イスタンブール、トプカピ・サライ宮殿前にある「アフメトⅢ世の泉」©Wikimedia
チューリップ時代(1718-30年)オスマン・トルコの代表的建築物。
当時西欧で流行したロココ様式の影響を受けている。
【67】 「システム」2度目の拡大期――組み込み
前回に『近代世界システム』全4巻の最後まで行ったのですが、ここで、予告したように第Ⅲ巻に戻ってアフリカ・中東の「組み込み」過程を見ておきたいと思います。と言っても、この時期〔18世紀半ば~19世紀半ば〕に組み込まれた4つの地域〔ロシア,西アフリカ,インド,オスマン帝国〕のうち、「インド」と「オスマン」〔トルコ,シリア,エジプト〕だけ取り上げます。
なぜこの2地域を取り上げるかというと、東アジア史にたいしても示唆するところが大きいからです。東アジアが「組み込み」の対象となるのは、この「世界システム拡大の第2期:1750年頃~1850年頃」ではなく、次の 19世紀後半~20世紀初めのことです〔※〕。しかし、示唆するところが大きいと言うのは、似ているからではなく、目立って異なる点があるからなのです。(どんな点が異なるのかは、おいおい述べていきます。)
註※「東アジアの組み込み」: ウォーラーステインによれば、アヘン戦争 1839-・南京条約 1842 後「中国は、組み込まれていく過程を自ら歩み始める」(『近代世界システムⅢ』,p.188.)
「近代世界システム」に組み込まれるという原理的な点は同じなのに、それによって・組み込まれた側に生じた現象が、異なっているのです。この相違が何から来ているのか、私には今のところ解りません。ウォーラーステインの考えを知ろうにも、彼は、東アジアの「組み込み」については何も述べないまま逝ってしまったので、確かめようがありません。しかし、現象の違いは歴然としています。これは、東アジアの将来にも大きく影響する――それが、ヨーロッパとも西アジア・インドとも異なるという意味で――と見ているので、私はここにこだわってみたいのです。
相違の原因として、まず考えられるのは、各地域が元来持っていた性質の違い、ということでしょう。しかし、私は、その「性質の違い」の大きな部分は、「世界システム」の中核地域であるヨーロッパ(ないし環大西洋岸)との距離の相違だと思います。他方、ウォーラーステインの「世界システム分析」の枠組みから見ると、むしろ時期の違い,それによる「世界システム」の段階の違いが大きく影響しているはずだ――ということになるのだと思います。現在のところ、私にはこれ以上のことは解りません。
『おおむね 1733年頃から 1817年頃までの期間には、経済がふたたび拡張に向かう〔…〕、ヨーロッパを中核とする「世界経済」は、〔…〕新たに広大な地域をその分業体制のなかに、実質的に組み込んでいった。まず最初に〔…〕16世紀』から、『この「世界経済」の外延部に位置していた地域の組み込みが〔…〕始まった。〔…〕インド亜大陸とオスマン帝国,ロシア帝国と西アフリカである。〔…〕
18世紀後半、〔…〕こうして、すでに展開していた資本蓄積の過程への』↑4つの地域の『組み込みが開始された。この4つの地域の〔…〕組み込みの過程は、〔…〕起こった時期も同じなら、基本的な特徴もたいへんよく似ていた。〔…〕組み込みの過程は、〔…〕「世界経済」の側に・境界を拡大する必要が生じた結果として、行なわれたものである。〔…〕そうした必要性〔…〕は、この「世界経済」に内在する圧力から生じた』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.156. .
アヘン戦争(1839-42)。エドワード・ダンカン『イギリス東インド会社の汽走軍船
ネメシス号に破壊される清軍のジャンク兵船 1841年1月7日』1843年。©Wikimedia
東アジアは産物が豊かだったので、西洋の科学やキリスト教哲学には興味を示し
たが、インド産綿花などの舶載品には関心がなく、19世紀に入っても「組み込み」
を免れていた。英国は、インドから禁制品アヘンを持ちこんで中国に浸透させ、
摘発した清の官吏に抗議してアヘン戦争を起した。勝利の後、「世界経済」への
急速な「組み込み」過程が進行し、まもなく、鎖国していた日本,朝鮮にも及んだ
【68】 「世界経済」への組み込み――そのメルクマール
そこでまず、ウォーラーステインによる「組み込み」の理論的枠組みを見ておきます。
『ここで採用しようとしているモデルでは、ひとつの「地域」について、継起する3つの時期があったことになる。〔…〕① 外延部であった時代、②「組み込み」の時代、さらには ③「周辺化」の時代である。これらの時代は、〔…〕それぞれ〔の内部――ギトン註〕に独自のプロセスを含む〔…〕。
「組み込み」とは、すくなくとも、本質的に地理的な意味で、特定の地域における何か重要な生産過程が、「資本主義的世界経済」の分業体制を構成する商品連鎖・の一環として不可欠になること、を意味する。
とすれば、特定の生産過程が、この〔ギトン註――「世界経済」の〕分業にとって「不可欠」であるか否かは、どのようにして判断できるのか。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,pp.156-157. .
