マイセン焼き。〔左〕Maissen-Kändler, Eichelhäher auf Eichenstamm 

mit Eichhörnchen und Hirschkäfer, Modell 1739/1740, Meissen. Kunstgewerbe-

museum Berlin. 〔右〕Meissen Porcelain, Musician. ©Wikimedia.

 

 


 

 

 

 


【25】 ウェーバー ――

「経済行為」の合理性と「形式合理性」

 

 

『経済的指向は、伝統的にもなりうるし、また目的合理的にもなりうる。かなり合理化の度合いの進んだ行為の場合でさえも、ある程度の伝統的な指向の混入がみられる。〔…〕

 

 事実上経済的指向をもってはいるが計算とは無縁な行為もある。経済行為は、伝統指向的でもありうるし情緒的に条件づけられることもありうる。〔…〕宗教的帰依,軍事的な衝動,畏敬の感情,その他これに類する情緒的な指向に基いた行為は、計算可能性〔…〕にかんしてはきわめて未発達である。〔…〕

 

 合理的な指向は通常、管理する行為――それがどのような種類の管理であっても――において第一義的な重要性をもつ。本能と結びついた反射的な食物採集の段階,ないしは祖先伝来の技術や熟知した社会関係に伝統的に慣れ親しんでいた段階から、合理的な経済行為にまで至る発展が生ずるのは、生計の〔…〕窮乏化が進行するに伴なって必要に迫られることが原因になると同時に、またそれと並んで、非経済的・非日常的な出来事や行為によるところもまた非常に大きい。〔…〕

 

 交換は、両交換当事者の利害の妥協にほかならず、これによって財または機会が相互に報酬として引き渡される。交換は、つぎのいずれかのかたちをとりうる。すなわち、

 

 (1)伝統的もしくは因襲的、したがって〔とくに後者の場合は〕経済的に合理的でない〔…〕

 

 (2)経済的に合理的な指向をもつ〔…〕

 

 合理的な指向をもった交換とは、それに先行して行われていた〔…〕利害闘争が、妥協によって終結することである。』

マクス・ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,中公バックス版,1979,pp.309-310,358,312-314. .

 

 

 「交換」というのは、相互に財やサーヴィスを手放し/取得する行為ですから、経済的指向をもった行為です。しかし、広く見渡すと「交換」には実にさまざまなものがあって、経済的に「合理的」な交換も、そうでない交換もある。ウェーバーは、古代のトロイ戦争の最中に、親しい友人同士が敵味方に分かれて戦場で出会ったが、闘わずに剣を交換して別れたという例を引いています(p.314.)。この場合は、剣を取得するという経済的目的ではなく、友情という非経済的な「非合理」な価値が第1次的目的であったわけです。

 

 「交換」が「合理的」行為としてなされる場合、つまり経済目的を第1義として行なわれる場合、その「合理性」は「形式合理性」(計算合理性)です。つまり、手放した財・サーヴィスの大きさに対して、どれだけの財・サーヴィスを取得したか、その比較計算によって行為の「合理性」が評価されます。したがって、「交換」当事者のあいだでは、競争ないし(平和的)闘争が前提になります。つまり、「合理的交換」とは、「利害闘争が、妥協によって終結すること」です。「交換」の成立とは、休戦であり和解です。これには2つの場合があります。ひとつは「値引き交渉」、つまり、相対する当事者の・価格(ないし物々交換比率)をめぐる闘争が終結すること。もうひとつは「せり売り」、つまり、将来現れる「第三者」(買い手)の獲得をめざして、できるだけ有利な条件での取得を争う場合です。(p.313.)

 

 

マイセン焼き。玉ねぎ文様の食器。19-20世紀前半、マイセン。

Meissen-Geschirr mit Zwiebelmusterdekor, Meissen.  ©Wikimedia.

