1938年3月15日、ウィーン,英雄広場で演説するアドルフ・ヒトラーと、広場を

埋め尽くす聴衆。©Wikimedia. 同月13日オーストリアに進駐したドイツ軍は

大衆から熱烈な歓迎を受けたので、ヒトラーはオーストリア併合を決めた。

 

 

 



 

【9】 「自由・平等・友愛」――

「貧困の平等」と「経済成長による平等」

 


『自由と平等の問題は、フランス革命などより前に、すでに産業資本主義を高度に発展させていたイギリスにおいて問われています。〔…〕自由と平等は両立するでしょうか。人が自由勝手にやれば、必ず貧富の差が生じるのではないか。自由主義者のアダム・スミスは、そうは考えませんでした。〔…〕スミスは、私的利益の自由な追求を肯定しました。〔…〕各人が己 おのれ の利益を追求することが全体の利益になり、したがって結果的に各人の利益にもなる〔…〕プラス・サム・ゲームでは、誰かが得をすることが他の人の損にはなりません。

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,p.73.  

 

 

 麻雀のようなゼロ・サム・ゲームでは、全体の取り分の総計が決まっているので、誰かの得は誰かの損です。中世封建制のような「単純再生産」社会でも、領主の取り分が増えれば農民の取り分は減る。逆は逆です。

 

 しかし、誰かが勝つと全体が増えるようなゲーム(プラス・サム・ゲーム)があれば、その場合は、誰かの得が他の人の損になるとは限らない。「拡大再生産」の社会,「成長経済」の社会では、誰かが得をすれば必ず全体の利益総計は増える。場合によっては、ある人が大儲けをすると、他の多くの人が利益を増やすことになります。

 

 スミスの考え方は、「プラス・サム・ゲーム」を前提にしている。つまり、たんなる “パイ” の切り分けでなく、社会全体の “パイ” が拡大していく「成長経済」が前提なのです。

 

 「経済的自由主義」とは、そういうものです。そこに「自由主義」の長所も短所もある。経済成長がうまく行っているときには、「自由主義」は説得力をもちますが、景気の下降局面では不満が噴出します。そこで、景気回復政策(ばら撒き,赤字財政)をやるぞと宣伝して支持を集めようとします。

 

 景気が上がったり下がったりしているあいだは、それでもよい。しかし、化石燃料の枯渇,過炭素温暖化,原子力利用の危険,「本源的蓄積フロンティア」の消滅などによって、人類社会全体としての「成長の限界」が露呈してくると、「経済的自由主義」という考え方は立ち行かなくなります。「各人が自由にやっていれば、おのずから全体が良くなる」というような楽観的なことは言えなくなってしまいます。

 

 しかし、「低成長」「不成長」,あるいは「減縮」に対応した考え方への転換は、なかなかに難しいのです。

 

 同様の「自由主義批判」は、すでに 19世紀半ばから、時には激しく言われてきました。全体の “パイ” が拡大していても、景気変動によって、「恐慌」期には取り返しのつかない損害が発生する。その点を、国家の介入政策によって回避できたとしても、人口の一定の層は、拡大する “パイ” の分配からあぶれて、ますます貧困化する。その点を強調したのが、マルクス主義などの社会主義運動です。しかし、彼らにしても、“パイ” 全体の成長拡大を前提にしていました。「不成長」「減縮」に対応する考えは、マルクス以後の社会主義者にも無かったのです。

 

 

1918年10月31日、ブダペスト革命。第1次大戦の末期、オーストリア=

ハンガリー帝国の各地でも反帝政革命の火の手が上がった。©Wikimedia.

 

 

 ところで、アダム・スミスのような古典的な「経済的自由主義」を、20世紀になっても一貫して強硬に主張した経済学者がいます。フリードリヒ・フォン・ハイエク〔1899-1992〕です。柄谷氏のこの論考の中心は、ハイエクの「自由主義」の検討にあります。

 

 ハイエクは、「プラス・サム・ゲーム」を前提とするスミス流の論理で、ナチスのようなファシズムと、ソ連のような社会主義を「全体主義」として全否定し、いずれも「隷従への道」だと断じました。

 

