ゲオルク・パウリ『裸の男たちと海』1933年。
Georg Pauli, Nakna män vid havet, 1933. ©Wikimedia.
【35】 中間考察 ――「民主主義」の長い陣痛期
これまでの叙述――第1次大戦後のヨーロッパ諸国――から私たちが知るのは、選挙権が全成人男子(一部の国では女子にまで)に拡大しても、民主主義が政治的信念として根付くにはなお半世紀以上の時間がかかったという・重い歴史的事実ではないだろうか。たしかに、ウォーラーステインが言うように、19世紀前半からすでに、「主権」の保持者は神でも王侯でもなく「国民」であるという “地政文化”(ジオカルチュア) はあった。が、それは、当時ル・ボンらが皮肉交じりに述べたように、「王権は神授から民授に成り下がった」――人類は嘆かわしくも堕落した、という意味だった。
第1次大戦を経験したあとも、自由主義者は決して「民の意思」に信を置いていなかった。マクス・ウェーバーによれば、普通選挙権による大衆民主主義は、選挙民の「具体的意思」を政治に反映させようとするものではなく、ただ、国民のため――というより、国家と民族のため――に正しい判断をするすぐれた政治家を選び出すことが目的であった。「国民(ネーション)」とは、口を持たない存在であり、「国民の意思」などというものは、そもそも有り得ない――「まるい三角形」のような――自己矛盾だった。
同様のことは、「人民の意思」を主張して「革命」を敢行した社会主義者・共産主義者でも変わりが無かった。レーニンは「憲法制定議会」を要求し、召集が遅いと言って政府を倒し、倒した後はもう「口実」は不要になったと言わんばかりに、召集された「憲法制定議会」を解散して二度と開かせなかった。
この「大戦間期」の時点で、わずかに「民の意思」――具体的・実質的な「国民主権」――に信頼を寄せていたのは、自由主義者でも急進主義者でもなく、社会民主主義の最も “右寄り” の人びとだったと言える。おそらく、ベルンシュタインはその先蹤だった。この “修正主義者” は仲間たちの囂々 ごうごう たる批判を浴びながら、「社会主義とは自由主義の完成形態だ」、と宣言した。大戦後にベルンシュタインを継承した例外的な人びとのなかで、おそらく唯一、政権改革を成功させたのは、スウェーデンの社会民主主義者だった。
「結局のところ、労働者と農民、および都市と農村とを結合した壮大な親・社会主義連合」を無理なく実現し、かつ「文化的ヘゲモニーの完全な制覇を実現したのは、ただ一つの国〔…〕スウェーデン」だった。
フアン・グリス『カニグー山』1921年. Juan Gris, Le Canigou,
Albright–Knox Art Gallery, Buffalo, New York. ©Wikimedia.
【36】 スウェーデン「SAP」――
「国民の家庭」:労使の協定・農民との同盟
スウェーデンの「親・社会主義連合」は、SAP という「社会主義大衆政党によってもたらされた。」SAP は、「まず自由主義派と」連合を結び、ついで農民とも同盟した。
『20世紀初頭のスウェーデン社会民主労働党(SAP)の指導者ヤルマール・ブランティングは、自由主義者としてその政治的経歴を開始し〔…〕た。彼は普通選挙権を達成するためにスウェーデンの自由主義運動と連携し〔…〕た。ブランティングはまた、階級交叉連合と社会主義の国民的ヴィジョンを唱導した。「目標は、〔…〕全国民を横断し〔…〕あらゆる人間を含む〔…〕連帯へと至ることである。」〔…〕彼の見方では、マルクス主義は「発展の教義」として理解されなければならない〔…〕、それゆえ「マルクスの時代以降完全に変化した社会条件」を考慮に入れなければならなかった。
ニルス・ダルデル『ヨン・ブルント(夢の精)』1927年. ストックホルム市立図書館
・お話の部屋 のフレスコ壁画。The story room in Stockholm City Library
with Nils Dardel's fresco "John Blund". ©Wikimedia.
