永楽帝(actor:馮紹峰) 中国ドラマ『山河月明』2018年制作 より。
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【17】 16世紀までの中国とヨーロッパ ――
「発展」に違いは無かった
ヨーロッパで――正確に言えば、「環大西洋」の一部で――「近代世界システム」が始動した 16世紀、ユーラシアのほかの場所では、どうだったのか? すくなくとも中国では、ヨーロッパ「封建文明」と同等、ないしヨーロッパよりも高度な「発展」に達していた。にもかかわらず、ヨーロッパは、どうして追い越してゆくことができたのか?……逆に言えば、アジアは、どうして追い越されたのか? 資本主義「世界システム」はなぜ、ヨーロッパを中心にのみ開始されたのか?
世界史で言い古された質疑ですが、こんにちなお説得的な答えが出たとは言えない、ある意味で世紀の難問です。
ウォーラーステインの場合、〈16世紀ころにヨーロッパが中国を追い越した〉という認識を前提に、「それはなぜか?」と、問題を立てています。もちろん、この前提じたいを疑う見解は、決して少なくない。そもそも「発展」というモノサシで比較すること自体が根底的にナンセンスだ、という見解もありえます。
私見は、ウォーラーステインの問題の立て方を基本的に承認しますが、彼が述べていない多くの問題――おそらく英語文献ではあまり取り上げられていない諸問題――が解決のカギとなりうるのではないかと思っています。たとえば、その 16世紀前後に、中国の “前庭の池” 東・南シナ海~太平洋では、ポルトガル・スペイン・オランダ人の船が広域貿易圏を成立させていました。沿岸各国の政治・経済は、それに影響を受けたはずだし、逆にこの貿易活動に対して、促進的/否定的なさまざまの反応を及ぼした。この・一種の広域「分業」を担ったのが、中国人でも沿岸のアジア民族でもなく西洋人だったのは、なぜか?(同じことだが)この貿易が、より以上の「東アジア分業体制」にまで発展していかなかったのは、なぜか? ‥‥その追究も、中国とヨーロッパじたいの経済・政治体制の究明に劣らず重要だと思われます。
しかしながら、ここではウォーラーステインの行論を追いかけることに限定したいと思います。ウォーラーステインの考察は、英語文献の範囲では諸研究を網羅して、それらに基いており、この問題を考えてゆくための土台になると思うからです。
最初の論点は、〈16世紀の中国は、ヨーロッパ「封建文明」と同等、ないしより高度な「発展」に達していた〉との前提的認識の検証となります。
『資本主義は「世界経済」の枠内でのみ成立しえたのであり、世界帝国の枠内では不可能だった〔…〕、なぜそうだったのかという理由を簡単に検討しておくことも必要であろう。〔…〕ヨーロッパと中国』は、『13世紀から16世紀にかけて、両地域はほぼ同規模の人口を有していた。ピエール・ショーニュが巧みに表現したように、
クリストファー・コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマが〔…〕中国人でなかったという事実は、しばらく検討するに値する。というのは、15世紀末の極東は、史書による限り、地中海域にも比すべき統一体をなしており、何ら遜色はなかったからである。〔Pierre Chaunu: "Séville et l'Atlantique (1504-1650)", VIII-(1), 1959, p.50.〕
何ら遜色がない、とは〔…〕技術水準の比較という周知の方法を思い浮かべれば十分である。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.40-41. .
ジョゼフ・ニーダムと南京の漢方医 Lu Shiguo 氏。1946年、南京。
つまり、15世紀末における中国とポルトガル・スペインの技術水準を比べると、中国人が太平洋を渡ってメキシコを発見したり、インド洋を越えて喜望峰の向う側へ行ったりしなかったのが不思議に思われる、ということです。
そこでまず、双方の技術水準、つづいて産業の状態について比較するのがよいと思われます。じつは、前近代中国の産業状態については、農業以外は、あまりよくわかっていない(とくに量的な点が)のですが、科学技術については、ジョゼフ・ニーダムの精力的な研究のおかげで、ここ半世紀間に格段に深く解明されました。
【18】 ニーダムを中心に ――
「鄭和の遠征」は、なぜ続かなかったか?
