作者不明「クラクフの中央市場広場」(1930年作)ソフィア中央国立文書館蔵

©Wikimedia. イマニュエル・ウォーラーステインの両親は、ガリツィア(南

ポーランド~西ウクライナ)のユダヤ人で、迫害を避けてアメリカに移住した

 

 

 

 

 


【49】 「近代世界システム」の危機――

「カオス的移行期」と「その後の 500年」

 

 

世界システム間移行のカオス〔…〕は「自由意志」が、慣習ないし構造的制約という〔著者註――システムの通常期にはわれわれに・はめられている〕 かせ から自由に』なり、至高の力をもつような時期ということになろう。〔…〕政治的にあらゆることが可能であり、〔…〕中期的な戦略の定式化がきわめて困難な時代〔…〕。日常生活の経済は、説明の容易』『変化の幅を大きく超えた激しい変化にさらされる。〔…〕社会の枠組みの信頼が低下し、〔…〕安全の保証として頼られてきた諸制度は崩れ落ちつつあるように思われる〔…〕。反社会的犯罪の拡大が目につくようになり、そういった感覚が、恐怖と、安全を保証する手段および実力の私有化を拡大しようという考えとを、生みだしていく。〔…〕

 

 構造的移行のカオス的な環境においては、ゆらぎは逸脱的となり、小さな入力でも、分岐 バイファケーション に際して』大きく軌道を変えさせるような絶大な『帰結を生ぜしめることができる。〔…〕これは、創造的な行動のための大きな機会を提供してくれる。〔…〕

 

 〔ギトン註――こんにち壁に突き当たっている資本主義システムの〕基本的問題〔…〕は、所有にも、経済的資源の支配にさえもない〔…〕。問題の基本〔ギトン註――解決のカギ〕は、世界の経済過程の脱商品化にある。〔…〕脱商品化とは、脱貨幣化のことではない〔貨幣経済を無くす必要はない――ギトン註〕。それは、利潤というカテゴリーの排除〔営利企業から、利潤を目的としない事業や生産活動への転換――ギトン註〕のことである。〔…〕

 

 資本主義システムの決定的な欠点は、私的所有〔…〕ではなく――それは〔…〕手段にすぎない――商品化にある。商品化こそが、資本蓄積〔…〕不可欠の要素なのである。今日でさえ、資本主義的な世界システムは完全に商品化されてはいない〔資本主義は、万物を商品化しようとして進んできたが(ついに水まで‥‥)、無理がたたって壁にぶつかっている――ギトン註〕。しかし実際のところ、われわれはそれとは別の方向に進みうるのだ。大学や病院〔国営にせよ民営にせよ――著者註〕を営利機関に転換するのではなく、どうしたら製鉄所を非営利機関――〔…〕誰にも配当を払わない自己維持的な組織――に転換できるかを考えるべきなのである。これこそが、より希望のある将来の姿であり、〔…〕いますぐにでも始めうることなのである。〔…〕

 

 資本主義は、万物の商品化のプログラムである。〔…〕社会主義は、万物の脱商品化のプログラムであるべきである。〔…〕もしわれわれがその道をたどりはじめても、〔…〕これから 500年間では〔…〕それを完全には実現していないかもしれないが、その方向でかなり進んでいることはできるだろう。〔…〕

 

 今後半世紀間にわたる・史的システム間の移行期において、現在のシステムに替わる構造を構築する努力をすべきである。〔…〕われわれは思考実験としても、実地の実験としても、複数の選択肢を試してみなければならない。〔…〕もしわれわれがこの問題を無視すれば、世界の右翼が、現在のシステムに替えて、ヒエラルキー的で非平等主義的な新しい世界秩序にわれわれを巻きこむような非資本主義的システム〔たとえば、地域別「AI封建領主」に隷従する世界。――ギトン註〕を考え出してくるだろう〔…〕。そうなってしまったら、〔…〕かなりの長期にわたって、事態を変えることはできなくなるだろう。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『脱商品化の時代』,2004,藤原書店,pp.324-325,343-344,358-359. .

