新疆ウイグル自治区の西端カシュガル。2012年ころ。バザールに向かう人びと。
白樺の並木は現在でもあるが、中国政府肝いりの「近代化」で、
このような風景は見られなくなっているようだ。
【73】 「組み込み」――プランテーションと問屋制
[2]「意志決定体」となる「大規模な結節点の創出」は、「外延部」が「資本主義的世界経済」に「組み込まれる」過程で・その地域に生ずる重要な変化である。それは、2種類の形態をとる。一つは、[2a]「巨大なユニットでの第1次産品生産の結節点であり、プランテーション型」と呼ぶ。つまり、生産の現場で意思決定単位を大規模化することである。
いま一つは、[2b]生産点より “川しも” の「商品連鎖〔…〕の段階で、大きな結節点を創るものである。」この結節点において、“川かみ” のすべての生産点を統括して意志決定を行なう。このような大商人を、フランス人は「ネゴシアン」と呼ぶ。ウォーラーステインは「マーチャント=バンカー」とも呼んでいます。日本の旧い用語では、「問屋」ないし「問屋制」がこれにあたるでしょう。
このような「大商人」は、たんなる取引の独占や寡占ではない。「ネゴシアン」「問屋」として機能しうるためには、多数の「小生産者を従属させることが決定的に重要であった。〔…〕もっとも簡単で効果的」な従属の方法は、「前貸し金」などを貸し付けて一種の債務奴隷とするやり方であった。このようなネットワークが大規模であればあるほど、「世界市場」への対応は容易であった。大規模なネットワークをもつ「問屋」は、「もっとも利益の上がりそうなやり方で、生産のパターンを急速に変えることができた」からだ。
インドの4大輸出作物――インディゴ,棉花,絹,アヘン――のうち、「インディゴが最も[2a]プランテーション指向型であった。18世紀の最後の4半世紀には」、新大陸から西ヨーロッパへのインディゴの供給が途絶したため、インドで「多くのイギリス人民間業者が」インディゴの「プランテーションを創設した。〔…〕彼らはまた、小規模な生産者に信用〔資金の前貸し〕を提供したが」は、資金の回収に急で、たいていはまもなく土地を没収して地主化した。したがって、インディゴの場合には、「前貸し」は土地兼併〔プランテーション拡大〕の手段として機能した。プランテーションでの直接生産でも、小生産者に「前貸し」する場合も、「インディゴのプランターは、生産に関する基本的な決定権を保持していた。」
原棉生産では、[2b]「前貸し」による小生産者支配の比重が・より大きかったが、〔インド内の手織り業者に棉花を供給する生産から〕輸出指向型の原棉生産に移行するにつれて、商人=高利貸し資本による「生産の掌握傾向が強まり、地代や利子の実質的負担も過重になった」。こうして「プランテーション型」に近づく傾向が見られた。
「アヘンの場合は、東インド会社を通じて国家による独占的販売権が成立した。」そこでは、東インド会社が、[2b]「問屋」にあたる大規模な「意志決定体」の役割をした。会社は、「ケシの種蒔きのための土地づくりから、最後のカルカッタでの競売までの全過程」で「予約栽培制度(資金前貸し)」を活用して生産・流通に介入した。東インド会社は、インドでのアヘン「生産の質と量を管理し、価格を統制」することによって、「中国市場における国際競争を」コントロールすることを自ら可能にしたのである。
こうして、インドの「取り込み」すなわち植民地化の過程では、たんなる商業→「前貸し」による生産者支配→プランテーション型、という移行段階が見られた。東インド会社が現地に設けた「商館というものは、船荷を売買する場所から、特別注文を発する場所となり、さらに、」注文した生産を「促進するために・資金を前貸しする機能をはたし、ついには、前貸し制度を通じて生産を組織し、作業場を経営する」に至る。ただし、[2b]問屋制「前貸し」と[2a]プランテーション型「直接栽培」とは、プランター(問屋)の眼から見れば一長一短があった。後者はコストがかかりすぎ、前者は農民の不満を引き起こしがちであった。
インド・マルワ地方のケシ(オピウム・ポピー)畑 ©Wikimedia.
