北京市郊外の盧溝橋。©long-sprinter.com. 北方民族の王朝・金が建築した橋で、
マルコ・ポーロ『東方見聞録』にも言及がある。1937年、末端部隊の衝突から
日中戦争開始に至ったが、発端は、両軍相互の誤認による偶発的戦闘だった。
【6】 「日本の軍部」――
「下剋上」と無責任体制
「佐官」幕僚群への権力移動によって「実権を失った上層将官層は、〔…〕この現象を[下剋上 げこくじょう]として呪った。」しかし、彼ら自身が「下剋上」に手を貸し、事態を助長していました。たとえば、「満洲事変」当時、朝鮮軍司令官だった林銑十郎大将は、「自分の幕僚である森五六大佐を無視し」、したがって東京の軍中央の意向を無視して、満洲の「石原莞爾中佐と連絡のある神田正種中佐と事を謀った」。「[下剋上]は、形の上では佐官クラスの反逆であったが、これを助長したのは上層の将軍クラスであった。」(pp.185-186.)
『満州事変開始時には参謀本部作戦課長であった今村均は、その実情を次のように述べている。〔…〕
板垣・石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた。
にもかかわらず、新たに〔ギトン註――陸軍の〕中央首脳者になった人々は、満洲事変は成功裡に収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞を浴びせ、〔…〕中央の要職に栄転させると同時に、
関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官〔…〕を一人残らず中央から出してしまった。これを眼の前に見た中央三官衙〔陸軍省,参謀本部,教育総監部――石堂註〕〔※〕や各軍の幕僚たちは「上の者の統制などに服することは、第2義のもののようだ〔…〕功さえ立てれば、どんな下剋上の行為を冒しても、やがてそれは賞され、それらを抑制しようとした上官は追い払われる〔…〕」というような気分を感ぜしめられ〔…〕軍統帥の本質上に大きな悪影響を及ぼした。〔『私記・一軍人六十年の哀歓』,pp.210-211.〕
私的功名心に燃える集団は、その肥大化につれて統帥を腐敗させてゆく。』そのことに『最大の責任を負う軍首脳部〔=「佐官幕僚群」――ギトン註〕は、〔…〕精神主義の権化と言われた荒木貞夫陸相,〔…〕真崎甚三郎参謀次長らの「皇道派」であり、この人びとが、のちの2・26事件の真の指導者〔★〕となるのである。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,,pp.186-188. .
註※「中央三官衙」: これらは、陸軍の中央機関。戦前の日本の軍隊は「陸軍」と「海軍」に分かれ、それぞれが天皇のみを上官としていた。政府・内閣から独立しているだけでなく、陸・海の間にも連絡が無かった。
註★「真の指導者」: 「2・26事件」の蜂起を実行したのは、野中四郎歩兵大尉ら陸軍青年将校18名だが(16名銃殺,野中ほか1名は自決)、背後で指導した荒木陸相と真崎参謀次長は無罪とされた。
2・26事件。決起日の叛乱軍将兵。 叛乱軍兵士に説明する
丹生誠忠(にぶ まさただ)歩兵中尉〔左中央〕。
「2・26事件」〔1936年〕で蜂起を決行した「青年将校」たち(階級は「大尉」以下)は、たんなる実行役にすぎず、彼らを背後で動かしていたのは、陸軍中堅「佐官」幕僚群(大佐~少佐)の一部である「皇道派」、すなわち荒木陸軍大臣,真崎参謀次長らであった。蜂起部隊が降伏したあと、「青年将校」らは全員が、銃殺刑に処せられるか、現場で自決タヒしたが、指導者である「皇道派」は、誰も責任をとらなかった。荒木と真崎は、起訴されたが無罪となった。
蜂起した「青年将校」はもちろん、「皇道派」も、「国民に訴えるべき社会綱領を持たなかった。」政権を奪取して、日本国家をこのように改造し、人びとを救う……というようなプログラムが、彼らには無かったのです。これは、ムッソリーニのファシスト党,ヒトラーのナチス党との大きな違いです。それは「国民に対して無責任」なことでした。「皇道派」は、「複雑化し多様化している現実の社会を、軍事的単元化で統合」し(つまり、社会を戦時体制に退化させる)、対外侵略で活路を開く――という程度の社会認識しか持っていなかった。
