昭和天皇と握手する満洲国皇帝溥儀。 1940年6月26日、東京駅。©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

【10】 「日本の軍部」――

ドイツ兵学の偏頗な受容と歪曲

 

 

 以上のような日本陸軍の後進性と極端な「精神主義」に関連して、石堂が指摘するのは、日本軍部が「ドイツ兵学」を一面的に受容したことです。すなわち、日本の武士の伝統的な「攻撃偏重・防禦軽視」「奇襲戦法至上主義」「速戦即決主義」に合う点だけを切り取ってドグマとしたのです。


『日本陸軍がドイツ兵学を採用したのは、1870-71年のフランス・プロイセン戦争でフランスが敗北したからだとされる。』そのせいか、日本陸軍は、『ナポレオンの侵攻に対する祖国防衛戦を理論化したクラウゼヴィッツで』はなく、クラウゼヴィッツ『斥けた・モルトケ以後のドイツ兵学を学んだ。とくに、シュリーフェン流の「殲滅戦」理論が、「素質劣等な敵」に対し寡少な兵力による攻撃の「機略」として有効だと判断したのである。』

 

 これは、『外国の経験を受容する場合にしばしば見られる「日本的歪曲」の一例であろう。』

 

 たとえばモルトケは、フランス野戦軍が殲滅されてもすぐに戦争が終結することなく、フランス国民の抵抗に手こずったことから、短期決戦の可能性についてかなり懐疑的であったが、このことは教訓として取り入れられなかった。〔…〕グラムシ〔…〕次のように言っている。

 

 ビスマルククラウゼヴィッツの先蹤にしたがって、軍事的契機よりも政治的契機の優位を主張している〔…〕〔『獄中ノート』2052〕

 

 ビスマルクは出色の保守政治家であった。ブルジョワジーとプロレタリアートの階級的タヒ闘が共倒れになる危険を感じて、2つの階級の妥協に方向を変えた人である。労働者階級としては社会民主主義的妥協に転じたことになる。〔つまり、ビスマルクは「政治的契機」に基く退却停戦によって、実質的勝利を得た。――ギトン註〕このような現実の過程は、日本の軍部の目に入らなかったと見える。

 

 30年代になると、イギリスとドイツでは機械化部隊による電撃戦理論が抬頭し、ソ連では縦深作戦理論が発達した。だが日本陸軍は、依然として歩兵中心の包囲殲滅戦が中心になっていた。遅れた工業生産力と戦略物資の欠如から軍の機械化、自動車化に即応できないのは客観的事実であった。

 

 それを精神力によって補いうるというのは、苦し紛れの弁解である。〔…〕もっぱら精神力と肉弾をもって物的戦力の不足を補うというのは、明らかに冒険主義である。にも拘らず精神主義にこだわって『火力を軽視する。敵を圧倒しうる兵力の集中の代わりに、』「寡ヲ以テ衆ヲ破ル」なる倒錯した美学から『必要に足りない兵力を逐次投入するという愚かな戦法が各地の戦闘で繰り返された。〔…〕それが精神主義の帰結であった。〔…〕

 

 

産米増殖計画」 群山港から積み出される朝鮮産米穀。朝鮮興業株式会社

編「朝鮮興業株式会社30周年記念誌」(1936年)。「米騒動」に驚いた

日本帝国政府は、植民地で食糧を増産させて内地に移入する政策を進め

たが、じっさいには著しい飢餓輸出であった。 

 

 

 30年代末の『日本経済新聞』のある号に、次のような記事が載った。軍の機械化をはかって軍務局内に、これまでになく、工業労働の経験のある者、自動車などの運転のできる者を徴集すべきだという意見が強まったそうである。ところが兵務関係から有力な反対論が起こった。国軍の精強は、農村中心の純樸な青年を主体とする歩兵によって保証されているのに、都市の工業生活者が多くなれば、この精強は失われ、〔…〕軍の最も忌み嫌う近代的合理性心が侵入する〔…〕というのである。〔…〕

 

