チェコ事件。 ソ連軍が民主化政権弾圧のため侵攻したプラハで、市中心部を

占拠する戦車隊と抗議する市民。チェコスロヴァキア放送局前、1968年8月21日。©Libor Hajsky / Reuters.

 

 

 

 

 

 

【4】 「世界システム分析」誕生まで

――4つの論争:②「アジア的生産様式」

 


『かつてマルクスが、人類史に展開してきた経済構造の諸段階について〔…〕あらましを論じた際〔マルクス「『経済学批判』への序言」1859年――ギトン註〕、彼はそこに、自らが記述する単線的発展段階には収まりがたいと気づきつつも、ある一つのカテゴリーを付け加えた。マルクスはそれを「アジア的生産様式」と呼び、大規模で、官僚制的、かつ専制的な帝国〔…〕を記述するカテゴリーとして〔…〕用いた。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.45.



 「正統」マルクス主義においては、史的唯物論に基く発展段階として、「奴隷制→封建制→資本主義→社会主義」という継起的交替があるとされます。しかし、この図式は、実はマルクスではなくスターリンが “制定” した公式なのです。日本では、マルクス主義が本格的に入ってきたのは第2次大戦後なので、そこで云われた「マルクス主義」とは、スターリンのソ連でフィルターにかけられたあとの「公式マルクス主義」であって、19世紀にマルクスエンゲルスが考えたのとはかなり異なったものでした。そこには多くの齟齬があり、戦後半世紀以上にわたって、ひとつまたひとつとそれらが暴かれるたびに、左翼活動家や社会科学者のあいだに激しい波乱を惹き起してきました。

 

 「アジア的生産様式」も、その齟齬のひとつで、マルクス自身は、「発展段階」の図式を次のように述べています。

 

 

『大づかみには、アジア的,古代的,封建的および近代ブルジョワ的生産様式が、経済的社会構成体が進歩していく諸時期として特徴づけられうる。

マルクス「『経済学批判』への序言」.  .

 

 

 これを素直に読めば、「古代〔奴隷制〕的生産様式」より前に「アジア的」という段階があったことになります。(また、社会主義という生産様式が将来ある、などとは言っていない!)

 

 しかも、マルクスはその後に、〔先史・古代ではなく 19世紀の!〕インドや西アジアの社会を研究して、それらは「土地所有権の欠如」したまま「停滞状態にある」社会だと言っているのです。この2つを合わせると、ヨーロッパは、「アジア的→古代的〔奴隷制〕→封建的〔農奴制〕→近代ブルジョワ的〔資本主義〕」というように発展してきたが、アジアは「アジア的」社会のままずっと停滞している、とマルクスは考えていたことになります。

 

 ともあれ、マルクスの言い方は断片的で曖昧なのです。そこで、1945年以後には「マルクス主義」者のあいだにさまざまな憶測を生み、さまざまな「社会発展」学説が唱えられました。たとえば、↑上の「アジア的停滞」を受け入れ、かつ、「発展段階」図式を、人類史の絶対「法則」だと考えるならば、アジアの国々は、近代化したいなら先ず「古代奴隷制」を導入して奴隷貿易をやりなさい。しかるのち、「封建制」に移行して殿様が支配しなさい。資本主義は、さらにその先だよ、ということになってしまいます。いくらなんでも、それを真顔で言う人はいない。そこで、ありとあらゆる「マルクス解釈」が唱えられ、論争したのです。

 

 

ヒマラヤから流れ出るインダス河。©西遊旅行。マルクスとエンゲルスは、アジア

の専制国家と社会の停滞性を、砂漠,大河などの土地・気候条件と結びつけた。

 

 

『1930年代、スターリンは、〔…〕公的議論から端的にこの概念〔アジア的生産様式――ギトン註〕を排除するというやり方で、マルクス解釈の「正統」を改訂しようとした。』そのせいで、『ソ連〔…〕その他の共産党の学者たちは、多くの困難を抱え込むことになった。彼らは、ロシアおよびアジア各国の歴史〔…〕を、無理やり「奴隷制」や「封建制」といった「正統」なカテゴリーにあうように強弁する議論を構築せざるをえなかった。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,pp.45-46.