「2・26事件」クーデターの・このような「無責任性」には、鎮圧した政府・軍首脳の側も困惑したと思われます。蜂起とはまったく無関係な北一輝,西田税が逮捕され、彼らの空想的な国家改造計画が蜂起の目標であったと こじつけられ、ともに銃殺刑となっています。
陸軍内部で「皇道派」と対立する勢力として、「統制派」がありました。「統制派は、対外侵略の基本方針では皇道派と軌を一にするものの、総力戦の要請を国民経済と調節する必要は認めざるをえなかった。」彼らは「政治との対話の道を残そうとした」。それゆえに、クーデターには参加しなかったのです。統制派は、「軍略に重点を置きながらも、あるていど政略を考慮しようとした」。「統制派をリードした永田鉄山が皇道派の将校によって斬殺されたのは、両派の妥協が困難であることを示した。」「バーデン・バーデン」会議の3人のうち、永田は統制派に属し、小畑敏四郎は皇道派に属しました。このような・陸軍「改革幕僚群」内部の分裂は、国民の眼にも明らかとなりました。しかし、「それは対外侵略の手法における対立であって」、対外侵略を行なうこと自体に対立はありませんでした。それゆえに、「一挙に侵略を開始することによって対立は消える」。
1937年7月「盧溝橋事件」による「日中戦争」開始は、「その第一着手」でした。(pp.189-190.)
ところが、日本軍には、そもそも統一した戦略というものがありませんでした。
海軍は「アメリカを主敵とする海洋作戦に、陸軍はソ連を主敵とする大陸作戦に重点を置いた」。しかも、その陸軍内部は、「第2の仮想敵・中国に対する方針」をめぐって三分裂していた。ゾルゲの情報〔1939年1月22日〕によれば、日本陸軍の①「第1のグループは、全中国を征服し」日本以外の「すべての外国勢力を中国から駆逐」することを主張して、「中国との速戦を求めている。」②第2のグループは「関東軍に代表される」。①とは逆に、「中国との講和を求め」ている。日本軍のすべての力を「ソ連との戦争に集中したいのである。」③板垣,寺内ら「第3グループは、華南と華中における作戦を中止し、」ソ連に対峙する日本軍の「展開地域として華北と満蒙だけを」確保することを主張している。
山海関、老龍頭。 「山海関」は、「万里の長城」の東の端で、
渤海湾に城塞の先端が突き出ている。ここは、
「満洲」等「夷狄」の土地と中国本土との境界とされた。
②「第2グループ」の中心人物が、満洲事変を惹き起した石原莞爾です。石原は、「山海関〔満洲と中国の境界にある関所〕を攻勢終末点とし、中国本土への侵攻を非とした。日本と満洲の総合経済によって〔…〕戦力を蓄積」し、対ソ戦と「世界終末戦争」に備えるべきと主張した。
ところが、1937年「盧溝橋の偶発事件を利用して、現地の幕僚は、華北侵攻を実現しようとした。」〔現地の「北支派遣軍」は拡大に消極的だったが、東京の陸軍首脳部と近衛文麿首相らが戦線拡大を決定したのが事実。――ギトン註〕当時、参謀本部の部長であった石原も、不本意ながら拡大に同意した。これによって石原の役割は終了し、日本は第2次大戦に向け突進してゆく。
当時、陸軍省経理局が訳出していたソ連の軍事資料は、「日本が武力によって全中国を支配するには、400万の軍を常駐させる必要があると述べていたが」、この推算は明らかに小さすぎる。が、日本軍自身は、なんら「それらしい計算を」したことがなかった。「天津派遣軍が一発ブチ放せば中国兵は潰走する〔…〕1か月たたないうちに国民党政権は屈服するであろうと揚言していた。〔…〕信じがたい妄想である。」
戦略をめぐってさえ統一がとれない日本側の分裂状態とは対照的に、中国側では、「盧溝橋事件」の1か月後 1937年8月には国民党と共産党が「抗日民族統一戦線」(国共合作)を成立させ、「日本の侵入軍に当たった。」同年9月には早くも、「林彪の指揮する中国八路軍は、〔…〕平型関で日本軍を破っている」。ところが、「日本精神」に酔う日本軍の「エリート幕僚は、それを理解しなかった。」(pp.190-192.)
