日清戦争に従軍した風刺画家ジョルジュ・ビゴーが帰国後1899年
パリで発行した絵葉書。日本兵と清国兵が韓服の人を踏むのをロシア
兵が見ている(上)。英人探検家と米人紳士に押されて日本兵が
ロシア兵に斬りつける(下)©culture-images/時事通信フォト
【1】 「9条」からは、誰も逃れることはできぬ。
本書の主要な論題は、日本国憲法9条に関することで、議論の大枠は↑上のカスタマ・レヴューを見れば、知ることができるので、説明は省きます。
もとになった講演は、2015年に韓国・延世大学で行なわれており、柄谷氏としては若干挑発的な構えで場に臨んでいることがうかがえます〔韓国では柄谷行人は、最も多く引用される外国の著者であり、最も論争を醸す存在でもあります〕。それだけに興味深いのですが、その前に、『力と交換様式』のレヴューでは十分に扱えなかった「近代世界システム」(資本主義時代)に関する部分を取り上げておきたいのです。
今回レヴューしたいのは、関連で収録されている第Ⅳ章です。そちらのテーマは、ひとことで言えば「帝国主義論」、しかも、まさに現在を3度目の「帝国主義」段階〔1度目は 1750-1810、2度目は 1870-1930〕と規定しての議論です。まず、「あとがき」から先に読んでおきましょう。
『1990年以降に世界資本主義は「帝国主義」的段階に入りました。ここ 25年のあいだに、それが徐々に進展し深刻化してきました。戦争が切迫していることを、昨今多くの人びとがひしひしと感じているのも当然です。
が、それを 1930年代になぞらえて、ファシズムの到来を言ったりするのは的外れです。〔…〕帝国主義時代、すなわち、日本でいえば日清戦争から日露戦争に至る時期と比べてみるべきです。
現在、世界中で資本主義経済の危機とともに戦争の危機が迫っていることはまちがえありません。どの国もこの危機的状況において、それぞれに対策を講じています。そして、それが相互に感染し、恐怖、敵対心が増幅されるようになっています。
そのなかで、日本で急激に推進されたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという政策です。〔…〕しかし、各国の〔ギトン註――そうした〕「リアリスティックな」対応のせいで、逆に、思いがけないかたちで、世界戦争に巻き込まれる蓋然性が高いのです。
第1次世界大戦 1916年、ヴェルダン。フランス軍の兵士が
塹壕から出て戦闘に入ろうとしている。©Wikimedia.
第1次大戦は、まさにそのようなものでした。ヨーロッパの地域的な紛争が、軍事同盟の国際的なネットワークによって、極東の日本まで参加するような世界戦争に転化していったのです。〔…〕
したがって、防衛のための軍事同盟あるいは安全保障は、何ら平和を保障するものではありません。ところが、それがいまだにリアリスティックなやり方だと考えられているのです。
そして、日本ではそれを実現するために、何としても「非現実的な」憲法9条を廃棄しなければならないということになります。この 25年間(それ以前も同じでしたが)、憲法9条を廃棄しようとする動きがやんだことはありません。にもかかわらず、それは実現されなかった。今や保守派の中枢は、〔…〕憲法に緊急事態条項を加えるなどで、9条を形骸化する方法をとろうと画策しています。〔たとえば安倍内閣の最終改憲案は、現行の9条1,2項を存置したまま、それと矛盾する3項を加えることだった――ギトン註〕
ゆえに、護憲派は当面、9条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要はありません。問題はむしろ、護憲派のあいだに、改憲を恐れるあまり、9条の条文さえ保持できればよいと考えているふしがあることです。
形の上で9条を護るだけなら、9条があっても何でもできるような体制になってしまいます。護憲派の課題は、今後、9条を文字通り実行することであって、現在の状態を護持することではありません。
ただ、私は憲法9条〔は日本人の「無意識」によって護られているので――ギトン註〕が日本から消えてしまうことは決してないと思います。たとえ策動によって日本が戦争に突入するようなことになったとしても、そのあげくに憲法9条を取り戻すことになるだけです。高い代償を支払って、ですが。
最もリアリスティックなやり方は、憲法9条を掲げ、かつそれを実行しようとすることです。』
柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.196-198.