 

 

 とはいえ、マルクスが陥っていた「アジア社会停滞論」というアポリアから脱出する意味では、スターリンの「改訂」にも意味がなかったとは言えません。スターリンの公式主義では、洋の東西を問わず、「古代奴隷制」→「封建制」という発展があったのだとされ、たとえば、ソビエト科学アカデミー編『世界史』全34冊 は、この図式に沿った叙述となっています。

 

 これが、アプリオリな図式の無理な当てはめであることは、読めば瞭然とします。この「改訂版ドグマ」を絶対的教義として権威づけ、異論を禁圧したことには、大いに問題がありました。そこで、スターリンの死後〔1953年~〕、抑えていた堰が切れたように「アジア的生産様式」論争が炎上しました。「それは、発展段階の不可避性を再問題化する〔疑う〕ことになり、したがって、分析枠組み及び政策方針としての開発主義を再問題化することになった。〔…〕1956年の〔…〕フルシチョフ演説〔スターリン崇拝を批判した〕と同様に、アジア的生産様式をめぐる論争もまた、いわゆる[正統派マルクス主義]〔…〕にひびを入れ、再考に付したのである。」(p.46.)

 

 

 

【5】 「世界システム分析」誕生まで

――4つの論争:③移行論争

 

 

 「移行論争」は、イギリスのマルクス主義経済史家モーリス・ドッブ、アメリカのマルクス主義経済学者ポール・スウィージーらのあいだで 1946~50年代に交わされた・封建制から資本主義への「移行」に関する論争です。

 

 ドッブが、一国ごと,たとえばイングランド・プロパーの「発展段階論」に基く移行を主張したのに対し、スウィージーは、「ヨーロッパ=地中海地域」全体の変容として資本主義への移行を考え、イングランドに起きた変化は、その一部であり結果であると論じました。

 

 ドッブの側に立つ論者に言わせると、この争点の本質は、あくまでも社会の「内生的〔内在的〕発展」をとらえるか、それとも「外生的」な・外部からの衝撃を変化の原因だと考えるかにあります。「ヨーロッパ」という・イギリスの外部で生じた(貿易などの)変化に原因を求めるスウィージーのような考え方では、イギリス社会自体の内在的発展要因は無視されてしまう、と云うのです。スウィージーは、「交易の重要性〔…〕を強調しすぎており、生産関係が果たす決定的な役割〔…〕を無視していると主張した。」つまり、ドッブは、伝統的なマルクス主義の原則的方法論に立脚していたわけです。

 

 なお、戦後日本のいわゆる “科学的歴史学” つまり史学界の主流は、ドッブに近い考え方で各国史を合法則的に認識しようと努めていました。日本史では、資本主義初期の「マニュファクチャー段階」が幕末社会に検出できるか否かという、かなり些末な議論に集中していたし、中国・朝鮮史でも、研究者の多くが「資本主義萌芽論」に拘泥していました。日本では、左翼政治圏の動向を反映して、スターリン流公式主義の影響がのちのちにまで残ったのです。1980年頃以降の日本の史学界が、合法則的な歴史研究すべてを放棄してしまうようなラディカルな堕落に向かったのは、その避けられない反動だったと言えます。

 

 これに対して、スウィージーらは、ベルギーの非マルクス主義史家アンリ・ピレンヌが解明した豊富な実証的データを引証していました。ピレンヌは↓④アナール学派の祖となった人で、7世紀以後にイスラム勢力が地中海交易圏を占拠したことによって「西欧の交易ルートの断絶と」中世の「経済的停滞をもたらした」反面、「ヨーロッパ世界」の一体性を強め、近世以後における発展を準備したという理解を示していました。このような広域史的な構想は、マルクス主義の発展段階論と、一国史的垣根にとらわれた伝統的な経済学・歴史学によっては達しえない境域であったのです。

