山頂で腹ごしらえをしたら、下りにかかる。コナラ,ホオノキ,モミ,‥‥やっと見なれた樹種になってきた。600メートルといえば、奥多摩なら登り初めの標高。ちゃんと垂直分布になってるわけだ。
↓ベンチがあって、ここの展望が良いと、YAMAP に書いている人がいた。山頂とそれほど変わらない。
↓峠に下りて来た。「半原越 はんばらごえ」という名前がついている。幕末から昭和初期まで、西麓の煤ヶ谷 すすがや では養蚕が、東麓の半原 はんばら では製糸工業がさかんだったので、この峠を、駄馬や徒歩で繭 まゆ を背負って越えたのだそうだ。今でも半原には「撚糸組合前」というバス停がある。
道路が峠を越えている。ハイキングコースは、「仏果山」方面へ登り返していくのだが、今日はもう夕方だ。無理をしないで道路づたいに下りる。「仏果山」↓にはリベンジを期してお別れだ。
↓煤ヶ谷に降りる途中、この峰は「華厳山」というらしい。仏教めいた地名が多い。
踏査記録⇒:YAMAP
タイムレコード 20240914 [無印は気圧高度]
(1)から - 1458経ヶ岳[633m]1535 - 1553ベンチ[574m]1610 - 1622半原越[492m]1630 - 1745「坂尻」バス停[159mGPS]。
さて、出発点にあった「勝楽寺」の「半僧坊 はんそうぼう」という別称が気になったので、調べてみた。
どうやら起源は、浜名湖の奥にある「奥山・方広寺」という臨済宗の寺らしい。ここも「奥山半僧坊」として知られている。ここの鎮守の神様「半僧坊」が勧請されて、各地の禅寺に広まっている、ということだ。鎌倉「建長寺」の一番奥にある「半僧坊」も、その一つ。
そこで、浜松市の「奥山・方広寺」を訪ねてみた。
↑方広寺本堂。↓総門。岩肌を背にした山中の山寺だ。
広い境内いっぱいに、「五百羅漢像」がびっしりと置かれている。江戸時代のものだというが、よく見ると最近彫ったばかりの新しい羅漢石仏もある。総数は五百どころではなさそうだ。
寺でもらったパンフと、wiki その他によると、「奥山方広寺」は、後醍醐天皇の11番目の皇子だった禅僧・無文元選が、末期の元朝で修行して帰国し、浜名の井伊氏・奥山六郎次郎に招かれて 1371年に建立したという。たびたびの盛衰を経るなか、1568年からは徳川家康が復興に努め、秀吉の寄進と朝廷の勅願所指定を受けている。明治10(1877)年からは、当時の住職による再建事業が進捗していた矢先、1881年の山火事で延焼をこうむり、伽藍の大部分が焼失してしまった。現在の伽藍はその後の再築だという。
明治の山火事以前から残っている建物は、↓この「七尊菩薩堂」および、「半僧坊真殿」の一部だけとのこと。
↑「七尊菩薩堂」。覆屋の障子が閉まっていて正面から見ることができないが、この小さな木造の祠が、1401年建立の菩薩堂。説明板によると、「七尊菩薩」とは、富士浅間神社・春日明神・伊勢神宮・稲荷明神・八幡菩薩・梅宮明神・北野天満宮のこと。「半僧坊」は、このなかには無い。
↓「半僧坊真殿」。
御簾の奥に↑「半僧坊」の前立て〔秘仏の仏像を拝むために、前に置かれたレプリカ〕が見える。
↓「半僧坊」の絵と真言。
真言〔サンスクリット語の仏名および呪文〕があるということは、「半僧坊」はもともとはインドの神様なのかもしれない。
↓「真殿」の扉にも付いている紋章が気になる。これは、天狗の羽団扇 はうちわ ではないか! ちなみに、鎌倉「建長寺」の「半僧坊」にも、このマークがあり、そこには天狗の像がたくさん建てられている。「半僧坊」とは、天狗のことなのか?
「半僧坊」については、こういう伝承がある。
『伝えによると、無文元選禅師が中国より船に乗船して帰国の折、東シナ海において台風に遭遇されました。〔…〕大きく揺れる船のなかで、禅師は一心に観音経をおよみになっておられました。そこに法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、「わたしは禅師が正法を伝え弘められるために、無事に故国に送り申します」と叫び、船頭を指揮し、水夫を励まして無事に嵐の海を渡って博多の港に導いたのでした。そして、ここでお姿を消されたといわれます。
禅師がこの方広寺を開かれたとき、再びその一異人が姿を現し、「禅師の弟子にしていただきたい」と願い出ました。弟子になることを許され、禅師の身の回りにお仕えしながら修行に励んでおりましたが、禅師が亡くなられた後、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したのでした。以来、この方広寺を護る鎮守さまとして祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現さまとして、ご信仰をあつめております。』
『方広寺』HP.
しかし、無文元選の伝記『無文禅師行業』には、ネットで見た限りでは「半僧坊」のことは記されていない。wiki にもコトバンクにも、伝承の詳しい内容は無い。文献上の典拠がないということらしいのだ。
ただ、『無文禅師行業』によると、無文は元朝の僧を伴なって帰国したようだ。それが伝説発祥のもとにあるとすると、「半僧坊」とは、元朝の色目人の僧ではなかっただろうか。無文が寺入りした福州(現・福建省)といえば、当時は、南海航路の根拠地だった。「鼻の高い異人」というのは、アラビア人かペルシャ人ではなかったか。
権現や寺の鎮守として、日本の神々が祀られるのはごく普通のことだし、それがインドの神格の垂迹として仏教側で権威付けされるのも珍しくない。が、実在の外国人(中国朝鮮以外)が神格化されて日本の神になったのだとすると、他に例が無いのではないだろうか。
そして、「天狗」との関わり。「天狗」様とは、鼻の高いインド・ヨーロッパ系渡来僧の神格化ではなかったか?‥‥
そんな想像をしてみた。しかし、なにぶん「半僧坊」伝説には文献的根拠というものがないようだ。田代「勝楽寺」も鎌倉「建長寺」も、各地の「半僧坊」はすべて、明治末期以後に、この「奥山・方広寺」から勧請している。ということは、もしかすると、「半僧坊」伝説じたいが、「明治の大火」以後に生じた “近代幻想” ないしは、「方広寺」再興のための創作かもしれない。‥‥
そして、私の想像も、その末に連なる 21世紀の “幻想” なのかも。。。
↑鎌倉「建長寺・半僧坊」の天狗像 ©こもれびすきー@YAMAP.