尹大統領の弾劾訴追案採決を前に、韓国・国会前の道路を埋め尽くした市民。
右上・光る丸屋根が国会議事堂。2024年12月7日。©聯合ニュース.
【8】 「世界システム分析」の問題意識
――ⓐ分析単位の転換――「資本」と「独占」
『世界システム分析が第1に意味するところは、既存の標準的な分析の単位であった国民国家というⓐ分析単位から「世界システム」という分析単位への転換である。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.53. .
「概して言えば、それまでの歴史家は一国史の分析を行なっており、経済学者は一国経済の分析を、」政治学者,社会学者もそれぞれ自国一国を対象として研究していた。世界システム分析は、これに疑いを向け、⑴ いったい、それら一国的に定義された対象は、はたして実在するのか? ⑵ 実在するにしろ、しないにしろ、それを「分析の中心に据えることは最も有効な方法なのか? という問いを発した。」
「世界システム分析」が、国民国家に替えて提起する「分析単位」は、「史的システム」である。(p.53.)
ここで留意してほしいのは、「世界=……」の等号〔=〕です。「世界=帝国」とは、それ自体が全世界であるような「帝国」システムであり、「世界=経済」とは、それ自体が全世界であるような経済システムなのです。
ひとつの「世界」の中にたくさんの帝国があって相争っているなら、それは「世界=帝国」ではなく、たんなる帝国主義です。もちろん、歴史上じっさいは、メソポタミアの「世界=帝国」とエジプトの「世界=帝国」が相並んで存在した時期はありました。中国の漢「帝国」がローマ「帝国」からの使節を迎えたこともあります。それでも、それぞれの「帝国」の理念においては、自らが唯一の「帝国」であり全世界なのです。
同様に、「世界=経済」システムは、それだけで完結した世界です。その中には、多数の国民国家(ギリシャの場合なら「ポリス」)や地域統合(EU)のようなサブシステムが含まれていますが、それらは完結した世界ではない。
なるほど実際においては、「世界=経済」は地球全体をおおっているわけではない。北極や南極には及んでいないし、アフリカや東南アジアの奥地には、現在も「世界=経済」に包摂されていない部族社会(ミニシステム)があります。しかし、それらは無視しても、「世界=経済」は完結した全「世界」として成り立っているのです。
『つまり、「世界システム分析」においては、多数の政治的・文化的単位を横断する時間的/空間的広がりを分析の対象とする、ということである。その広がりは、システムとしての一定の規則にしたがう活動や制度・を通じて統合された一つの広がりを表している。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.54. .
「世界システム」という分析単位が最初に打ち出されたのは、「近代世界システム」としてであり、ブローデルによる 16世紀地中海世界の分析においてでした。ブローデルの・広域的な資本主義的「世界=経済」の把え方に、ECLA「従属理論」による「周辺的生産過程の中核的生産過程への従属」という考え方が加わって、「近代世界システム」の概念が形成されました。
ブローデルの影響のもとに、「近代の世界=経済は資本主義的な世界=経済であると論じられた。」近代の世界=経済は、「世界=経済として長期にわたって持続・繁栄した最初の世界=経済であり、その持続性は、完全に資本主義的な世界=経済となることによって初めてえられたものであった。
このような・資本主義の広域的な捉え方は、ドッブのような・一国内部における「生産関係の革新」〔農奴制から賃労働制へ〕に注目し、資本主義的「国民経済」の形成をそこに見いだそうとする従来の研究パラダイムを、大きく変更するものでした。新しいパラダイムによれば、資本主義への「移行」は、地域を構成する各国において別々に起こるのではなく、広域的な地域が全体として資本主義的な関係の中に包摂されてゆく過程として起こるのです。
「このような分析単位の」発想は、すでにブローデル以前に、カール・ポランニーによって提起されていました。ポランニーが提起した「経済的統合の3つの形態」は、世界システム分析の「史的システム」と、次のような関係になっています:
ポランニー 柄谷行人「交換様式」 世界システム分析
互 酬 互酬交換〔A〕 ミニシステム
再分配 服従と保護〔B〕 世界=帝国
市 場 商品交換〔C〕 世界=経済
シカゴの「民主党全国大会」開催中、国防軍兵士と睨み合う
ヒッピーの若者たち。1968年8月。©Wikimedia.