ウォーラーステインやニーダムとは異なって、ヨーロッパは前近代においても(古代ギリシャの昔から?!)東洋よりはるかに進んでいたとの固定観念に取り憑かれている学者が、いまでも多いのは事実です。彼らの論拠の大部分は打ち破られましたが、最後の橋頭保となっているのは、〈西欧中世における農業技術発展〉です。重量犂,三圃農法,休閑地放牧による地力回復,近代的な馬具・蹄鉄といった技術の組合せが普及して、それ以前(古代ゲルマン・ローマ)よりも格段に生産力がアップしたのは事実なのです。
しかし、そもそも全く異なる技術体系に属する2種類の農業に、一つのモノサシを当てて比較しようとするのは、たいへんに危うい試みです。たとえば、「生産性」の数字で比較しようとしても、イネとコムギでは、作物の性質が違う。単位面積当たりで比較すれば、イネのほうがはるかに収量が大きいが、それを「発展の差」と見ることはできないでしょう。それなら、「労働生産性」ではどうかと言うと、これまた比較は困難です。たしかに、穀作だけを比較すれば、耕地放牧が自動的に施肥になってしまうヨーロッパ式のコムギ作のほうが、生産性が高いかもしれない。しかし、家畜の舎飼いの世話や採草労働まで含めれば、話は違ってくる。さらに、その家畜から乳製品や食肉を生産することまで入れれば、もっと計算は複雑になる。
結局のところ、農工業のあらゆる技術を総合したうえで、ニーダムの評価は:‥‥中国のほうがはるかに早くから上昇を始め、一貫して非常に緩慢に上がって行ったが、そのカーブは、15世紀初めまでの段階では、なおヨーロッパより上にあった、というものです。
『ジョーゼフ・ニーダムによれば、ヨーロッパが技術と産業の面でヨーロッパを追い越すのは、たかだか 1450年ということになる。しかし、ヨーロッパ』が『中国を追い越せた〔…〕その原因はひとつではなく、「有機的総体ともいうべき一連の変化」にあった、と彼は説く。
中国社会に固有な〔ギトン註――文化,技術の〕自生的発展の過程では、西洋のルネサンスや「科学革命」に対応するような決定的な変化がまったく起こらなかったことは事実である。
中国の進化の模様は、ゆるやかな上昇カーヴによって示されようが、2世紀から 15世紀までの間は、この曲線はヨーロッパのそれより明らかにずっと高い位置にあった〔…〕しかし、』その後『西洋でガリレオ革命とともに科学のルネサンスが始まり、いわば科学的発明そのものの基礎技術とでもいうべきものが発明されると、ヨーロッパの科学・技術の水準は急激に、ほとんど等比級数的な比率で上昇しはじめ、アジアのそれに追いついてしまう。〔Joseph Needham: "Poverties and Triumphs of Chinese Scientific Tradition", in A.C.Crombie ed., Scientific Change, p.139.〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,pp.41-42. .
ヴァイキング船のステアリング・オール。〔上〕ヴァイキング木造船博物館,
オスロ。〔下〕フェルディナンド・リケ:『ヴァイキングの襲撃』1906年。
「固定舵」以前には、船尾に大きなオールのようなもの(ステアリング・
オール)を取り付けて、船の進行方向を制御したが、不安定だった。
あるいは、15世紀にヨーロッパで「船の舵 かじ が発達し、それが決定的意味をもった」との意見もあります。しかし、ニーダムが言うように、こういうことの原因を一つの発明に帰するのは無理な話です。たしかに、「舵」と「羅針盤」はヨーロッパ人の航海術を格段に進歩させ、「地理上の発見」航海を容易にしたかもしれません。しかし、「舵」は、中国では紀元1世紀から使われていたのです(「舵」が無ければ、日本の遣唐使の航海は不可能です)。「舵」は、12世紀に中国からヨーロッパに伝えられたのです。西洋人の発明ではありません。逆に、スカンジナヴィアのヴァイキングは、11世紀に「舵」無しで北米海岸に達していました。
「舵」も「羅針盤」も、中国人の発明がアラビアにもヨーロッパにも伝播したのです。
しかし、そういうことだとすると、それではなぜ、中国人は 14世紀までに、その進んだ航海技術でアフリカと新大陸を発見し、ヨーロッパを植民地にしなかったのだろうか? ……という第2の論点が提起されるのです。
『中国とポルトガルがほぼ同時に海外進出に乗り出しながら、中国はわずか 28年にして大陸という殻の中に引きこもってしまい、以後ぷっつりと海外探検をやめたという事実が〔…〕ある。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.42. .
