ハインリヒ・クニル『総統真影』1937年頃、絵葉書。
Prof. Heinrich Knirr, Führerbildnis, Adolf Hitler Postcard. ©Wikimedia.
【31】 「ファシズム」とは何か?
『ファシズムをめぐる議論の混乱それじたいが、ファシズム〔…〕の特徴を示している。〔…〕ファシズムは「理性」に対抗し、意志,直観,感情を賛美する〔…〕それは、感じることはできるが、定義できないものとされてきた。〔…〕
ファシズム』は、それぞれの国で、それぞれの『特定の国民を中心に据え、国民特有の神話や価値に依拠した〔…〕。ファシズムは輸出するものではないというムッソリーニの 1932年の発言は、この点から説明できる〔…〕。』その後ムッソリーニは『公式のファシストの教義』を定式化し『その輸出も合法と宣言』したが、『ファシストたちも、理論的な弱さ〔…〕は自覚していたようだ。〔…〕
スターリン主義のもとでは難解な理論上の不一致は文字通り生タヒを分け〔…〕た。ところが、ヒトラーとムッソリーニは、教義上の純粋さをほとんど気にかけなかった。〔…〕ソヴィエトの思想家たちが・権力政治の変化に合わせて教義を変え〔…〕たのと対照的に、ナチの理論家たち〔ギトン註――たとえばカール・シュミット〕は、そのような恐怖感なしにヒトラーの世界観を発展させることさえできた。まさにそうした理由から、ソヴィエトが行なったような規模での党の粛清を、ナチスは行なわなかった。〔…〕ファシストたちが恐れたのは』理論的な「誤り」と断罪されることではなかった。『彼らにとっての真実は、〔…〕権力を取れるかどうかという点にあった。〔…〕
ファシズムは、20世紀におけるイデオロギー上の主要な革新の一つであった。〔…〕権力行使のための新しい公的正当化の手段を生み出せたかどうかで革新の度合いを測るとすれば、なおさらそう言える。〔…〕政治信念の体系としてのファシズム〔…〕は、第1次世界大戦中および大戦後に初めて現実のものとなった。〔…〕
ここで最も重要なのは、ファシズムは、大衆民主主義の時代に対応して現れた〔…〕点である。それは、自由主義的議会主義と社会主義の双方を心底から嫌悪していた多くのヨーロッパの政治思想家たちが、信頼できるものとして』歓迎した「革新思想」であったし、『非常に多くの市民もまた、これを信頼できるものと見たのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.177-180. .
この「革新」という点で、ファシズムはそれまでの・「王政復古」や「右翼権威主義」などの体制思想とは大きく異なっていたのです。大戦間期のヨーロッパ各国では、そのような保守主義・復古主義に傾く人々が多かったのは事実ですが、それらの人びとは、ファシズムが出てくると、たちまちファシストに転向するか、自らは身をひいてファシストに政権を譲ってしまいました。ヒトラーに政権を譲ったドイツのヒンデンブルク大統領、ムッソリーニを首相に取り立てたイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレⅢ世、みなそうです。
ティハニ・ラヨシュ『家族の肖像』1921年。
Lajos Tihanyi, Familienbildnis,
Ungarische Nationalgalerie, Budapest. ©Wikimedia.
