ノモンハン事件(1939年)。ノモンハンの戦場まで徒歩で移動する

関東軍・第23師団の歩兵たち。©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

【8】 「日本の軍部」――「統帥権」という日本的現象

 

 

『軍は「統帥権」という聖域を設定し、政略に優先する軍略の独占を主張してきたが、軍内部でも、軍政の陸軍省と作戦中心の参謀本部のあいだに対立があり、それが盧溝橋の紛争の「不拡大」を求める陸軍省と、「止むを得ざれば速戦即決」〔つまり、無計画に「拡大」する――ギトン註〕を謀る参謀本部の対立として再現された。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,p.197.  .

 


 「統帥 とうすい 権」「政略」「軍略」という、意味のよく解らない用語が頻出します。

 

 「統帥」とは、『大日本帝国憲法』で、天皇が陸軍・海軍を統制することですから、「統帥権」と言えば、本来は天皇の権利です。ところが、この昭和時代になると、本来は統帥されるはずの「軍」や「軍人」の “独占的権利” であるかのように、「統帥権」が主張されるのです。内閣,国会などの政治部門に対して、暗に「軍」「軍人」の不可侵領域を主張する文脈で、「統帥権」の独立・優位が語られます。「統帥権を侵すな!」「それは統帥権の干犯 かんぱん だ!」という言い方で「軍部」の特権が主張され、「軍に逆らうことは、天皇に逆らうことだ!」という脅し文句として通用するようになりました。

 

 「政略」「軍略」のほうは、さらに曖昧で難しい。「軍略」は、「戦略」よりもずっと狭い範囲の話で、局地的な作戦,用兵・戦闘計画,部隊の動員・輸送、といったことであるようです。つまり、大局に立った国家戦略、総力戦体制の構築・運営、物資調達と軍需産業の動員、「敵」との折衝、和平交渉、現地外交といったことはみな「政略」であって、‥‥それは「軍略」ではない、軍人はそんなことは気にするな、とされてしまうのです。

 

 旧日本軍では、「軍略」が「政略」よりも優位に置かれました。「軍」内部では、軍人はもっぱら「軍略」に従事すべきで、「政略」など考えるのは恥ずかしいことだ、という観念が支配していました。しかも、軍事――政略と軍略――はすべて、政治家は口を出せない「統帥権」の不可侵領域です。これでは、開戦/不戦の決定も、戦争の遂行も、まったく無計画、出たとこ勝負で支離滅裂になってしまう。じっさいに、そうなったのです。

 

 この点は、陸軍ばかりでなく海軍でも同じでした。たとえば山本五十六は、対米開戦の前には、緒戦は良くても長くは持ちこたえられない、と言っていました。が、じっさいに始まってしまうと、自分は「軍人だから」政略には口を出さない、ということで、大本営〔陸軍と海軍の連絡のため設けられた〕の意向に従って戦線を野放図に拡大。そのあげく、自分も最前線のラバウルに出かけ、近くの島の兵士を慰労しに行く途中で撃墜され、戦死しています。このような態度が、軍人として潔 いさぎよ い、として称賛されたのですが、一軍の大将としてこれほど無責任な態度も無いといえます。

 

 

山本五十六が戦タヒ時に搭乗していた戦闘機の残骸。靖国神社の展示。

 

 

『それ〔「統帥権」の独立――ギトン註〕について、興味ある発言がある。

 

 戦争指導の破壊者は、一面において作戦当局〔参謀本部――ギトン註〕なりき。統帥権の独立は軍事の専行となり、〔…〕作戦中心、作戦機密の思想をもって一貫し、爾他の容喙を許さず、専行を慣例とし、しばしば独断に陥れり。〔…〕作戦の専行、敏活をもって〔ギトン註――軍と政府との〕政勢の協議』『遅滞に先行することしばしばなり。その際、〔…〕全般の戦争指導を破壊するは、理の当然なり。

 

 これは、戦争指導課の堀場一雄大佐の言で〔…〕ある。逆ピラミッド的な「下剋上」体制が、統帥権の実体であったのだ。

 

 回顧すると、日清日露の戦争期には、〔…〕政略と戦略〔正しくは「政略と軍略」――ギトン註〕の事実上の一致があったために勝利することができたとされる。

 

 その後の軍幹部は、維新以後に陸海軍学校で養成された専門の軍事官僚によって占められ、この新しい勢力が独自化を強め、内閣から独立した天皇の統帥大権を主張するようになった。

 

 第1次世界戦争の終結後、〔…〕わが国でも「大正デモクラシー」運動が盛り上がった。陸軍の軍縮が始められ、〔…〕政党内閣〔…〕。だが、政党内閣への反撃は 1921年〔…〕原敬首相の暗殺によって始まった。党首を刹された政友会が 1930年にはロンドン海軍軍縮条約の締結を統帥権干犯と称して反対したように、政党そのものが軍国主義から独立していなかった。〔…〕

 

 浜口民政党内閣が条約〔ロンドン海軍軍縮条約――ギトン註〕の締結にふみきったところ、政友会がこれを統帥権干犯として非難した。政友会〔自民党の先祖――ギトン註〕は民政党〔民主党の先祖――ギトン註〕攻撃のため、自らの命取りになる統帥権問題を持ち出したのである。このことは、日本の政党の体質を如実に示すものであった。〔…〕

 