ECLA「従属理論」の「提起したカテゴリーもまた、世界システム分析には採り入れられている。」:
㋐「資本主義的な世界=経済は、中核的生産過程と周辺的生産過程とのあいだの垂直的分業を特徴としている。この垂直的分業は、中核的生産過程」の諸主体に有利な「不等価交換を引き起こす。」
㋑「中核」と「周辺」は、関係的な概念で、「中核それ自体、周辺それ自体」というものは実在しない。A生産過程や α国は、B生産過程・β国との関係では「中核」だが、C生産過程・ γ国との関係では「周辺」である、ということがありうる。
㋒「中核」と「周辺」は、「生産過程」にかかる言葉である。もっとも、「中核」的生産過程は「特定の諸国に」集まる傾向があるので、「中核国」「中核諸国」「周辺国」「周辺諸国」「という簡略化された言い方もできる。」
㋓ 「中核」と「周辺」が生じる原因は、市場独占の(相対的な)度合いによる。ある生産過程が「相対的に独占されている」場合には「中核」となり、「自由な市場に委ねられている」場合には「周辺」となる。市場独占は、自由競争に比べて大きな利潤を生む。「独占された産品」〔寡占企業が生産する工業製品など〕は、「多数の生産者が市場で競争する産品〔小農が生産する農産物など〕に対して、非対称的な力を持つ」ので、その帰結は、周辺諸国から中核諸国への剰余価値〔生産現場から生ずる実質利潤〕の一方的な流入となる。//
この・「独占の領域」と「自由市場の領域」を対立させる ECLA の見方は、ブローデルの「資本主義」観とも共鳴しています。というのは、ブローデルによれば、「自由市場とは区別された[独占]こそが資本主義である」。「彼によれば〔…〕資本主義は[反-市場]なのである。」
これは、古典派経済学とも、マルクス派経済学とも、通常の経済史学諸派とも大きく異なった資本主義観です。通常の考え方では、絶対王政国家による特権的な「独占」が解体した時に、資本主義的・自由市場経済が現れる、とされるのです。(pp.54-56.)
ピーテル・ブリューゲル(父)『大きな魚は小さな魚を食う』1556年.©Wikimedia.
【9】 「世界システム分析」の問題意識
――ⓑ社会的時間
『ブローデルが主張した社会的時間の多元性と、そのなかで特に強調された構造的な時間(彼は「長期持続」と呼んだ)は、世界システム分析の中心を占めるものとなった。
世界システム分析にとって、長期持続は、ひとつの史的システムの持続にほかならない。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,pp.56-57. .
このように「世界システム分析」が云う「長期持続」=「システムの持続」とは、物理法則のような “永遠の真理” ではなく、一定の長期にわたって、一定の社会ないし地域が保持する史的構造です。しかもそれは静止したものではなく、たとえば景気循環のような周期的/非周期的変化・を伴なうダイナミックな構造的過程なのです。「そこには始まりがあり、[発展]していく過程があり、そして別のシステム」へと移行する「終末がある」。
このような見方は、現象を近視眼的にではなく・広い空間的レンジと長い時間的スパンで観察することを、社会科学に対し求める。すなわち、社会科学は歴史的でなければならない。しかしその一方で、「進歩の必然性」のような・固定的な歴史観念からの解放をも促していると言えます。
ドッブとスウィージーの双方には、「封建制から資本主義への移行を必然的な現象とする」不問の前提が共有されていました。しかし、はたして「移行」は必然的だと言えるのか? 「移行」が、資本主義への(あるいは、資本主義または社会主義への)移行でなければならないという必然性はあるのか? ――言い方を変えれば、封建制から資本主義への移行は、なぜ? どんな条件のゆえに? 起きたのか‥‥起きうるのか? そのように問いかける可能性を、「世界システム分析」という方法は新たに開いたのです。
「移行の必然性」は決して前提的公理ではなく、むしろ、私たちは端的に無前提に、「移行」が起きた「直接の諸原因に眼を向けることができるようになったのである。」(pp.57-58.)
