な、フランス革命で革命政府が掲げたようなものとはやや異なっていました。ミュラーの言い方でいえば、「再定義」されたものでした。たとえば、革命が覆された後で・革命政府によって追放された貴族たちの被害回復を要求する「戦後補償(Wiedergutmachung)」が、ナチスによる被害に対して適用されました。
このように、戦後 “西側” 体制では、「人権」という主張でも保守的な側面が強調されたのですが、それを「進歩に反する」と決めつけることはできません。むしろ、従来の「自由主義」「民主主義」では光の当たらなかった陰の部分が前面に引き出されてきたわけで、それによってはじめて「民主主義」はより豊かになり・より強くなったと、私は考えたいのです。
なお、同じ戦後の時期〔1945~1970年頃〕に、ソ連を中心とする “東側” では、「人民民主主義」が中心的政治イデオロギーとなりますが、これについては次節で触れることにしたいと思います。
ルイジ・マントヴァーニ『ミラノのコルドゥシオ広場』1945~50年。
Luigi Mantovani, Piazza Cordusio a Milano. ©Wikimedia.
第2次世界大戦後西ヨーロッパの「抑制された民主主義」は、「新しい種類の民主主義であったが、その〔…〕諸制度」は、公式的には「高度に伝統的な道徳的・政治的言辞で〔…〕正当化されたため、新しさはしばしば見逃された。〔…〕宗教的根拠に立つ自然法観念」が、「戦後に重要な復興を経験した。知識人たちは、ファシズム、さらには〔…〕相対主義やニヒリズムに対抗して、正しい政治行動の倫理的基礎を宗教的自然法が提供することを望んだのである。」
戦後ヨーロッパでは、「多様な[第三の道]の探究が見られたにもかかわらず、戦後の時代を新しい何かの始まりとしてではなく、確実に知られた何かへの道徳的回帰」と見るほうに「魅力を感じる人も多かった。しかし、1945年以後に見られたのは、〔…〕19世紀的な意味での[自由主義]の復活で」はなかった。「出現したのは、民主主義と・自由主義的な諸原理との新たなバランス、なかでも立憲主義との新たなバランスと呼ぶのが妥当な体制であった。〔…〕別の言葉で表現すれば、〔…〕新しい・緩和されたウェーバー風の政治が勝利したのである。」つまり、「カリスマ型」の指導者が大衆を導く政治ではなく、「行政型で実際的な政治指導者を中心と」する政治であり、それによって「経済的成功」を追求するだけでなく、「自然法のような倫理的基礎にもとづく政治であった。またそれは、」一箇の体系的・包括的な「自由主義の理想」を追いかけるのではなく、「過去のファシズムと現在の共産主義〔…〕の双方を拒絶することに根ざした諸価値」を共有することで「市民を統合」しようとするものであった。
こうして、「西ヨーロッパに出現した」秩序は、「反全体主義を強く刻印された諸制度と、それに付随する正当化言説から成り立っていた。」(pp.8-10.)
『新たな半自由主義的な諸制度と、〔…〕明らかに非自由主義的な政治言説の組合せ――これこそ 1940年代後半から 50年代にかけて政治思想と政治制度との関係に存在した巨大な逆説であった。この逆説は、大陸の西半分におけるひとつの政治運動の勝利〔…〕で明らかになった。キリスト教民主主義〔という・本来は反自由主義的な保守政治思想――ギトン註〕である。〔…〕
ドイツ,イタリア,ベネルクス諸国,フランスで、実際に戦後の国内秩序の建設、なかでも福祉国家,現代行政国家の建設を、中心になって進めたのは、キリスト教民主主義だったのである。〔ギトン註――制度面で〕指導者たちが政治的革新をめざす一方、〔ギトン註――政治言説では〕知識人たちは大部分伝統的な言説を隠れ蓑にしながら革新を提示することができた。ヨーロッパ史の長い期間のなかで見ると、戦後のキリスト教民主主義は、カトリシズムと近代社会との融和をもたらしたのである。
さらに、キリスト教民主主義は、異なる宗派間の平和(少なくとも休戦)をも達成した。ドイツ〔…〕では、〔…〕宗教改革以来初めてのことであった。〔…〕
シャルル・ヴァルシュ『鳥たち』1947年。Charles Walch, Birds. ©Wikimedia.
退屈さこそが重要だった。キリスト教民主主義は、ほどほどの公共生活を約束し、望まないのであれば・市民が政治から離れることも容認した。多くの市民は、それ以上は望まなかった。
キリスト教民主主義はまた、超国家的なヨーロッパ統合の理念の実現にあたっても、中心的役割を果たした。カトリック教会が以前から国民国家や伝統的主権概念に慎重な姿勢を示してきたことも有効に働いた。もともと恐れていたものを〔…〕放棄することは容易だったのだ。そして、〔…〕国際交渉をすべて老賢者に委ねたのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.10-11. .
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