 


『交換は、それの条件によって伝統的でもありうるし〔…〕因襲的でもありうるが、しかしまた合理的でもありうる。

 

 因襲的な交換行為は、友人・英雄・酋長・領主などの贈与交換に見られたものである〔…〕が、じつは思いのほか高度に合理的な指向をもちまた合理的に統制されている〔テル・エル・アマルナ文書を見よ〕。

 

 合理的な交換は、当事者の双方がそれによって利益を得ることを期待している場合、または一方の当事者が〔…〕交換を強制する場合にのみ、おこりうる。これは、現物供給の目的でなされるか、営利の目的でなされるかのいずれかであり、したがって、交換当事者に個人的に財を供給することをめざすか、それとも市場における利得の機会に指向するか、の2つの場合がありうる。

ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,pp.314-315. .



 「テル・エル・アマルナ」は、エジプト新王国時代の遺跡で、エジプトとオリエント諸国の外交関係を示す多くの文書が出土しています。しかし、私たちは、もっと典型的な「因襲的交換」の例を知っています。古代中華帝国を中心とする「朝貢貿易」です。「朝貢」の第一義の目的は、「」「」と「高句麗」「新羅」「」など周辺諸国との政治的な国家関係(「冊封」秩序)を維持することでした。貢物や答礼品を取得するという「経済」目的もありましたが、あくまで副次的です。この「冊封秩序の維持」という目的に照らす限り、「朝貢」は、きわめて「合理的」に統制されていたと言えます。すなわち、この場合の「合理性」は「実質合理性」です。

 

 その次の段落の「合理的な交換」のほうは、「形式合理的」な交換です。これには、物々交換の場合と、貨幣による交換(売買)の場合があります。また、自家消費しきれずに余った生産物を個人的に誰かに売る場合と、「営利」目的の「市場」交換の場合とがありえます。「営利」とは、「消費を目的とせずに、より多くの財にたいする処分権を獲得する(つまり収益を得る)ことを目的として、財・サーヴィスを獲得する活動」(p.337(3).)です。

 

 前者(市場によらない個人的売買)の場合、交換比率ないし価格は、その場その場の事情次第です。交換される財の価値は、もっぱら「使用価値」(主観的価値)で評価されるからです。「限界効用逓減の法則」に照らせば、余ったものを売る売り手は、安く評価する傾向があり、自家に無いものを手に入れようとする買い手は、高く評価する傾向があります。

 

 「市場交換」の場合には、「合理的な交換競争が発達する」ので、その結果、多くの売り手・買い手のあいだで統一的な「市場価格」が成立します。こうしてはじめて、「合理的」な損益計算が可能になり、高度の「形式合理性」にもとづく「営利」活動が可能となるのです。

 

 

物々交換。F.S. Church画 "Harper's Weekly",1874年。US 議会図書館。©Wikimedia

新聞の年間購読料を、何羽分かの鶏肉など、農場の産物で支払おうとする男。

 

 


【26】 ウェーバー ――

「実質合理性」,「実物計算」の難しさ

 


 ここで、「因襲的」「合理的」「形式合理性」「実質合理性」などの概念の関係を整理しておきますと、ウェーバーのタクソノミーは、次のようになります:

 

 

 

 

 この図のいちばん右下――「貨幣計算」による「計算合理性」を指向する「合理的経済行為」――が、「近代世界システム」の発展の極致であって、現在の私たちの社会での「社会的行為」の中心,見習うべき「モデル」とされるものです。これを、「永遠に最良のもの」として崇拝する宗教が「新自由主義」にほかなりません。

 

 しかし、ウェーバーによれば、近代の世界は右下の方向にばかり発展し過ぎたのです。その結果は「精神」の空洞化であり、「魂の抜け殻」となってただよう明日も希望もない人間たちです。現在の言い方をすれば、右下の極は、AIにすべてを吸い取られ自らは決定権も意欲も失った人びとの社会でしょう。

 

 どうしてこんなことになってしまったのかと言えば、事態の発展を右下――「合理化」――に押し進めてきた「無限の資本蓄積の優先」という資本主義の絶対原則が、もともと、人間という生物の本性に反するものだったからです(ある種の植物やキノコや微生物ならば、「AI社会」に・より適合的であるかもしれません)。

