ダビド・アルファロ・シケイロス『挑戦(El Desafio)』1954年。 ©Wikimedia.

シケイロスは、メキシコ・社会主義リアリズムの画家・壁画家。社会主義

芸術運動に参加し、投獄と国外追放ののち、戦後はメキシコ政府の依頼

による多数の巨大壁画を手がけたが、政治的誹謗による投獄にも遭う。

スターリン主義者とされ、トロツキー暗殺未遂に関与した経歴もある。

 

 

 

 


 



【4】 開発援助と福祉国家? それとも民族解放?

 

 

 20世紀初め、“アジアの勃興” に駭いたヨーロッパの自由主義者は、この非ヨーロッパ世界という「危険な階級」を飼い馴らすための戦略として、19世紀に〔ギトン註――ヨーロッパの労働者階級の手なづけで〕成功〔…〕した戦略をもう一度遂行しようと再び勇を奮った。〔…〕

 

 一方で、非ヨーロッパ世界の民族解放運動は、〔…〕植民地・帝国主義権力に〔…〕ますます圧力を加え〔…〕、この過程の強度は、第2次大戦後の 25年間に極大点に達した。

 

 他方で自由主義者は、民族自決(19世紀の…普通選挙の対応物)と・低発展諸国の経済開発(福祉国家の対応物)というプログラムを世界規模で提供し、それこそが非ヨーロッパ世界が本質的に必要としているもの〔…〕だと主張した。

 

 1945-1970年の期間には、世界のいたるところで、旧左翼が、基本的にこれらの自由主義的な政治プログラムに立脚して権力を獲得した。ヨーロッパ/北米では、旧左翼は、政党として完全な政治的正統性を獲得したうえ、完全雇用福祉国家を実現した。それは、反システム運動がそれまでになしとげたいかなる成果よりも、はるかに大きなものであった。


 世界の他の地域では、民族解放/共産主義運動が、多くの国で権力を獲得し〔…〕国民経済の開発プログラムを実施した。〔…〕

 

 1945-1970年の期間は、〔…〕資本主義世界経済の歴史において最も顕著な〔ギトン註――コンドラチェフ循環の上昇〕A局面であり、地球のあちこちであらゆる種類の反システム運動が権力の座に就いた時期でもあった。〔…〕資本主義世界経済のあらゆる地域が、事実として「発展している」という幻想(つまり希望と信頼)が、みごとに醸成された。〔…〕

 

 しかしながら、〔…〕彼ら〔権力の座に就いた反システム運動――ギトン註〕は、システムを転覆したわけではないし、真に民主的で平等主義的な世界を獲得したわけでもない。〔…〕せいぜい〔…〕パイの半分』を獲得した『といったところであっ〔…〕た。』それでも、『この時点では、開発主義的・改良主義的目標』を目近かにぶらさげた彼らの政権は、大衆に支持されていた。それというのも大衆は、『いずれパイのすべてが自分たちのものになる〔…〕と心底確信していたからであった資本主義世界システムに組み込まれている以上、そんなことはありえないのだが――ギトン註〕。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,pp.90-91,93-94. .

 

 

 「周辺部」の人びとの・そのような思い込みは “まちがいだった” “幻想にすぎなかった”、と言って片づけることはできません。彼らは、自分たちの運動――独立運動にせよ、共産主義 “革命” 運動にせよ――の成果として「漸進主義というものが実際に可能であるという」手ごたえを得ていたのだからです。ただそれが、当初高々と掲げられた “約束” とは大きく異なる未来に彼らを導いたこともまた、事実なのでした。

 

 「自由主義者が天才的だった」のは、こうした推移を背後から後見し・もたらすことによって、「大衆諸力を」みごとに抑制してしまったという点である。彼らは、「自由主義者に敵対する〔…〕急進主義/社会主義」者をも、自由主義の亜流に変身させてしまい、「専門家/エリートによって管理される〔…〕改革」という「自由主義の教義」を、彼らを通じて大衆に信じさせる離れ業をやってのけた。

 

 とはいえ、そうなると・不可避な成り行きとして、いつの日にか大衆は、「旧左翼の諸運動」の「急進主義/社会主義」が掲げた目標は、“すべて幻想だった” と気づくことになる。それもまた、“約束” された現実の未来なのだった。そして、その「[ある日]は〔…〕もうすでに来てしまった」、1968年と 1989年に。(pp.91-92.)

 

 

シケイロス『革命の弾圧(La Represion de la Revolucion)』1965年。©Wikimedia.

