2・26事件。東京市・山王下「幸楽」前。©Wikimedia. 

永田町一帯を占領した叛乱軍。カメラに銃口を向ける兵士。

 

 

 


 

 

【1】 「石堂清倫」―― Who's who?

 


 石堂清倫〔いしどう・きよとも 1904-2001〕は、“20世紀の縮図” と言ってもよい生涯を送りました。彼の回想記『わが異端の昭和史 上・下』には、日本共産党初期のイデオローグ山川均,岩手の農村作家宮澤賢治,‥らが生身の姿で登場し、共産党弾圧と転向,満洲国とその崩壊・引き揚げ,進駐ソ連軍と中国共産党「八路軍」などの実相が目の当たりにされます。そこには、歴史教科書や党派的叙述では全く触れられない 20世紀史の現実が、曇りのない眼で実写されているのです。

 

 そのなかで、私がとくに強い印象を受けたのは、1931年「満洲事変」を公然と、しかし報道管制を敷きつつ準備した陸軍の大衆煽動工作です。ファシズムとは、「下からの大衆運動」である(だから日本の軍国主義はファシズムではない)、と山口昌男は言う。けれども、惹き起こされた「大衆運動」は、やはり日本ファシズムにもあった。そのことを、石堂清倫の体験回想は教えてくれました。

 

1904年 石川県松任町に出生。

1927年 東京帝大英文科卒業。関東電気労組本部で働く。日本共産党に入党。

1928-30年 逮捕勾留後保釈。

1933年 転向後の2審判決で執行猶予確定。

1934年 日本評論社に入社、出版部長。

1938年 日本評論社を退社、満洲鉄道調査部に入社、大連に到着。

1939-41年 満鉄調査部で『満鉄調査月報』『満鉄資料彙報』等を編集。

1942年 「満鉄調査部事件」で逮捕。1944年まで獄中。

1945年 執行猶予判決。召集され、ハルビンの兵舎で終戦を迎える。

1945-49年 大連で日本人労組,勤労者消費組合,引揚対策協議会等を結成し、『民主新聞』を編集。49年、引揚げ舞鶴入港し、日本共産党に復党。社会思想研究所,アジア問題研究所,国民文庫社等を設立。

1960-64年 「社会主義への道と構造改良」「グラムシの思想と生涯」「先進資本主義国における社会主義革命の展望」「トリアッティの残したもの」等を諸雑誌に執筆。

1961年 日本共産党に離党届を提出するも、受理されず除名処分を受ける。

1963-69年 農林省等の委託を受けて、EEC農業構造問題に関する公的資料を翻訳・公刊。

1971-72年 『グラムシ問題別選集1~4』を編・共訳。

1978年 翻訳『グラムシ獄中ノート』発行。

1979年 翻訳:メドヴェーデフ『失脚から銃殺まで=ブハーリン』発行。

1980年 翻訳:メドヴェーデフ『スターリンとスターリン主義』発行。

1986年 『わが異端の昭和史 上』発行。

1992年 東京都清瀬市の自宅で「石堂研究会」発足

2001年 『20世紀の意味』発行。没。

 

 ↑この年譜で、石堂清倫とはどういう人か一目瞭然になるはず。若干の予備知識が必要ですが、分からない人は Wiki などで調べてもらいたい。めんどくさいので、説明は加えません。生半可な思い込みで誤解することのないよう願うのみ。

 

 

中華人民共和国大連市山下亿峰8号。2011年撮影。©Wikimedia. 