【7】 「日本の軍部」――日中開戦後の諸段階:
日本側の総力戦遂行条件,中国側の抗戦力・指導力の発展
「盧溝橋事件」による日中戦争開始後、『中国軍は、短い期間に自己改造を果たした。その過程の一つの例として、盧溝橋以後 10か月の経験をまとめた毛沢東の『持久戦論』を重視すべきである。戦局の展望と現実の過程との整合を論じたこの文献に対応できる』ような水準の『研究は、この時期の日本には絶無であった。
開戦段階では日本軍は圧倒的優位にあった。中国側では〔…〕武装した農民の遊撃戦で対応するしかなかった。〔…〕第1段階は、日本軍の戦略的侵攻を特徴とするが、』
次の段階では、『中国側の反攻が可能になる。日本軍の劣点としては、開戦から早くも 10万の死傷者があり、武器弾薬の消耗が激しく、士気は頽廃している。〔ギトン註――日本〕国内の人心の不満、貿易赤字の増大、国際世論の非難など、〔ギトン註――日本側の〕不利な条件の累積を〔ギトン註――毛沢東は〕挙げている。
この段階で、日本の占領地が縮小しつつあった。中国側は反攻に転ずることができた。満州国経済はまだひきつづき投資を要し、日本にとって経済的負担は減少の見込みがない〔石原ら日本軍部は、満洲を領有して総力戦のための産業基地とする計画だったが、それが可能となる前に中国戦線を拡大した。日本は、自らも不可能と認める戦争に突進したことになる。――ギトン註〕〔…〕毛沢東は、この時点で、中国軍が攻勢転換し、遊撃戦から運動戦へ』の『戦闘形態の発展を想定し、日本軍を包囲殲滅する』という『目標を立てている。
抗日戦当時の毛沢東。1938年、延安。©swissinfo.ch.
この時期の毛沢東の著作は最も生産的であり、『実践論』『矛盾論』をはじめ、抗日戦争の戦略戦術に関するいくたの論説、さらに『新民主主義論』に至るまで、目を見はるような発言をしている。
ひるがえって日本の論壇を見ると、日に日に思想が統制され、見るべきものは無く、理論の世界では中国に圧倒されている。〔…〕
日本は 1939年に侵攻方針を捨てて、戦略持久に転換した〔…〕。毛沢東の『持久戦論』への後手に回った対応と言わざるをえない。〔…〕1938年をもって日本の国力も、軍需〔ギトン註――生産への〕動員の実力がピークに達し、以後低落を続けていたのである。〔…〕中国では、自己の劣点も公然と論議しているのに、日本では、最も重大な事項が国民に秘匿される。〔…〕国防力が漸減するなかで、戦略持久さえ、はたして可能であったのか〔…〕。客観的には、戦線の整理と縮小が必要だったのである。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,,pp.193-194. .