つまり、もし仮に「9条」が削除されたとしても、その結果として例えば日本は激烈な戦争を敢行し、あるいは巻き込まれ、甚大な被害をこうむることになって、戦後には再び9条を制定することになる。フロイトの「超自我」の論理と、「資本=ネーション=国家」の現段階から推論すれば、そう想定せざるを得ない、ということです。9条廃棄、あるいは名目化という「リアリスティック」な選択(いまや共産党までもが言いはじめている)は、大きな迂回と犠牲を私たちに強いることになります。
それでは、無視しようと逃げようと「9条はどこまでも付いてくる」という《現実》を踏まえたうえで、もっとも犠牲の少ないやり方を執るとしたら、具体的にどんなことが考えられるのか? ‥‥「資本=ネーション=国家」の現段階に関する考察を見ながら考えてみたいと思います。
パレスティナ,ガザ地区中央部、デイル・アル・バラフ、2024年7月27日。
イスラエル軍の砲撃で破壊された学校の内部。この学校は、家を失った人びと
の避難場所になっており、BBCが確認したところでは、子どもたちを含む
多くの民間人が死傷した。©BBC.
【2】 「近代世界システム」――
「自由主義」と「帝国主義」の交替
19世紀初め、ナポレオンが失脚してナポレオン戦争が終わった頃から、1970年の普仏戦争までの時期は、資本主義の「自由主義」段階と言われることがあります。この間、産業革命を終えた英国が “世界の王者” として強大な経済力と軍事力で君臨していましたが、産業革命はしだいに他の諸国:フランス,ドイツ,アメリカなどにも波及し、これらの国々は英国の後を追って力をつけていました。
「自由主義」段階と言われるのは、ヘゲモニー(覇権)を握るイギリスが自由主義的だったからで、ヘゲモニー国家にとっては自由貿易が有利です。自由主義は英国の国内政策にも現れて、この時期のロンドンでは、マルクスのような人が資本主義批判の書物を自由に書いて出版することもできたのです。また、マルクスが『資本論』で書いているように、英国政府はこの時期には、児童労働の制限や労働環境の改善など、労働者の保護・福祉にも努めています。世界経済のヘゲモニーを握っていたので、それだけの余裕があったということです。
しかし、イギリス以外の国々は、この時期には保護貿易主義でした。関税障壁を設けて、イギリスの安い工業製品が自由に入って来るのを防いで、まだ弱い自国の産業を保護する必要があったからです。
1870年以後は、「帝国主義」段階と言われます。諸国の成長によってイギリスの覇権は崩れ、次の覇権の座をめぐって各国が争い合う時代となります。争いはとりわけ、ヨーロッパ外の世界に対する・土地・資源・市場の争奪戦として展開されました。この時期には、地球上の大部分がヨーロッパ諸国(および米,日)の植民地となって分割され、地域の伝統的な産業は破壊され、資本主義工業製品の市場となって収奪されたのです。
ちなみに日本は、「自由主義」段階〔1810-1870〕の終了間際に滑り込むように、開国と政治体制の刷新(明治維新)をしています。これがもし、あと 20年遅かったら、「帝国主義」段階の列強の圧力によって独立近代化の芽を摘み取られていた可能性が高いのです。
『私は歴史学者ウォーラーステインから多くの示唆を受けました。彼は資本主義を国家から切り離さなかった。彼の考えでは、自由主義とはヘゲモニー国家がとる経済政策です。そして帝国主義とは、ヘゲモニー国家が衰退して、多数の国が次のヘゲモニーの座をめぐって争う状態です。さらにウォーラーステインは、近代の世界経済のなかでそのようなヘゲモニー国家は3つしかなかった、という。オランダ,イギリス,そしてアメリカ(合州国)です。〔…〕
1つのヘゲモニー国家が存続するのは 60年だ〔…〕。したがって、120年で循環することになります。』
柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.154-155.