 

 

囲い込み(エンクロージャー)。イングランド,ノース・ヨークシャー,

ハウズ近郊アドルブローに残る囲い込み石垣。©Wikimedia. 農民の共同耕地

を囲い込んで牧羊地とした 16世紀の第1次エンクロージャーは、新大陸などの

海外市場拡大による毛織物工業の興隆を抜きにして語れない。

 

 

 この「移行論争」は、学問の世界にも、学問外の世界にも大きな影響を及ぼしました。ひとつには、資本主義から社会主義への移行は、一国単位で達しうるのか、それとも「ヨーロッパ」のような広域における力学(たとえば「世界同時革命」)によってしか達しえないのか、というスターリントロツキー以来の政治論争に新たな土俵を提供したことです。

 

 これは、科学よりも、マルクス主義者同士の政治的セクト争いの問題ですが、「移行論争」はそれだけでなく、「経済学者として訓練されてきた多くの論者が、この論争を通じて歴史的なデータへの関心を強め」る効果をもたらしました。その結果、↓④アナール学派の見解と方法論に接近する経済史家も出てきました。

 

 第3に、「分析単位」の問題が意識されるようになりました。「分析単位」を一国にとるか、「地中海=ヨーロッパ」にとるか、さらにもっと広い圏域にとるかで、個々の論点の結論は大きく異なってきます。

 

 こうして「移行論争」は、一国の範囲での「生産関係」分析に対象を局限していた従来のパラダイムに対して、大きな衝撃を与え、とりわけ各国の共産党が依拠していた公式「マルクス主義」イデオロギーを、激しく揺さぶったのです。(pp.47-49.)

 


 

【6】 「世界システム分析」誕生まで

――4つの論争:④アナール派歴史学

 

 

 ③「移行論争」が英語圏で行なわれた論争であったのに対し、④「アナール学派」はフランスではじまり、イタリア,スペイン,ラテンアメリカ,トルコなど、フランスの文化的影響の強い地域で反響を呼びました。「アナール」とは『社会経済史年報(Annales d'histoire économique et sociale)』の略称で、リュシアン・フェーヴルマルク・ブロックフェルナン・ブローデルらをリーダーとして・この雑誌に集まった歴史学者たちが、この名称で呼ばれています。

 

 1945年までのフランスの史学界を支配していたのは、「極端な個性記述的および経験主義的傾向」そして著しい「政治史偏重」でした。これに対抗して「アナール」が主張したドクトリンは、「歴史記述は[全体的]でなければならない」。すなわち歴史記述は、「すべての社会領域における歴史的展開〔政治史,経済史,文化史,‥‥〕が統合された像」に向き合わなければならない。しかも、このような「統合された全体としての歴史的発展」には「経済的・社会的基礎」があるのであって、それは「表層の政治の流れ」よりも重要である。政府の公文書館の外に出て在地の文書を発掘し、そのような「経済的・社会的基礎」を体系的に研究する必要がある〔アナール学派は、たとえば出生死亡記録による人口動態の集計解析を熱心に行なった〕「歴史的現象を、長期的スパンで一般化して捉えることは」可能であるだけでなく、望ましいことだ。

 

 

パルマ・ノヴァ」の都市要塞。©世界遺産データベース。 16世紀末に

ヴェネツィア共和国が、オーストリア,オスマン帝国に対する東部の

防衛拠点として建設した。現在スロベニア国境に近いイタリア領にある。 

 

 

 「アナール学派」は、戦間期にはほとんど影響力のない少数派でした。ところが、1945年を境に爆発的なブームが起こり、「アナール」第2世代のブローデルらは、フランス系各国の史学界を支配し、その影響力は英語圏にも及ぶようになりました。「パリの新しい大学制度」が、「アナール」のドクトリンを支持していました。そこでは、歴史学は「法則定立的な傾向をもつ社会科学の諸学科からの知見を摂取し、それを統合」すべきであり、「逆に、社会科学の諸学科は、より[歴史的]に研究を進めなければならない」とされたのです。こうして、フランス・ラテン圏でも、個別科学の相互孤立の打破と統合がめざされたのです。