ブランティングの戦略は、1928年から SAP の党首を務めたペール・アルビン・ハンソンによってさらに発展させられた。彼は「国民の家庭 フォルク・ヘメット」〔※〕という社会主義〔…〕理念の考案者であった。この概念は、もともと他国への移住を防止するために全員に家と小区分農地を提供するという世紀転換期の保守派の提案に加えて、ナショナリスト的思想家ルドルフ・チェレーンとも結びついていた。〔…〕あまりに〔ギトン註――語感が〕家父長的だとして拒絶し〔…〕た党員もいた』が、『いまや社会主義者たちは〔…〕この概念を自分たちのものにしようとした。〔…〕
家庭の基礎は共同体であり一体感である。良い家は、特権的な構成員も,無視された構成員も,〔…〕寵児も継子も認めない。良い家庭の中には、平等,尊重,協同,互助が満ちている。この家を、人民や市民全体に適用するならば、〔…〕すべての社会的・経済的障壁の解体を意味するだろう。〔Per Albin Hansson.〕
〔…〕社会民主党』は、『特定の階級利益の代表に代わって、次第に「国民」全体の代表者と自覚するようになった〔…〕。この家は全員に安心(trygghet)――〔…〕温かい調子を伴なう「安全」〔…〕――を提供する〔…〕。コールのような〔…〕多元主義者と同様に、ハンソンは、労働者階級が自ら社会主義の家を望み、創設し、維持する』ようになるための『教育の重要性を強調した。「大衆が教育され〔…〕考え方が変わらないと、〔…〕社会主義の社会はわれわれのもとには来ないだろう」。
「全員のための家」を達成するにはさまざまな道があること、社会主義化は一つの方法にすぎず、必ずしも最善の道ではないこと、〔…〕については共通了解があった。他の理論家は、社民党の政策を「暫定的なユートピア」――〔…〕つねに柔軟で修正に開かれているもの――として描いた。それは、〔…〕未来予測を可能にする〔…〕社会科学・として理解されたマルクス主義からは程遠かったし、トルコ〔…〕で進められたような独断専行的な近代化論でもなかった。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.123-125. .
註※「国民の家(folkhemmet)」: 「フォルク」はドイツ語「フォルク」(民族)と、「ヘメット」は「ハイム」(英語:home)と同語源で、この語には保守的で懐古的な響きがある。Rudolf Kjellén〔1864-1922〕は、イェテボリ大学教授の保守政治家で、「地政学」の創始者。「国家有機体説」に基いて、個人よりも国家を優位に置いて思考した。しかし、人口の海外流出による減少が深刻な北欧諸国では、「国家有機体」にとっても、国民に福祉を行き渡らせることが大きな課題となった。P. A. Hansson は、国民にとって「スウェーデンが[良い家]にならなければならない」と述べて、階級闘争をやめ、「平等と相互理解」によって伝統的な階級社会を「国民の家」に変えることを唱えた。〔Wiki:「国民の家」「ルドルフ・チェーレン」〕
つまり、スウェーデンの社会民主主義者にとっては、「社会主義」とは手段にすぎず――しかも、複数の選択可能な手段のうちの一つにすぎない!――、目的は、スウェーデンを「国民の家」「スウェーデン人全員のための家」にすることにあった、と言えるでしょう。これは、当時・ヨーロッパの大多数の国の社会主義者にとって、社会主義こそが目的であり、議会(民主)主義は手段であったのと、まさに逆の関係にあったのです。
ニルス・ニルソン『カフェ』1934年。Nils_Nilsson, Kafé.
Moderna Museets samlingar. ©Wikimedia.
『SAP が長期にわたる成功〔1932-76年の長期政権――ギトン註〕を収めた決定的理由は、彼らが農業の保護貿易主義を受け入れたことで農民と連携できた点にあった。1933年に SAP と農民党は〔…〕提携』した。
『1938年には、サルトショーバーデン協定が〔…〕結ばれ〔…〕、労働組合は産業を管理する経営者の権利を認め、経営者は労働者を代表する組合の権利を認め、そして両者は、高い生産性と完全雇用を同時に確保する条件を協議』することと『したのである。解決しがたい労使対立への・国家による介入を避けることも、彼らの合意の背景にあった。
所有と経営に対する監督権には触れられなかった〔社民党政権や労働組合が・企業経営を監督する権利、経営への参加権などを、社民党・労働側は主張しなかった。――ギトン註〕。むしろ、企業が繁栄すれば実際に豊かな住民を生み出すと想定された。産業民主主義と労働者自主管理への〔…〕要求は棚上げにされた。代わって、高い社会支出と積極的労働市場政策の原理〔政府の積極財政・社会福祉給付による景気安定と完全雇用,および財政を裏づける高課税――ギトン註〕が確立された。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.125-126. .
【37】 スウェーデン「SAP」――
「福祉国家の奇蹟」はなぜ?;が、裏面には...
