映画「黄色い星の子供たち」より。
【4】 「近代の超克」――
経済的/政治的/美的「自由」
『英語は学校教育において必須語として取り入れられています。ところが、明治国家はビスマルク・ドイツを模範としたので、法律や医学・哲学など国家的な言説においてはドイツ語が不可欠でした。日本の「哲学」は〔…〕ドイツ観念論を中心とするようになったわけです。一方、明治後半になってくると、フランス語が文学的言語と〔…〕なってきます。〔…〕
ここで、これらの間に夏目漱石を置いてみます。彼は』英文学者であるにもかかわらず、『文部省からイギリス留学を命じられた時、「英文学」ではなく〔…〕英語を研究して来いと言われた〔※〕〔…〕
ドイツ語は「国家」の言語であり、英語は経済的で実用的な言語でした。〔…〕世界的な言語でした。しかしまさにその理由で、英語は文学の言語にはなりにくかった。カントは、美学的な判断においてはインタレスト(利益・関心)が廃棄されなければならないと言っています。英語にはインタレストがありすぎるのです。現在でも、英文学をやることは英語をやることですから、あとで役立ちます。〔…〕英語を習得するためだけに留学する人は数多くいますが、フランス語だけを習得するために留学する人はまずありえない〔なぜなら、フランス語だけできても「役に立」たないから。――ギトン註〕。人がフランスに行くのは、文学や哲学あるいは料理やファッションを習得するためです。〔…〕それらは広い意味で「美的」なものに関係しています。〔…〕
漱石が留学する時点では、すでに〔…〕文学をやることが、第1に国家に対して対立すること、第2に経済的な利益を放棄することを意味するようになっていたのです。
しかし、英文学をやっていた漱石には、「文学」はさほど明瞭ではなかった。それは実利的あるいは道徳的、あるいは知的なものと簡単に切り離せない。
〔ギトン註――漱石が書いた〕『文学論』は、「文学」とは何かを根底から問おうとするものです。彼がもし英文学をやっていなかったならば、そういう疑問をもたなかっただろうと思います。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.107-109.
註※「英語を研究して来いと言われた」: 1900年、文部省から命じられた留学目的は、「英語教育法研究のため」だった。
つまり、漱石が「文学論」を突き詰めて考えたのは、「文学とは何か? 実用や道徳とは、どう違うのか?」を知りたいと思ったからです。というのは、英文学の小説や詩を読んでいても、それがなぜ「文学」なのか? 論説や報道・商用文とどう違うのかが見えてこなかったからです。そこで、留学中に『文学論』を書き始めた。
たとえば、漱石が帰国後の 1905年に発表した『吾輩は猫である』は、当時の常識からすれば、いったいどこが小説なのか分からない。「フランス系自然主義の文壇からは非文学的だと思われた〔…〕そこには、政治・経済・科学から文明批評にいたる、ありとあらゆる考察が混じっているからです」(p.109.)いったいこれのどこが「文学」なのか、と当時の人は訝しんだ。そこで漱石は 1907年に『文学論』を著して、「文学」の本質は物語性でも形式でもないことを明らかにした。漱石によれば、文学の本質的内容は「対象認識+情緒」であり、対象認識の事実性よりも、それに伴う「情緒」の喚起を主眼とする点に、科学とは異なる「文学」の特質があります。
1800年ころのロンドン。Unknown Artist: "General view of the city
of London which includes the closest part of the Thames",
1800年の凹版画. ©MeisterDrucke-972693.
『18世紀において近代社会が最も発展していたのはイギリスです。それはブルジョワ経済においても、政治形態においても、みずからの経験のなかから独自のものを生み出していました。漱石の言葉でいえば、「内発的」な発展を遂げていたのです。〔…〕
イギリスが「内発的」だとすれば、その他の地域は「外発的」です。たとえばフランスの啓蒙主義者は、イギリスの経験を理念化し、さらにドイツの知識人はそれをもっと観念的な形態においてつかんだということができます。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.109-110.