 そう言うと、ハイエクはアメリカ帝国主義と新自由主義の権化だ、と思うかもしれませんが、そういう見方ではハイエクは理解できません。ハイエクは、ハプスブルク帝国の首都ウィーンに生まれ、第1次大戦に従軍し、戦後はウィーン大学講師として、ナチズムとの闘いのなかで徹底した「自由主義」の思想形成を遂げたのです。(⇒:Wiki

 


『産業資本主義以前の段階では、ユートピア思想は、〔…〕「単純再生産」の社会をモデルにします。それは社会的生産の総体がほとんど変わらないところで構想される「貧困の平等」ということになる。19世紀前半のフランスやドイツで考えられた「社会主義」〔フーリエ,プルードン,モーゼス・ヘス,ヴァイトリングら――ギトン註〕は、だいたいそういうものです。

 

 それに対して、産業資本主義はプラス・サム・ゲームです。アダム・スミスが、各人がエゴイズムを追求することを肯定したのも、こうした経済においてです。

 

 自由主義がもたらす富の不平等は、自由主義者にとって重要ではありませんでした。たとえば〔…〕ハイエクは、自由と平等の矛盾は、いわば時間的に解消されると言っています。〔…〕産業資本主義以後の社会では、それ以前と違って、貧しい者も昔の金持ち以上のものを所有することができる。《われわれの知るかぎりでの進歩的な社会では〔…〕豊かな人々は、他の人々よりほんのわずか先に物質的利益を享受しているにすぎない。富める者の支出の大部分は、結果的には後に貧しい者に利用されるようになる新しいものの実験費用の支払いに充てられている。新しく高価な生活様式は、最初は一部の人によって実践される以外には、一般に手の届くようにさせる方法はない。》〔ハイエク『自由の条件』〕〔…〕貧富の差は、〔…〕進歩する・経済的に発展する社会においては、時間差はともなうけれども解消される〔…〕これが、自由主義者による「自由と平等」の矛盾の解決です。彼らにとって、それ以外の方法で「平等」を実現しようとすれば、必ず国家(理性)主義に帰結し、「自由」が損なわれるだけでなく、結果的に「貧困の平等」に帰結します。

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.73-75.  

 


 ここで、「国家理性主義」ということを説明しないと、ハイエクの一見楽観的な主張の深さは理解できないでしょう。

 

 「国家理性主義」の典型は、フランスのルソーの「政治的自由主義」です。ルソーによれば、「国家(state)」は、国民の「一般意志」を体現するものです。それが「国家理性」です。そういう目に見えないものが、「政府」の上にある。これに対して、「政府(government)」は、その時々の議会の多数派が構成する政権にすぎません。いわば、「国家理性」の下で、とりあえず統治を担当している機関にすぎないのです。「政府」が「一般意志」に反すれば、選挙や反乱によって打倒され、新しい「政府」に交代します。「国家理性」が存在すればこそ、「一般意志」を体現した・正義にかなった統治が保障される。たとえば、富の再分配が保障されるわけです。

 

 

"Jean-Jacques Rousseau Resting" by Swiss artist Jean-Louis David ©meer.com.

 

 

 ところが、イギリスでは、そのような考え方はしないのです。あくまでも、現にある「政府」が「国家」である。つまり、国家=政府=議会です。目に見える現実的なものだけが存在するという考え方です。

 

 それでは、「政府」が正義に反することをしたら、どうなるのか? と言うかもしれない。しかし、英米流の国家観では、そう考えること自体がナンセンスです。選挙と議会によって達した結論が、現実の「国家の意志」であって、それがどんなに不十分で不当なものであっても、それ以外に「国家」というものは実存しない。不当だと思うなら、政権を倒して、よりよい「国家」に改めればよいのです。

 

 そもそもイギリス流の考えでは、《真理》とは、複数の異なる意見が討議されて合意点に達した・その結論以外には存在しない。《真理》は、どこか空のかなたにある、‥みたいな考え方を、彼らはしません。徹底して現実的な見方と言ってもよいでしょう。選挙と議会において現実に達した結論こそが、国家の意志(国民の意志)なのであり、《真理》なのです。「いや、そんなことはない。国民は政府に反対している!」などと言っても、その「民意」はまだ現実のものになっていません。国民の選んだ代表者が国会で議決して決まったときに初めて、「民意」は現実化するのです。

 