オスマン帝国でも、[2a]「チフトリキ〔Çiftlik〕」という一種のプランテーションの勃興が注目されている。「チフトリキ」は、「輸出指向の換金作物生産」と結びついて広がった大土地所有である。「1720年代からバルカン半島で」輸出用「棉花やトウモロコシの栽培」とともに広がった、とされる。また、「北西部ブルガリアにおけるチフトリキの成長を、大規模な換金作物栽培地ユニットの出現と把え〔…〕投資と資本蓄積の主体と見」る見解もある。「チフトリキ」によって「開墾と土地改良」が進んだこと、「沿海部に位置しており、外国との商品貿易に結びついて」発展したこと、反面、「債務による村民の緊縛」があったことも指摘されている。
「エジプトについても、19世紀における〔…〕棉花生産の勃興は、大所領の誕生と結びついていた。」1840年の英国下院での証言によれば、エジプトの農民が棉花のような新しい作物に手を出すことは、課税のリスクも、商人に騙されるリスクも伴なう。しかし、エジプトの「資本家たちは、滞納された地代〔地租?〕を肩代わり」してやり、土地を買い集めて「農民を日雇い労働者として雇」って大規模な綿花栽培を行なっているのだという。(pp.175-177,217(145)(147).)
【74】 「組み込み」――労働の強制手段と土地制度
「[世界経済]への組み込みの過程は、[2]比較的大規模な意志決定のユニットを創り出した。〔…〕こうした大規模なユニットは、」それがどう「変化するかで、蓄積の可能性」が大きく変った。「また、〔…〕十分な資本と商品を管理すること」で「世界市場にたいしてもいくらかの影響力をもちうることから」、それによって世界市場の「変化への適応力を高めること」ができた。しかし、大規模ユニットの適応力を高める要因は、「資本と商品」の管理能力だけではない。十分かつ伸縮自在な「労働力を獲得する能力」、しかも、「生産物を競争可能にできる程度の」コストでそれを入手しうる能力が求められた。
「労働者、とくに農業労働者にとっては、〔…〕プランテーション型の組織内での換金作物生産に使われることは、本質的に〔…〕魅力のないことであった。」なぜなら、そのような境遇では、自営農民あるいは小作人として自給生産を行なっていた時とは違って、「生存」と「相対的安寧をさえ保障していたあらゆる種類の自給の習慣を維持する時間も〔…〕その物理的条件もなくなったからである。そこで、「[世界経済]に組み込まれつつあった地域では、市場向け生産を行なう生産者」は、労働者たち,小農民たちのいやがるような労働を強制する必要があった。毎日「しかるべき場所で、しかるべきリズムでの労働を、直接・間接に強制する必要があった」のである。
この[3]「労働の強制」を見る場合、そこには2つの側面があることに留意する必要がある。ひとつは、言うまでもなく労働の強度がより苛酷に、つまりより効率的になる側面であり、かつ労働者個人にとっては1日/1年/生涯 の労働時間がより長時間になる側面である。
しかし、他面においてそれは、労働者なり自営農民なりが、「自己の仕事に関してどこまでの選択の幅を認められているかという問題」すなわち彼らに「公式に認められた権利や法的地位の問題」でもある。当該過程について言えば、「意志決定」を可能な限り直接生産者から奪って「大規模ユニット」の経営者に集中することが要請された過程なのであるから、そうした選択権の幅は、言うまでもなく狭隘化の一途をたどっだ。
アヘン(オピウム)の採取。ケシの果実(ケシ坊主)に傷をつけて、漏出した果汁
を乾燥させたアルカロイド樹脂が「アヘン」。麻薬として密売されたほか、モル
ヒネ,ヘロイン,コデイン等麻酔剤・鎮痛剤の原料となる。 ©Wikimedia.