逆に、たとえばドイツについて単独に見ると、現実に「具体的に何もない所で、観念としてのみ[問題]が把握され」ていることになります。それどころか、ドイツの哲学者は、そうやって把握した問題を、頭の中で「観念」の操作によって「克服」さえしてしまうのです。現実のドイツの社会では、まだ何も起きていない。問題となるべき現象さえ、まだ起きてはいないというのに、「観念」の世界では、それはもう「超克」されてしまっている。。。
マルクスは、ドイツから、→フランスへ、さらに→イギリスへと、活動の場を移していますが、それは彼の思想の歩みに沿っています。マルクスが生涯批判してやまなかったのは、「具体的に何もない所で、観念としてのみ[問題]が把握され、[超克]までされてしまう」ドイツの転倒した思想状況―― “ドイツ・イデオロギー” ――であったのです。ドイツでは、観念の世界でしかなかったものが、フランスでは、政治状況として生き生きと動いていた。しかし、そのフランスでも、政治的な理念として主張されていたもの――自由,平等,etc.――が、イギリスでは、なまの社会的・経済的経験のなかで日々つかまれていたのです。
しかし、「日本で、ドイツやフランスの哲学が受け入れられたのは、その理由によります。」つまり、ドイツ以上に、観念に対応するような現実が存在しない場所で、手っ取り早く「認識のみ」において追いつくためには、同様の環境で「外発的」に作られたドイツ・フランスの哲学・思想を取り入れるのが早道だからです。日本では、「実質的に近代社会がないところで、それが観念的に把握され、かつ[超克]されさえしたわけです。」
『たとえば、「自由」という思想も、本来哲学から来たのではなく、経済から来たものです。戸坂潤は、『日本イデオロギー論』〔1935年〕のなかで、こう言っています。《自由主義は、云うまでもなく最初経済的自由主義として発生した。重商主義に立つ国家的干渉に対して、重農派及びその後の正統派経済学〔アダム・スミスら古典主義経済学――ギトン註〕による国家干渉排除が、この自由主義の出発点であった。この自由貿易と自由競争との経済政策理論としての経済的自由主義は、
やがて政治的自由主義を産み、又はこれに対応したものであった。市民の社会的身分としての自由と平等と、それに基づく特定の政治観念であるデモクラシー(ブルジョワ民主主義)とが、この政治的自由主義の内容をなしている。》〔…〕
日本の経済的自由主義者としては、石橋湛山を挙げることができます。彼の大正初期の論文「大日本主義の幻想」は、朝鮮とか台湾といった植民地を放棄せよ、〔…〕自由貿易でやればよろしい、と。〔…〕アダム・スミスに基いた自由主義です。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.110-111.
米騒動。「岡山に於ける米騒動の惨状」
焼打ちされた「岡山精米会社」1918年8月。当時の絵葉書。
「経済的自由主義」の次に現れるのは「政治的自由主義」ですが、これは日本の場合、第1次大戦期以後の「民本主義」、いわゆる「大正デモクラシー」として登場しました。
『大正デモクラシーといわれる人たちでも、石橋湛山に比べると、すでに「政治的自由主義」でしかありません。彼らは植民地を自明の前提にしていました。
しかし、昭和期に入って、「政治的自由主義」すらも可能性が絶たれたとき見いだされる「自由主義」は、どのようになるでしょうか。戸坂潤は、こう言っています。《〔…〕こうした経済的/政治的自由主義から、或いは之に基いて、〔…〕第三の自由主義の部面が発生する。便宜上之を文化的自由主義と呼ぶことにしよう。》〔…〕《この自由主義の意味そのものが文学的なのであって、政治行動上の自由主義(それは必然的にデモクラシーの追求にまで行く〔から “危険思想” なので避けなければならない――ギトン註〕筈だが)からは決定的に仕切られている自由主義でなくてはならない〔…〕全く超政治的な文学概念としての自由主義でしかない。――処で、こうした文学的自由主義は、一見意外にもファシズムに通じる道を有っている。》〔…〕
私が先に「美学」と言ったのは、そういう「文学的自由主義」です。〔ギトン註――「近代の超克」討論会を主催した〕『文学界』という雑誌が代表していたのは、左翼の運動が壊滅し、さらに政治的・経済的自由主義自体が追いつめられていく、その状況下で「文学的自由主義」に依拠する立場であると言うことができます。「近代の超克」の会議〔…〕、『文学界』という雑誌は、〔ギトン註――1942年の戦時下で〕唯一と言っていいほど、言論の「自由」を保持しようとしているのです。〔…〕
小林秀雄がつくった『文学界』は、左翼が壊滅した後に、自由主義をベースに知識人の抵抗の拠点をめざしていたと言えます。〔…〕しかし、『文学界』が自由主義の拠点にならざるをえないということこそ、この時期の自由主義が文学的自由主義でしかありえないことを意味しているのです。つまり、ここでの「自由」は、現実的な自由主義がまったくないところでそれを想像的に実現するもので、まさに「美学」的であるほかないのです。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.111-113.