つまり、石堂によれば、兵力の数と戦闘の推移だけでなく、軍事力を背後で支える経済力・持久戦力,合理的な戦争遂行を可能にする思想・戦略研究が行なわれる条件まで見ると、むしろ、日本よりも中国側のほうが有利な条件を有しており、そのため、中国側がしだいに日本を圧倒してゆく展開になったと言うのです。
『わが国では、自己の戦力の調査はなかったが、中国の抗戦戦力の調査はあった。それは、1939年に』作成された『満鉄調査部〔※〕による『支那抗戦力調査』である。〔…〕調査関係者の多くは、毛沢東の『持久戦論』を研究していた。早くから毛沢東の著作に親しみ、当時支那派遣軍司令部の嘱託を兼ねていた中西功、論文「物資戦略と外交政策」によって、日独伊枢軸国と米英中等〔…〕とが現代総力戦に必要な物資と技術をどの程度保有するかを研究した具島兼三郎、それに尾崎秀美〔★〕の3人がこの調査に関与し、その中心的な仕事をしたと思われる。
国民政府はまだ戦争継続の余力を有するのに、日本は軍事力によって日中問題を解決することができず、重慶政権〔中国国民党政府――ギトン註〕と』の『外交交渉〔和平交渉――ギトン註〕に移る必要がある、というのが〔ギトン註――『支那抗戦力調査』の〕結論である。そのためには、在華の日本軍は撤退することになる。この結論は、支那派遣軍司令部〔南京総軍〕にとっても歓迎された。〔…〕上海での公式報告会は、軍と外交機関に深刻な影響を与えた。列席していた山本五十六提督も賛成の発言をした。〔…〕華中の日本軍特務機関〔…〕は、民間人を使って和平論を打ち上げさせてもいる。
もっともそれ〔和平論を主張した民間人――ギトン註〕は、憲兵隊によって検挙されている。和平交渉をめぐって、華中では、総軍〔ゾルゲの言う③第3の勢力〕と、東條大将によって代表される①第1の勢力に属する憲兵隊が、対立したことになる。1941年10月に尾崎はゾルゲ事件で、中西は 1942年3月に中共諜報団事件で、具島は同年9月満鉄調査部事件で検挙され、各方面から期待された抗戦力調査は、東條首相のもとであえなく消えてしまった。これら一連の検挙事件は、軍内和平派に対する・東條主戦派のクーデター的役割をもったものとしなければならない。〔…〕
ロシア連邦、ウドムルト共和国イジェフスクの学校に
立つリヒャルト・ゾルゲの胸像。、©Wikimedia.
ゾルゲは、生地アゼルバイジャン,ロシア等では、
ファシズムと戦った英雄として記憶されている。
『支那抗戦力調査』〔…〕の結論は、日本と中国の関係問題はもはや軍事的には解決の可能性はなく、政治的に打開するほかはないということである。〔…〕中国と交渉を開始するには、〔…〕日本軍部隊をすべて中国から引き揚げることが』前提である。調査の結論には、それも『含意されていた。
軍内部には、この選択を期待する状況があったにもかかわらず、〔…〕東條英機らの強硬派の主動によって満鉄調査部関係者の大量検挙のような奇襲によって、軍略が政略を圧倒した。〔…〕15年戦争における軍部は、日露戦争時代とちがい、統帥権独立の建前から、政治を軍事に完全に従属させていた』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.195-196,127. .
註※「満鉄調査部」: 関東軍のもとにあった満州鉄道・調査部は、多くの・転向した共産党員や内地の思想統制で活動できなくなった学者を受け入れた。石堂清倫もその一人。そこでは、日中戦争当時としては例外的に、合理的な戦争研究が行なわれていた。
註★「尾崎秀美」: おざき ほつみ。朝日新聞記者で満鉄調査部嘱託。近衛文麿首相のブレーンの一人だったが、リヒャルト・ゾルゲのソ連諜報組織に機密情報を流していた。1941年ゾルゲとともに逮捕、44年処刑。
中西功の伝える日本総軍の機密情報は、ゾルゲ・尾崎グループの情報、中国共産党・上海情報科南京支所のキャッチした情報とともに、「延安〔中国共産党の根拠地〕にもモスクワにも流れていた。」満鉄調査部が調査した中国側の抗戦形勢にかんする情報を、日本軍はまったく利用しようとせず、調査部を潰滅させることにのみ注力していた一方で、中国側とソ連は、日本軍に関する情報を十全に利用していたのでした。
どちらが勝者となるかは、あまりにも明らかだったと言わねばなりません。
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