1600年頃までの「ムガール帝国」下におけるインド人と、1900年頃のインド人とを比較すると、どの研究によっても、境遇は・より悪くなっている。
「1人あたり農業生産」は、両年代において差がないだけでなく、1600年時点でインドと西ヨーロッパを比較しても、インドは西ヨーロッパにたいして「遜色がない」。ムガール朝下の「インドの平均的な人は、同時代のヨーロッパ人より栄養状態が良かった」との研究結果もある。他方、インドの「平均の食糧消費の水準は〔…〕1960年代のインド」よりもムガール帝国時代のほうが「明らかに高かった」と見なせる統計データは少なくない。つまり、インドの〔1人当り〕食糧生産は、イギリス人の影響と統治によって増えたわけではなく、平均的インド人の食糧消費と生活水準は、イギリスの統治によって低下した――ということなのである。
ところが、「1750年以後に[世界経済]への組み込みが始まるやいなや、ベンガルの農民は怠惰だ、というイギリス人の不満の声を聞くようになる。この[怠惰]」への「対策は、すぐに見つけられた。〔…〕[前貸し]制度である。」この制度は、「換金作物生産が行なわれるようになったすべての地域で、労働強制の主要なメカニズムとして」出現した。
この時に、東インド会社によるイギリスの植民地統治のもとで成立したのが、[3a]「ザミンダーリ」「ライオットワーリ」という2つの「土地保有システム」である。
ベンガル(現・バングラデシュ)北部・ウリプル近郊に残る
ザミンダール・ムンシ家の居城。©Wikimedia. ムンシ家は、この地方
で土地を集積し、「ムンシバリ」と呼ばれる藩王国を築いていた。
「ザミンダーリ制度は 1793年[永代地租固定法]〔租税額を固定したうえで、その徴収を伝統的支配層であるザミンダールに請け負わせ、ザミンダールを地主と規定した。一種の秩禄制〕によってベンガルに植え付けられた。」この制度の下では、本来は自らの土地で生活していた農民(ライオット)は、ザミンダールの小作人の地位に落とされ、「地代の引き上げや追放をこうむる」こととなった。じっさいに「地代は上昇し、追放も一般的となった。」その反面、従来は重層的かつ曖昧だった農地の所有権が一本化されて土地売買が容易になり、「土地の商品化」による「資本蓄積」が可能になった。その結果、新しい「換金作物」の栽培が広がり、追放された農民の群れという「新たな労働力も確保された。」
「ライオットワーリ制度は、」ザミンダールのような農村支配層が脆弱な地方に施行された変種で、土地所有権はライオットに与えられた。当初マドラスで採用されたが、北インド、南インドにもライオットワーリ地域が設定されている。しかし「実際のところ、法的所有権を得たライオットは」最下層の農民というわけではなかった。むしろ大抵は、「比較的高位のカーストに属する村指導者」が「ライオット」として公認された。彼らは「自ら耕作者でもあったが、」ザミンダールと同様の徴税請負人=地主の役割をもはたしており、「より下層のカーストに属する直接生産者」を監督する役目をつとめた。
注目すべきことは、これらの「法的所有権に前貸し制度が加わると、かなりの強制力を持ちえたということである。」
インドの織布工(18世紀)。Unknown artist: "An Indian weaver and
his wife", 18th century, Miniature of the Tanjore school,
National Museum of Denmark. ©Wikimedia.
他方、[3]「綿織物の織布工」「製塩業」「硝石生産」のような工業部門でも、労働の強制手段としての「前貸し」が力を発揮した。
1787年「ベンガルで施行された織布工規制令によれば、いったん東インド会社から前貸しを受けると、織布工は製品を同社に売り渡すことを」義務づけられ、「第三者に売ることは違法とされた。東インド会社は織布工に」規制令と契約を守らせるために「監視人をお」いた。その結果、織布工の「経済状態は目に見えて悪化し」た。「織布工は職を失って貧窮化した」。「東インド会社は、この政策を南インドにも拡大〔…〕適用した。」
1770年代にイギリスがオランダ人,フランス人の排除に成功してインドを “独占” すると、イギリス東インド会社は織布工に対する支配を強化していった。織布工が受け取る労賃は低下し、労働の加重によって「[畑仕事の副業として]織布にあたる」ことは不可能になった。こうして、実質収入は激減した。1848年にマンチェスター商業協会が述べた証言は印象的でさえある:「インドはその安価な労働力によって、アメリカの奴隷労働とも、つねに競争できるのであります。」
「塩の生産」と「硝石生産」では、労働者に対して、強制的な「前貸し金」貸付けが活用され、「一度人が雇用されると、〔…〕子孫に至るまで[永久に]緊縛され」てしまうとまで言われた。「前貸し金は、しばしば労働者となりうるかもしれない人物の家の戸口に投げ入れられた」。「前貸し金」を拾い上げたが最後、誰も行きたがらない奴隷的な作業場に強制的に送られてしまう、というのであった。
この時期の「オスマン帝国」にかんしては、[3]「労働義務の強化」があまり論じられていない。しかしそれはたんに、その方面の研究が少ないせいかもしれない。「じっさい、労働強化〔…〕を推測させる材料もある。」それらはいずれも、「換金作物栽培」「負債の重荷」「農民の小作人化と賦役強化」という方向を示している。
マケドニアでは、[3a]「ますます債務農奴に向かう傾向〔…〕が強まった」が、それは、負債をムチとし、菜園の貸与をニンジンとしていた。「ルーマニアとドナウ川南部流域」では[3a]「政府が地方領主と協力して〔…〕農民層のほぼ全体を完全に隷属させ、〔…〕ますます抑圧的な賦役を要求する立法」を実施していった。シリアとアナトリアについては、この時期に、[3a]土地所有農民が分益小作人に転落する動きが目立っている。同時に、「換金作物栽培が領主をして賦役労働強化に向かわせ」ている。両趨勢は無関係ではなかろう。(pp.179-182,186-187.)