 これに反して、フランスのような、ルソーのような考え方をすると、結局のところ、「真理は、誰か少数の者が把握するものと見なされ」ることになります。なぜなら、国民一人ひとりには、真理を把握する専門知識も、探究するための時間も無いからです。「哲学者・僧侶が真理を握り、あるいは、国家・官僚が理性的であると」見なされる。しかし、「哲人政治」は、容易に独裁政治に転落する。それは歴史が証明しています。「一般意志」の論理は、結局のところ少数者の身勝手な政治を正当化することになります。「自由主義の観点から見れば、真理は各人の違った意見が相対的に合意点に達したものにすぎ」ないと考えるべきです(と自由主義者は言う)。

 

 このような「自由主義は、けっして古来からある思想ではありません。それは、私的所有と競争が、ある種の自動的な秩序をもつと〔もたらすと――ギトン註〕思われるようになった時点で、はじめて成立したのです。」(pp.75-76.)

 

 このような英米流の「自由主義」の考え方からすれば、社会主義体制が、ファシズムと同様に人類を「隷従」に導く「全体主義」だと言われる理由がわかるでしょう。社会主義は、それがどんなに理想的に運営されようとも、少数の「哲人」の信じる《真理》だけが絶対化される体制であることを免れないからです。

 

 このような「自由主義」――「相対主義」と言ったほうが正確か?――の射程は、政治の領域に限られないのです。たとえば、アメリカの科学哲学では、物理法則のような自然科学の《真理》さえもが、専門的な人々の多数が抱く見解、として定義されます。

 

 たしかに、現実にはそうかもしれないが、科学的な《真理》は、宇宙そのものに絶対的に備わっているはずで、それが人間の多数決によって決まるというのは、おかしいではないか。それなら、人類が誕生する以前の宇宙では、ニュートンの法則も相対性原理も通用しなかったのか?? と、私たちは言いたくなります。しかし、相対主義者のほうからすると、現にまだ誰も知らない、知りえないような、絶対的な宇宙の《真理》が存在する――などと主張するほうが、非科学的な神秘主義だ。そういうことは教会の説教壇で言え、ということになります。

 

 ハイエクは、1931年に「ロンドン・スクール・オヴ・エコノミクス」教授に迎えられ、ナチス党が勢力を広げるオーストリアから、「自由主義の故国」イギリスに移住したのです。

 

 

London School of Economics, main entrance.  ©Wikimedia.

 

 

 

【10】 「自由・平等・友愛」――

「自由」と「平等」は矛盾する

 


 フランス革命では、「自由」と「平等」はかんたんに両立するかのように、標語として並べて唱えられていました。が、革命の進展とともに、両者の矛盾は噴出します。「[自由]は、言うまでもなく封建的諸制限の撤廃であり、私的所有権の確保」に行き着くものです。貴族の免税特権の廃止、国内関税の撤廃、土地売買の自由、‥‥「ブルジョワ階級にとってはこれで十分でした。」しかし、プチ・ブルジョワ以下の民衆にとっては、それだけでは危険を冒して立ち上がった意味がない。僧侶・貴族の身分は廃止されましたが、あくまでも法律上の「平等」です。「富の不平等」は、いよいよ大きくなり、農民を苦しめている小作制度には指一本触れられませんでした。

 

 そこで、「大革命」後に各種「社会主義」が抬頭する、というのが、ふつうの歴史教科書の説明です。しかし、柄谷氏は、それとは違う局面に注目しています。それは、フランス革命で唱えられた「自由」は、本家本元のイギリスで実現されていた「自由主義」とは異なるものだったのではないか、ということなのです。



『イギリスの「自由主義」とは、〔…〕17世紀以来さまざまな紆余曲折』を経て、『具体的な制度とともに形成されたものです。ところが、イギリスの経験を模倣したフランスの啓蒙主義者においては、「自由」はアプリオリな観念になっています。ロベスピエールらにおいて、自由の観念は逆に絶対的な専制政治に転化してしまいます。少数の人間が「真理」を握り、彼らが万人を代表することになるからです。ここでは、権力の制限としての自由という観念はありません。

 