 

 

 これから扱う『20世紀の意味』は、石堂清倫の生涯を縮約したような本です。そのすべてを紹介するのは無理なので、まずもって、彼の前半生における対決の対象だった「日本ファシズム」に関する章をレヴューしたいと思います。

 

 

【このシリーズは、(1)~(5) で 第Ⅴ章「日本の軍部」

をレヴューし、いったん終結する予定です】

 

 

 「日本ファシズム」に関しては、「日本にはファシズムはあったか、無かったか」という争点が、まずもってあります。山口昌男は、歴史上のファシズムは、いずれも資本主義成熟期の大衆社会を背景とする民衆運動であった、という本質論を踏まえて、昭和前半期の日本軍国主義は、下からの民衆運動を欠くがゆえに「ファシズム」ではない。支配層主導の反動的伝統主義にすぎない、とします。私は、この山口による世界史的本質規定が正当に思われたので、左翼一般の「日本ファシズム」論を永らく否定してきました。しかし、石堂の体験的ファシズム論に接したことから「日本ファシズム」論に転換したのです。つまり、「ファシズム」とはどこまでも民衆自身の運動(たんに受動的に動員されたのではない!)であるが、日本の「軍国主義」は、まさにそうした「ファシズム」にほかならなかった。「日本ファシズム」の主人公は、天皇でも軍部でもなく、「国民」自身〔より正確に言うと、当時 25歳以上の内地籍日本人男子〕であった、という認識です。したがって、「戦争責任」を第一に負うべき者も、天皇でも東條でも近衛でもなく、彼ら「国民」なのです。つまり、私たちの直系の父祖なのです。

 

 この・認識の転換から、私は笠原十九司日中戦争全史』に進み、戦前の「大日本帝国憲法」の下でも、男子普通選挙法と天皇の慣習によって、英国並みの議院内閣制と事実上の国民主権が成立していた時期があったこと、そして、日本帝国が後戻りできない「世界戦争」への道に踏み出したのは、まさにその時期であったことを知りました。つまり、あの無謀な「大東亜戦争」と戦時抑圧体制を招来したのは、天皇でも軍部でもなく、日本国民自身であったのです。

 

 このことは、私たちの現状認識と政治意識に大きく影響します。現在でも、左翼と「リベラル」の多くは、日本の第2次大戦と戦時体制について責任を負うべきは天皇である、あるいは「軍部」である、近衛文麿ら政権担当者であると信じています。国民は一方的な被害者だ、あるいは、振り回されただけだ、悪いのは為政者だ、‥‥。しかし、このような「他人のせいにする」考え方で、はたして、責任ある未来を切り拓くことができるだろうか? 将来世代に対して「現在」の責任を負うことができるだろうか? 私は疑問に思うのです。

 

 さて、戦時日本の軍国主義体制は「ファシズム」であったことを肯定すると、次なる論点は、「日本ファシズム」体制のどこに焦点を当てて、その特質を解明するかです。㋑通説的見解は、いわゆる「軍部」や、近衛文麿らの内閣、大政翼賛会など、政権を握った人びとに焦点を当てます。その場合、「ファシズム」は「軍国主義」とほぼイコールになります。石堂清倫も、こちらの見解です。いわば、「日本ファシズム」に関する古典学説。

 

 しかし、㋺最近有力になっている見解は、むしろ「ファシズム」体制の経済面とそれを主導した官僚機構、つまり「総力戦」体制に焦点を当てています。つまり、「ファシズム」とは、ケインズ主義の「ニューディール」体制や、ソ連の「社会主義」体制と並んで、1930年以来の “資本主義の危機” に対処して、国家の強力な介入・統制によって「総力戦」を乗り切ろうとした体制である。そういう認識から、政権のトップだけでなく社会体制全体を見ようとするわけです。石堂のこの本では、「日本ファシズム」は総力戦体制の構築に失敗した、として、この側面を軽く片付けていますが(←㋑)、戦後日本にまで視野を広げると、それでは済まなくなります。たとえば、戦時統制経済を主導した官僚群(たとえば岸信介)は、戦後も生き延びて、「戦後改革」と「高度成長」経済を主導しているのです。「借地法・借家法」「食管法」「傾斜生産」など、戦時からの継続と見られる戦後の制度・政策は、意外なほど多い。㋺の見解は、戦時と戦後の継続の側面に焦点を当てています。

 

 