【5】 「近代の超克」――
「美学的自由」の諸形態
『美的判断は、カントが言ったように感覚と理念の矛盾を乗り超えて統合する「判断力」(構想力)に基いています。カントにおいては、それはついに仮象でしかありません。ところが、カント以後のロマン派〔哲学――ギトン註〕においては、この美的判断が、一切の判断の基底に置かれる。こうして、「美学」が哲学の基底となります。〔…〕
もっと具体的に言いますと、日常的、あるいは政治的にさまざまな矛盾があるとき、その矛盾を〔ギトン註――頭の中で〕乗り超えてしまうのが「美学」です。どんな矛盾か? たとえば、私的なものと共同的なもの、あるいは個人主義的なものと全体主義的なものです。これは資本制経済のなかで必ず出て来ます。それは、政治的にいえば自由主義的経済と国家介入的経済(社会主義)の対立です。あるいは、アジアへの帝国主義的侵略と、アジアを西洋の帝国主義から解放する闘争との矛盾です。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.113-114.
ディエン・ビエン・フーの戦い(1954年)。ハノイにある「ディエン・ビエン・フー
戦勝50周年記念碑」。ベトナム人民軍(ベトミン)がフランス軍に勝利し、
植民地からの独立を確実にした戦いだった。©baodongthap.vn.
ここで注意を喚起しておきたいのは、「帝国主義的侵略」の根底にあるのは「私的」「個人主義的なもの」「自由主義的経済」であり、「帝国主義からの解放闘争」の根底にあるのは、「共同的」「全体主義的なもの」「国家介入的経済」だということです。後者の「解放闘争」とは、中国・ベトナムの「反帝・人民解放闘争」のような場合もあれば、日本ファシズムが唱えた「大東亜共栄圏」のような場合もあります。リベラルな人には、この対立図式は受け入れがたいかもしれませんが、本質的であり、重要なことです。(日本でも、共産党員などでベトナム反戦運動の中心となったのは、戦争末期にファシズム・イデオロギーを叩きこまれた「予科練世代」でした。彼らは、共同主義的なバックボーンを、反帝国主義のほうに向け換えたのです)
『これらの現実的アポリア〔難関。隘路。――ギトン註〕を「思想」的に乗り超えるのは「美学」のみです。』
とはいえ、『「美学」には幾つかのタイプがあります。ひとつは、ヘーゲル的な弁証法〔…〕矛盾を実践的に止揚していくという「弁証法」です。それがなぜ美学的なのかというと、矛盾する2項が本来同一的であるということが想定されているからです。
いわゆるマルクス主義は、ヘーゲル主義〔※〕の亜流です。〔…〕このような弁証法は、〔…〕たえず前提に、実現すべき目標をもつことになります。また、現実的な変革や進歩を唱えることになります。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,p.114.
