宮沢賢治「龍と詩人」は、日本を代表するユートピア思想の一つを表現している。

「星がさうならうと思ひ/陸地がさういふ形をとらうと覺悟する/あしたの

世界に叶ふべき/まことと美との模型をつくり/やがては世界を

これにかなはしむる豫言者、/設計者スールダッタ」 ©stand.fm

 

 


 

 

 

 


【3】 「ユートピア」の科学は可能か?

 

 

 このところウォーラーステインつづきで、読者はいい加減いやになっているかもしれないのに、ここでまたウォーラーステインを取り上げたのは、いちおうの理由があります。それというのも、この本には、これまではざっとしか述べられなかった将来社会のプログラムについて、具体的に書かれている章があるからなのです。

 

 ところで、ウォーラーステインは社会科学者であり、この本もまた、「政治」そのものでも「道徳」でも「宗教」でもなく「科学」です。「科学」は「科学」のままで、「ユートピア」にどのように関わることができるのか? ‥おそらく、2通りの方法が可能でしょう。 さまざまな人が描いた「ユートピア」の内容を詳細に分析し、比較して、「世界システム分析」のような歴史的枠組みのなかに位置づけること。 特定の政治思想や道徳観に基く「ユートピア」的な構想に参与し、「可能性への制約」を示すとともに、社会的知識によって・その価値判断に説得力を与え、提案されるシステムの正統性を高めること。

 

 これまでのウォーラーステインの学風からすれば、 のほうが彼にはふさわしいようにも思えます。 のような活動に関わるとしても、より客観的な  の分析をまず行ない・それを踏まえた上でそうすべき、と思われるのです。ところが、彼はこの本で、いきなり  に挑戦している。アマゾン下の Top customer reviews from Japan を見ると、「『近代世界システム』の著者が、こんなものを書くとは、失望した」という意味の感想を出している人がいました。おそらく、「ユートピアの科学」を標榜しながら  のような「ユートピア」分析を欠いている点で、この本は期待外れだったのだと思います。(⇔「読書メーター」では、評判が悪くない)

 

 もしかすると、晩年のウォーラーステインには焦りがあったのかもしれません。年齢の問題だけでなく、年ごと急速になる世界の「カオス」化が、ゆっくりと実証分析などしているまに・世界は手の届かないところへ漂流し去ってしまう、という気持ちにさせていたのではないでしょうか。

 

 ともあれ、ウォーラーステインは、前回【1】で引いた「ユートピスティクス」の定義でも、「わたしたちが選択」する未来の「史的システムが、実質的合理性を持つのかどうか〔…〕、冷静かつ合理的で現実的な評価」を加える必要がある。それは、「科学と政治と道徳にとっての課題である」、と言っていました。「ユートピスティクス」が行なうのは、「科学と道徳と政治から学ぶものを調和させることである。」(pp.10-11.)

 

 そうした・政治と道徳の「価値判断」に基づく選択に対して、「科学」がなしうるのは、ひとつには、歴史的社会的に明らかになった「制約」を示して、新たな社会秩序の「選択」を、より実現可能な・現実的なものとすることです。しかし、それだけでなく、ウォーラーステインがここで強調するのは、新たなシステムに「正統性」を与えるという「科学」の役割です:

 

 

宮沢賢治「龍と詩人」。「さらばその日まで龍よ珠を藏せ。わたしは來れる

日ごとにここに來てそらを見、水を見、雲をながめ、新らしい世界の

造營の方針をおまへと語り合はうと思ふ」 x.com / ©kappa3261. 

 

 

『すくなくとも近代世界で、わたしたちはすべて、直接的な関心と好みを共有する人びとよりもずっと広いグループの人びとから、自分たちの議論にたいする支持を求めなければならない。それは、正統性を説明するものである。

 

 正統性とは、長期におよぶ特別な種類の説得の過程をへて・もたらされるものである。それは、〔…〕システムが継続的に機能することと・その意志決定過程とを支援すべきであると説得することなのである。

 

 わたしたちがいま陥っているシステムの危機の主要な要因は、この正統性の喪失であるとわたしは思う。ある種の社会秩序を再創造するということは、オルタナティヴなシステムを構築する問題であるのみならず、その大部分は、構築されたシステムを正統化する問題でもある。

 

 

 権威や神秘的な事実に訴えて〔…〕システムを正統化することは可能である。しかし、近頃のシステムの正統化は、〔…〕かなりの部分が〔…〕合理的な議論によってなされている。これらの議論は科学の言説によって行なわれ、〔…〕科学的な知識を根拠にして〔…〕妥当性を主張している。〔…〕

 

 それゆえに、わたしたちが共有している知識の妥当性が――とくに史的システムに関する知識から〔…〕引き出す結論の妥当性が――』問われなければならない。それが、実質合理性とは何か・をめぐる論争の中心的な論点である。したがって、ユートピスティクスにとっては、知識の構造や・社会的世界の機能』のしかたについてすでに知られていることがらを、周到に再考することが必要である。』

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.13-14. .