吉本隆明花田清輝「真昼の決闘」

吉本は、論争相手の花田に対し、ある雑誌主催

の対談で「バカヤロー」と罵倒した(吉本によれ

ば罵倒ではなく笑い飛ばした)うえ、その発言

の削除を拒み、そのまま記事に載せさせた。

 

 

 ㋺の見解を最初に唱えたのは吉本隆明あたりだと思います。吉本は非常に荒っぽい決めつけで「戦後民主主義」派(戦時と、民主化された戦後との断絶を強調する通説)を批判したのですが、それはそれで、彼自身の戦時体験に依拠していたようです。その後、この方向で、より精緻な分析も出るようになりました。㋺の諸説は、日本の現状と将来に対して大きな示唆を与える反面、スッキリと論理が通らない面も多く、いわば突っ込みどころ満載で、なお途上未完の説という観を免れません。たとえば、柄谷行人岩井克人・対談『終りなき世界』,pp.31f,47f.

 

 

 

【2】 「日本の軍部」――「独特の帝国主義」の形成

 

 

 そういうわけで、『20世紀の意味』でも、まずは最終章「日本の軍部」を取りあげたいと思います。


 

『15年戦争〔1931-1945――ギトン註〕の発端である「満州事変」について、〔…〕確認しておきたいことがある。その一つは、この「事変」が決して軍の孤立した行動ではなく、直接間接に国民の支持をもって敢行されたことである。〔…〕日本人の民族排外主義は、明治新国家の成立の当初から「征韓論」または台湾占拠論に見られるように古くから存在した。

 

 〔…〕満州事変の首謀者である石原莞爾中佐の侵略思想は、〔…〕多年にわたり培われてきた・隣接のアジア諸民族に対する日本人の〔…〕侮蔑意識と、その意識に基いて実行されてきた帝国主義政策とが、石原の頭脳の中で典型的な形をとって体系化されたものだ〔…〕

 

 石原には明治初年からの思想的先駆者があったのである。〔…〕福沢諭吉の『東洋政略論』が石原の教本になっている〔…〕

 

 福沢に、人類平等、ひいては諸国民同権の思想はありえず、「脱亜論」とは、アジア諸国の連帯行動による近代化ではなく、日本がアジアの盟主となることにほかならなかった。〔ギトン註――福沢の言う〕一身独立が「優勝劣敗」を原理とするように、一身を一国にあてはめれば弱肉強食の道理により、一方の支配と他方の従属を引き起こすのである。

 

 どの国民にも〔…〕発展上の差異がある〔…〕福沢はその差異を差別観にすり替えて、朝鮮や清国に対する徹底した侮蔑を強調する。〔…〕「チャンチャン」「ぼうふら」「豚犬」「乞食」〔…〕ありとあらゆる野卑な言葉を連発して隣邦の人民を罵倒する。〔…〕明治の初期から 1930年代の石原にいたるまで、一貫して日本人の国民的心性を規定する民族排外主義のバネがあった。〔…〕

 

 人びとは〔…〕阿片戦争の経験から何を学んだかが問題である。清朝末期の中国人は、阿片戦争の敗因を研究した。〔…〕排外心だけで対抗をはかるグループもあったが、ひろく世界状勢を調べ、ヨーロッパの知的ならびに物的な優位を研究するグループもあった。〔…〕制度から武器生産の技術までも検討した。魏源の『海国図志』はその成果である。

 

 幕末の人士も争ってこの研究を学んだ。十数種の翻訳書が出版された。幕府方では勝海舟が、魏源の精神を体得したのであろう、実現不可能な「攘夷」ではなく、同じような状況のもとにある朝鮮や清国と連帯して米英にあたるべきだと考えた。しかし、幕府は、軽輩出身の勝海舟に一貫して全権をゆだねる勇気を欠いた。

 

 これに反して、反幕派の大勢はほどの見識を持たなかった。〔…〕むしろ復古主義的であった〔…〕坂本竜馬横井小楠のような開国派は少数にとどまり、それ故暗殺にあった。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.169-173.  .

