アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジェ〔1743-94〕〔上〕「酸素の実験,
1770年」(作者不明 1874年) ©MeisterDrucke-915536。酸化水銀を
熱して酸素を放出させ、空気中の酸素の存在を証明する実験。
〔下〕ラヴォアジェの使用した実験器具。Musée des Arts et Métiers.
©Wikimedia. ラヴォアジェは、徴税請負人として得た巨額の資金で
化学の実験や、英国式輪栽農法を実践する・ブルジョワ出身の開明的
貴族だった。「三部会」議員に選出され、革命政府のために火薬の
開発等で貢献したが、ジャコバン派政権が徴税請負人36人を捕え
うち18人を処刑した際、ラヴォアジェも議性となった。彼の
実験室は、奇しくもバスチーユ要塞監獄のすぐそばにあった。
【51】 「フランス革命」――
貴族のブルジョワ化、ブルジョワの貴族化
「フランスはすでに 18世紀〔フランス革命よりも前〕までに、〔…〕どこから見ても封建的な国などではなかったという見方がある。〔…〕おおかたの領主〔貴族〕は、経済活動の分野ではブルジョワとして機能しており、貴族を[成功したブルジョワ]と定義しても」おかしくない状況があった。革命前の「フランスの地方貴族を」、因習にしがみついた貧乏な特権層というイメージで見るのは間違いで、むしろ「積極的で抜け目なく、羽振りのよい地主」と見るのが当たっている。「彼らが農業改良に果たした役割も、イギリス貴族」と比べてそれほど劣ったものではなかった。最上級の名門貴族のなかにも、資本家として活動する者がいた。
貴族地主の収入のなかで、「封建的特権」とされる貢租の割合は極めて低かった。しかもそれらは、形骸化して有名無実となっていたものが、資本主義化の波が及ぶなかで・所領経営合理化の一環として見直され、徴収が強化されたものであった。「[封建的]特権を経済的に再生させたのは、17-18世紀の資本主義の発展であった。」マルク・ブロックが言うように、「しだいに資本主義的形態の経済に支配されるようになった世界で、もともとは〔…〕村落共同体の支配者に認められていた」儀礼的な「特権が、〔…〕かつては夢想だにできなかった」経済的「価値をもつようになった」のである。
そうすると、かつて「古典学説」が貼った「貴族反動」というレッテルは間違えだった、という見解も多く唱えられるようになります。彼らが「[反動]と呼んだものは、〔…〕借地人にたいする領主の」合理的な地位改善を反映するものだった。それは「後進性の結果」などではなく、「測量や作図の技術〔…〕進歩の結果」であり「経営技術の完成」であった、と言うのです。
革命前の「18世紀フランス史」は、ブルジョワジーが封建的遺制や「貴族反動」のために発展を妨げられた「挫折の時期」などでは「まったくなく」、むしろ「[第三身分の勃興]こそが」この時代の特徴であった、と。
「アンシャン・レジーム下で[勃興]した・こうしたブルジョワたちは、可能な限り早く貴族化することを望んだ。彼らの理想は[貴族的な生活]であった。」そのような「[貴族的な生活]は、利潤追求の商業活動を継続すること」とも、所領の合理的経営とも、「矛盾しない。」そもそも、イギリスのブルジョワも――産業経営者さえも――「[貴族的な生活]の理想を共有していた。」
「18世紀には、貴族とブルジョワの経済的役割の差異は〔…〕少なくなってきていた。〔…〕おおかたの領主は資本家的地主に変身しつつあった。」
「アンシャンレ・ジーム末期の中産階級は、機能的には貴族と何ら変らなかった。〔…〕価値観にもほとんど差はなく、〔…〕貴族と〔…〕正反対の階級に属しているという意識はなかった。」「階級対立,ないし貴族と非貴族の相互憎悪といえるものが、1787年の史料を見ても、1788年の多くの資料にも、あまりにも少ない」。(pp.27-29,31,60[206][207].)