 

 


【5】 1968年以後――

「世界システム」の変化と東アジア

 

 

 ここにおいてもまた「東アジアの特殊性が見てとれる。」

 

 ウォーラーステインが「特殊性」と言っているのは、どんなことなのか? ‥‥それは、この 1968-89年ないし -95年の時期に、東アジアだけが、世界システム全体が向かっていたのとは逆方向に動いていた、ということなのです。

 

 もっとも、すべてが「逆方向」だったわけではありません。たしかに、1968-69年――ウォーラーステインの言う「1968年世界革命」――の激動は、中国や日本にも及んでいました。そこでは、「アメリカによって支配された世界システム」への非難と、「自由主義の教義の化身に成り下がっ〔…〕〔…〕旧左翼の失敗」への批判が中心的な論題でしたが、毛沢東はこれらいずれも巧みに利用し、日本の諸政党は左右ともに防戦に必死でした。が、「1968年世界革命」それじたいは、表面的には “はしか” のような一過性の騒乱でした。それが収まった後で現れた状況が、東アジアと、世界のその他の部分とでは異なっていたのです。その違いは、経済変化の動向――東アジアの「勃興」と,世界の衰落〔コンドラチェフB局面――に限られませんでした。

 

 そこで、まずは 1968-95年の状況について、事実として何があったのかを概観してみましょう。

 

 「1968年世界革命」は、直接の政治的成果を現出させることはなかったけれども、思想界ないしジオカルチュアに、2つの・後戻りできない「持続的効果」をもたらした。 ひとつは、直ちに現れて持続し、 もうひとつは、20年後に初めて顕在化した。

 

  直ちに現れた効果は、「中道自由主義というコンセンサスが崩壊し」、「保守主義」と「急進主義」が「自由主義」の圧倒的影響下から脱して、おのおのの本来の方向に向かい始めたことです。「保守主義」は、「新自由主義という偽名をまとって復活した。」「急進主義/社会主義」は、緑の党,ラディカル・フェミニズム,新左翼など「さまざまな意匠のもとに復活をめざしたが」、しばらくすると、東欧ソ連の共産主義崩壊は、旧左翼とともに・この新潮流にたいする信用をも失わせた。

 

 「1968年」のもうひとつの影響は、「革命の意匠で漸進主義を説いてきた旧左翼〔…〕にたいする大衆の信認が失われたことである。」その失墜の絶頂は 1989年頃の「社会主義圏」崩壊で、したがって「世界革命」の影響がこの面で顕在化するには 20年ほどかかったことになる。

 

 「1968年からの 20年間は〔…〕コンドラチェフ波動のB局面に正確に対応している。」それに先立つ 1945-70年のA局面は、史上もっとも顕著な上昇局面であっただけに、そこで醸し出された「発展」の幻想は大きく、それだけ、この下降局面での幻滅もまた劇的なものとなった。

 

 

株式会社ポスコ 浦項製鉄所韓国の3大製鉄所の一つ。1965年日韓条約

に伴なう請求権協定資金(植民地支配の賠償金)をもとに建設され、

1973年に操業を開始した。©Wikimedia.

 

 

 「B局面」の到来によって「明らかになったのは、〔…〕開発途上国の」「開発」発展は、実際にはひじょうに狭い範囲でしか現実のものとはならない、ということだった。というのは、中核」先進地域から「途上国」に移ってくるのは、先進国ではもはや利潤を上げられなくなった「おさがり」の産業だったからだ。繊維産業は言うまでもなく、鉄鋼業も同じだった。――ただし、1968-89年期の東アジアでは、例外的に、その “恩恵”〔※〕 がかなり広い範囲で現実化したのです。

 註※「恩恵」: この期間に「東アジア」域内では、植民地統治による「近代化」の「恩恵」を強調する日本の政治家の発言が、韓国,北朝鮮,ときには中国の官民からの非難を浴びる、ということが繰り返されました。しかしその本質は、同時代の「産業移転」――パイの切り分け,お裾分けのある者と無い者――をめぐるイデオロギー戦争が、過去の評価問題の姿をまとって噴出したものでした。同様のことは、やや後に争点化した「強制徴用・慰安婦問題」にも言えるでしょう。

 

 「B局面〔景気後退の〕直接のインパクトは、アフリカのような・もっとも無防備の地域に、もっとも激しい影響を及ぼす。〔…〕実質的に、このB局面がもたらすマイナスのインパクトを〔…〕免れたのは、東アジアだけであった。」

 

 プラスのインパクトにせよ、マイナスのインパクトにせよ、ある地域が被る場合には、影響は地域内の各国に均等に及ぶ。 「B局面」のインパクトが〔先進国からの産業移動が利潤をもたらして〕プラスに働いた場合でも、「所得水準と資本蓄積の可能性という観点からすると、恩恵を受け」るのは少数の人びとであって、地域人口の大部分には及ばない。地域内格差は拡大するのがふつうだ。

 

 ところが、この局面の東アジアでは、例外的に、「地域内格差の拡大は、相対的に低かったのである。」つまり、1960年代までの発展で先に進んでいた日本は、この時期には成長が鈍化し、韓国,台湾,中国がめざましく追い上げる現象が見られた。ウォーラーステインは、「格差の拡大は〔…〕低かった」と述べていますが、私たちの記憶では、むしろ明らかに格差は縮まっていました。(pp.86-89.)