【10】 「世界システム分析」の問題意識
――ⓒ個別学科間の障壁
『世界システム分析の第3の要素は、社会科学の伝統的な境界に対する挑戦である。〔…〕長期持続にわたるトータルな社会システムの分析〔…〕は、それまで歴史学者,経済学者,政治学者,社会学者がそれぞれに排他的』に独占してきた対象領域に割り込んで『分析の対象とする〔…〕、しかもその分析は、〔ギトン註――「世界システム」という〕単一の分析枠組みにおいて行なわれる。
つまり、世界システム分析は、既存の歴史学や諸社会科学』すなわち『個別科学・の知的正統性を認めていない〔…〕、したがって世界システム分析は、多学科協働的〔いわゆる「学際交流」――ギトン註〕なのではなく、それ自体が〔ギトン註――歴史学,経済学等を越えた別個の〕単一〔…〕科学として存在するという意味で、統一学科的なのである。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.58. .
アメリカ軍によるベトナム・ソンミ村虐刹事件・の証拠写真。1968年3月16日。
この女性たちと子供たちはこの撮影の数秒後に刹された。女性たちが身づくろい
しているのは、この直前に強姦されたため。©Ronald L. Haeberle / U.S. Army.
【11】 「世界システム分析」への批判――
(α) 法則定立的実証主義
「世界システム論」による以上の3つの攻撃ⓐⓑⓒは、既存の学問・イデオロギーが依拠していた暗黙の前提をあばき、根底から異論を申立てるものだった。当然に、既存の学者とイデオローグにとっては、彼らの権威に対する・がまんのならない冒瀆であった。「時をおかず、また非常に激しく、4つの陣営から反論が浴びせられた。すなわち、(α) 法則定立的な実証主義者,(β) 正統派のマルクス主義者,(γ)[国家の自律性]学派,(δ) 文化の固有性を重視する立場〔「カルチュラル・スタディーズ」に属する諸々の領域研究学派――ギトン註〕である。」しかし、彼らの批判は、結局のところ、自分たちの従来の基本的前提を繰り返しているにすぎなかった。「世界システム論」がそれに従わないのは、新参者のくせに生意気だ、というわけである。
(α) 法則定立的実証主義〔数量経済学が典型と思われます。――ギトン註〕からの批判は、「世界システム分析」は「厳密な検証を経ていない諸仮説に立脚」した「語り ナラティヴ にすぎ」ない。また、反証可能性の無い〔水掛け論にしかならない――ギトン註〕したがって学問的価値のない命題を言い放っているだけであると断罪する。それというのも「世界システム分析」は、「数量化が」不十分であったり、「複雑な状況を、明確に定義された単純な変数に還元すること」なく、大雑把にいいかげんな推断をしている。そして、「価値負荷のかかった前提」を学問研究の中に滑り込ませている、と言うのです。
(α) 法則定立的実証主義 によるこれらの批判は、「世界システム分析」が (α) に投げつけた批判の裏返しにほかなりません。というのは、「世界システム分析」は、「社会的状況の実態を理解するためには、複雑な状況を・より単純な変数に還元するのではなく、むしろ」それら「単純な変数〔…〕を文脈化し、複雑化することに努力」すべきだと主張しているからです。
「世界システム分析」は、「数量化」に反対しているわけではありません。「数量化」が可能でありかつ有効な場合には、積極的に数量データの収集と分析を行なっています。しかし、「数量化しやすいデータだけに注目して研究を進め」るようなことは、あってはならないと考えています。「数量化」という・手法の便利さが、探究の目的と領域を制限するようなことがあれば、本末転倒だからです。「夜の道端で鍵をなくした酔っ払いが、そこが」探しやすいからと、「来た道ではなく街灯の下だけを探す」ようなことがあってはならないのです。研究者は、あくまでも自己が取り組む問題の性質・内容に従って、数量であれ非数量であれ「最も適切なデータを探す」べきなのです。
「結局のところこの問題は、正しい方法論をめぐる抽象的問題ではなく、」いずれのやり方が、史的現実に対して「より説得的」な説明を与えうるのか、「長期的で大規模な社会変動に・より多くの光を当てられるか」――ということに帰着する問題なのです。(pp.59-60.)