オランダ・東インド会社の商船「アムステルダム号」が
アムステルダム・国立海洋博物館横に停泊している。
本書,p.142.の「図4」を、アメーバのフォーマットに収まるようにまとめてみました↓。柄谷氏の図では、1750-1810期の「国家」が「絶対主義王権」となっていますが、当時、覇を競い合った国々には、イギリスのような立憲君主制も、革命期のフランスのような共和政体もあったので修正しました。また、1990-2050期の「国家」は「地域主義」とあるのですが、「地域主義国家」というのはよく解らないので、同期の「マルクス主義的な段階論」欄の「新自由主義」を「国家」欄に移しました。その他の「マルクス主義的な段階論」欄は、すべて省略。詳しく検討したい方は、本書を購入して比べてみてください。
このように、「近代世界システム」は、自由主義的な段階と帝国主義的な段階が、60年ごとに交代している、というのが「ウォーラーステイン-柄谷理論」であるわけです。この 60年というのは、景気循環論でのコンドラチェフの長期波動仮説に基づいているのですが、コンドラチェフとウォーラーステインは 50-60年としているのを、柄谷氏は、ぴったり 60年に揃えてしまっています。が、いずれにせよ、きわめて大雑把な目安の期間と考えればよいでしょう。
「自由主義」と「帝国主義」も、2つの段階のあいだを行ったり来たりしている、ということではありません。たとえば、オランダの覇権時代の「自由主義」とアメリカの覇権時代の「自由主義」では、資本主義の構造も国家の特性も大きく異なっています。上の図の6つの段階は、下に(後の時代に)なるほど、資本主義の構造も国家の経済政策も進展し、互いに密接に絡み合うようになります。ただ、「自由主義/帝国主義」という一面だけを切り取って見れば、このように交替しているように見える、ということです。
『ヘゲモニー国家であった時期〔1750年以前――ギトン註〕のオランダは〔ギトン註――経済と宗教の面で〕自由主義的で、政治的にも共和政でした。〔…〕たとえば、首都アムステルダムはデカルトやロックが亡命し、ユダヤ人共同体から破門されたスピノザが安住できたような、当時のヨーロッパで例外的に自由な気風の都市でした。〔…〕イギリスがヘゲモニー国家となった時期のロンドンにマルクスが亡命していたのと相似する現象です。〔…〕
その間イギリスはオランダに対して保護主義政策をとり、製造業を育成した。その結果、産業資本が発展したわけですが、イギリスがヘゲモニー国家にな』るまでの間には、『オランダが没落し、新たなヘゲモニーをめぐって争う時代〔1750-1810年――ギトン註〕があった〔…〕これは実は「帝国主義的」な時代であった。ヘゲモニー国家が不在の時代ですから。
18世紀の帝国主義的段階〔1750-1810〕で、ヘゲモニーを争ったのはイギリスとフランスです。それがフランス革命およびナポレオン戦争の背景にあった〔…〕イギリスはナポレオン敗北ののち、すなわち 1810年以後にヘゲモニーを確立しました。イギリスの自由主義は、その時始まった。』
柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.156-157.
British Museum, Main Entrance. ©Wikimedia. .
マルクスが、ロンドンに閉じこもって British Museum の図書館に通う生活をしながら、当時の資本主義全体を語る『資本論』を書くことができたのは、当代ヘゲモニー国家の中心部から世界を見ていたからです。「たとえば、イギリス以外の諸国の経済は、イギリスの輸出入において現れる」。「世界資本主義は、各国の経済の総和というよりむしろ、イギリス資本主義において見いだされる。」(p.146.)
『19世紀後半、とくにマルクスのタヒ〔1883年〕以後の時代には、イギリスのヘゲモニーが揺らぎ、新たなヘゲモニーの座をめぐる争いが生じました〔1870-1930年――ギトン註〕。それが一般にいわれる「帝国主義」なのです。〔…〕下降気味のイギリスに対して、新興のドイツとアメリカ,ロシア,さらに日本が次のヘゲモニーをめぐって争った。その結果が第1次大戦であり、それを通してアメリカが事実上ヘゲモニーを得たわけです。
ただし、それはすぐに自由主義的段階には進まなかった。〔…〕ドイツと日本が抵抗したからです。それが第2次大戦に帰着しました。しかしそれはアメリカのヘゲモニー、したがって世界資本主義の自由主義的な段階〔1930-1990年――ギトン註〕をより強固なものとする結果に終ったのです。』
柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.157-158.
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