ネレオ・アンノーヴィ祖国への結婚指輪の供出』1937年。

Nereo Annovi, L'offerta dell'anello nuziale alla Patria, 

Museo Civico Modena. ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【36】 ムッソリーニ ――

ファシズムと、伝統・保守勢力との妥協。

 

 

ムッソリーニは、自らの党の大部分を、残存している限りの伝統的な国家装置に従属させた。彼は国王を国家元首として残し、君主が・ドゥーチェと並ぶ〔…〕カリスマを維持することを許容した。学校では国王とドゥーチェの双方の肖像画が掲げられ、国民はファシスト国歌〔…〕と並んで王国行進曲を歌った。ジェンティーレらによる・イタリア憲法〔※〕を改正してファシスト的要素を挿入〔…〕する試みは、全く成功しなかった。


 純粋にファシスト的〔…〕ポスト議会主義的方向への唯一の抜本的変化は、下院を、選挙に基かない〔…〕職能議会へと変える 1939年の改正だった。〔ギトン註――国民にファシズムの〕教義〔…〕を教え込むことも重要であったけれども、従わせられるかどうか確信が持てない場合には、ファシストたちは伝統的制度をそのまま残し、』ファシストの教義にたいしては『熱狂的な支持というよりは非政治的黙認を要求した。〔…〕ヒムラー〔★〕ドイツ人にただ一つの方向で考えることを望んだのに対し、ファシストの秘密警察は、イタリア人が全く何も考えないほうを好んだ』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.208-210. .  

 註※「イタリア憲法」:当時の「イタリア王国」では、統一〔1861年〕以前のサルデーニャ王国で 1848年に欽定された「アルベルト憲章」が、イタリア王国憲法としてそのまま使われていた。

 註★「ヒムラー」:Heinrich Luitpold Himmler〔1900-45年〕。ナチ党親衛隊(SS)の全国指導者およびナチ政権の全ドイツ警察長官として、人種主義に基づくユダヤ人・政治犯・障碍者・同性愛者等の追放・強制収容・絶滅、ポーランド等占領地域での知識人掃討作戦を実施した。

 

 

 つまり、イタリアにおける「ファシズム」は、ドイツのナチズムや、ソ連の共産主義イデオロギー体制とは異なって、市民全員に対して熱狂的なイデオロギー教育と精神的動員を行なったわけではありませんでした。むしろ一般市民の感覚としては、ファシスト体制は、日常性に覆い隠されており、差し当たって「何も考えない」ようにして黙っていることが要求されたのです。ムッソリーニは、「口数が少なく、身振り手振りも少ない」「パスタを控え目に食べる」「新しいイタリア人」を生み出す必要性を公言していました。(p.208.)

 

 ファシスト体制下のこのような状況は、フェデリコ・フェリーニの映画『アマルコルド〔思い出〕に印象深く描かれています。ムッソリーニ政権時代の少年期を回想するこの映画では、「体制が絶えず市民に対して行なう全体主義的な要求」も存在してはいるものの、その「前景に、それを覆い隠す圧倒的な[正常さ]」が存在して、後景の全体主義を「異常」と思わせず、受け入れるようにさせているのです。そうしたなかで、「国民の内的営みが徐々に形を変えて」全体主義に帰一してゆく感覚があるのです。人びとは、「自分たちの恐怖や欲求を、ドゥーチェに投映させる。」想像のなかでドゥーチェのような英雄が現われ、圧倒的な力で彼らの欲求を実現し、恐怖や悪を倒してゆくのです。

 

 

マリオ・モレッティ・フォッジャ』1940年頃。

Mario Moretti Foggia, Montagna, circa 1940. ©Wikimedia.

 

 

 しかしながら、ムッソリーニジェンティーレが構想したような、「倫理的国家によって市民の内面が再形成され」・指導者の「思想と意志」に完全に同一化するというような全体主義体制は、ついに成立しなかったと言わなければならないでしょう。「1943年、国王とファシスト大評議会がムッソリーニの指導権について考えを変えると、体制はかんたんに崩壊し、〔…〕ドゥーチェは国民に対する掌握をかんたんに失っ」てしまった。「軍隊ですら、〔…〕一晩で立場を変更し」、ムッソリーニから離反した。まるで「18世紀の」傭兵軍隊と異ならなかった。

 

 「振り返ってみると、」ドゥーチェではなく「国王が、正統性の最終的な源泉でありつづけていた」。国王がドゥーチェを支持しなくなると、ファシスト党全体がドゥーチェを信頼しなくなり、「全体主義は終わった」のです。(pp.210-211.)