 


 つまり、偉い人が “正しい” 真理を見いだして政治を行なうという「哲人政治」ならば、「科学」は必要ないかもしれません。しかし、《民主主義》を通じて意見をまとめるには、「科学」による「システムの正統化」が必要なのです。「哲人」が考え出したシステムを実行するのでなく、《民主的》な討論によってシステムを創り上げようとする以上、何が「実質的に合理的」なものか〔そこには、異なる価値のあいだの選択も含まれる〕をめぐる説得が必要です。説得は、科学に基く「正統化」によってなされるほかありません〔そうでなければ、暴力によるか、権威と信仰で「正統化」するほかはない。どちらも「説得」にはならない〕。「何が正しいか」を知るだけでなく、異なる「正しい価値」のあいだの比較と選択が必要であるからこそ、「科学」の出番があるのです。

 

 

オフィスでのビジネス英語。©englishhub.jp. 市場独占を合法化する国家の措置

として長期的に重要なものに、「世界市場において特定の言語あるいは通貨

使用を強いる努力がある。…それが国家によって支えられていることは、

少し考えれば容易に分かることである。」(『ユートピスティクス』,p.66.)

 

 


【4】 「転移の困難」とは? ――「有力者」にとって。

 

 

『わたしたちは、現存の世界システムつまり資本主義世界経済から、別の世界システムあるいは諸システムへの過渡期に生きている。〔…〕過渡期が、それを生きるすべての人びとにとって非常に困難なものとなるのはたしかである。有力な者(the powerful)にとっても〔…〕、庶民 (ordinary peaple)にとっても〔…〕。それは争いが起こり、混乱がさらにひどくなる時代とな〔…〕るだろう。〔…〕

 

 それはまた、「自由意志」の要因がその最高潮に達する〔…〕時代となるだろう。〔…〕個人と集団の行為が、〔…〕大きな影響を将来の世界の組織化に与えうるという意味で〔…〕。』

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.63. .

 

 

 そこで、「過渡期の困難」が、「有力者にとっての困難」と「庶民にとっての困難」に分けて述べられます。まず、過渡期において「有力者の直面する困難」。

 

 この「困難」は、主として、「近代世界システム〔…〕最も弱い環である資本主義的生産様式・の持続的生存能力」が低下してきたことに起因しています。

 

 「資本主義とは、無限の資本蓄積を許しかつ正当化するシステムである。」「資本蓄積」は、売却価格 y と生産費用 x の差額、つまり利潤を積み上げることによってなされます。そこで、有力者の逢着する「困難」もまた、コスト x を可能な限り低下させ・製品価格 y を可能な限り高いまま維持しようとする彼らの努力との関係で見ていく必要があります。

 

 「多額の利潤を獲得するのは、わたしたちが考えるほど容易ではない。〔…〕競争は〔…〕利潤を獲得するのに不利にはたらく。〔…〕競争は価格を引き下げ、したがって利潤〔…〕を縮小するからである。」

 

 したがって、利潤を高める一つの方法は、競争を排除することです。たとえば、市場においてシェアを拡大することで、競争の影響を緩和することができる。しかし、実際問題として一企業が「所与の市場を占有できる程度は、その大部分が国家の措置に依存している。」つまり、「価格は主として、ある限度内で政治的に決定される。〔…〕それゆえ y すなわち販売価格を引き上げようとする資本家にとっては国家が重要である。〔…〕資本家たちが何らかの地位やつながりを持つ国家が、重要なのである。

 

 日本の資本家は主として日本国家に依拠しているが、〔…〕彼らはまたインドネシア合州国」各国家「にも依拠していると言えるだろう。」

 

 

「連合」のメーデー中央大会で、「物価高に負けない賃上げを必ず実現する」と

訴える石破首相。2025年4月26日。©毎日新聞。 自民党は、長年の労働組合

撲滅政策に成功した “対価” として、インフレ,不況と関税の圧迫の中での

賃上げという困難な課題を自ら引き受けるはめに陥っている。

 

 

 「しかしながら、販売価格〔…〕は2つの要因〔…〕によって決まる。」その一つは「市場占有率」だが、もう一つは、その「市場における有効需要」である。そして、「有効需要」の大きさを決めるのは、けっきょくのところ「消費者の所得」であり〔すべての生産は、生産財も消費財も、最終的には消費を目的とする〕、それは全社会的に見れば、けっきょくのところ、彼ら資本家が支払う「賃金」の額によって決まる。

 

 そこで、資本家は、相反する要求のジレンマに立たされることになる。賃金を多く支払えば、「消費がより多くな」り、「それだけその時点での有効需要が増大する。」結果的に市場価格を高騰させ、より大きな利潤率からより大きな資本蓄積を期待することができる。しかし、賃金をより少なく支払えば、貯蓄と「投資が多くな」り、それによって直接に「資本蓄積」を増大させることができる。けっきょくのところ、「賃金総額」は、「大きければ大きいほど潜在的利潤が高くなる」、「小さければ小さいほど当面の利潤が高くなるということである。」前者は、「世界経済」全体を見る観点では明らかなことだけれども、「個々の企業」にとっては、いつも後者こそが当面の課題である。

 

 そうすると、話は、賃金をはじめとする「コスト」の問題に移っていかざるをえない。

 