 

 そこでウォーラーステインは、「もう少し真ん中に戻そうじゃないか」と言うわけです。それが「実質合理性」という考え方であり、それこそがウェーバーにとっても理想だったにちがいない、と彼は推測するのです。


 ただ、ウェーバーは 1920年にスペイン風邪のパンデミックに巻き込まれて 56歳で急死しており、彼が書き残したもののなかには、そのような “未来の計画” につながるような記述は見出せないのが実際です。ウェーバーはひたすらに、「右下」へと向かっていく現実の趨勢を記述しており、その過程で「実質合理性」についても不十分ながら触れている。それが、私たちが今日見ることのできるウェーバーの著述なのです。



実質合理性という概念は、まったく多義的である。〔…〕倫理的・政治的・功利主義的・快楽主義的・身分的・平等主義的等々〔…〕なんらかの要求を設定して、経済行為の結果〔…〕を、それとの関連において価値合理的』つまり『実質的に目的合理的な尺度で測定する、ということが必要である。〔…〕合理的な価値尺度というのは、原理上無限に多く存在しうる。〔…〕

 

 他方、経済行為の結果についてのこのような実質的な批判に対して、ひとつ十分に考慮されねばならないことは、経済行為における主観的心情や・経済行為における手段などについての倫理的・禁欲的・美的な観点からする批判も〔…〕可能であるということである。


 これらすべてのことがらについては、貨幣計算という「単なる形式的な」行為は副次的な意味しか持ちえないこともありうる』

ウェーバー,富永健一・訳「経済行為の社会学的基礎範疇」, in:『世界の名著 61 ウェーバー』,pp.301-302. .

 

 

ミクロネシア・ヤップ島に伝わる石貨。 ©時事通信社。

 

 

 つまり、「経済行為」をはじめとする社会的行為は、それがもたらした結果によって評価されるだけではない。めざすべき目的をしっかりと意識して行為しているかどうか、といった現在進行形の「行為規範」の観点、また、勤勉誠実な印象を与えるか、慾深い印象を与えるか、といった「美学的」観点からの評価もありえます。「実質合理性」についてはとりわけ、「結果」以上に「行為」そのものが問題とされるかもしれません。「花咲か爺い」の昔話などは、「行為」の良し悪しが自動的に「結果」を決定する・という思想を表しています。

 

 上の図↑にあるように、「形式合理的(計算合理的)」な経済行為であっても、計算のしかたは「貨幣計算」と「実物計算」があります。通常は「貨幣計算」によります。異なる種類の財・サーヴィスの量を相互に比較したり、生産や流通の「効率」に影響を与えるさまざまな条件を考慮するのに、「貨幣計算」ならば、一律に価額の数字を並べて比較や差し引き計算ができるので、ひじょうに容易かつ明瞭です。「実物」では、異なる財の量をどう換算すればよいかわかりません。

 

 その反面、「貨幣計算」にも問題がないわけではありません。異なる種類の財を数字で比較することができるのは、「市場価格」で表現されているからです。ところが、この「市場価格」というものは、常に変転する・その場限りのモノサシでしかありません。「市場価格」に代えて、生産に要する平均労働時間で比較する、という考え方もありますが、アダム・スミスの 18世紀ならいざ知らず、現代のような技術革新の時代では、これまた変転常なき尺度です。「貨幣価額」で計算することは、本当に「合理的」なのか? という疑問にたいして、確実な答えは無いでしょう。

 

 それだけではありません。「形式合理的」な「営利」の追求を第一義とする社会の「貨幣計算」、つまり「貨幣収益」の極大化が、かえって社会の「効率」を妨げていることが、しばしば指摘されてきました。個々の経営の「収益性」の追求が「生産手段の最適利用」〔土地生産性など〕を阻害するとか、土地の排他的「占有」が、地主に「収益や利得の機会を」与える反面、「技術的に最適な生産手段の利用に向っての発展をたえず妨げる」、といったことです。

 