 以来、民政党浜口首相、政友会犬養首相と、暗殺が続く。〔…〕

 

 このような統帥現象は、日本特有のものである。〔…〕維新後、〔…〕近代化されることがなく、旧来の「封建的」性格を持続していた。さらに、戦争が武装力と武装力の対決によって遂行された武力戦時代とは異なって、『第1次世界戦争後の総力戦時代には、すでに時代錯誤的存在になったのである。〔…〕「総力戦」の段階になっても依然として軍事力の「統帥〔つまり、政治からの独立――ギトン註〕に固執するのは、たんに旧弊の存続を意味するだけでなく、日本型のファシズム独裁〔…〕の性格をもってきたのである。いいかえれば、統帥の実現は、軍部を国家内の国家とする〔政治部門とは無関係に、軍部が独立国家のように行動する――ギトン註〕ために必要だったのである。

 

 

極東国際軍事裁判で絞首刑の判決言渡し

を聞く東條英機被告。©朝日新聞。

 

 

 1937年段階で、〔…〕近衛首相が、自分の知らないうちに統帥部によって大作戦が発起され、自分の職責が遂行できないことを嘆いていた。しかももその統帥実体が漠然としていて捕捉しがたかった

 

 軍を代表したはずの東條英機大将さえ、統帥によって自縄自縛の憂き目を見ている。敗戦後の極東国際軍事裁判の法廷で、要約次のように陳述している。国家は総力戦体制をもって運営する必要があるにもかかわらず、この制度〔「統帥」制度――ギトン註〕があったために、統帥が戦争を指向するのを、国家としては抑制できなかった。〔…〕

 

 1944年2月〔…〕万策の尽きた統帥部は、やむなく政略と結ぶことになった。ここで東條首相は〔…〕自ら参謀総長〔陸軍のトップ――ギトン註〕を、〔…〕海相は軍令部総長〔海軍のトップ――ギトン註〕を兼任することになった。〔…〕何よりもこれで統帥の実が無くなるのを憂いたのは、天皇その人であったという。しかし時機すでに遅く、〔…〕敗戦が続き、天皇の意思により東條らは〔…〕辞任させられ〔…〕た。

 

 一貫して統帥権によって遂行された 15年戦争は、恥ずべき失敗に終った。立憲主義に拘束されない〔…〕日本軍は、皇軍すなわち天皇の軍であって、国民の軍ではなかったからである。

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.197-199,179.  .

 

 

 

【9】 「日本の軍部」――異国民蔑視による精神主義,

攻勢偏重,速戦即決主義

 


『この時期の東アジアでは、〔…〕中ソとも軍事力は低位にあった。軍部は両国を「素質劣等なる敵」と判断していた。〔…〕日本のナショナリストの欠点は、相手のナショナリズムを軽視し、一時的・過渡的な現象を恒常的な「素質」と速断した。仮想敵を侮蔑し、大言壮語によって自己の力量が向上できると誤解した〔…〕アントニオ・グラムシは『獄中ノート』のなかで、「確実に敵に勝ちたいばかりに、これをひどく見くびる傾向がある。それは自分自身の無能力や弱さの表現である。〔…〕」と言っている。〔…〕「対ソ戦闘法要綱」〔1923年〕は、極端なソ連蔑視で貫かれており、後日ノモンハン戦で痛撃を受けることになる。

 

 

ノモンハン事件。ソ連軍の戦車機甲部隊の前に、歩兵・塹壕戦に頼る

日本陸軍は無力だった。 映画『戦争と人間』から。

 

 

 1928年2月の「戦争要綱草案」も根本は不変である。「勝敗ノ数ハ必スシモ兵力ノ多寡ニ依ラス、精錬ニシテ且攻撃精神ニ富メル軍隊ハ克ク寡ヲ以テ衆ヲ破ルコトヲ得」と言っている。しかしこの精神主義は、自分自身が〔…〕資材整備力を望みえないからである。このように経済体制の後進性は軍事力によっては克服できない〔…〕

 

 昭和期に入って改訂された「統帥綱領」も同じことである。国務=政務からの作戦の独立性がこれまで以上に高唱された。作戦においては攻勢を本旨とし、速戦速決のための「初動威力の強化」は、方面軍の作戦にとどまらず国軍の戦略にまで高められた。会戦は「攻撃」にだけ限定され、運動戦としての「包囲殲滅」が強調され、「陣地戦」=「防禦戦」は第二義的なものに格下げされている。近代総力戦は、必然に持久戦となるのに、〔ギトン註――日本軍では、その持久的総力戦が〕兵站無しに遂行されなければならない。これでは、クラウゼヴィッツの『戦争論』のテーゼの正反対を原理とするに等しい。実際に日露戦争で、要塞に向かって白兵攻撃をしかけたのと同じである。〔…〕

 

 源平合戦以来の〔…〕日本的な武学武教観が生きていて、明治維新の理念の一つとなり、「軍人勅諭」の基礎理念に繋がっている。〔ギトン註――頼山陽〕『日本外史』の〔…〕一部分がそのまま「軍人勅諭」の前文となっているのである。〔…〕

 

 このような一面的教養で鍛え抜かれた〔ギトン註――士官学校の〕エリート学生は、陸軍大学へ入ってもクラウゼヴィッツなど学んでいないし、それを理解しにくい頭脳構造になっていたであろう。

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.201-202.  .

 

 

 

 

 

 

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