このようなスウェーデン SAP 政権の民主主義は、「ヨーロッパの生活とヨーロッパ政治の主潮流の外側に登場した。〔…〕スウェーデンの国民的政治的文化は、戦間期に他の」国の「社会を苦しめた病理から、かなりの程度逃れてい」た。
なぜそんなことが可能になったのか?「スウェーデンが〔…〕政治的な合意形成にかんする長い伝統を持っていたのは事実である。」それが、王政を「立憲主義」へとスムースに導いた。そもそもスウェーデンには、他のヨーロッパ諸国のような「封建制」〔王を頂点とする貴族たちの臣従システム〕が存在しなかったから、「封建制」との戦いは無く、したがって、「立憲主義」への移行をめぐって激しい対立が起きることも無かった。政治は闘争ではなく「合意形成」によって行なうことが、スウェーデンでは伝統となっていたのだ。ヴェルサイユ条約後、多くの国が直面した「国内マイノリティ」問題に悩まされなかった〔フィンランド系住民もいたのに〕のも、この伝統のためかもしれない。
他方でスウェーデンは、「強力で熟練した国家行政組織を引き継いできた。その政治は、平等主義や〔…〕平静さ〔…〕によって長いあいだ特徴づけられてきた。」SAP の首相は、路面電車に乗って政府に通勤していた。しかも、他の国には無い経済的好条件が、政治の安定を支えていた。「1930年代、世界はいまだスウェーデンの森林産業に頼って」いたからだ。他の国で独裁を求めるファシズム運動が風靡している時に、この国の保守主義勢力は「ひどく分裂し、まったく脆弱であった。」(pp.126-127.)
ニルス・ニルソン『テラスにて』1945年。Nils Nilsson, På verandan.
Göteborg Konst. ©Wikimedia.
『SAP は、グラムシがイタリア共産党を率いてなしとげようとしたことを、完成させた。連合したプロレタリアートと農民が、本来の国民全体と見なされ、文化的ヘゲモニーは完成したように見えた。1940年に SAP の綱領は、社会民主主義が「スウェーデン国民と一つに」なったと宣言した。しかもこれらすべてが、カリスマ的な英雄としての政党を必要とせずに実行されたのである〔…〕
第2次世界大戦が終ると、SAP は、労使による産業共同経営の思想に戻っていった〔「所有と経営」側に譲る大戦中の方針から、本来の社会民主主義に戻った――ギトン註〕。〔…〕スウェーデンの社会民主主義は選挙ではたいへんな成功を収めつづけ、1970年代まで継続的に権力の座にとどまることができた。』
ヤン=ヴェルナー・ミュラー,五十嵐美香・他訳『試される民主主義 上』,2019,岩波書店,pp.127,126. .
エスタール・アルムクヴィスト『集会』1929年。Ester Almqvist,
Sammankomsten, 1929. Nationalmuseum Stockholm. ©Wikimedia.
しかしながら、私たちは最後に、第2次大戦期・戦後の SAP 政権による「優生学政策」という・「福祉国家」の裏面に印されたどす黒い汚点を見なければなりません。
この優生学的強制不妊処置は、 SAP の「社会工学」理論家であるミュルダール夫妻〔夫はストックホルム大学教授,通商大臣を歴任しノーベル経済学賞,妻は平和賞を受賞〕により 1934年の著書で勧告され立法を経て実施された。「1935年以降、6万人以上のスウェーデン人が影響を受け、そのほとんどが女性だった。」ミュルダール夫妻の主張は、スウェーデンの人口減少を食い止めるには、移民の受け入れではなく、「健康なスウェーデン人を生み育てる」ことにより将来世代の出生率を増加させなければならない、と言うのだ。虚弱な子を産むと見なされた女性が犧甡となった。「社会主義が実現されるためには〔…〕人民も徹底的に変えられなければならない」というP・F・ハンソンの主張が、いまや全く異なる光に照らし出された。
スウェーデンの「優生学政策」は、人種ではなく「生産力のある者」を選り抜くことに焦点を当てたものだったが、それだけに影響範囲が広く、また、社会不安を惹き起こさないように半ば秘密裏に実施された。「同種の処置が、デンマーク,フィンランド,スイスの一部でも」実施されていた。
スウェーデンは、「1975年になってようやく不妊政策を廃止した」が、不妊計画の「発覚は、スウェーデン社会の隅々にまで〔…〕ショックを与えた。」翌年 SAP は 44年ぶりに政権の座を降りた。(p.128.)
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ニルス・ダルデル『漁師』1931年. Nils von Dardel, Fiskaren. ©Wikimedia.