「資本主義的世界経済」の「外延部」という言い方は、じつは、ここで初めて登場します。つまり、「世界=経済」の外側には、「世界=経済」とは全く無関係に存在している地域――たとえば、16世紀のオーストラリア・アボリジニー社会――もあれば、「世界=経済」と何らかの交易関係を持っていながら、なお「世界=経済」の外部である地域――たとえば、当時の日本――もあります。後者をとくに指して「外延部」と呼んでいるのです。
そこで、次なる問題は、ある地域が「世界=経済」の「外延部」であるのか、「周辺部」であるのかを、どうやって判断するのか?… つまり、ある地域が「資本主義的世界=経済」に組み込まれたかどうかを、どうやって判断するのか? です。これは、「世界=経済」の外部にある状態と、その内部にある状態とは、どのように違うのか? という問いと同じです。
たとえば、すくなくとも第2次大戦後から現在まで、日本の経済は、アメリカやヨーロッパ――「世界=経済」の「中核」地域――の経済の動向に大きく左右されてきました。「アメリカがくしゃみをすると、日本は風邪をひく」と言われたほどです。同じことは、たとえば、ヨーロッパに輸出するコーヒーのモノカルチャーが主要産業であった・かつてのブラジルなどにも言えました。つまり、「世界=経済」の内部にある地域は――「周辺」地域であろうと「亜周辺」国であろうと――、「中核」地域の動向に大きく左右されます。経済だけではなく、政治面でもタヒ命を制するような決定的な圧力から逃れることができません。
これと比較して、たとえば、戦国時代の日本は、どうだったでしょうか? 当時も、西欧諸国との貿易は盛んでした。多くの西洋人が日本に移住し、九州の諸大名はキリスト教に改宗してローマ法王に使節を送り、織田信長も西洋の科学技術に関心を示しました。しかし、スペインが不況になろうと、ポルトガルで恐慌が起きようと、日本の経済に影響が及ぶことはありませんでした。まして、政治的な影響は皆無です。これが、「外延部」であるという状態です。
天正遣欧少年使節(1582-90年)。ローマを指さす中浦ジュリアン像。長崎県西海市
中浦ジュリアン記念公園。©Wikimedia. 九州のキリシタン大名:大友宗麟,有馬
晴信,大村純忠が派遣した使節4名は1585年教皇グレゴリウス13世に謁見した。
ある地域が資本主義的「世界=経済」の「内部」にあるとは、「世界=経済」の分業システムの一部をなしている、ということにほかなりません。つまり、「分業システムの商品連鎖を構成」する「不可欠の一環」であるということです。
これを別の言い方でいえば、その「地域の生産過程が、たえまなく変化する[世界=経済]の市場条件に連動」して、自ら変化してゆくということです。
もっとも、表面的には「連動」が起きているように見えても、たとえば、何か宗教的理由でそれが起きているのであれば、「世界=経済」に「組み込まれ」たとは言えません。バテレンたちの本国で、彼らの奢侈に神罰が下ったから、われわれも灰をかぶって懺悔しなければならない、というような理由で経済活動を自粛しているのであれば、その地域は「外部」です。
資本主義的「世界=経済」の一部であると言えるためには、その地域自体において、「無限の資本蓄積」を優先する経済活動が優位にあることが条件なのです。資本蓄積を減らすまい・大きくしようとする結果として、「連動」が起きるのでなければならない。そうでないかぎり、「貿易活動がいかに広範で・いかに利益があろうとも」、その地域は、いまだ「外延部」なのです。
以上で、「世界=経済」の「外延部」と「周辺」の理論的区別は明確になったと思います。
が、これではまだ、実際の分析には不十分です。もっと具体的な判断基準――「経験的指標」――が必要です。そこで、「組み込み」によって生ずる「経験的な帰結に目を向け」てみましょう。そうしてはじめて、「②[組み込み]の時期と、それに続く ③[周辺化]の時期とを区別」することができます。
