兵馬俑坑(1号坑)。陝西省西安市,始皇帝陵墓の 1.5km東に、3か所の俑坑に合計
100余台の戦車,600体の陶馬,8000体近くの等身大武士俑が副葬され、みな戦闘
態勢で東を向いている。未発掘の兵馬俑坑が周辺に複数存在する。©Wikimedia.
【10】 諸子百家と「秦」帝国
『史記』によれば、中国の王朝国家は、夏王朝,殷王朝,周王朝,‥と続きますが、西周〔春秋戦国時代に入る前の前期「周」王朝〕までは「専制国家ではなく、多数の都市国家の連合体でした。それは、この時期、王がまだ首長のようなものであったこと、いいかえれば互酬制〔交換様式A〕が強く残っていたことを意味します。」(p.117.)
『殷・西周は黄河流域にしかなかった。東周〔春秋・戦国時代――ギトン註〕においてはじめて、長江流域を含めて、多くの国々が分立〔まだ統一中国は無かったのだから、「分立」はおかしい――ギトン註〕し抗争する状態になった。』それら諸国を統一した『秦帝国が黄河と長江という異質な二大文明を統合するものであった〔…〕ペルシャ帝国がメソポタミアとエジプトという二つの文明を統合するものであったことに対応するものです。〔…〕
私が秦・漢王朝を帝国と呼ぶのは、〔…〕この時期まで異質であった文明を統合したからです。それは、生産技術や軍事力〔…〕だけでは不可能です。〔…〕重要だったのは、実は「思想」です。そしてそれを可能にした前提は、周王朝の時期に、漢字が共通言語として用いられるようになったことです。周の末期に「諸子百家」が輩出したのも、漢字による記録や著作が累積されていたからです。〔…〕
周は、氏族的原理にもとづく首長制連合国家でした。それが解体され、中央集権的な体制が形成されるまでの過程が春秋戦国時代〔…〕です。〔…〕
古代の専制国家=帝国をもたらしたのは、自然を支配する技術よりも、人間的自然を統治する技術だ〔…〕この技術は物質的なものではなく、いわば「思想」として現れた、〔…〕この技術とは、突きつめると、交換様式A(互酬交換)を超えることであったからです。
互酬原理は〔…〕国家社会になっても残ります。その場合、〔…〕血縁や地縁による共同体の支配、あるいは豪族らの独立・割拠・抗争を支えるものとして働きます。それが中央集権の成立を妨げる。
互酬原理はまた、呪術的な宗教の根底にあります。〔…〕その結果、祭司の権力が強くなります。古代に集権的な国家を創るためには、多数の豪族や祭司を制圧しなければならない。それは武力だけではできません。〔…〕何よりも、それらを支える互酬性の原理を克服する必要があったのです。それを果たしたのが「思想家」です。〔…〕
中国で諸子百家が輩出したのは、都市国家が争った春秋戦国時代です。』
柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.117-120.
老子出関図。野田九浦・筆。老子は「周」の官吏だったが
王室の衰えを見て辞職し、水牛に乗って函谷関を越え
西方の砂漠へ、何処へともなく消えていったという。
©夜噺骨董談義(blog.goo.ne.jp/otsumitsu)
最初に現れたのは老子です。前6世紀に東周の書庫の記録官だったと言われます。もっとも、老子の著作とされる『老子道徳経』は、後代の前4世紀:孟子の時代に成立しています。司馬遷は、老子とされる人物は周代に3人存在したとか、不老長寿の術を会得して数百年生きたのかもしれない、などと書いています。柄谷氏は、後代に「老子」として伝わった人物は3人いたとしています。(p.120.)