 

 

東京市台東区上野公園で「獅子吼」演説

をする田中智学と「日蓮主義」右翼団体

「国柱会」。1920年頃。

 

 

 しかし、反幕派は、長英戦争,薩英戦争を経て「攘夷」は不可能であることを知り、一転して英国の援助のもとに幕府を倒し、王政復古を行ないます。その明治政府は、幕府が諸列強と結んだ「安政条約」を引き継いで開国を続けます。が、明治政府の “開国独立” 路線が可能だったのは、世界史上の偶然によるものです。たまたまこの時期に列強諸国は、「太平天国」の鎮圧〔1860-64〕,アメリカ南北戦争〔1861-65〕,普仏戦争〔1870-71〕などで忙しく、日本を植民地化している余裕がなかったのです。

 

 偶然に幸いされて、明治政府は “開国独立” を遂げました。そのことはまた、以後、日本が単独での「開化」の道を歩むことを可能にしたと言えます。東アジア諸国が連帯して列強に衝 あ たり・ともに文明開化するという勝海舟魏源の精神は忘れられました。

 

 西郷隆盛ら明治政府の一部は、朝鮮・台湾を征服して・ともに「開化独立」しようという「征韓論」を唱えて反乱に至ります。が、西郷らの「汎アジア主義」は、諸国との対等をめざすものではなく、あくまでも日本が東アジアを征服して旧体制を打ち倒し,盟主となることをめざすものです。それはやがて、福沢の「脱亜論」への転換とともに、「日清・日露」以後の帝国主義を支える排外・膨張イデオロギーとなってゆくのです。

 

 

『20世紀前半の中国は、みずから「半封建・半植民地」と規定するほどの状態にあって、各帝国主義国は中国を分割する勢いで植民地化に努力した。〔…〕中国は旧軍閥支配から脱却し、国民党のもとに国を統一する強力な運動を始めていた。欧米帝国主義諸国は、中国人の国民革命運動の拡大がもはや阻止できないことを自覚し、しだいに妥協を図る姿勢を見せはじめた。それに対し、日本帝国主義は、あくまで国民革命運動の進展を〔…〕武力に訴えてでも防喝しようとした。そのため日本帝国主義の特徴として「軍事的封建的」手法が挙げられた。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,p.174.  .

 

 

 「軍事的封建的」手法は、英米などの「経済的文化的」な侵略手法と対比されるものです。現地(中国)の諸勢力や民衆を、経済的文化的に従属させて無力化するよりも、彼らと敵対してでも暴力的に利権を奪取し浸透を強行しようとする傾向です。石堂によれば、これは、日本帝国主義が持っている「前近代性の弱点」によるものです。明治中葉からの急速な近代化によって帝国主義的膨張を果たそうとしていた日本資本主義は、前近代的特質を帯びていることは否定できず、この弱点を、中国への「地理的近接」という「地政学的優点によって補」っていました。

 

 また、石原莞爾北一輝ら「帝国主義内の〔ファシズム〕改革派〔…〕がそろって中世の日蓮信仰を原点にしていた」ことは特徴的です。彼らは、日蓮の「立正安国論の幻想を、田中智学」の近代的「排外主義で固めてい」ました。

 


『日本の資本が集中的に進出していた上海地方を例とすれば、ここで軽工業を中心とする中国の民族ブルジョワジーと・日本の繊維産業が、正面衝突を演じていた。日本の資本は中国市場に同盟者を作れなかった。帝国主義と連携する「買弁」の存在すら許さなかった。

 

 中国の〔…〕軍閥に対する恫喝と買収,いわゆる「政治借款」は、反日・侮日の種をみずから播いたのである。日本資本の最大の投下地域である満洲に、日本人の知らない中国人のナショナリズムがまたたくまに拡大しても、それを軍事的に鎮圧する以外の方策をギトン註――日本は〕持たなかった。〔…〕満洲の中国人商人のあいだには、ロシア人は多少は中国人にもうけさせてくれたが、日本人は「遺利を余さぬ」という評判があった。』

石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,p.176.  .

 

 

 

 

 

 

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