 「生産費はおおまかに3つに、つまり、賃金,租税,機械と原材料の購入費用に三分割できるだろう。」しかし、このうち「機械・原材料費用」については、生産者の努力はもっとも稔りにくい。たしかに、彼らは、インプットの価格を引き下げようとして、政治的手段にさえ訴える。関税の引き下げ、あるいは引き上げ、海外/国内ともに、自分以外の産業集団が価格を上げられないように/下げられないようにする措置を求めて運動する。しかし、同業者の間には競争があるので、インプットの価格切り下げは、それに応じてアウトプットの価格を引き下げるだけに終るかもしれないのだ。

 

 アウトプットの価格引き下げは、有効需要を増やして利潤の総量を大きくするかもしれないが、それによって個別生産者の最適規模を越えて生産を拡大し、新規参入者を増やし、けっきょく利潤率を低下させてしまうことは避けられません。

 

 「生産者たちはそれゆえに、賃金や租税を引き下げようとして多くのエネルギーをついやす」。「賃金」については、↑上で述べたようなジレンマがある。中期的・世界的な観点で見れば、コストがかさむからといって賃金を引き下げれば、有効需要を減退させて「破滅的な」利潤率低下をまねくこととなる。

 

 「租税」に関しても同じことが言える。「租税は、生産者にとって必要なサーヴィスにたいする支払である。」そこには、「所与の生産者集団のために市場の部分的独占を保障する国家の努力」もふくまれている。「それゆえ、あまりにも低い税率は」生産者にとって「否定的な結果を生む」。

 

 けっきょくのところ、賃金と租税は「資本家たちにとって〔…〕必要な試練の場であり、最も抜け目ない者と〔…〕最も政治的に強力なコネのある者が勝利するゲームなのである。」

 

 しかし、私たちに関心があるのは、その歴史的傾向である。過去何世紀かを見れば、「地球規模においては」賃金も租税も「歴史的に重要な上昇が長期間持続して」きた。最近の「賃金と租税を削減しようとする大規模なイデオロギー攻撃〔「新自由主義」の〕」に眼を奪われると、この長期的現実を見落としがちになる。

 

 

「整理解雇者など187人の全員復職」を求めて、高さ80メートルの煙突上で

座り込みを続ける全国金属労組支部の労働者。韓国、京畿道平沢、双龍

自動車工場。ハンギョレ新聞、2015年2月10日付。 日本など先進国から

の「産業移転」に頼らざるをえない中進国は、労働コストの低さだけ

が売りだ。低賃金・長時間労働も、不安定な雇用環境も、改善は難しい

 

 

 賃金は、労働者という人間の「再生産費」が最低ラインとなる、そしてこの最低ラインに抑えつけられる、と指摘したのはマルクスだった。が、19世紀後半以降の中核諸国では、賃金は最低ラインを越えて上昇してきた。労働者の「再生産費」に上乗せされる「剰余価値部分は、職場や政治的闘技場 アリーナ で闘われる階級闘争の成果である。」

 

 しかし、「賃金上昇が、所与の生産者集団にとって重荷に思えはじめ、政治的闘技場で政治的にそれと」闘うことも困難になってくると、彼らは、生産の場を、より賃金水準の低い地域や諸国へ「再配置することによって解決」しようとする。それは、「労働者が政治的に弱い地域」でもある。「歴史的には、最も弱い労働者集団」は、「あまり貨幣経済の浸透していない農村地域から都市の」工業生産地域に流入してきたばかりの人たちである。

 

 ところが、そのような・労働者の政治的弱さの条件は、「長期に持続するものではない。」中核諸国の歴史では 30-50年程度で克服されている。現在の半周辺周辺地域では、もっと「短期間に克服できるだろう。」したがって、中核から半周辺周辺地域へ「移動する生産者〔…〕からすれば、移動の利益はかなり一時的なものであり」、中期的に繰り返し移転して行かねばならない。これが、「資本主義世界システム」の 500年間にわたって繰り返されてきた。

 

 「しかし、地球上の移転可能な諸地域の割合を示す曲線は、ひとつの漸近線〔限界――訳者註〕に到達しつつある。」生産者の移転が困難になるにつれて、「労働者の交渉力は世界的に増大する。」この結果現れた「グローバルな・賃金の上昇傾向」は、「資本主義世界システム」そのものの存続を困難にする。

 

 他方で、「租税」に関しても、趨勢は限界線に近づいている。「歴史的な増税傾向をもたらした」原因は、ひとつには、「生産者がさらに多くのサーヴィスと財政的再分配を国家に要求し」たからであり、もうひとつは、他の人びとも「民主化」を旗印として、同じことを国家に求めたからである。「労働者も資本家も〔…〕、国家のさらなる支出を」要求し、その反面で誰もが増税には抵抗する。こうして「国家の財政危機」が深刻になっている。

 

 限界線に近づいている第3の曲線がある。「生存条件の枯渇に関する曲線である。」エコロジーの危機は、「生産者の利潤の圧縮をもたらし、国家の財政危機を」さらに進行させている。(pp.64-79.)

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