 

 このようなイタリア・ファシズムの、旧体制に従属した妥協的な脆さは、カトリック教会の伝統が圧倒的に強く、大衆の心性に抜きがたく浸透しているこの国の事情と、無関係ではないと思われます。そして、日本の戦時体制を「ファシズム」と見なす場合にも、それは、圧倒的な全体主義を実現したナチス・ドイツよりも、イタリアムッソリーニ体制に近い・より不徹底な半伝統主義的なものであったように思われるのです。この点では、天皇を象徴的中心とする「神道」宗教は、カトリックにも比すべき大衆心性の強固な基盤を形成していたと言えるでしょう。

 

 

『このように、〔ギトン註――史上〕はじめて「全体主義的」と呼ばれ〔…〕た体制は、「本当の」全体主義をもう一歩で実現するところまで行ったけれども、そのために伝統的エリートにあまりにも多くの妥協をせざるをえなかったのである。


 これらの妥協のうちの一つは、イタリアにおいて最も力のある非国家機関、すなわちカトリック教会とのものであった。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.211. .  

 

 

 

【37】 「安定」を求める伝統的権威主義

 

 

 「1920年代から 30年代にかけてヨーロッパ各地で誕生した右派権威主義政権」は、ムッソリーニ,ヒトラーのファシズム政権とは異なったものでした。すでに指摘してきたように、「ファシズム」は「革新」であり、「下から」の大衆の力を動員し、権威に対する大衆の反抗を利用するものです。しかし、非ファシズム的な「権威主義」体制は、伝統的権威による支配であり、「革新」を防遏 ぼうあつ し、「安定」を優先します。ポルトガルアントニオ・サラザール〔首相:1932-68〕スペインフランシスコ・フランコ将軍〔総統:1936-75〕ポーランドピウスツキ元帥〔国家元首:1918-35〕オーストリアドルフス首相〔在任:1932-34〕ハンガリーホルティ・ミクローシュ〔摂政:1920-44〕ルーマニアの独裁的国王カロルⅡ世〔在位:1930-40〕、ナチス・ドイツの占領下でフランスを支配した「ヴィシー政権」〔摂政:1940-44〕も、サラザール体制をモデルとしており、「伝統的権威主義体制」のひとつだったと言えます。サラザール政権とフランコ政権は、第2次大戦に局外中立を保ち、戦後にまで生き延びています。(pp.212-219.)

 

 日本の戦時体制についても、ファシズムではなく・この「伝統的権威主義」だったとする見解があります。「2・26」などのファシズム志向のクーデタを鎮圧して成立しており、また、ヒロヒト天皇は、どう見てもファシスト的性格の乏しい伝統的支配者だからです。

 

 

アントン・ゲンベリ『ノールランドの冬景色と白樺』1933年。Anton Genberg, 

Norrländskt vinterlandskap med björkar.  ©Wikimedia.

 

 

『第1次世界大戦直後の民主政建設の活気にみちた時期』が過ぎ、『それに続く議会主義の危機を経験した後においては、じっさいのところ独裁以外に選択の余地はほとんどなかった。

 