「老子」が説いた「無為自然」という教えも、最初の老子1と、『老子道徳経』の老子3とでは意味が違う、と柄谷氏は言うのです。
老子1の説いた「無為自然」とは、きわめて広義な言葉で、つづめて言えば、真理を追求することです。「為」とは、「力による強制を意味します。」氏族社会で用いられた「力」とは、ひとつは武力であり、もうひとつは呪術的な宗教の力です。上級の権力や権威というものをもたなかった首長たちは、互いの意見の相違を武力で解決するほかなかったし、祭司たちは、呪術によって「神」の力を引き出して人びとを従わせた。どちらの場合も、何が「正しい」かは、力の強さだけが決定します。そういうやりかたはやめよう、というのが、「無為自然」なのです。「無為とは、呪力と武力に頼らないことです。」
つまり、呪力と武力によって万事解決しようとする互酬制(氏族制)社会の流儀を否定し、「思想」によって真理を追究すべきだ、と説いたのが「老子1」だった。考えてみれば、力がすべてを決定する社会では、「思想」など成立しえません。したがって、この意味での「無為自然」は、老荘・儒家・法家を問わず「百家」思想家の共通の土台となったわけです。
「孔子は暴力による統治を否定し」(苛政は虎よりも猛なり)、「[礼]と[仁]による統治を唱えました。また、呪術による統治を斥けた」(怪力乱神を語らず/未だ人に事うる能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん/鬼神を敬してこれを遠ざくるは、知と謂うべし)。人間に奉仕することを究めないうちに、鬼〔タヒ者の霊〕に仕えてはならない。鬼神は敬うけれども、遠くに置いておけ。神頼みしたりはしない。これこそが真理の探究というものだ、と。
つぎに、「法家」:
『法家は、文字どおり法治主義を唱えたのですが、それは被支配者を法によって厳重に取り締まるということではなく、むしろ権力を恣意的に濫用する支配者を法によって抑えることです。〔…〕法家によれば、法は、支配者、とくに王自身が真っ先に従うべきものです。そうすれば、臣下も自然に法に従うことになる。君主は「無為」でよい、ということになります。
戦国時代に入って有力になったのは法家です。〔…〕西の辺境にあった後進的な秦を急激に強国にしたのは宰相の商鞅ですが、〔…〕商鞅は、「法」による統治という考えを貫いた。この法治主義は、〔…〕権力を恣意的に濫用する支配者(豪族ら)を法によって抑えることです。それが集権化のために何よりも必要だったのです。〔…〕
さらに商鞅は、氏族(世帯共同体)を家族に分解し、小農を単位とする社会を創った。これは「商鞅変法」と呼ばれていますが、これによって税と徴兵を確保したわけです。秦が〔…〕帝国となったのは、このような改革を通じてです。〔…〕帝国が形成されるには〔…〕「思想」が必要なのです。商鞅が行なったのは、〔…〕旧来の氏族的共同体を根本的に解体することです。』
柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.121-124.
兵馬俑坑(1号坑)出土品。陶馬と武士俑。陝西省西安市。©Wikimedia.
ここには大きな問題があります。中国では、ヨーロッパ諸国とも、東アジアの他の国々とも異なって、紀元前3世紀というたいへん早い段階で「氏族共同体」が崩壊したことになるからです。じっさいに、そういうことがあったと考えられます。が、柄谷氏はその点を十分に議論していません。じっさいの在地の社会編成がどう変化したか、という面の検討が不十分で、もっぱら、その結果としての「思想」と「国家」政策のみが語られています。
とはいえ、中国史の専門家でない柄谷氏にそれ以上の要求をするのは、無理なのかもしれません。
柄谷氏のここでの歴史叙述が誤解を与えるのは、少数の知識人の「思想」が、専制国家の統治を通じて、社会を変革させているかのように受け取られる点です。柄谷氏の意図は、そうではないと思います。百家の「思想」じたいが、氏族社会の解体という・基底社会の変動の結果として出てきていることを、見逃してはいないからです。ただ、その面は読み落とされがちです。
思想→政治→社会の変革、という方向に動くことも、歴史上ありえないとは言いませんが、たいへん稀れです。それが起こる場合も、単純な一方交通ではありません。また、ほとんど常に、改革は不徹底に終ります。
たとえば、ウェーバーは、カルヴァンら宗教指導者の唱えた「プロテスタンティズムの倫理」をオランダやらイギリスの王さまが採用して社会を改革し、「資本主義」にしたと言っているわけではありません。ウェーバーが提起したのは、プロテスタントの大衆(諸宗派、セクト)が身につけた特有の世俗倫理が、かれらを企業活動に向かわせ、それが「資本主義の精神」となって社会を変えていったという因果経路です。つまり、どこまでもそれは “基底” で起きている現象なのです。
中国の戦国末~秦漢期の「氏族共同体の解体」については、後日、中国史専門学者の議論をレヴューする際に改めて検討したいと思います。
【11】 「封建制」と「郡県制」――
「封建制」「フューダリズム」「ほうけんせい」
さて、秦が行なった中央集権化の改革として重要なものに、「郡県制」の導入があります。
周王朝の国家体制は「封建制」でした。これは西欧中世の「フューダリズム」とは異なります。周の「封建制」は、氏族・部族社会の上に乗っかった制度であり、各地方の部族の首長が周王室に、貢納と「礼」(身分秩序)によって服属するものです。これを周王室のほうから見ると、諸侯(首長)に礼器〔↓〕・封土・族集団を割り当てて統治させる制度、ということになります。諸侯の下で、各地の下位首長までが周王朝の身分秩序に属していますが、王権の支配は、それ以下の一般人民には及んでいません。(⇒:wiki「封建制」)
斉侯匜, 西周後期。上海博物館。「礼器」の一つ。「礼器」は周王と諸侯
の間の主従・身分秩序を象徴し、祖先祭祀に用いられた。©Wikimedia.