1968年3月18日、ロンドン・アメリカ大使館前でのベトナム反戦デモ。
©Corbis via Getty.数百人が逮捕された。英国警察は、群衆が大使館に
なだれ込むのをおそれて、押し返そうとしており、また騎馬警官が出ている。
【12】 「世界システム分析」への批判――
(β) 正統派マルクス主義
以上の (α) と並べると、 (β) 正統マルクス主義者からの批判は、彼らの盲信する金科玉条に凝り固まった「生きた化石」の観を呈しています。彼らは、「19世紀的な社会科学の想像力に溺れている。すなわち、資本主義は封建制からの必然的な進歩であり、工場制は資本主義的生産過程の本質であり、社会的過程〔「社会発展」の経路――ギトン註〕は単線的であり、経済的下部構造は、政治的・文化的上部構造を支配している、といったぐあいである。」
正統マルクス主義から投げつけられる非難は、「世界システム論」は「流通主義」だ・という “レッテル貼り”、および、「階級闘争」を無視している、という決めつけにほぼ尽きます。正統マルクス主義者は、誰に対して何を言うにも、硬直したお題目を唱える以外に能がないからです。
「流通主義」とは、どうやら「生産主義」の対立概念のようで、「マルクス主義」によれば社会のカナメである「生産過程」「生産関係」「生産力」を、「世界システム」論者は無視している;生産されたあとの商品の「流通」「交易」しか見ていない;ということのようです。正統マルクス主義者の考えでは、「生産過程」こそは社会発展の段階を規定する「下部構造」で、政治制度もイデオロギーも文化も、何もかもが「生産過程」によって決定される。ところが「世界システム」論者は、「生産」を無視する結果として、「階級闘争」が眼に入らない、というわけです。
その実、正統マルクス主義者の目に映る「生産過程」とは、資本主義ならば資本家と労働者の居る「工場」、封建制なら領主と農奴たちがいる「農場」という・ごくごく限られたイメージでしかない。資本家と労働者の尖鋭な階級対立に彩られた「生産」現場以外の、たとえば、親方と職人たちの和気あいあいとした共同的な職場などは、“社会の発展” とともに消えゆく運命にあるもので、そんなものに関心を向けようとする「システム論者」は、プルードン主義だ、アナーキストだ、と正統マルクス主義者は断罪するのです。(pp.61-62.)
これに対して『世界システム分析は、賃労働は、資本主義システムのなかに多数存在する労働管理の形態のうちの一つにすぎず、しかも決して、資本の立場からして最も利潤の得られるものではない、と主張してきた。また、階級闘争およびその他の形態の社会闘争は、総体として把えられた世界システムの文脈に置かれなければ、理解も評価もされ得ない、とも主張してきた。
さらに、資本主義的な世界=経済における国家は、それぞれ』が『特定の生産様式を持つものとして把えられるような自律性〔…〕孤立性を持っていない〔インター・ステート・システムの一つの環にすぎない。――ギトン註〕、とも主張してきた。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.62. .
つまり、「世界システム分析」によれば、ある社会の中で起きている運動や “闘争” に対して、マルクス主義者のように、「生産」本位の「社会発展法則」という “唯一のモノサシ” をあてて一律的に評価したのでは、何も理解したことにはならない。そうではなくて、その社会が置かれた・一国を超える「世界システム」の・その時点での動的構造と、そのなかでの各運動の位置づけという・総体的コンテキストを踏まえた見方をしてはじめて、それぞれの運動の個性的意義に即した理解・評価が可能になる、と言うのです。
1968年8月28日、シカゴの「民主党全国大会」開催中に、ミシガン通りで
衝突するデモ隊と警官隊。©Bettmann_Getty.
【13】 「世界システム分析」への批判――
(γ) 「国家の自律性」学派
「国家の自律性」学派は、「ドイツの歴史家であるオットー・ヒンツェの〔…〕影響を受け」た社会学者シーダ・スコポルチ、政治学者アリスティード・ゾルバーグらに代表される。彼らは、「正統マルクス主義者」とは逆に、国家および国家間関係においては、経済や階級闘争(マルクス主義者の云う「下部構造」)には規定されない自律的な動因が支配しているとし、この点を強調する。したがって、国家および国家間関係の領域は、それを「資本主義的な世界=経済の一部として把えるだけでは説明できない、とする。
そこで、「国家の自律性」論者たちは、マルクス主義者のみならず、「世界システム分析」に対しても同じ批判を向ける。すなわち、「世界システム分析」は、政治の広汎な領域を、「経済的下部構造から派生した,ないしは経済的下部構造に」よって決定された・特殊な狭い範囲の現実に「押し込めている、と批判するのである。」(p.62.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!