 これらの権威主義体制のほとんどは、伝統、あるいは〔…〕「キリスト教的国民文化」〔…〕に自らの正統性を求め〔…〕た。もちろんこれらの伝統は、大衆政治の時代における統治に見合うように概ね再解釈されていた。〔…〕ポルトガルのアントニオ・サラザールのような指導者は、自国民を恒久的に動員することには関心をもたなかった。彼らのリーダーシップは〔…〕カリスマに依存していなかった。サラザールのいわゆる新国家 エスタード・ノーヴォ は、この点にかんして最も示唆に富む。〔…〕権威主義政権のなかでは〔…〕最も長く続いた。この体制は、〔ギトン註――一部の軍人による〕古典的な軍事クーデタによって〔…〕生まれたのであって、』ファシスト・イタリアのような大衆的な『準軍事組織による「英雄的」〔…〕進軍によってもたらされたわけではない。サラザール自身は非常に控え目な経済学の教授であり、〔…〕ムッソリーニは自らを神の化身と評』『たが、〔…〕サラザールは意識して慎ましい官吏に見られようと努めた。ムッソリーニはスピードを好み、イタリア一番のパイロットだと自賛したのに対し、サラザール〔…〕飛行機嫌いであった。ムッソリーニの国家がさかんに大衆〔…〕動員を試みたのに比べ、サラザールの新国家は、人民をあるべき場所に据え・そこに留まらせようとした。

 

 サラザールや類似の指導者たちは、社会革命も文化革命も望んでいなかった〔…〕。これらの体制は、とりわけ安定と、よく統制された経済発展の名において正当化されたのである。そこでは、伝統的エリート、とくに大土地所有者の利益は全く手つかずのままにおかれた。安定が最優先されたため、王朝〔…〕に回帰しようとする試みもまったく見られなかった。サラザールは、ポルトガルにおいて君主制を復活させようとしたり、国家と教会の分離を元に戻そうと〔…〕する姿勢〔政教融合体制の復活――ギトン註〕を一切見せなかった。〔…〕

 

 この種の家父長的温情主義 パターナリズム は、極端に制限された多元主義とであれば共存しえたし、〔…〕多元主義的側面によって支えられていた。この多元主義のおかげで、〔…〕いくつかの国では、議会が依然として存在し、選挙が行われ、野党が機能しつづけていたものの、権力そのものは、つねに独裁者か官僚主義的エリート、あるいは〔…〕忠実なひと握りの党員の手中にとどまっていた。ハンガリーでは、〔…〕投票できたのは人口のわずか 30%であった。〔…〕

 

 1934年、サラザールはポスト民主主義者として以下のように語っている:

 

19世紀型の政治体制は概ね崩壊し、〔…〕今後 20年のうちにヨーロッパから立法議会が消え去ってしまうだろう。そのようにわたしは確信している。

 

 〔…〕提示された主要な解決法とは、コーポラティズムであった。〔…〕階級の代わりに職業を中心に据えようとするものであって、〔…〕権威主義版コーポラティズムは、サラザールポルトガルにおいて 1970年代初頭まで生き延びた。〔…〕

 

 

マリオ・モレッティ・フォッジャアンツァスカ谷,イゼッラ村の橋』1942年。

Mario Moretti Foggia, Il ponte di Isella - Valle Anzasca.  ©Wikimedia.

 

 

 ウェーバーによれば、コーポラティズムは議会主義に比べてはるかに不透明であり、それは必然的に国家官僚の権力を増大させることにつながるのであった。

 

 だが、〔…〕コーポラティズムの〔…〕主眼は、代表民主主義につきものの不安定性と対立を〔…〕排除する点にあった。職能団体のメンバーは、古典的自由主義理論が考える・孤立した個人・と同じようには利益を追求せず、〔…〕何よりもまず国家と同一化するはずであった。こうしてコーポラティズムは、安定を最優先するサラザールのような独裁者に、とくに魅力的に感じられたのである。〔…〕


 権威主義的指導者の大半は、道徳的訓戒〔…〕に従事し〔…〕、人民の政治的情熱を駆り立てるようなことはせず、むしろ労働・家族・祖国といった伝統的な価値に回帰しなければならないと訴え、これまでの〔…〕罪の償いのため、現前のいかなる困難にも耐えねばならないとした。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.212-217. .  

 

 

 

【38】 戦後ヨーロッパ ――「アウシュヴィッツ以後に

平和を語ること」は野蛮ではないのか?