註※「ヘーゲル主義」: マルクス主義の政治的存在は、20世紀前半期の革命政党や、旧ソ連の官僚制、大陸中国,北朝鮮,日本共産党の統制原理として明らかですが、「ヘーゲル主義」もまた政治的支配原理として機能します。それは、ソ連圏崩壊後のアメリカ合州国の官僚イデオロギーとして、「新自由主義」としての資本主義が人類の最終的・永久的な到達点である、との幻想をふりまいています。
「弁証法」は、真理を探究し発見するための手法の一つだと考えれば、有益なものです。もちろん、方法として万能でも絶対的でもありません。ましてそれが出してくる結論を絶対視するならば有害です。その場合には、迷信宗教にもオカルト邪教にもなりえます。
ヘーゲル流の「弁証法」を説明するためにマルクス主義者やヘーゲル主義者がしばしば持ち出すのが、↓こちらの図解です。しかし、この図じたい、彼らの判断が、頭の中だけの判断:つまり現実と妄想をごっちゃにした「美学的」判断にすぎないことを暴露しています。
まったく無前提な “何でもあり” の世界ならば、互いに対立する「正」と「反」から「合」が必ず生まれるという必然性はありません。生まれるかもしれないし生まれないかもしれない。ところが、「弁証法」では、「合」の生成は必然的です。なぜ「合」が必然的でありうるかといえば、「正」と「反」の対立は実はまやかしで、「2項は本来同一であることが想定(誤想)されている」からです。つまり、同一でないものを同一だと誤信する・隠れた思い込みが前提にあるからです。
「弁証法」のまやかし(詐欺・妄想・洗脳イデオロギー)は、それだけではありません。「弁証法」を図解すると、なぜかいつも「合」が上のほうに描かれます。まるで、「対立する2項」が「闘争」すると、必ず、より価値の高い「合」にまとまるかのようです。が、そんなことが言える根拠はどこにもありません。つまり、これも根拠の無い・隠れた思い込み(誤信)です。「弁証法」というものは、「たえず前提に実現すべき目標(価値)をもつ」ことによってのみ成立しうる論理なのです。その「価値」の設定に根拠があるかどうかを、「弁証法」は保証しません。にもかかわらず「弁証法」を信じる人たち――マルクス主義者や、日本共産党の教育を受けた人たち――、すなわち、「弁証法」が信仰になってしまっている・かわいそうな人びとは、思考の向きを常に一方に向けられて、たえず「現実的な変革や進歩を唱えることになります。」
もちろん、そういう「弁証法」信者たちの活動が、社会に有益な作用を及ぼすことは決して少なくありません。たとえば、「交換様式D」を展開し普及させる場合があります。しかしそれは、あらゆる宗教が人類にとって有益な面をもつことと、何ら違いはないのです。
「弁証法」論理の恣意性・無根拠性には、もうひとつ、実践的には重大な局面があります。仮に「合」の成立が必然的であったとして、「合」が、この場所に、‥他の場所ではなく・ここに位置するという根拠は、何かあるのでしょうか? 何の根拠もないと言わざるを得ません。たんに、ヘーゲルがそう言ったから、マルクスがここだと言ったから、日本共産党がそう言うから‥‥という以外には、何の理由もないのです。つまり、必然的だとされる「合」の位置・内容は、特定の支配的教説の正統化、あるいは、すでに成立した歴史的現実の正当化以外のものではない。
この局面においては、「弁証法」は、真理を探究し発見するための技法ではなく、それとは正反対に、既成事実を理由なく正当化するための手段に成り下がっているのです。
さて、「個人主義と全体主義」のような現実的矛盾・アポリアを「乗り超える美学」の第2種のものは、「ロマン派」の「現実拒否のイデオロギー」です。
『このようなマルクス主義が〔ギトン註――弾圧によって〕壊滅した後に出てきた「美学」は、もはや何かを積極的に実現すること自体を斥けます。カントは、美はインタレスト〔利害・関心――柄谷註〕を離れたときに成立すると言っているのですが、いわばロマン派以後の「美学」は、現実的なインタレストの拒否こそ美を実現するのに不可欠だとみなすわけです。保田與重郎のいう「ロマンティッシェ・イロニー」とはそういうものです。保田にとっては、現実的な矛盾を現実的に乗り超えていく「弁証法」こそ否定されなければならない。〔…〕
「弁証法」〔…〕つまり、何かを積極的に実現するという考えへの敵対です。〔…〕
保田のいう「弁証法」とは、何かを現実に達成しようとする姿勢であり、それに対抗するのが「イロニー」です。〔…〕彼はそれを日本の戦争に対しても振り向けます。彼にとっては、さまざまなイデオローグが言う戦争の目的や実現は、否定さるべきものです。彼にとっては、日本が戦争に負けてもかまわない、ただ、詩がそこに実現されるならば。現実的なものは、詩あるいは美の「機会要因」でしかない。〔だから保田は、戦争に賛成も反対もしない。「イロニー」を向けるだけです。――ギトン註〕〔…〕
川端康成(1899-1972)「美しい日本の私」。1968年ノーベル賞
受賞講演で、この標題で話し、ヨーロッパ人をケムに巻くとともに
後世に残る日本人のナルシス的恥晒しを決めた。©ja.namu.wiki.