西欧中世の「フューダリズム」も、国王-諸侯-臣下(騎士・領主)のあいだの主従関係ですが、2当事者間の双務的契約関係の面が強く、また軍役奉仕を基幹とするものであって、貢納制ではありません。また、国王は、諸侯とは別に、都市に特権を与えて直接服属させるなど、王の支配は部分的に人民に及んでいました。ただ、非集権的であるという点で氏族・部族社会の要素が強く残っていることは、柄谷氏が指摘するとおりでしょう。
日本では、江戸時代の頼山陽らが、鎌倉時代の制度は中国の古代「封建制」に似ているとして、これを「封建制」と呼ぶようになり、その後、明治時代に、西洋の「フューダリズム」もこれらと似ているということで、「封建制」の訳語を当てました。しかし、この3つは、それぞれかなり異なったものです。
ともかく、ここでは「封建制」の語は、中国古代の「封建制」を指す言葉として使用します。
この「封建制」に対して、秦が導入し、その統一によって中国全土に敷いた「郡県制」とは、諸侯の地方支配を廃して、皇帝が任命した官吏(地方官)を派遣して直接統治する制度です。地方官が諸侯と異なるのは、部族首長とは異なって、皇帝の命令に上意下達で従うことです。
たとえば、後の時代ですが、隋の煬帝は、高句麗の王に対して、「朕は全世界の皇帝なのだから、おまえの国にも朕の手下を派遣して直接統治してもよいのだが、それは面倒なので、おまえに統治させてやっている。それだけのことだ。朕が気に入らなければ、いつでもおまえを廃位して、昔のように(たとえば、漢が朝鮮に置いた「楽浪郡」)中国の県にしてしまうのもいい。そう思わんか?」、と言って脅かしています。その後煬帝は高句麗を攻めて征服しようとしましたが、敗北して、そのあおりで隋じたいが滅亡しています。
このように、「郡県制」は、強力な中央集権的支配をもたらすものの、失敗した場合のリスクが大きいのです。「郡県制」で中国を統一した秦も、各地の豪族の反抗を招いて、統一後わずか 15年で倒壊しました。
『秦帝国は中央集権的であり、全国を「郡県制」によって統治しました。〔…〕始皇帝が行なった政策の多くは、ペルシャ帝国でなされたことと共通しています。道路、駅逓など通信制度、度量衡・貨幣の統一などの経済政策、これによって中央集権的な制御を確保するとともに、地域的な閉鎖性を超えた〔…〕交換様式Cの発展をもたらした。しかし、〔…〕根底にあるのは交換様式Bを貫徹するという考えです。それは、血縁関係,人格的な主従関係を超えた「法」による支配を実現することです。いいかえれば交換様式Aを払拭すること。それが法家思想の核心です。
〔…〕郡県制は、〔…〕封建制とどう違うのか。〔…〕違いは何よりも、互酬原理が残っているかどうかにあります。周代の封建制では、「封」に伴う個人の主従関係が軸になっていた。それが、諸地域に国家が乱立する戦国時代に帰結したわけです。それに対して〔…〕郡県制では、〔…〕官僚は〔…〕非人格的な法にしたがう。つまり、旧来の互酬性に根ざす諸権力を一掃することが、法家あるいは秦の始皇帝がめざしたことです。
〔…〕バビロニアの「ハムラビ法典」』でも、『「法」は、報復の連鎖的増幅、すなわちネガティヴな互酬性を禁じるものです。
「法」とは、それまでの互酬的なありかたを否定し、等価交換を承認することです。』
柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.123-124.