たとえて言えば、②[組み込み]の時期とは、「当該地域を[世界経済]の」圏内に、「逃げられないように」繋ぎ止める時期である。それが成功した後の ③[周辺化]の時期とは、「資本主義的発展の深化などと表現されてきた」時期で、「世界=経済」からの衝撃を受けとめやすくし・それへの「連動」をより容易にするために、「この地域のミニ構造」に「たえまない変化」が生じる時期である。
そこから、「経験的メルクマール」を帰納することができます。結論から言うと、② から ③ へ移行する時期に、この地域には、「意志決定単位の大規模化」が起きる。
「世界=経済」に「連動」することができるためには、「周辺」となる地域のほうに、[2]「意志決定の単位の大規模化」という条件が備わる必要があるのです。〔番号が[2]から始まっている理由は、次回【70】で判ります。〕
市場条件の変化に応じて自らの動きを変えてゆくためには、そういう意志決定をする単位が必要です。意思決定の単位が小さい場合――ひとつの農民家計,孤立した手工業者など――は、「世界=経済」の変動の衝撃をもろに受けますし、それに対応しようにも、隣接する他の単位に邪魔されて、思うようにできません。大規模な地主農場やプランテーションなら、もう少し対応が容易になるでしょう。「意志決定の単位〔…〕が大きければ大きいほど」「世界=経済」からの衝撃を受けとめる能力は大きくなり、それを資本蓄積のチャンスとして利用する可能性も開けるのです。すなわち、「ある地域の企業が[世界=経済]と連動しはじめると、大規模化が必至となる。」
これが、「組み込まれた」ことの第1のメルクマールです。
北米ミシシッピ河畔の綿花プランテーション(1582-90年)。
lithograph by Currier & Ives, 1884. ©Britannica.
「意志決定単位の大規模化」は、[2a]「直接生産の場において」起きることもあります。たとえば、「プランテーションの創設」。しかし、[2b]「生産物の商業的集積地で起こることも」あります。「集荷人つまり商人が、たとえば〔前貸し金〕債権などを利用して、多数の小生産者の活動を支配する〔…〕メカニズム」がある場合には、その全体が、この商人によって握られた意志決定の単位となります。〔「問屋制家内工業」のようなものか?〕商人(問屋)は、「世界=経済」の動きに連動させて、傘下の小生産者の生産量や買取り価格を調整することができます。
つぎに、〔…〕[3]「意志決定は、〔…〕生産過程に投入される諸要素――機械,材料,資本および・とりわけ労働力――を入手する」かつ解雇する「能力があって初めて」実効化します。したがって、「労働力は、何らかの意味で[強制的]なものでなければならない。」
もしも、[4]「政治機構が、こうした〔世界経済への〕連動」――つまり生産単位の大規模化や「問屋制」支配,労働力の強制支配など――「を許可し〔…〕支援してくれる場合には、〔…〕連動が容易になる。」
さいごに、[5]「連動が可能になるためには、そこそこの安全性と適当な貨幣制度を保障する下部構造としての制度」が必要になる。このような制度は、多くの場合、「世界システム」の側からカヴァーされます。現地政権と通商条約を結ぶ、西洋諸国の貨幣を流通させる、といったかたちで。(pp.157-158.)
『こうして、ある地域の生産過程が〔…〕「世界経済」の中に組み込まれたかどうかを分析するためには、つぎのような諸事実を抑えておく〔…〕必要がある〔…〕。[2]経済的意志決定を行なう機構の性格〔と規模――ギトン註〕、〔…〕[3]生産過程のそれぞれの局面に適じた労働力が得られるか否か〔…〕、[4]統治単位が「資本主義的世界経済」の政治的上部構造の要請にどの程度応えているか〔…〕、最後に、[5]不可欠な下部構造〔インフラ――ギトン註〕としての制度を創出する』かまたは『「資本主義的世界経済」〔…〕にすでに存在する制度を拡大して』この地域を『カヴァーする〔…〕ことが要求される。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.158. .