 


 このあと、ミュラーは〈上巻〉の最後にヒトラーのナチズムを扱います。しかし、これまで折にふれて述べてきたように、日本の戦時体制は、それを「ファシズム」の一種と見る場合でも、ナチズムよりはムッソリーニイタリア・ファシズムに近いように思われます。そこで、ヒトラーの章は飛ばして〈下巻〉――第2次大戦後――に移りたいと思います。

 

 

『戦後ヨーロッパの再建には、〔…〕歴史上例を見ない課題の数々が立ちはだかることになった。何よりも、物理的な再建が重要だったが、課題は道徳的・象徴的なものにも及んだ。集団的な暴力と残虐行為の』否定的『意味は、ヨーロッパ大陸の政治思想家によって』戦後『早くから議論されていた。1930年代末から 40年代末にかけて〔戦後の捕虜抑留を含む――ギトン註〕、「それまでの人類史上で刹された数以上の人びとが刹害された」のである。〔…〕


 〔ギトン註――第1次大戦のような〕塹壕の英雄伝説は生まれなかったし、〔…〕レマルクに匹敵する批判文学も現れなかった。〔…〕死は、〔…〕「ただ問いと見なされたし〔※〕、もはや意味を与えるものとしてではなく、ただ意味を叫び求めるものとして理解された」のである。』

ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 下』,2019,岩波書店,pp.3-4.  

 註※「ただ問いと見なされた」: 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉は、そのような意味に解することもできる。どんなに問いかけても意味を返しては来ない〈屍体の山〉を前に象徴的感慨に浸ることは、「野蛮」な行為ではないだろうか?

 

 

パーヴェル・ゲロンティエヴィチ・ヤクボフスキィ『雷雨の中の日没,ノヴォ

シビルスク』1944年。Pavel Gerontievich Yakubovsky,  П. Г. Якубовский,

  Закат в грозу. Новосибирск. Музей П. Г. Якубовского. ©Wikimedia.

 

 

 第2次大戦後の国際政治の過程をも、また政治思想の動向をも、濃く彩ったのは、ドイツ・ナチ党を頂点とする「ファシズム」を人類は――ヨーロッパは?――払拭しなければならない、二度と繰り返してはならないという思いでした。それは、大戦終結直後と 1960年代後半の2度にわたって波動のように襲ってきました。「ホロコースト」をはじめとするナチズム体制のほんとうの深奥は、終戦後ただちには、正面から把えられるに至らなかったからです。ひとは、同時代の “真実” を理解するには――たとえ収容所のタヒ体の山を目の前に突きつけられても――時間がかかるものです。

 

 「ファシズムを払拭し、繰り返さないために」―― ルーズヴェルト,チャーチルスターリンは、大戦中から大西洋の船の上で話し合っていました。昨日の敵は、今日の友で、“共通の敵” がすっかり消え失せたと知った明日には、また敵となるのですが、‥‥戦後の国際政治の「安定」をもたらした第1のものは、この復活した敵対関係――「冷戦」――でした。「安定」の第2の勲功が帰せられるべきは、「核兵器」の存在でした。「冷戦」と「核兵器」こそは、「戦後」ヨーロッパ世界に《平和と安定》を、非ヨーロッパに《恐怖と隷属》をもたらしたのです。

 

 「冷戦と核兵器」を握ったヨーロッパ政治の舞台で、主役に躍り出たのは、古い自由主義でも、大衆民主主義でもなく、「キリスト教民主主義」でした。

 

 「大衆民主主義」は、いつファシズムに変身するか解らないものとして猜疑の眼を向けられました。かといって、もはや「民主主義」を棄てることも、「大衆」――帰還した兵士と銃後を守り抜いた人びと――を黙らせることも不可能でした。「民主主義」は、軛 くびき につないで厳重に監視されなければならない。誰が監視するのか?


 そこで、大戦間期にはお蔵入りになっていた「自然法」――正義,公平,…の徳目から、実力抵抗の正当化まで――が、権威ある監視人として呼び出されてきました。「自然法」は、けっきょくのところ「宗教」を保証人とするほかはありませんでした。それは安易な道だったが、多くの人――ヨーロッパの――に異論無く・かつ事態の推移に見合う速さで受け入れられる原理は、他にありませんでした。こうして、「キリスト教民主主義」が、戦後世界の保守主義を導くイデオロギーとなり、それは、「法と公平」を宣布するだけでなく、一定程度の「福祉と平等」の実現に努めました。戦後「福祉国家」の創造者となったのは、社会民主主義でも自由主義でもなく、「キリスト教民主主義」だったのです。

 

 

 

 

 

 

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