 

 

フィレンツェアルノー川ポント・ヴェッキョ橋(左)、ウフィツィ美術館

パラッツォ・ヴェッキョ(右の尖塔)。©Wikimedia. ウフィツィ(オフィス)

は、16世紀メディチ家最盛期の市政庁だったが、まもなく美術収蔵館となり、

ミケランジェロ,ラファエロらの代表作を収めている。ブローデルウォーラー

ステインによれば、資本主義「世界システム」は16世紀イタリアに始まった。

 

 

 つまり、ウォーラーステインの考えでは、現在すでに突入している ㋐「半世紀」程度の カオス的移行期 と、㋑ その後「500年」以上にわたって「脱商品化」が進展する時代 とがあることになります。

 

 ㋐ において、現在の資本主義世界=経済に替わる「より民主的で平等主義的な」システムが選び取られて、そこに収束した場合には、㋑ の期間中、新システムのもとで「脱商品化」が進み、世界は、資本主義的な「資本蓄積」に取り憑かれた状態から、徐々に脱してゆく。‥‥ということは、㋐ から ㋑ に進んだ場合でも、㋑ の期間中はまだ「資本蓄積」――最優先されることはないにしても――が追求されているし、利潤に取り憑かれた人びとはまだかなりいることになります。つまり、人類は、今後数世紀以上かけて、ゆっくりと資本主義から脱していく。

 

 もっとも、これはあくまでも、㋐ において「ポルト・アレグレ」の方向が選択された場合です。逆に、㋐ における人類の選択がイーロン・マスクらの?「ダヴォス精神」に落ち、「ポルト・アレグレ精神」が抑えこまれてしまった場合には、そもそも「脱商品化」には行かないかもしれません。彼らが導入する「新システム」がどんなものかは想像できませんが、「万物の商品化」を究極まで進めるシステム、強大な国家が個々人の微細な行動まで監視しチェックする・個人はまったく気づくこともできずにコントロールされてしまう “自由な” システム、といったものかもしれません。

 

 

『鍵となるのは、透明性である。〔…〕既存のシステム〔…〕以上にヒエラルキー的で二極分解的な別のシステムをもたらそうとする勢力の手には、資金も労力も知性もふんだんにある。彼らは、偽の変化に、見栄えのする〔ギトン註――科学的で強そうな〕衣装をまとわせて提示〔…〕する。〔…〕われわれが〔…〕罠に落ちないためには、ただ注意深い分析によるほかはない。

 

 彼らは、〔…〕人権といったような、われわれが反対できない〔…〕スローガンを用いる。しかし〔…〕、ジェノサイドに対する国際司法手続が望ましいならば、それが万人に適用されることが望ましいのであって、〔…〕核武装や生物兵器が危険で、野蛮でさえあるというなら、そのような兵器を安全に所有する者など〔…〕あるはずがない。

 

 史的転換の』モメント『にあって、〔…〕唯一の説得力ある戦略は、〔…〕相対的に民主的で、相対的に平等主義的な世界の実現を知的かつ戦闘的に追求するという戦略だけである。そのような世界は可能である。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『脱商品化の時代』,2004,藤原書店,pp.359-360. .

 

 

ミケランジェロダヴィデ』(1504年作)。フィレンツェ、

アカデミア美術館。©Wikimedia. 巨人ゴリアテに石を

投げつけようとしているダヴィデの像は、まさに

資本主義システム開始期の精神を象徴している。

 

 


【50】 「近代世界システム」の危機――

「自由」対「平等」の相剋か?

 


 ダヴォス精神」と「ポルト・アレグレ精神」とのあいだの『論争において鍵となる要素は、〔…〕これから構築する将来のシステム〔…〕が、自由平等〔…〕という2つの方向のうち、どちらにどの程度偏ったものとなるのか、ということである。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.210. .



 しかしながら、この2つの方向は、けっして矛盾するものではない。…どころか、「等根源的」で「緊密に結び合ったものである」というのが、ウォーラーステインの基本的な考え方です。この点が、「自由平等は、どこまでも矛盾し、折り合わない」と考える柄谷行人〔⇒戦前の思考から(5)〕とは大きく異なります。

 

 

自由(ないしは「民主主義」)という論点は、近代世界においては、あまりにも多くの誇張的言辞に取り囲まれて』いる。『そこで、多数者の自由と少数者の自由とを区別することが有益かもしれない。

 

 多数者の自由とは、集団的な政治的意思決定が、多数者の選好を実際に反映している程度において測られる。』その「多数者」とは、『実質的に意思決定過程を支配している』にちがいない『少数の集団に対立するものと』考えられている。『多数者の自由は、多数者の積極的な参加〔たとえば投票――ギトン註〕を必要とする。そこには、情報へのアクセスが多数者に開かれていることが必要である。そして、人口の多数の意見を立法機関の多数意見へと翻訳する手続が定められる必要がある。近代世界システムにおける既存の国家で、』①②③『意味で完全に民主的な国家が一つでもあるか〔…〕は疑わしい。〔なぜなら、「自由な」選挙制度があるというだけでは、①②③のどれ一つとして保証されないから。――ギトン註〕