しかし、第2次大戦を通じて、ファシズム体制にはならず、復古的な権威主義体制を維持した諸国もありました。スペイン〔フランコ将軍の独裁体制〕とポルトガルが、そうです。
「独裁」だからといって「ファシズム」とは限らない。「保守的権威主義体制」と「ファシズム」の違いは重要です。両者の根本的な相違は、「大衆民主主義」に依拠するかどうかにあります。「ファシズム」とはまさに「下からの権威主義」であり、熱狂的「大衆に支持された独裁」なのです。
この点で、日本の戦時体制が「ファシズム」であったかどうかについては、大きな疑問が提起されてきたし、現在も論争は解決していません。現在政治の文脈では、戦前・戦中の「226」将校群・近衛体制・東條体制,そして戦後の自民党体制や安倍政権などが、すべていっしょくたにされて「ファシズム」と呼ばれたりしますが、このような安易な見方に私は反対です。このような安易で甘ちゃんな政治党派主義者たちの運動では、本物の「ファシズム」に抵抗することは不可能だ〔現に、いま目の前でガタガタに負けている〕からです。
『ナチス宣伝相〔…〕ゲッベルスは、1933年〔…〕ヒトラーの権力掌握の際、「1789年という年〔フランス革命の開始――ギトン註〕は、これによって歴史から抹消される」と述べた。〔…〕啓蒙主義が支持するすべてのことがら:〔…〕人類がともに理性を働かせることによって真実を見いだしうること〔民主主義の前提――ギトン註〕、〔…〕社会契約を通じて相互に同等の権利と自由を付与しうること、理性と進歩が不可分に結びついていること、そうした〔…〕すべてに対して、ファシズムは反対した〔…〕
とはいえ、これがファシスト』の『中心的特徴〔…〕ではなかった。』「1789年」に反対した点は、19世紀以来の保守主義者と王党派も同じだった。ファシストは、変化と行動を嫌う保守主義者とは異なって『行動的であろうとし、国民を動員し、歴史を支配しようと』し『た。ファシズムは革命』を恐れる『どころか、自らを革命的であると、とりわけ不満を抱く若者の革命であると称したのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.180-181. .
ウンベルト・ボッチョーニ『槍騎兵の義務』1915年。
Umberto Boccioni, Carica di lancieri, La charge des lanciers,
Museo del Novecento, Milano. ©Wikimedia.
【32】 ソレル,カール・シュミット,ムッソリーニ
――「階級闘争から国民戦争へ」
「行動」を称揚し、国民の「動員」を権力のテコとする「ファシズム」の源泉のひとつは、フランスのサンディカリスト:ジョルジュ・ソレルにありました。サンディカリスムとは、直訳すれば「労働組合主義」、つまり、議会政治にも政党にもよらず、労働者の直接のゼネストによって国家を転覆し「階級闘争」を貫徹する思想です。ソレルの「階級」を「国民」に取り替え、「階級闘争」を「国民間戦争」に変え、「直接行動」を継承したのが「ファシズム」であったと言えます。
『ファシストたちは、階級闘争の理念を国民集団間の闘争へと置き換えたが、暴力への信念については、歴史の動力として、さらには英雄的行為の新しい道徳に不可欠なものとして保持した。〔…〕
ドイツの若き法学者カール・シュミットは、〔…〕ソレルの『暴力論』〔…〕に深く感銘を受け、次のように記している。「真の生の本能から、偉大な熱狂が、偉大なる道徳的決定が、そして偉大なる神話が立ち現れる。」〔…〕「階級闘争の神話よりも、国民闘争の神話のほうがより大きなエネルギーを持つ」〔…〕「いまや階級間の対立ではなく国民間の対立の方向にすべてが動いている。」〔…〕
シュミット』は、『自由主義的議会主義および妥協の政治に対する主要な批判者となった。彼は、〔…〕20世紀の大衆政治という条件下においては、ファシスト・イタリアが〔…〕国民的民主主義にとっての適切なモデルであると評価しはじめた。〔…〕
ムッソリーニは、〔…〕フリードリヒ・ニーチェと並べてソレル〔…〕を「われわれの師」と評価しつづけた。〔…〕イタリアにおいても〔…〕エンリーコ・コルラディーニの著作を通じて、階級から国民への概念的転換がなされていた。コルラディーニは〔…〕プロレタリアートを、より強大な資本主義国民によって抑圧されている「プロレタリアート国民」〔…〕に置き換えたのである。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.192-194.
ジーノ・セヴェリーニ『交戦中の装甲列車』1915年。Gino Severini,
Armored Train in Action, Museum of Modern Art,
New York. ©arthistoryproject.com.