 以前には国際商品であった米は、20世紀初めの関税制度により〔ギトン註――コメの輸入が抑えられ国内米価が高位安定することで〕、一定の利益を地主階級に保証した。地主は、土地独占のおかげで、技術的改良を施すことなしに高額地代を収めることができた。関税は、戦時における食糧自給という国防上の要請に基くものであった。〔…〕日本的地主制度と軍国主義には不可分の関係があった。精神主義的日本軍と、遅れた農業とは、実は同根のものであった。遅れた農村関係を維持しなければならない陸軍〔「純朴な」農民兵士を徴集するため――ギトン註〕が、都市プロレタリアートに不信を抱くのは不思議ではない。ひとりのビスマルクも現れなかったのは、偶然ではない。

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.203-207.  .



 もっとも、最近の研究によると、1930年代以降は、日本の寄生地主制は解体に向かっていました。1918年の「米騒動」に驚いた政府は、植民地朝鮮・台湾で「産米増殖計画」を実施して内地に飢餓輸出させ、内地の米穀供給を安定させた。そのため、米価は下落し、内地の農村は恐慌に見舞われました。地主にとっては小作地を広げるチャンスでもあったが、高額地代の搾取にも困難が生じたのです。こうした状況が、戦時中の自作農育成政策と食糧管理統制を経て、戦後の「農地改革」を事実上準備することとなった。〔柄谷行人/岩井克人・対談『終りなき世界』,1990,太田出版,pp.47-51.〕


 

 

【11】 「日本の軍部」――石原莞爾の野望と誤算

 

 

『満州の武力による侵略は、軍の総意として既定の方針であった。』だが『その実行において彼石原莞爾――ギトン註〕が独自の寄与を行なった〔…〕

 

 満州占領は、石原の世界戦略の一部分であった。彼は、わが日本が世界最終戦争において、アメリカと対決することになると信じていた。占領後の満州で国防生産力を高める必要があるとして、そのためには、1937年度から 2度にわたる「重要産業5か年計画」を実施すべきものと考えた。そのために石原は、満鉄職員を中心に経済調査会を設立し、詳細な調査と研究にあたらせた』が、その調査研究は『結果から見て、かなり杜撰なものであった〔…〕

 

 当初の計画では、満州には日本に欠けている重工業資源、鉄鉱石、石炭などが豊富に存在するはずであった。〔…〕新生の「満州国」に新しく重工業を建設し、同時に〔…〕日本自体を国防国家に改造することによって、世界最終戦争の必要とする軍事生産力が保証されると考えられていた。ところが現実はそれほど甘くはなかった。満州鞍山の鉄鉱石は貧鉱であり、撫順の石炭は低カロリーであった。これらの鉄と石炭では、重要な特殊鋼の生産は事実上望めないのである。〔…〕連年日本は満州に資金を注ぎ込むだけで、満州経済は日本のお荷物になった。結局のところ、日満国防国家における国防生産力増強計画は、誤算に終っている。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.209-210.  .

 

 

 

撫順炭鉱・露天採掘場。〔上〕「満州国」時代。満州写真館(geo.d51498.com)

〔下〕現在。cannergy.sakura.ne.jp

 

 

 実は、これと同じことは、すでに第1次大戦前から石橋湛山が指摘して警鐘を鳴らしていました。日本の植民地領有(朝鮮など)は、バランスシートでマイナスにしかなってない。お荷物でしかない植民地はすべて放棄して、独立するにまかせるがよい、との「小日本主義」を石橋は唱えていました。が、同じ失敗を何度くりかえしても懲りないのが、日本の支配者であったのです。

 

 

『1939年に満鉄調査部員具島兼三郎は、アメリカ、イギリス、中国、オランダなど ABCD陣営と、日本、ドイツ、イタリアの枢軸国陣営の国力の比較研究を発表したが、それは軍によっては顧みられなかった。具島の判断は、近代的総力戦に必要な資源と工業生産力は ABCD陣営がはるかに優位に立つということであったが、それは軍部の喜ぶところではなかった〔ので、無視された。――ギトン註〕〔満鉄調査部月報、1939年9月・12月号「物資戦略と外交政策」〕

 