なぜ保田の「イロニー」が、ある人々〔三島由紀夫ら――柄谷註〕を魅了したのかといえば、何かを実現しようとする者には必ずインタレストがつきまとうからです。したがって不純であり、「美的」でないからです。
〔…〕現実的なインタレストを捨てざるをえないのは、タヒが不可避なときです。〔…〕川端康成』が『大きく取り上げ』たように、『「末期 まつご の眼」に映った風景は美しい。なぜなら、そこには生きる可能性があるかぎり生じるようなインタレストがありえないからです。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.114-116.
【6】 「近代の超克」――
小林秀雄と「末期の自由」
第3種の「美学的」な「矛盾の超克」は、西田幾多郎ら京都学派の思考です。しかし、これについてはすでに前回【3】で詳しく取り上げました。西田は、ヘーゲル弁証法の用語を多用しており、一見すると「弁証法」のようですが、彼の考えは、そもそも「2項の対立」,対立物の「闘争」を、否定するものです。「対立」などということはそもそも存在しない。「個人」と「全体」は、本来同一なものが、対立しているかのように見えるだけだ。こうして、すべての現実的な変革行動は虚妄として斥けられ、あらゆる既成事実が正当化され絶対化されます。
このような西田の哲学は、「美学的」なものです。戸坂潤は、西田の哲学は「文化的自由主義(経済的・政治的自由主義に対す)の哲学の代表者」だと言っています。もちろんそれは、日本の対米・対アジア戦争を神聖化する論理として “時局” に積極的に迎合して唱えられていました。(pp.117-118.)
さいごに、第4種として小林秀雄を見ましょう。小林は、西田ら京都学派を批判しているのですが、批判する彼自身の思考もまた「美学的」なものなのです。「現実的な矛盾を[美的]な姿勢によって乗り超えようとする」点で、明らかに「美学的」だというほかはない。経済活動がファシズム国家によって統制され、共産主義から自由主義までのすべての政治的自由が圧殺され尽した当時の状況では、たとえその状況に抵抗しようとする人びとも、「美的」に抵抗する以外のすべをもたなかったと言えます。
『小林秀雄は、「実在」にふれるためには、〔…〕われわれの思考につきまとっている制約を捨てて、そこに参入しなければならないということを言います。つまり、へーゲル的な目的論的歴史やプログラムを斥け、かつ同時に、現実的な矛盾を「美的」な姿勢によって乗り超えようとするわけです。〔…〕
小林秀雄は、大東亜戦争の意味づけ(解釈)を斥けます。《歴史といふものは、われわれ現代人の現代的解釈など』によって『びくともするものではない。〔…〕さういふ所に歴史の美しさといふものを僕は、はじめて認めたのです》〔…〕大東亜戦争は、いかなる理屈によって解釈するので』も『なく、それを「運命」として参入することによってのみ「美」となるわけです。それはすでに「末期の眼」で見られています。
小林秀雄は『文学界』を作った時点では抵抗の可能性を考えていたけれども、この時点では、もう諦念に達していました。彼はただ、京都学派をふくむ戦争イデオロギーを批判し、この戦争でタヒぬほかないような人々の立場に立って、何とかそこに「自由」を見いだそうとしていたのだ、と言うことができます。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.120-121.
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