 近代の「資本主義システム」のもとでも、「実物計算」が用いられる場面はあります。個々の工場のレベルでは、「これこれの構造の織機を入れれば、これこれの質の糸ができる」といった計算は、まず「実物」ベースでなされます。異なる品質の原材料の投入量,燃料,潤滑油,仕上げ剤等の使用量と、一定の質をみたす製品の量との関係、廃物,副産物の生成量、機械の損耗度,耐用期間といったことも、「実物計算」が必要です。

 

 社会全体について言えば、「実物計算」の必要性は、さらに大きい。「われわれの統計の・じつに十分の九以上が、貨幣統計ではなくして実物統計なのである。」


 ところが、19世紀以来、「社会政策」を志向する(ドイツの)「講壇社会主義者」〔国家による「分配の正義」実現を主張したラサール,シュモラー,ブレンターノら〕は、もっぱら「貨幣計算」によって経済を論じてきました。「実物計算を合理的に行ないうる可能性」は、「あまり多くの人の注意を惹かなかった」。彼らは、「資本主義システム」の「収益性」優先による弊害を批判し、国家が統制する「実物経済」的な社会を理想としたにもかかわらず、「実物計算」を「現実の問題として」取り上げようとはしなかったのです。

 

 

ウィーン、「カフェ・ラントマン」。 ©landtmann.at.

 

 

 第1次大戦は、この状況を変えました。「戦時経済」は、国家が画定した生産計画のもとに、社会の生産と流通を「実物経済」的に統制することを強いたからです。

 

 しかし、それを終戦後の平時にも行ないうるかどうかについては、ウェーバーはきわめて懐疑的です。「市場」の貨幣交換によらない「実物」的計画経済は、なによりも、絶対的権力による「消費」の統制が必要です。「戦時経済」は、「総力戦の遂行」という「一義的な目的」を社会全体が受け入れたからこそ可能でした。それは、平時では困難です。かりに、権力的統制ができたとしても、↑上で見たような「実物計算」の技術的困難性は残ります。「じっさいに正確な実物計算を行なうという試みには、すべて原理的な制約があるのだ、〔…〕経営における計算の基礎として実物計算を用いることには、どうしても合理性の限界がともなう。」

 

 加えて、ウェーバーは、正確な「実物計算」による経営ないし計画には、「収益」を追求する企業の貨幣計算に匹敵する「正確な計算を行なわしめる〔…〕誘因〔インセンティヴ〕」が必要だが、そのような「必要性」を「人工的に〔…〕つくりだ」すことは困難だと言っています。(pp.331-332,348-357.)

 

 「戦時経済」は、限られた期間だったから破綻しなかったにすぎない、とも考えられます。

 

 ところで、このような「実物計算」による計画経済〔※〕を大規模に行なったのが、ロシア革命によって成立した「ソ連」の経済だったと言えます。その結果がどんなものとなるかは、ウェーバーが生きているあいだに判明することはありませんでした。

 註※「実物計算による計画経済」: じっさいのソ連の「計画経済」は、「ゴスプラン〔国家計画委員会〕」の生産計画決定により行われ、これは価額ベース(貨幣計算)だったようです。いずれにせよ、計画の基礎となる産業統計が社会主義国では極めて不正確ないし粉飾過多だったため、計画経済は破綻しました。なお、マルクスの「再生産表式論」は労働価値ベース、自由主義諸国の経済計画に用いられる「投入産出分析〔産業連関表分析〕」は価額ベースです。

 

 

 ウェーバーは、1918年にウィーンの「カフェ・ラントマン」でシュムペーターと会った際、

 

 「ロシアは、社会主義実現の良い実験場になるでしょう。」

 

 と愉快気に言うシュムペーターに対し、

 

 「基本的に犯罪だ。大失敗に終わるだろう。人間のタヒ体が山積みになった実験場なんだぞ!」

 

 とウェーバーは大声で怒鳴り、二人は口論になったと云います。ヤン=ヴェルナー・ミュラー『試される民主主義 上』,pp.75-76.)未来の光景を透視していたかのようなウェーバーの発言には、驚くほかありません。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