 石原莞爾のもう一つの誤算は、傀儡国家満州国の建設が住民の深刻かつ広汎な反日運動を起こすことを計算に入れてなかったことである。当時の日本人は、日に日に激化する〔ギトン註――中国〕ナショナリズムの勃興に目をつぶって、五族〔漢満蒙鮮日〕協和の王道楽土が実現されたと言って自らを慰めていた。〔…〕2次にわたる5か年計画すなわち 10年の期間、石原は満州における軍事体制が中国本土に拡大されることに、原理的に反対した。〔…〕「攻勢終末点」は山海関であり、夢にもこれを越えて中国本土に兵を進めてはならなかったのである。

 

 1937年の盧溝橋事件の勃発は、石原の原則を真っ向から否認することになる。石原は、『華北の軍事行動が拡大することを認めざるをえなかった。〔…〕彼の歴史的な役割は、満州事変を決行することで事実上終っていたことになる。〔ギトン註――石原の「総力戦構想」が否定されたことで、〕彼のグループが〔…〕没落に追いこまれた』。これにより、軍を統一し「整合的系統的政策体系を実現しうる権力核が消滅した」〔…〕

 

 石原クラウゼヴィッツのように、侵略に対する民族的抵抗の巨大な力を十分に研究していたならば、あのように単純な満州軍事支配に乗り出すことは困難であっただろうと思われる。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.212-214.  .

 

 

 満州を軍事占領して「総力戦」の産業基盤とする石原の計画は、完全な失敗であった。しかし、彼が日本に与えた損失は、それにとどまらない。「満州国」傀儡国家の建国は、ソ連を刺戟して、極東に赤軍の大兵力を集結させるに至った。

 

 

『満洲事変に対応して、極東蘇軍の軍備を増強した。極東蘇軍の総兵力は、今や我が〔…〕在満兵力の数倍に達する 22万に達した。〔…〕飛行機は昨年〔1934年〕末約 600機を算し、事変前 100台内外にすぎなかった戦車は、現在少なくとも 650台に達し、飛行機のなかには、東京大阪附近迄飛来しうる航空距離 2500キロメートル以上の超重爆撃機約 80機を含有しているのである。〔陸軍省新聞班『転換期の国際情勢とわが日本』、1935年9月発行〕


 このことを十分に承知している関東軍が、昭和14〔1939〕年5月にソ連国境ノモンハンで挑発戦争を開始したのである。その結果は、性能の優れたソ連の飛行機と戦車によって壊滅に近い惨敗をとげた。その責任は、石原のあと軍の知嚢と言われた辻正信参謀にあった。

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.213-214.  .

 

 

ゾルゲの生地:アゼルバイジャン・バクーの「リヒャルト・ゾルゲ公園」

にあるゾルゲの記念碑。 ©Wikimedia.

 

 

リヒャルト・ゾルゲが、ドイツの『地政学雑誌』1935年第8号に寄稿した論文『日本の軍部』の第4節〔…〕「日本の国防地理学的地位」』から『要約を紹介する。

 

 〔…〕満州国を作り上げたことによって、日本の国防任務は複雑になった〔…〕。以前には、北は千島から南は台湾までの防備線は、対米英で5・5・3の比率の艦隊で対抗しうる不敗の陣地であった。満州国の成立により、シナ海全体と沿岸の制圧が戦略目標となり、日本艦隊の任務は「著しく広汎となり困難」を加えた。むしろ「不利」になった〔…〕

 

 陸上では、日本が満州を占領したことにより、ソ連軍が中国軍と接続できなくなり、満州の原料が日本から遮断される可能性が無くなっている。このことは明らかにプラスである。

 

 しかし、満州の原料や施設が日本によって利用されるのは必ずしも容易でない。『本国〔日本列島――ギトン註〕からの距離は、ベルリンからモスクワまでのそれに近く、しかも輸送線〔東京―釜山―京城―平壌―大連。――ギトン註〕は単線に近い状態であ』る。『それはまた兵站の隘路ともなっている。既設路線の複線化や新線の建設となると、日本経済』には『大きな持ち出しとなるであろう。

 

 しかも現地住民は日本に〔…〕敵意を持ち武装力を組織し、団結して侵入者日本に当たるであろう。そのうえ〔…〕ソ連空軍の充実により、日本列島は多くの危険地帯を抱えることになる。


 仮想敵としてのアメリカやソ連からの侵攻が困難であるのと同様に、日本から』それらの国々への侵攻『も困難である。「チタあるいは蒙古を通過してシベリアに進出することは、ナポレオンのモスクワ進軍の繰り返し〔=大惨敗――ギトン註〕となろう」〔…〕アメリカ沿岸への進出は自刹に等しく、ハワイさえ遠すぎる

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.214-215.  .