馬王堆漢墓(3号墓)出土品, 湖南省長沙市,前3-2世紀。雲龍紋のある漆塗り洗面器。
漢代には旧・楚国も郡県(長沙郡)に編入された。湖南省博物館。©Wikimedia.
【12】 漢帝国と儒教の国教化
「韓非子をはじめとする法家の原理によって樹立され」た秦は、「儒家をはじめとする諸子百家を弾圧し」たが、短命に終わった。これは、「法家の理論によっては持続的な国家体制を形成できない」ことを示した。なぜなら、社会に張り巡らされた「互酬的な人格的関係を廃棄する」のは、容易なことではないからです。そこで、秦に取って代わった漢は、①法家の導入した「郡県制」に代えて「郡国制」を敷き、②武帝以後には、儒教を公認して、官吏が学ぶべき国家教学としました。(pp.125,130.)
①「郡国制」は、「都の長安周辺など重要な地域には郡県制を敷きながら、他方、一族・功臣を各地に封じ〔…〕諸侯王国をつくらせる」という、郡県制と封建制の折衷制度です。しかし、諸侯王による反乱が相次いだために、それらを鎮圧した後、武帝以後は諸侯国にも官吏を派遣して統治させるなど、事実上、郡県制に一本化していきました。同時に、朝鮮やベトナムのように新たに征服した辺境地域には初めから「県」を置いて直接統治するようになっています。(⇒:wiki「郡国制」「呉楚七国の乱」)
②つぎに、儒教の国家教学への採用ですが、これは若干の紆余曲折ののちに実施されました。
漢代には、儒家の思想は法家に近いものとなっていたのですが、ただちに国家に採用されたわけではありません。「漢帝国の初期、同族による反乱〔諸侯王の反乱〕が鎮圧された後」で、まず「老子の[無為]の思想が国家的な教義として採用されました」。これは、法家が老子から取り入れていた考え方、つまり、「法が実現されれば支配者は[無為]でよい、という考え」の延長です。漢代初期に採用されたのは、「政府は[無為]であることがよいという考え、政策としてのレッセフェール(自由放任)」でした。(p.128.)
老荘思想は本来、国家を拒否する思想なのですが、法家に取り入れられて変質し、漢代には国家教義にまでなっているのです。
同様に、儒教も、本来は「老荘にも劣らず、集権的な国家に対立する思想で」す(p.129)。いっさいの強制力の行使を否定し、「法」よりも「仁」、すなわち温情と正義による統治を主張するものでした。しかし、その儒教も、孟子,荀子によるモディファイを経て、漢代には、法家に近いものに変質していました。「仁」以上に、「礼」「名分」「天命」といった項目が重視されるようになっています。荀子の「礼」とは、人を生来の感情のままにさせると、争い合って秩序を破綻させるので、「教師による規範の感化や礼義による指導が必要だ」ということです(p.127)。
ペルシャ帝国の下でゾロアスター教が、ローマ帝国の下でキリスト教が、普遍宗教(交換様式D)から《帝国》の世界宗教(交換様式B)へと変質したのと同様の過程が、中国の諸子百家にも見られるわけです。
そこで、漢代初期には、まず老子の「無為」の教義が採用されたのですが、たとえば、漢王朝は貨幣鋳造の独占権を放棄して民間に自由に貨幣を造らせ、しかも国庫の準備金でその流通を支援するという思い切った自由放任策まで実施しています。
漢代の経済政策を「レッセフェール」と呼ぶのは、比喩ではありません。西洋近代に「レッセフェール」政策を提唱したのは、フランスの重農主義者フランソワ・ケネーですが、ケネーは、そのころ宣教師が紹介した中国・老子の「無為」から着想して、「レッセフェール(自由放任)」という言葉を創ったのです。実は、中国のほうが自由主義経済政策の本家本元なのです。(p.128.)
五銖銭と半両銭。半両銭は、戦国時代の「秦」が鋳造を始め、秦~前漢代に流通
した。五銖銭は、前漢・武帝が初めて鋳造し、その後歴代諸国によって鋳造
され、唐初に開元通宝が発行されるまで流通した。©auction-world.co.