 むしろフランス革命が生み出したのはいわゆるジャコバン主義であり、少数の・真理を握る者・の国家主義的独裁形態です。〔…〕「平等」を主張したバブーフの「共産主義」〔…〕、のちに「平等」を「自由」の上に置いたルイ・ブラン〔※〕の主張もそうです。それはのちにレーニンのボルシェヴィズムに受け継がれます。フランスに「自由」の伝統があるという考えは疑うに値します。というのは、フランスは今日に至るまで、つねに官僚(国家)が支配する国家だからです。自由主義は、そこではつねに否定されてきている。〔…〕ミシェル・フーコーが』フランス革命を境とする「集権」強化と、個人を内面から支配する「生政治」の浸透を指摘して強く批判したのは、そのことです。彼が言いたいのは、フランスには「自由主義」が欠けているということです。

 

 

作者不明「1794年7月28日におけるロベスピエールとその一味の処刑」

©Wikimedia. 断頭台の上で刑吏が、今処刑されたサン・ジュストの首を

掲げる。ロベスピエールは、左の荷車の最後尾に乗せられている。さらに

左、及び前後で、社会各層の人々が恐怖政治の終了を喜んでいる。

 

 

『したがって、フランス革命以後の社会主義〔…〕は、2つに分けなければなりません。①国家によって分配的平等を実現しようとするもの〔ロベスピエール,バブーフ,ルイ=ブラン,ラサール,レーニン,...――ギトン註〕と、②自由主義によってそうしようとするものに。後者を代表するのがプルードンであり、一般にアナーキズムと呼ばれています。〔マルクス・エンゲルスも、実はプルードンと同じ②だと柄谷氏は言う――ギトン註〕

 

 アナーキズムとは「無政府」状態を志向するのではなく、いわば国家がない政府をめざすものです。〔…〕プルードンはイギリスの古典経済学の影響を受けているのです。』プルードンは、ハイエクのような現代の自由主義者』『同根である』ハイエクらが『アナルコ・キャピタリストと呼ばれている』のは、その『ことを示しています。〔…〕

 

 マルクス・エンゲルスが書いた『共産党宣言』〔…〕で言われているのは、国家の廃絶と私的所有の廃止という2つの原理です。これらはアナーキストに共有されていた、というより、アナーキストのものです。そして、マルクスもこの点においてアナーキストであり、国家主義者ではありません。実際、マルクスは「国有化」など言ったことはありません。それを言ったのは、20世紀のレーニンです。〔…〕

 

 彼ら〔ギトン註――マルクス・エンゲルスとプルードン〕が政治的に敵対したことは無かったというべきです。』

柄谷行人『戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.76-78.  

 註※「ルイ・ブラン」: フランスの社会主義者〔1811-82〕。「各人が能力に応じて生産し、必要に応じて消費する」という・のちの共産主義の原則を唱えた。二月革命〔1848年〕後の臨時政府に参加し、労働時間の短縮,国立作業場の設立などの労働者保護政策を実施したが、農民の支持を得られず失脚し、イギリスに亡命した。

 

 ここで柄谷氏は、「自由主義」「共産主義」「アナーキズム」等について世間一般に言われている政治思想的対立関係を、根底から覆す議論をしています。これは一度深く考えてみなければならないことです。私の見るところ、理解のカギは、「政府」と「国家」の区別にあります。人びとの「自由」のためには、「国家」は無くてもすむなら無いほうがよい。が、「政府」というものは必要である。「合意点」に達する必要があるからです。人びとがバラバラであってはどうにもならない。‥‥しかしそれは、「国家」とどう違うのか? たんに、「政府はあるけれども、国家はない」等々言うだけならば、言葉の遊戯になってしまいます。言葉にとらわれずに、よく考えてみなければなりません。

 

 さて、前節での議論をおさらいしますと、「自由を確保すれば不平等が生じ、平等を追求すれば自由が失われる」。この「矛盾に対して、自由主義者ハイエクは、自由と平等の矛盾は時間的に解消されると」主張します。ただし「それには、経済が成長していることが前提になります。ハイエクは、進歩するためには自由が必要であると言いますが、同時に、自由のためには進歩〔経済成長〕が必要なのです。〔…〕プラス・サムが実現されないなら、貧富の差は耐えがたいものになるからです。」柄谷氏は、そう言う。

 

 「自由」が存立するためには、その前提条件として「進歩」すなわち経済成長が必要である、と。だとすると、経済成長が止まったら、「自由」はありえないことになります。ほんとうにそうでしょうか? ‥ちょっと常識で考えてみても、柄谷氏の論には、大きな疑問符が付くでしょう。しかし、これは、この論文の最後でもう一度考えてみたいと思います。

 

 

ビスマルク(1862年頃 左)とラサール(右)。1862年帝国議会で、

「全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。

現下の問題は鉄と血によってのみ解決される」(鉄血演説)と述べて

自由主義者と対立した首相ビスマルクは、「全ドイツ労働者同盟」の

ラサールと協議して、労働者保護政策を導入した。 ©Wikimedia.