「酸素の実験をするラヴォアジェ 1770年」(作者不明 1874年)
©MeisterDrucke-954588。
しかし、そうだとすると、なぜ、彼らブルジョワジーは「革命」などというやっかいな催しを企てたのか? そんなことをする必要はないではないか? すでに貴族並みの生活ができているし、べつに貴族が憎いわけでもない、ふつうにやっていれば、そのうち “ほんとうの貴族” にだってなってしまえる。そんなブルジョワが、なぜ無理をして反抗する必要があるのか? ‥‥という疑問が沸きます。
ひとつの回答は、彼らは〈下から突き上げられたのだ〉と考えることです。〈下〉とは、ひとつには「サンキュロット」、いま一つの候補は「農民」です。
【52】 「フランス革命」―― サンキュロットと農民
「フランス革命」を「プロレタリア革命だ」と主張する者は僅かですが、いないことはない。ダニエル・ゲランは、フランス革命は「[萌芽的なプロレタリア革命]つまり反資本主義革命を[育んだ]」と主張します。
これに対して、「古典学説」からの反論は、マルクス主義者のお決まりの御説教と同じです。「サンキュロット」のような “プチ・ブルジョワ” は、資本主義のせいで自分の地位が危うくなることを恐れて、“反動” の側に与 くみ してしまう。彼らは、「伝統的な経済のなかでの自己の地位を守ろうと」しているのだ。そんな連中を「プロレタリアートの前衛」と勘違いしてはならない、と。〔サンキュロットを「萌芽期のブルジョワジー」として称賛していた「第1世代」のソブールまでが、ゲランを相手にすると、「第2世代」といっしょになって、そう言う。〕
たしかに、ゲランの主張には無理がある。大ブルジョワも、貴族・僧侶の進歩的な人びとも、〈下〉から突き上げられていやいや動ていたようには見えない。「三部会」での彼らの活躍ぶりは、彼ら自らの思想・利害に基くものと言わざるをえません。(p.32.)
「農民」については、どうでしょうか?
『フランス革命そのものに、もっとも強い刻印を印した集団として、農民の役割を強調した人びともある。〔訳者註――彼らによれば〕フランス革命は「近代で最初に成功した農民革命」〔…〕であった。農民は、1815年の王政復古によって、革命で得たものを失わされることの無かった唯一の集団であった、とも言われている。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.32. .
ヴァンデの反乱、フジェールの戦い(1793-96年)。Julien LeBlant:
"Le Bataillon Carré, Affaire de Fougères 1793". 1880. ©Wikimedia.
革命政府軍と戦う農民軍。画面上部の方陣が政府軍か?
しかし、「農民」の場合が「サンキュロット」よりも深刻なのは、「大革命」中に起きたいくつかの農民反乱は、はっきりと「王党派」を支持し、革命政府と「国民公会」に反対して蜂起していることです。たしかに、一方では、農民の実力での要求が「国民議会」を動かして、「封建的特権の無償廃止」など・ブルジョワ議員が躊躇するようなラジカルな改革に進ませたことは、何度かありました。しかしその一方で、農民の要求には、共同体的な旧い慣行の維持を主張するものが多くあったのも事実なのです。こちらの諸要求は、農業の資本主義化を進めたいブルジョワジーにとって、都合の悪いものです。
「農民」の果たした役割は、「反封建」なのか?「反資本主義」なのか? 争われるところなのです。
『農民の役割を強調する・このような視角は、〔…〕フランス革命を反資本主義的な革命として見る視角を生みだした〔…〕
アンシャン・レジーム末期の「革命的反領主主義」を「反資本主義的反動」と呼ぶべきだ、としている』論者もいる。それら「大革命」直前の一揆で『農民が反対したのは、囲い込みを推進する者〔市民地主――ギトン註〕や、灌漑施設を造る者に対してであり、近代化を進める者に対してであったからである。〔…〕
同様に、〔…〕自由放任主義の勃興と,パンの価格統制の廃止が、自由貿易や市場法則に逆らう「防衛的な反応」の形をとる「大衆の革命的心性」を引き出した、と見ている』論者もいる。
『「貧農の革命の核心には、どこから見ても反封建的とはいえない2つの要求があった。すなわち、彼らは耕地を求め、共有地に対する権利の回復をも要求したのである。」農民は、「(封建的)特権の保持者に対して反抗していたのだが、〔…〕[革命的ブルジョワ]に対しても反抗していたのである」〔Volker Hunecke, "Antikapitalistische Strömungen in der Französischen Revolution. Neuere Kontroversen der Forschung", Geschichte und Gesellschaft, Ⅳ-3, 1978.〕。「サンキュロットと農民諸派に基礎をおいた・革命の急進的推進力は、明白かつ強力に反資本主義的であった」〔Barrington Moore Jr., Social Origins of Dictatorship and Democracy, 1966.〕。「農民は、資本主義に反対していたのではない。領主に有利な形態の資本主義に反対していたのだ」〔Florence Gauthier, La voie paysanne dans la Révolution française, 1977.〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,pp.32,.63[233]. .