 

 

©politicalyouthnetwork.org

 

 

 少数者の自由は、これとはまったく別の問題である〔上↑の意味での「多数者の自由」とは、しばしば矛盾し、しばしば無関係である。――ギトン註〕。それは、あらゆる個人ないしは集団が、多数者がその選好を他に押しつけることが〔…〕正当化されないあらゆる領域において、自らの選好を追求する権利を持つ、ということを意味している。〔…〕近代世界システムの大半の国家は、〔…〕口先ではそれを尊重する態度をとっている。〔…〕

 

 伝統的な反システム的運動〔共産主義,社会民主主義,ナショナリズム――ギトン註〕は、ここに述べた「多数者の自由」を優先してきた。』それに対して『1968年の世界革命は、〔…〕「少数者の自由」の拡大を大きく強調した。

 

 たとえ万人が〔…〕自由を支持すると仮定〔…〕しても(無茶な仮定だが)、多数者の自由と少数者の自由とのあいだに引かれる線をどのように決定するか――〔…〕どのような領域と問題』では『どちらの自由が優先されるのか〔…〕――をめぐっては、巨大で、終りのない困難が存在する。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,pp.211-212. .

 

 

 「既存の世界システム」に替わるべき〔一つまたは複数の〕「新しいシステムをめぐる闘争において、」「多数者の自由」と「少数者の自由」は、それぞれどんな陣営に支持されるだろうか? …ウォーラーステインの答えは、こうです:

 

 一方では、「多数者の自由」と「少数者の自由」の両方を拡大しようとする者がいる。「ポルト・アレグレ〔反システム運動〕に近い意見の人びとでしょう。これに対して、多数/少数の区別なくそもそも「自由」には「価値をおかないシステムを創ろうとしている者」は、どちらか一方の自由を優先させるかのように見せかけつつ、両方否定してしまう戦術をとる。少数者に対しては、特権的な「自由」を与える〔たとえば、マスコミにだけ報道の自由を認める〕。これによって、多数者は「自由」を奪われる。が、特権とは常に、特権者にとっても自由である以上に拘束であって、この場合も少数者は、国家や支配者への依存を強め、自ら「自由」を放棄することになる。多数者に対しては、少数者への差別を推奨し煽る〔たとえば、偏見を培養する〕。これによって、少数者は「自由」を奪われる〔職業・居住移転・表現・信教・…の自由を事実上制限される〕。煽られた多数者は、自分たちが「自由」になったと思いこむが、もちろんそれは「自由」の幻覚にすぎない。

 

 〈自由でないシステム〉の構築者にとって重宝な武器は、「闘争における不透明性」である。「いろんな人がいろんなことを言っていて、なんだかよく解らない」という状態に持って行き、異なるものの「混同」を起こさせる〔たとえば、オカマは変態で、変態は性犯罪者だ、ピル解禁を主張するフェミニストはビッチだ、外国人はみな犯罪者だ、etc.〕。「不透明性」が〈差別〉を強め、〈特権〉を隠蔽する。「不透明性」はつねに、「自由を制限しようとする者〔…〕に有利にはたら」くのだ。

 

 

 

 

 ここで、「多数者の自由」と「少数者の自由」の対立に、「平等」という別の軸を重ねてみましょう。「平等は、しばしば自由〔…〕と対立する概念として提示される。物的な財へのアクセスの相対的平等のことを言う場合は、とくにそうである。しかし実際には、自由平等同じ1枚のコインの表裏である

 

 たとえば、少数の特権的貴族の存在に至高の価値を認める社会があったとしましょう。そのようなヒエラルキー社会で、そのような不平等には手を触れないで、↑上の①②③のような「多数者の自由」を追求しようとしても、けっきょくのところ形骸的な民主主義にしかならない。なぜなら、誰の意見も同じウェイトで扱う①②③が本当に実現するような政治制度にしてしまったら、社会的不平等を維持できなくなるからです。

 

 あるいは逆に、少数の人種集団が差別されている社会を考えてみましょう。そのような社会で、社会的不平等を維持しながら、①②③の政治的な「多数者の自由」を完全に実施したとしても、「少数者の自由」を尊重することは原理的に不可能です。少数者は、多数者と同様の投票権や市民資格を認められながら、社会的領域では相変わらず不自由でしょう。多数者の選んだ代議員が、“少数者にも配慮” したとしても解決にはなりません。「少数者の自由」とは、単なる「保護」ではなく「権利」の実現でなければならないからです。

 

 これらから言えることは、「平等なくして自由はありえない」ということではないでしょうか?「概念としての平等を強調することは、多数者がその自由を実現するのに必要な」基礎は何なのかを指し示すとともに、「少数者の自由を鼓舞すること」にほかならない。多数者は、少数者と平等であってはじめて、十全の意味において「自由」だと言える。また、少数者が自分らの「自由」を求めていくにあたって、「平等」の概念、同じ人間として「平等であるべきだ」という理念に、どれほど大きく鼓舞されるかわかりません。(pp.212-213.)