【75】 「組み込み」―― 「外延部」と「三角貿易」
「ある地域が[世界=経済]に組み込まれると、そこに隣接した外部の地域が外延部」として「引き込まれることがよくある。」むろん、「外延部」も「世界=経済」の外部であり、「世界=経済」に包摂された「周辺」とは異なる。
「こうして、インドが[世界=経済]に組み込まれると、中国が外延部の一部となった。バルカン,アナトリア,エジプトが組み込まれると、[肥沃な三日月形]地域のかなりの部分やマグレブが外延部になった。ロシアのヨーロッパ部分が組み込まれた時、中央アジア――中国さえも――が外延部化した。西アフリカの沿岸部が組み込まれると、西アフリカのサヴァンナ地帯が外延部となった。」
新疆ウイグル自治区の西端カシュガル。メロンを売っている。
©すなふきん @https://4travel.jp/travelogue/11903852.
インドとロシアが「世界=経済」に組み込まれると、中国は
海と中央アジアの2方面から引き込みの圧力を受けた。
『外延部とは、「資本主義的世界経済」はその地域の商品を求めているものの・その地域は対価として工業製品を輸入することに――おそらく文化的に〔※〕――抵抗しており、』その地域は『政治的にも十分強力で』ヨーロッパ人の持ちこむ製品を買わない『選択を維持できるような地域のことである。
ヨーロッパは18世紀初頭以来中国の茶を買い続けてきたが、銀以外には中国に受け入れられる支払手段を発見できなかった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.187-188. .
註※「文化的抵抗」: 「外延部」が綿織物などの工業製品を受け入れなかった理由が「文化的」なものだった・というウォーラーステインの推測には疑問がある。ヨーロッパの初期の機械工業製品は、アジアの在来手工業製品と比べ質的に劣っていた。
‥‥そこで登場したのが「三角貿易」です。「三角貿易は東インド会社の発明」だった。まず、東インド会社は、1757年にベンガルでの支配を確立すると、「中国産の茶を購入するためにベンガルの銀を輸出し始めた。以後 70余年間、同社の中国からの輸入〔…〕の 90%は茶で」あり、輸入は「5倍に膨れ上がった。」
しかし、銀が中国に「流出」することはヨーロッパ人にとっては忌々 ゆゆ しい事態であり、英国本国では、貴金属の流出を止めろという強い圧力がかかった。そこで代替輸出品が模索されたが、当時あたかもイギリスの機械織り綿布が、インド在来の手織り綿布をヨーロッパ市場からもインド国内市場からも駆逐する動きが進行しており、東インド会社も積極的にインド在来綿工業を抑圧していた。そこで供給先を失ったインド棉花〔イギリス綿工業の原料綿花は、主に北米から供給された。〕の向け先として、中国がクローズアップされたわけです。しかも、中国が製造する綿織物は国内消費されたので、インドやヨーロッパの市場でイギリス綿布と競争する恐れがなかった。こうして「インド原棉の中国への輸出」が奨励され、銀の「流出」を減少させることとなった。イギリスは、イギリスの機械製綿織物をインドに売り込み、インド〔主に、グジャラート州〕の棉花を中国に売り込んで、中国から茶を輸入する「三角貿易」を推進した。
しかしながら、「原棉輸出」にも問題はあった、中国自身が棉花を生産していたからだ。インド棉花の中国での売れ行きは、「中国棉花の作況に」大きく左右された。「東インド会社は、〔…〕作況変動による経済的負担を、長期契約を通じて」中国の「[行]の商人に転嫁しようと」努めたが、限度があった。1820年代は中国棉花の豊作期で、イギリス東インド会社にとって「とりわけ困難な時代となった。」
そこでイギリス人は、棉花に代わる輸出品を探し、「マルワとベンガルで栽培されていた」アヘンを見いだした。中国ではアヘンは公式には禁止されていたが、「官吏の腐敗と〔清〕軍の脆弱さが重なって、中国の港はアヘン貿易に〔…〕事実上開かれていた。やがて」中国の「アヘン輸入が〔…〕多くなった結果、〔…〕立場が逆転し、」アヘン代金として「中国が銀を[輸出]しはじめた。「アヘン戦争」後 1842年「南京条約」によって、イギリスの「三角貿易」は盤石の基盤を獲得し、中国は「世界=経済」への「組み込まれ」の過程を歩み始めた。(p.188.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!