 

 ブローデルは、伝統的な個性記述的・政治史的な歴史記述を「エピソード的な歴史」と呼んで攻撃しました。「エピソード的な歴史」は「塵」である。それは一過性のものでしかない。ばかりでなく、「それが眼に入ると、背後にある現実の構造が見えなくなる」と言うのです。

 

 「だが、同時にブローデルは、時間を越えた永遠不変の真理の探究をも批判した。」歴史を貫く「法則」なるものは「神話にすぎない」と彼は考えていたからです。

 

 これら両極端のあいだに、個性記述的歴史学からも法則定立的社会科学からも無視されてきた2つの「時間」があると、ブローデルは主張しました。「そのひとつは[構造的時間]〔…〕であり、いまひとつは、その構造の内部における循環的過程である。」「構造的時間」とは、「史的システムの基礎をなす〔…〕基本的な構造」で、それは「長期的に持続するが、永遠不変ではない」。つまり、時代によって異なる構造が社会・国家・文化を基礎づけている。「循環的過程」とは、たとえば「世界=経済の拡大と収縮のような中期的な趨勢」です。


 さらにブローデルは、研究が対象とする「分析単位」の重要性に注意を促しました。彼がその最初の大著において「分析単位」に据えたのは「16世紀の地中海」であり、それが全体として「一個の世界=経済(world-economy)を構成していると主張し、」その史的メカニズムを明らかにしたのです。


 

ベトナム反戦運動。アメリカの大学生のデモ。1967年10月。©Wikimedia. 

 

 

 

【7】 「世界システム分析」の誕生

――1968年「世界革命」がもたらした転換

 

 

『以上の4つの論争は、〔…〕1950年代~1960年代に〔…〕、相互に参照されることなく〔…〕個別に起こったものである。しかしながら全体として見ると、これらの論争は既存の知の構造に対する大きな批判の現れとなっている。〔…〕続いて 1968年の革命という〔…〕衝撃によって、バラバラであった批判がひとつの形となった〔…〕1968年の世界革命〔訳者註――を構成する世界各地の状況〕は、それぞれ』『政治的争点をめぐって起こったものである。たとえばアメリカ合衆国のヘゲモニーとその世界戦略〔それはヴェトナム戦争を引き起こしていた――訳者註〕〔…〕ソ連の態度、〔…〕伝統的な旧左翼の無能といったことが、1968年の世界革命の主要な問題意識であった。〔…〕

 

 1968年の革命勢力は、世界各地の大学組織に最も強力な拠点を有しており、訳者註――直接の政治的争点だけではなく〕知の構造に関する多くの争点をも提起しはじめたのである。まず彼らは、〔…〕研究者が直接的な政治的関与を持つこと〔兵器の開発に役立つ物理学研究や、暴動の鎮圧に役立つ社会学的データ解析など――ギトン註〕をめぐる疑義』を提起した。『つづいて彼らは、これまで無視されてきた研究分野の存在をめぐって問題を提起した。〔…〕社会科学においては、多くの被抑圧集団〔女性,被差別部落,性的マイノリティ,先住民,……――ギトン註〕の歴史』が、そうである。『しかし、究極的に彼らが提起した』『は、知の構造の背後にある認識論の問題であった。』

 

 こうして、1970年代初めになると、『人びとは、一つのパースペクティヴ〔景観,展望,見方――ギトン註〕としての世界システム分析を明示的に語りはじめた。世界システム分析は、ⓐ分析単位に関する問題意識、ⓑ社会的時間に関する問題意識、そして ⓒ社会科学の個別科学間に打ち立てられてきた障壁に関する問題意識を、一貫性のあるかたちで統合しようとする試みであった。』

ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,pp.51-52.  .

 

 

 

 

 

 

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