しかし、漢代には「レッセフェールの結果、生産力が急激に成長したものの階層分解が生じ、また各地の諸侯が勢力を振るうようになりました。それに対して」中央集権の強化で引き締めようとした武帝は、今度は、老子ではなく儒教を「帝国の原理として取り入れたのです。」
漢《帝国》の原理として編成替えされた董仲舒〔前176-前104〕の儒教は、「多様な儒教思想を総合するだけでなく、それまでの諸子百家の議論を総合したものです。」(p.129)
それは、《帝国》の原理を、東アジア帝国特有のしかたで定式化するものでした。
それは第1に、「華夷の別」。すなわち、中国(中華)と周辺諸民族(夷狄)の違いを、文明の程度の相違と見なす、差別と蔑視の体系です。しかしそれと同時に、「中華」は、未開の「夷狄」たちから文明国として慕われ、彼らを感化し文明化する役割を担っているのだ、とします。それによって《帝国》は、「異文化を包摂するシステム」、異種族を(同化を強いることなく〔※〕)統合するシステムとして働くことになります。culture が農業耕作、civilisation が都市国家を語源とするのに対し、中国語の「文化」とは、「文」によって教「化」することです。
註※「同化を強いることなく」: 現代の大陸中国が、この「帝国の原理」を持っているかどうかは問題があります。チベット,ウイグルに対しては言うまでもなく、内蒙古自治区のモンゴル人に対しても同化政策を強めている現代の中国は、「帝国主義」であって《帝国》ではないと私は考えています。
「第2に、漢代の儒教は王朝の正当性を意味づけた。[天命]の観念がそれです。」もともと孟子によれば、皇帝は「絶対者たる[天]の委任によって」「天子」として統治する。王朝の正統性は、天の委任によるのであり、この「天命」とは、じつは民意と同じものである。「天命」が変われば(「革命」すなわち、命を革 あらた めること)、王朝は交替せざるを得ない(p.127.)。この考え方は、漢以後の王朝儒教でも公認されました。それというのも、歴代国家は、前王朝(漢の場合は秦)を打倒した現王朝の正統性を基礎づける理論をつねに必要としたからです。
第3に、漢は、儒教を国家教学として官吏に習得させ、「国家」統治のイデオロギーを体現した官僚が統治機構を鞏固に維持するしくみを作った。董仲舒は武帝に進言して「五経博士」を置き、「大学」を設けました。「これは一種の官吏養成所で、とくに高官の子弟がここで教育されました」。隋以後になると、「科挙」によって官吏登用を行なうようになります。「王朝が変わっても、官僚制は不変です。〔…〕官僚制が残る限り、それを支える儒教の思想も残ります。」(pp.130-131)
これは、いわば、制度に組み込まれた二重性なのです。(柄谷さんは知らないのかもしれないが)日本の大学で東洋史(実質は “中国その他史”)を習うと、最初に教えられるのは、このことです。たしかに、支配の枠組みは「法」(律令)による統治です。しかし、その中身は、儒教道徳という対人倫理による「人」の支配なのです。「法」を緩めて、あるいは崩して「情実」で運用することが、違法とはされず、むしろ善いことだとされる。したがって、どんな政治になるかを決めるのは、制度ではなく「人」です。原理がそうであるだけでなく、官僚自身がそう信じて政治をしています。
民國50年代のポスター:「耕者其の田をもつ、
耕者其の糧をもつ」 ©維基百科
『天命、あるいは易姓革命という観念が重要なのは、のちに、外部からやってきた異民族の征服者にも適用されたからです。王朝の正統性は、血統〔民族性――ギトン註〕とは別です。誰が〔…〕どの民族が支配するかではなく、それが帝国の原理をみたすか否か、〔…〕安定・平和・繁栄をもたらすか否かによって〔ギトン註――支配の正統性は〕判断される。満州族が築いた清朝も、そのような条件を満たしたがゆえに正統性を得たわけです。』
柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,p.131.
つまり、「天命」という観念の下では、「周辺」民族も「中心」になることができる。これこそが、《帝国》の原理にほかならないのです。
次回は、「老荘」思想が民衆化して発生した反乱により漢王朝が崩壊。やがて、「周辺」部から侵入した遊牧民が、孟子の儒教ユートピアを現実化して「均田法」を開始する。こうして変革された思想・制度のもとで、隋・唐王朝によって官僚制(律令制)国家は完成を見ることになります。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!