ジュール・ブルトン『落穂拾い』1854年。アイルランド国立美術館。©Wikimedia.
ミレーの同名の絵と同時代のフランス農村。しかし、おびただしい数の
「拾い人」と警戒する兵士。こちらのほうが実像であろうか?
『「農民革命」とは、〔…〕18世紀を通じて〔…〕進行中であった抗争を指しており、1789年から 1793年までの期間に頂点に達した〔…〕と解釈〔…〕すれば、この農民騒擾は、「資本家の攻勢」に対する抵抗だったことになろう。〔…〕ブルジョワジーは、〔…〕とくにフランスの北東部,東部,中東部で、フランス農民の「共同体の権利」の打破ないし削減を追求し、しばしばそれに成功した。これに対して、農民は「防衛的な行動」でもって応じたのである。
〔ギトン註――「フランス革命」の開始、つまり1789年に〕全国三部会が召集されたのは、このような防衛的行動が数十年続いたのちのことであった。しかもそれはまた、〔…〕深刻な食糧危機の時期にあたってもいた。〔…〕とくに、苦悶させられていた農村の貧民〔穀物の購買者だった――ギトン註〕にとっては、彼らの「共同体の権利」〔「落穂拾い」↑など!――ギトン註〕が奪われるかもしれないという恐怖感によって、〔…〕苦悶がさらに強められ〔…〕ていた。この恐怖感は、〔…〕暮らし向きのよい農民層にもあった。〔…〕暮らし向きのよい農民も、貧しい農民も、〔…〕のちの歴史家が想定したほどには、「貴族」と「ブルジョワジー」を区別していなかった。〔…〕
7月14日〔バスチーユ襲撃――ギトン註〕以後、農民が自己の要求を実現しようとしはじめた。つまり、十分の一税,その他の貢納を拒否し、いったん失った「共同体の権利」を回復しはじめたのである。1789年8月4日のいわゆる封建制の廃止〔国民議会が農民騒擾の盛り上がりに押されて、封建的貢納の一部廃止を宣言した。――ギトン註〕は、革命的ブルジョワのプログラムには入っていなかった。それは、反乱派の農民によって、いわば強制されたものであった。〔…〕
政府と立法府とは、大衆からの直接の圧力を受けた場合にのみ、「急進的な」行動をとった〔…〕
農民とサンキュロットは、彼ら自身の革命、つまり資本家層に反対する革命を追求していたのだと考えるほうが、〔…〕はるかにわかりやすい〔…〕
ヴァンデの反乱の開始、ショレの戦い(1793年)。
Paul-Émile Boutigny "Henri de La Rochejacquelein au combat
de Cholet en 1793"(1899) Musée d'art et d'histoire de Cholet.
©Wikimedia. ヴァンデの反乱は、「フランス革命」中、
ヴァンデ等・西部4県に広がった農民反乱。「ジャコバン派」
国民公会の徴兵令に反対して蜂起し、カトリック王党派の
地方貴族を指揮官として、革命政府と戦闘。革命政府は
ジェノサイドを以て応えたが、農民のゲリラ的抵抗は
ナポレオン治下の 1801年まで続いた。
〔ギトン註――革命中の農民〕反乱の主要な原因は、フランス革命が、農村における実際の耕作者には、何ら実質的な利益をもたらさなかったという・革命参加者たちの裏切られた気持ちにあった〔…〕
反革命勢力〔王党派貴族――ギトン註〕もまた、製造業労働者〔サンキュロット――ギトン註〕のあいだにも、強力な基礎を持っていた、〔…〕とすれば、ヴァンデの反乱〔画像↑――ギトン註〕は、全フランス的な農民〔と一部サンキュロット――ギトン註〕の反ブルジョワ闘争の一部だったのだ、』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,pp.101-103. .
それでは、このような・両義的と言ってもよい農民たちの要求は、けっきょくは・どこに行き着くのでしょうか? ブルジョワジーの革命議会を動かして、「封建的特権」(のうち、自分たちを苦しめている部分)の廃止をさせる。同じく、革命議会が進めようとする共同体慣習・特権の廃止(ブルジョワに都合良く、自分たちには都合が悪い)に反対し、断念させる。‥‥それらの果ては、何なのか?