スペインより早く「レコンキスタ」〔イベリア半島にあったイスラム領土の征服〕を達成したポルトガルは、1415年からアフリカ北西海岸の探検を進め、1488年にはバルトロメウ・ディアスが、南端の喜望峰に達し、1497年には王の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰とインド洋を通過してインド南西海岸に到達した。
これと同時進行で行なわれた中国の「大航海」とは「鄭和の遠征」〔1405-1433〕です。大船団を組んで〔第1回航海は 63隻〕行なわれた7回の航海で、宦官鄭和は、ジャワ,セイロン,東アフリカ海岸を訪問し、明の「宮廷に貢納と珍奇な品物の数々を持ち帰った。」ところが、1434年に鄭和が没すると、ぷっつりと航海は中断されてしまった。しかも、宮廷と高官たちは、航海活動を承継しようとする者が出るのを妨害した形跡さえあります。宦官鄭和には子孫はありませんが、1479年に別の宦官王振が安南(ベトナム)への軍事遠征を計画し、鄭和の遺した記録の閲覧を申し出たところ、「あっさり拒否された。〔…〕まるで、そんな人間など〔…〕存在しなかった〔…〕ことにしておこうとでもいうように隠蔽されてしまったのである。」
「鄭和の遠征」は、それが始められた理由も、中断した理由もよく解らない。史書には事情が記されていないし、理由を書きとどめようという考えさえ、誰も持たなかったように見えるのです。
ただ、「儒者でもあった官僚層が、つねにこの事業に反対していたことはまちがえない。」そこから、儒教官僚と宦官の争いという・明代史では周知の論点に結びつける見解もありますが、議論がそれてしまうので、そのことは後ほど検討します。ともかく、明の宮廷も高官も官僚層も、鄭和という異端人物が企てた「大航海」を歓迎しなかった、むしろ無かったことにしようと努め、じっさいに歴史から抹刹した。
これは、歴代の国王が「大航海」を奨励し、国を挙げて多数の冒険家をリーダーとする探検が行なわれていったポルトガルとは、顕著な対照をなしているのです。
鄭和とニーダム。〔左〕泉州海外交通史博物館の鄭和蝋人形像。
〔右〕実験室でのニーダム ⓒrsaa.org.uk.。
もっとも、理由の検討に移る前に指摘しておきたいことがあります。ウォーラーステインは述べていませんが、どうも、鄭和の遠征は、孤立した冒険試行ではなかったようなのです。むしろ最近の研究によると、中国の民間船舶による交易は、鄭和以前から、中国の南方からインド南部(マラバル海岸)までの海域で行なわれており(東アフリカで、唐代の貨幣さえ出土している)、鄭和の遠征は、中国商人の活動範囲をインド洋西部(ホルムズ,アデン等)にまで広げる意味があった。鄭和は、いわば民間貿易の先頭に立った活動だった、というのです。もしもそうだとすると、鄭和のタヒ亡によってすべてが水泡に帰した、というウォーラーステインの認識には問題があります。宮廷・官僚・宦官は「大航海」をやめたけれども、民間の交易は続いたのだとすれば、それと・西洋人の東洋進出との関係が問われなければならない。
とはいえ、なにぶんにも中国史は民間に関してはまとまった史料がないので、これからかなり時間をかけないと、民間の海外交易の実態にかんして、確実なことは解明されてこないと思われます。
そういうわけで、「追い越しの理由」にかんするウォーラーステインの議論は、前提となる事実関係に問題があります。が、それは現状ではいかんともしがたいことなので、彼の議論に沿って話を進めることにします。
さて、技術的条件に差はなかったのに、中国と西欧で、どうしてこれほど異なる過程が進行したのか? ウォーラーステインはまず、論者によって指摘されている3つの点について検討を加えます。