 

 

 なるほど、日本の中にいると大陸に眼が行きがちですが、海から眺めると、また違った世界が見えてくるものです。

 

 海から見れば、千島から台湾までの海岸線は、“守りやすく、攻めにくい”。ロンドン海軍軍縮条約で、英/米/日の主力艦比率を5/5/3.5とすることが取り決められ、日本では、不当だ!不公平だ!と大騒ぎになりました。しかし、ゾルゲの見るところでは、日本が現状の「帝国」〔千島,南樺太,本土,朝鮮,台湾〕に満足する限りでは、この比率はむしろ日本にとって極めて有利だと言うのです。主力艦の不足は、海岸線という自然の防壁が十二分に補ってくれるからです。

 

 

 

 

 ところが、満州への進出は、日本のこの有利な条件を破壊してしまったと言うのです。東シナ海~黄海の長大な海岸線の防備負担が加わるからです。石原莞爾は、陸地しか眼に入らなかったために、大きな見込み違いをしてしまった。満州を領有したとたんに、黄海方面の防備が不可欠になり、いきおい、華北・華中を固めようとする誘惑に捉えられることになります。中国と切り離して、満州だけを奪い取り、日本と一体の「国防国家」にする・という石原の構想は、地政学上どだい無理があったのです。「盧溝橋事件」後の中国戦線拡大に引きずられてしまったのは、最初から予想できたなりゆきだったと言えます。

 

 このゾルゲの指摘には、瞠目せざるをえません。とともに、現在と将来に対しても、示唆するところがあります。日本の地政学的条件は、細長い島弧だけで独立して平和に暮らすようにできているのです。朝鮮半島や、まして大陸中国と一体になるようにはできていません。島弧からの大陸侵略が不利であるだけでなく、大陸のほうから島弧を征服するのも困難です。これは歴史が証明しているでしょう。しかし、島弧の先:千島,沖縄,台湾――とのあいだでは、連絡をたもって、共存してゆく余地があります。ただしその場合、国家領土の範囲に固定的にこだわるならば、やはり不幸を招くかもしれません。とにかく細長くて「単線に近い隘路」だからです。無理に一国に統合すれば、「多くの危険地帯を抱える」おそれがあります。

 

 

『国防生産力が下降に転じている時点で・中国本土へ大軍を送りこみ、その大陸作戦が停頓し〔…〕和平交渉を決意しなければならなくなった段階で』逆に『「大東亜戦争」に突入した』。そのような『「聖戦」とは何であっただろう。

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,p.215.  .

 

 

 

【12】 他の章について

 


 以上で、第Ⅴ章「日本の軍部」をレヴューしました。

 

 他の章からも、関心を惹くところをレヴューしたいと思ったのですが、現時点では私の準備が不足していると思わざるを得ません。

 

 石堂清倫の白眉は、言うまでもなくアントニオ・グラムシの「ヘゲモニー論」です。本書第Ⅰ,Ⅱ,Ⅳ章では、「ヘゲモニー論」と、それにかかわる「機動戦/陣地戦」の理論によって、戦時日本と現状〔1990年代〕の分析が示されています。しかし、それらの理論の体系的説明はこの本には無いので、いまいち正確な文意がつかめません。なんとなくわかる…程度の理解でお茶を濁しても、のちのち参照できるようなレヴューにはならないでしょう。

 

 そういうわけで、このレヴューは、ここでいったん締めくくりたいと思います。後日に続きを書くこともあるかもしれませんが、その時は、【石堂清倫『20世紀の意味』から(6)】として再開するでしょう。

 

 


 

 

 

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