 

 つまり、こういうことでしょう。本質的な矛盾対立は、「多数者の自由」と「少数者の自由」の間にある。この2つは、両方いっしょに〔互いに矛盾し合いながら〕でなければ成立しない。どちらかを認める、ということは原理的にできない。どちらか一方だけにしてしまったら、十全な意味での「自由」ではなくなってしまう〔「多数者の専制」または「少数者の独裁」になる〕からだ。それゆえに私たちは、2つの「自由」のあいだの調整に、根気よくつきあっていかねばならない。「多数者の自由」というコイン、「少数者の自由」というコイン、どちらも裏側には「平等」と書かれている〔それぞれが、「自分の主張こそが平等だ」と言い張っている〕

 

 「自由と平等は矛盾する」と言いふらすのは、「自由」も「平等」も否定したい人たちだ。彼らは、〔資本主義は〕「平等でない」と言って自由を貶め、〔旧「社会主義国」は〕「自由でない」と言って平等を貶める。どちらにも騙されないほうがよい。

 

 

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「今までの世界システムの大きな功績は、もろもろの   

論争の《可視性》を高めてきたことである。」    

 

 


【51】 「近代世界システム」の危機――

「新しいシステム」の透明性と可視性

 

 

『既存のシステムに替わって新しいシステム〔…〕を構築するにあたって、われわれは、ⓐ システムにおける地位〔…〕に応じた特権を与えるような(あるいはそのような特権を許すような)位階 ヒエラルキー 的なシステムを採るのか、ⓑ 相対的に民主的で、相対的に平等主義的なシステムを採るのかの選択をすることになる。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.213.

 


 「地位に応じた特権」とは、貴族や富豪のような地位に限られません。テクノクラートのような・本人の能力に応じた “地位” であっても、それが特権を伴うのであれば、そのようなシステムは民主的でも平等でもありません。

 

 たしかに、「今あるシステム」は、民主主義の問題も、自由の問題も、平等の問題も、何ひとつ解決しませんでした。しかしながら、「いまある世界システムの大きな美点の一つは、ここに述べてきたような諸々の論争〔…〕可視性は高めてきた、ということである。〔…〕1世紀前と比べても、こんにち世界の人びとがこれらの問題にたいして、より十全な認識を持っている」ことは「疑問がない。」そして人びとは「自分たちの権利を求めて闘争する準備」を整えてきており、権力のある者が用いる尤 もっと もらしい「修辞」に対しても、懐疑を深めている。「既存のシステムは」世界の人びとと地域を「二極分解」し、格差を拡大した。が、その一方で、「すくなくともこのこと〔政治的な議論の透明性を高め、権力者の修辞に騙されないだけの認識を、人びとのあいだに広めたこと〕は、プラスの遺産である。」(pp.213-214.)

 

 

『移行の時代は、大きな闘争の時代であり、大きな不確実性の時代であり、知の構造に対する大きな問いかけの時代である。われわれは 先ずもって、何が起こっているのか、その正確な理解に努めなければならない〔知的課題〕。その上で、どのような方向に世界が進むことを願うのか、選択を行なわなければならない〔道徳的課題〕。そして最後に、その〔…〕選んだ方向に世界が向かう可能性を高めるために、現在われわれがいかに行動しうるか、その方法を見いださねばならない〔政治的課題〕

 

 これら3つの課題は、〔…〕互いに別のものではあるが、密接に絡み合ったものでもある。』どれひとつとして、『そこから手を引いてしまうことは、誰にもできない。〔…〕

 

 われわれの眼前にある課題は、例外的に困難な課題である。しかしそれは、われわれ〔…〕に対して創造の可能性を――すくなくともわれわれが総体として〔…〕何かを創造する〔…〕可能性を――与えてくれてもいるのである。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,pp.214-215. .


 

 以上で、『入門・世界システム分析』のレヴューを終ります。

 

 

 

 

 

 

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