 

 

ニクソン・ショック(1971年)。アメリカのニクソン大統領は①1971年7月15日

中華人民共和国を訪問して国交を樹立することを表明、②翌月15日には、金・ドル

兌換停止を電撃発表した。これにより、①米中ソ冷戦と②基軸通貨ドルによる戦後

世界秩序は大きく変更された。↑72年2月北京を訪問して毛沢東主席と握手する

リチャード・ニクソン。 ©New York Times.

 

 


【6】 1968-1989 ――「世界システム」の

後退と東アジアの勃興

 

 

『いわゆる東アジアの勃興は、〔…〕コンドラチェフのB局面に起こったものであり、それはちょうど、アメリカのヘゲモニーの衰退の局面の始まりにあたっていた。〔…〕

 

 コンドラチェフのB局面に』は、『つぎのような一般的特徴がある。生産からの利潤が低下し、大資本は金融の領域に利潤追求活動の場を転換する〔…〕。世界規模で賃労働が減少する。』中核の生産過程で利潤が低下する結果として、『生産活動の〔ギトン註――周辺,半周辺への〕配置転換が深刻な課題となり、〔…〕雇用』コストを節約しようとする圧力は、中核諸国間の『競争の激化の要因となり、各国は〔…〕失業をよその国へ押しつけようとしあう〔…〕。これが、為替レートの不安定化を招く。〔1968-89期には、じっさいにこれらのことが、日本をふくむ先進国間で起きていた。――ギトン註〕〔…〕


 このような時代が、すべての者にとって悪いというわけでは決してない。〔…〕B局面の特徴の一つとして、生産活動の配置転換があるわけであるから、世界システムのどこかある地域にとっては、〔ギトン註――先進産業を受け入れることで〕経済的地位が相当程度に改善し』ても『おかしなことではない。

ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,pp.83-84. .

 

 

 はじめ「1970年代の段階では」、メキシコ,ブラジル,韓国,台湾が「NICs」〔New Industrial Countries 新興工業国〕と呼ばれていましたが、「1980年代までにメキシコとブラジルはリストから姿を消し、1990年代に入ると、[東アジアの勃興]という声しか聞かれなくなった」。東アジアが、B局面による産業移転の「最大の受益者であ」った。

 

 「1945年の段階では、ブラジルや南アジアインド等〕の経済状況は、実際上東アジアの経済状況とまったく変わるところが無かった。」そのうちどれが「戦後世界で大躍進を遂げ」てもおかしくなかった。しかし、東アジアが「ブラジルおよび南アジアに対して〔…〕異なっていたのは、冷戦の地理的側面〔…〕その最前線に立っていたこと」と、それゆえに「アメリカの見方」が異なっていたことだった。「日本は、アメリカからの経済的支援はもとより、朝鮮戦争からも〔…〕経済的利益を受けた。韓国台湾も、冷戦という理由によって経済的,政治的,軍事的に支援(〔…〕過保護)されてきた。1945-1970年の時期のこのような差異が、1970-1995年の時期に、決定的な優位となってその意義を表してきたのである。

 

 つまり、日本や東アジアが 20世紀後半に「勃興」したのは、「江戸時代の商業発展」のおかげでも、明治維新が偉かったせいでもない。戦後アメリカが “冷戦” の堡塁として、甘い蜜を垂らして檻に入れて育て上げたせいだ、と言うのです。これは重要な指摘です。たしかに、そのように考えなければ、はやばやと「近代世界システム」の当初からそこに組み込まれていたラテン・アメリカや、比較的早くから「第2のヘゲモニー国家」イギリスの馴致を受けていたインドを急速に追い抜いて・東アジア諸国が抬頭した理由を説明できません。

 

 

湾岸戦争(1991年)後、フセイン政権下のイラクからトルコ領に

避難するクルド人難民。 ©Wikimedia.

 

 

東アジアの勃興の経済的帰結として、戦後世界の経済地理は変容してしまった。1950年代には、アメリカ資本蓄積の唯一の主要な中心であった。〔…〕西ヨーロッパおよび東アジアの勃興は、必然的に、アメリカに根拠を置く経済構造〔ドル基軸通貨体制,中核-周辺システムなど――ギトン註〕の役割の低下を意味する』。その結果、アメリカの財政は悪化した。1980年代には、アメリカは、その軍事的ケインズ主義〔軍事的財政膨張とバラ撒き――ギトン註〕のツケとして莫大な対外債務を抱えるようになり、〔…〕アメリカの軍事的活動の遂行能力にも大きなインパクトを与えた。たとえば、湾岸戦争〔1990年。米国ほか多国籍軍 vs イラク――ギトン註〕における』軍隊の出動は、サウジアラビア,クウェート,ドイツ,日本の資金調達〔…〕に依存するものであった。

ウォーラーステイン,山下範久・訳『新しい学』,2001,藤原書店,p.85. .

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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