㋐ 事態の相違は、中国人と西欧人の「世界観」の違いから来ている、とする見解があります。明朝の皇帝も官僚たちも、外国貿易など必要ないと思っていたわけではない。「外国貿易の重要性は歴然としていた」のに、それが「奨励されなくなった」のは、「ウィリアム・ウィレッツに言わせれば、それは中国人の[世界観]からきていた。〔…〕中国人は、みずからがすでに世界そのものになっているという不遜な世界観を抱いていた〔…〕。このために彼らには、探検隊を派遣し植民を行なうという発想そのものがない、というのである。」「明朝の政治顧問たちは、植民地支配に不可欠な・あの恐るべき現実主義的な考え方ができなかった。〔…〕理論的には天子は全世界」つまり「天下」を「支配しているのだから」。たとえば、明朝の官僚たちは、「遠征」に反対する理由として「財政負担が重すぎること」を挙げているが、ポルトガルの財政当局ならば、そんな言い分は一笑に付すだろう。「植民が成功すれば、そこから得られる所得によって、当初の支出はカヴァーできる」はずだからである。
㋑ 明の皇帝は、少なくとも当初は、「鄭和の遠征」を支持していた……どころか、「遠征」は永楽帝〔在位 1402-24〕が企画・実行したものでした。動機には諸説ありますが、諸国からの朝貢を受けて、儒教的な「聖王」の名声を高め、官僚群の信頼を得ようとした、というあたりが確かな説明だと思います。皇帝に最も近い側近である宦官が実行役に選ばれたという点からも、この説明は納得できます。
ところが、1421年に南京から北京への遷都が行なわれ、その結果「皇帝の関心が逸れた」との見解があります。そのために、「遠征」に反対する官僚の力が大きくなったというのです。また、「遠征」が鄭和以後続かなかった理由を、「倭寇」取締りのための「海禁」政策〔「朝貢」以外の海上利用,海外渡航,海外貿易を禁止〕に帰する見解もあります。しかし、この「遠征」以来「海禁」が緩み、事実上、中国人による海外商業(密貿易)も移民(密出国)も増えたのは事実で、東南アジア方面に広がっている「華僑」は、明代以降の移民によるものです。
とはいえ、皇帝個人の意向とは別に、儒教官僚層が「鄭和の遠征」に一貫して反対していたのは、まちがえのないところです。問題は、そのような反対の原因ないし背景を、「中国人の考え方」一般に解消する説明(㋐)は、はたして説得的だろうか、という点にあります。
2013年撮影。ⓒMike Peel.
㋒ 「ピエール・ショーニュは、中国には対外進出の[意志を共有する集団]が無かったと述べており、示唆的である。ポルトガルでは、多様な社会層が等しく探検や海外進出への関心を共有していた」。それはどうしてなのか? …と考えてみると、個々人の思想や考え方よりも、集団の性格や社会の在り方に解明のカギがあるように思われてきます。「それゆえ、ヨーロッパ世界と中国世界が」政治的・経済的・社会的に「どのように相違していたのか」を追究してみることが重要である、ということになります。
まず、経済については、ウォーラーステインによれば技術に差はなく、むしろ中国のほうが勝 まさ っていたのだから、それよりも、「人口と土地の比率の差」が重要である。かんたんに言うと、ヨーロッパでは、増大する人口に比して土地(農耕に適した土地)が足りず、人は外にあふれようとしていた。これに対して、中国では、土地に対して人手が足りなかった。
ここには、小麦に対する稲作の特性も影響します。イネは、単位面積当たりの収量が多いだけでなく、人手(灌漑工事等をふくむ)をかければかけるほど土地生産性は飛躍的に上がっていく。逆に言えば、投入する人力を増やそうとする圧力〔官僚や支配層による「勧農」という形で〕が、つねに加えられることとなる構造があります。(pp.42-44,70.)