【69】 「外延部」の政治経済――「組み込み」前の現象
「組み込み」前の「外延部」で生じた・特徴的な2つの現象があります。ひとつは、㋑「外延部」にある国家機構が、「世界=経済」との貿易の結果として、強大化または弱体化したこと。もうひとつは、㋺「世界=経済」地域から「外延部」への貴金属〈地金 じがね〉の流出――そういう貿易不均衡の圧力が生じたことです。
㋑「外延部における国家機構の強さは、[組み込み]にとって決定的な変数である。」というのは、外延部で「強力な国家が生き残るためには、貿易リンクを維持することが」必要だからである。こうして「外延部」の国家は「世界=経済」に繋ぎ止められ、「組み込まれ」の道を歩んでゆく。
第1次アングロ・アシャンティ戦争(1823-31年) "Sieg der britischen
Truppen unter dem Kommando von Colonel Sutherland über
die Ashantis am 11. Juli 1824", unbekannte Author und Datum.
17世紀、西アフリカ・ガーナ南部に成立した現地人の「アシャンティ王国」は、
海岸部に居住するヨーロッパ人との奴隷貿易で力をつけた。19世紀には、アシャン
ティ人商人と組んだイギリスとの間で4次にわたるアングロ・アシャンティ戦争を
戦ったが、最終的に 1901年イギリス領黄金海岸に併合された。 ©Wikimedia.
しかし、「世界=経済」との貿易が外延部の国家を強くするか弱くするかは、複雑な過程である。2つの異なる世界に、それぞれ強力な国家があって、それらのあいだで、たがいに「外部」である相手国との間で貿易をする場合、〈等価交換〉が成立するので、貿易は双方の「国家機構をさらに強化する」ことがありうる。
ところが、外延部の国家機構が強くなりすぎると、「ヨーロッパ世界経済内で権力を保持する人びと」にとって邪魔になる。この人びとは、世界経済への「組み込み」を妨げる・この「独占的障碍」を除去しようとして、外延部の国家にいっそう深く働きかけたり、あるいはその弱体化をはかったりする。その結果、外延部の国家は西洋の知識・文化を吸収して・いっそう強化されることもあるが、最終的には「比較的弱体なものにな」る。
たとえば、18世紀前半の「オスマン・トルコ」帝国アフメトⅢ世の治世は「チューリップ時代」と呼ばれ、オスマン宮廷は、「オランダから輸入されたチューリップに熱中した」。これは、「当時進行していた地方分権化に対抗して」オスマン帝国が「[絶対王政を回復]しようとした」現れであった。
また、ポルトガル人は、アジアの「域内交易」に一定のシェアを得ることに「限定付き」で成功したにすぎず、アジア諸地域の「権力保持者との妥協」を余儀なくされることが多かった。たとえば、貿易は、王侯たちと協定した固定価格に縛られた。ポルトガル人は、この限界を打破することができなかったので、アジアを「組み込む」ことができなかったのである。
「奴隷貿易の過程で、西および中央アフリカ沿岸〔…〕に、新たな王国が出現したり、古くからのそれが強化されたりしたことは、〔…〕よく知られている。〔…〕西アフリカにおける貿易システムの全般的動向は、」内陸の奥地から奴隷を調達して西洋人に売る「仲介国家〔…〕の意のまま」であった。これらの国家の強化は、「現地の商人階級が」交易に携わって強くなるのと並行する現象だった。
㋺ アジアとの貿易にともなうアジアへの「地金の流失」は、当時のヨーロッパ人が最も憂慮した現象だった。「1750年以前〔…〕における地金のインド亜大陸への流失は、〔…〕よく知られている。」ところが、この「流失」は「1757年以後、停止した」。
ざっくり言えば、インド,オスマン帝国,ロシアのような地域が、「ヨーロッパ世界経済」の外部にあった時代に「地金を受け取ることに固執した」のは、ヨーロッパの物産に魅力を感じなかったからである。しかも、ヨーロッパの側でも、17世紀を中心とする景気後退期には、貨幣が過剰になり、貴金属が流出しやすかった。18世紀半ばに「流失」が止まったのは、ひとつはヨーロッパ経済が好況に向かい、貨幣需給が逼迫したこと、そして、インド,オスマン,ロシア地域の「組み込み」が始まったことによる。(pp.161-163.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!