 

 

 いまは、逆を考えてみましょう。経済成長さえすれば、ほんとうに「自由」に――またハイエクの意味で「平等」に――なるのか? ‥

 

 答えは「否」ですが、柄谷氏の “解き方”(その内容は、↓次の段落以下で述べます)じたいに、私は大きな疑問を感じます。最初に、その点を明らかにしましょう。たとえば、経済の長期的停滞や構造的不況に見舞われていた国家が、ファシズムなどの「全体主義」を導入することによって、それを解決し、「経済成長」に転じたとしましょう。その国家は、「自由」になるでしょうか? そんなことはありえません。経済の「成功」によって、「全体主義」体制は国民の信頼を得るので、ますます「全体主義」と国家介入・統制の強化に向かいます。つまり、この場合には、「経済成長」は「全体主義」の強化を促し、「自由は圧殺されるのです。歴史上の実例は、いくらでもあります。ⓐ 1933年ナチス党の執権と統制経済によって、ドイツは「失業とハイパー・インフレ」から脱出し、ヒトラーは国民の熱狂的支持のもとに総統独裁体制を完成させた。ⓑ 1965年「日韓条約」によって日本の借款資本を導入した韓国・朴正熙政権は、経済成長に成功した 1972年に、それまでの民主的議会制度を廃止して「維新憲法」を公布し、大統領独裁体制を樹立した。等々。

 

 経済成長すれば、「自由」になるか? ――そこには2つの問題があります。まず、「自由放任は予定調和に至るかどうか」。アダム・スミスの答えは「イエス」ですが、当時の資本主義は草創期で、恐慌もまだ起きていなかった。19世紀以後の答えは常に「否」です。「市場経済の自動調整機構には、岩井克人が[不均衡累積理論]で明らかにしたような内在的な欠陥があります。それは」市場機構というものの「原理的な欠陥です。」だから、ケインズ政策にせよ、ファシズム的統制経済にせよ、社会主義にせよ、何であれ「国家の介入」が必須となるのです。

 

 第2の問題は、「無限に[進歩]が可能なのか、ということです。」かつては可能だと考えられていたけれども、今日では大きな疑問符を突きつけられています。一方では環境と資源の枯渇が、他方では「資本主義フロンティア」の消滅が、「国家の介入」によっても越えられない「成長の限界」を形づくっています。

 

 マルクスは、「自由主義」〔自由放任〕を前提にして資本主義を批判していました。そこに、彼の理論の長所も欠陥もあります。まったくの自由放任経済を前提とすれば、社会はブルジョワジーとプロレタリアートに両極分解します。だからいつかは革命が起きて、資本主義は廃絶される。そう考えたわけです。

 

 しかし、㋑そもそも、イギリスの場合にしても、資本主義の発展も産業革命も、それを利益とする「国家」の介入あってこそ進行した。それをマルクスは見逃していました。㋺イギリス資本主義の成長発展を支えていたのは、英国国家が領有する膨大な植民地です。「両極分解」は、イギリス国内で完結することなく、イギリスと植民地の間でも起きていた。だから、英国の労働者は、資本主義が発展するほど「窮乏化」するどころか、むしろ利益を享受したのです。㋩さらに、ドイツのような後進資本主義国は、最初から強力に国家が介入して重工業化を進め、軽工業中心の産業編成からの脱却が遅れたイギリスを、たちまち追い越してしまった。そしてその一方で、ビスマルクのドイツ帝国は、社会民主主義的な社会政策を取り入れ、「国家の介入」によって不平等の緩和を進めたのです。こうして、「両極分解」の結果として資本主義が打倒され社会主義に移行する・というマルクスの見通しは大きく外れました。(pp.78-81.)

 

 

 

 

 

 

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