「階級よりも国民を上位に置く〔…〕考え方は、第1次世界大戦によって計り知れないほど強力な後押しを得た。」というのは、ほとんど全ヨーロッパ諸国の社会主義者たちは、国際的な連帯を振り捨てて「自らの祖国のために結集し」参戦したからです。ムッソリーニ自身、祖国の戦線に馳せ参じた社会主義者の一人でした。第1次大戦で形成された「塹壕戦士の貴族制 トレンチョクラシー〔…〕なくしては、ファシズムは誕生しなかっただろう。それは徹頭徹尾、暴力の栄光によって特徴づけられてもいた。」ムッソリーニは言う:
『恒久的な平和は不可能であり、かつ無意味である。戦争のみが、人類のエネルギーを最高潮の緊張状態へと導くのであり、それに向き合う勇気を持つ諸国民に高貴さの刻印を授けるのである。〔Benito Mussolini, Die Lehre des Fascismus, 1935.〕』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,p.194. .
「さらには、タヒへの一種の崇拝さえ存在した。」「タヒに栄光あれ」は、「タヒ」を賛美するファシストの多くのスローガンのひとつにすぎない。ムッソリーニの執務室には、弾丸を込めたピストルが机上に置かれ、「壁には頭蓋骨の絵が掲げられてい」た。
ファシズムは、「第1次世界大戦における犧甡と受難の共同経験を通じて政治化された[大衆]を、訴えかける対象に据えていた。」ファシスト的思考の誕生を触発した「未来主義」〔※〕は、「祝祭としての戦争」を讃美し、「戦争は、新しい飛行機の時代において、われわれを導くことのできる唯一の舵である」と宣言した。「この舵は道を誤ることがない」。なぜなら、「生とは攻撃であり、〔…〕戦争とは、人民の強さを試す不可欠かつ流血を伴なう試練」だからであった。彼らが発表した『未来派宣言』〔1909年〕〔※〕は、戦争を、「この世で唯一清潔なもの」として賛美し、「軍国主義、愛国主義、自由をもたらす者による破壊」「命を賭けるに値するもののためにタヒぬという美しい考え」「女性への蔑視」を宣揚した。(pp.194-197.)
註※「未来派」: 20世紀初頭にイタリアを中心に興った前衛芸術運動。文学,美術,建築,音楽などの分野にわたった。大戦後の 1920年代には、ファシズムによって受け入れられ、とりわけ「未来派」の戦争賛美がファシズムの思想を刺激した。
【33】 ファシズム ―― 戦争、ナショナリズム、
神話と大衆心理の利用
「ファシストが抱く戦争の価値についての信念は、ビスマルク」のような「保守主義者」の戦争観とは大きく異なっていた。ビスマルクは、「わたしは戦争を欲しない。わたしが欲するのは勝利である」と言った。保守主義者にとって、戦争はあくまでも手段であって、成果に対して犧甡は少ないほど良い。ところが、ファシズムは「戦争」そのものを欲し、「タヒ」そのものを讃美した。ファシストが「戦争」の勝利を欲するのは、物質的成果の獲得以上に、自らの「力」の確証を得るためだったと言ってもよいでしょう。
また、ファシズムは、「ナショナリズムが他のすべての倫理的要求に優先する」とし、「国民の絶対的価値」を信仰しました。これは、「19世紀を通じて結びついていた国民と自由主義の観念を切り離すことになった。」ファシストは、自由を求めて独立を闘い取ろうとするのではない。むしろ、他国民に対する支配と征服のために戦うのです。
ビルギット・アンデルソン・リッデルステット『水に映る城』1931年。
Birgit Anderson Ridderstedt, Speglande slott. ©Wikimedia.
「神話」への信念ないし情念は、「ヨーロッパ各地のファシストのあいだの共通了解となった。」ムッソリーニは次のように断言した:「われわれは自らの手で神話を創造した。神話とは信念であり情念である。神話が現実になる必要はない。激励であり、希望であり、勇気であるという意味において、それは現実なのである。〔…〕われわれの神話は、国民の偉大さそのものなのである。」
「ファシストたちは、指導者と人民との神秘的〔…〕合一――感覚あるいは「霊性」〔…〕に基づく合一――を信じていた。こうした考えは、19世紀末に端を発する・大衆心理に関する疑似科学〔オカルト科学。スピリチュアリズム〕によって支えられていた。この科学は、とりわけヒトラーに影響を与え」た。『我が闘争』には、それが「忠実に再現され」ている。(pp.195-196.)
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