フランス革命は、「ブルジョワ革命であったという以上に、官僚制による大衆取り込みのための、また、国家強化のための革命」であった。「フランス革命における農民反乱の政治的結果は、[自由主義的で議会を中心とした体制ではなく、いっそう中央集権化した官僚国家の出現」であった〔…〕それは、自由主義革命の一部であったとも言えないことになる。」(p.32.)
【53】 「フランス革命」――「農民の革命」だったか?
ここで、少し気が早いかもしれませんが、「フランス革命」の結果のほうから、「農民」が何を要求し何を得たのか、見ておくのもよいかもしれません。
「フランス革命の結果として、実際に」農民の地位が向上したという印象があるのは事実です。その理由は、革命政府(国民議会と国民公会)が農民の要求に押されるかたちで、じっさいに「伝統的な領主権」を削減する措置が執られたことにあります。国民議会は、「バスチーユ襲撃」後各地に広がった農民暴動を鎮めるため、1789年8月4日夜に、領主の「封建的権利」の一部廃止を決議します。ここでいったん、農民暴動は収まりますが、その後も、農民の弛みない実力要求に押されて、1793年7月まで、ひとつまたひとつと、領主特権が廃止されていきます。
ジャック=ルイ・ダヴィド『サビニの女たち』1799年。ルーヴル美術館。
©Wikimedia. 「サビニの女たちの掠奪」は、建国期のローマ人が
女性不足のため、近隣種族の女たちを掠奪したという伝説に因む画題
だが、フランス革命期に描かれたこの絵は、救出に来たサビニ族と
ローマ人の戦争を、誘拐された女たちが仲裁する様子を描いている。
その間、1791年9月に国民議会が制定した「農民法典」は「共有地の囲い込みを公認し」、92年8月には「共有地の分割も公認」されます。また、全過程を通じて「聖職者の所有地は国有化され、最終的には売却された。」
このような措置から利益を得たのは、中規模以上の農民と地主に限られていました。これらはみな、農業の資本主義化政策と言えるものだからです。小規模な借地農や折半小作農には利益がありませんでした。共有地の入会権や共同体的慣習で生活を支えていた貧農や無産農民は、かえって、生活の糧を失う被害を受けました。
そうした事情から、革命政府も農民に妥協し、資本主義化政策を貫くことができませんでした。「共同放牧権や自由通行権」は一度も廃止できず、共有地分割の公認も、1797年には撤回しています。
こうして、けっきょくのところ、「フランス革命」の結果としての農業改革は、地主,農民,どちらの側にとっても「妥協的」なものとなり、「そのために経済成長は遅れた」と、「古典学説」のルフェーブルも認めています。「[妥協]は、[資本主義的世界経済]の発展によって利益を得る者と損失を被る者とのあいだの」争いと調停の結果であったと言えます。(pp.95-96.)
『1789年から 1791年にかけて、領主制度が〔…〕君主制を道連れにしながら崩壊していった〔…〕。
〔ギトン註――しかし、〕新しいタイプの領主は、〔…〕やはり結局は〔…〕大規模な経営者というべきものになった。〔…〕
〔ギトン註――封建領主制が崩壊の危機に瀕していた〕1480年から 1789年に至る3世紀のあいだに、大所領は修復されてしまっていた。〔…〕革命は、こうした大所領を比較的無傷のままに残存させることになった。こうして、今日のフランス農村に見られる光景――〔…〕地域によって比率はひどく違っているが、大小の土地所有者が併存する国という相貌〔…〕――を説明するには、15世紀から 18世紀に至る変遷を前提にしなければならないのである。〔Marc Bloch, French Rural History, 1963; ? Les Caractères originaux de l'histoire rurale française, 1931.〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システムⅢ』,2013,名古屋大学出版会,p.95. .
つまり、「フランス革命」の結果、貴族領主の伝統的「貢租」は廃止されましたが、地主一般の所有権は、むしろ近代法のもとで絶対化され、大土地所有もそのまま残りました。農地の大土地所有は、フランス北部では、英国と同様の大農経営によって集約的な穀物生産が行なわれました。これにたいして、中部および南フランスでは、地主が所有地を分割して小作人に貸出し、収穫を折半する「分益小作」が一般的でした。いずれにせよ、地主の地位は「革命」によって何らおびやかされることなく、むしろ、共同体のしきたりや入会権によって制限されない近代的土地所有権確立の方向へ大きく前進したことで、資本主義的大農経営/小作地経営が容易になったのです。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!