『〔ギトン註――ペストの流行などで〕人口が最も減少した 15世紀初頭でも、ヨーロッパには土地が不足していた。〔…〕ヨーロッパでは土地が不足していたとすれば、中国では人間が不足していた。〔…〕
15世紀の中国が対外進出に成功しなかったのは、西洋に比べて手段が欠けていたからではなく、動機が欠如していたからである。対外進出には、土地渇望――しばしば潜在意識〔…〕――こそが、つねに主要な動機となっていたのである。〔…〕
中国も発展しつつあった』が、『この発展は内に向かうものであり、フロンティア内における稲作の拡大〔拡大というより人力追加による深化――ギトン註〕という形態をとったのである。
これに対して、15世紀ヨーロッパ〔…〕は、農地の拡大に依存する農業形態のゆえに〔「掘るよりも広げよ」という古代ローマの農諺がある――ギトン註〕、〔ギトン註――開発できる土地は〕たちまち尽き果てた。〔…〕探検や植民は、難しい仕事にちがいなかった。』技術的に可能だというだけでは、難しい仕事にあえて向かおうとする者などいない。探検や植民が行なわれるためには、それが可能だ、というだけでは足りないのです。が、15世紀のポルトガル人には、その「難しい仕事」を、何としてもやり遂げたいと思う動機があったのでした。
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,p.44. .
経済的には、この説明によって、だいぶ説得力が増したと言えます。国内では、土地(からの利益)が底を突いたので、利益を海外に求めたい――このような経済的動機が、ポルトガルの国王や財務貴族を動かした。中国では逆に、農民という人力を失いたくないという憂慮が、官僚を「海外進出」から遠ざけた。
ここで、日本の場合を考えてみましょう。日本では、鎌倉時代から戦国時代までは、事実上政治体制は分権的でした。室町幕府も力が弱く、各地の守護大名が力を持っていました。そういう時代、足利義満などの将軍家も、大内氏などの西国の大名も、大陸との貿易には熱心でした。戦国大名も、織田信長などは、南蛮貿易を積極的に迎えましたし、その時代には、東南アジアなどの海外に出て行って一旗揚げる日本人も多かったのです。ところが、徳川統一政権による統治が安定すると、そのような傾向は無くなり、やがて徳川幕府は鎖国を始めます。このように、東アジアでも、中世ヨーロッパに似た分権的な政治体制の社会は、海外貿易も海外進出も積極的に行なうのに対し、中国・朝鮮の歴代王朝や徳川幕府のような・集権的な単一政治体制の社会だと、内に籠るようになる。そういうことが考えられます。
周文靖『古木寒鴉図』15世紀。上海博物館。ⓒWikimedia.
それは、ひとつには、↑上で考察したように、単一政治体制の《帝国》は、人力をかけて稲作の生産力を上げようとするから、土地に対して人手が足りなくなる。農業労働力を確保するために人を土地に縛りつけ、まちがっても海外には出さないようにします。というのは、東アジアの《帝国》の伝統では、国家財政は農民からの現物税の徴収によってまかなうのであって、ヨーロッパの海洋国家のように、貿易や、海外領土の植民からの収入で財政を支えようなどとは考えないからです。国家のしくみが、そういう「律令」法体制になっているし(江戸時代でもタテマエ上は、なお「律令」が有効でした)、その上に、儒教イデオロギーが、そういう体制を正統なものとしているのです。
しかし、↑これはあくまでも思いつきですから、政治体制についてはもっと理論的に考えてみなくてはなりません。そこで、次なる問題は、15-16世紀における・中国とヨーロッパ双方の政治構造の比較、ということになります。それには、類型論的なマクス・ウェーバーのテーゼから出発するのが適切でしょう。
ところで、初めの計画では「中国」は1回で終わらせるつもりだったのですが、すでに相当紙面を費やしてしまいました。ウェーバーのテーゼからは、次回に送りたいと思います。次回は「中国」を終らせた後、やはり 15-16世紀には「資本主義世界システム」の「外部」だった「ロシア」にも言及します。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!