小説・詩ランキング

三内丸山遺跡。紀元前3900-2200年、青森県。復元された建物群。

 

 

 

 

 

 

【52】 ジェームズ・C・スコット――

「定住」する狩猟採集民

 

 

 穀物栽培を中心とする・いわゆる「農耕社会」が形成され、やがて人々は「徴税国家」に支配されるようになるよりもはるか以前に、人類は、狩猟採集民のままで「定住」を始めました。このことは、私たち日本人には当然すぎるくらい当然の話です。「縄文時代」という 1万年以上にわたる「定住狩猟」時代のあったことが、小学校でも教えられているからです。

 

 しかし、日本の場合には、ヨーロッパとは逆に、「縄文」狩猟民の「定住」を、後の歴史時代の「むら」のような・固定的なイメージでとらえてしまいがちです。

 

 私の住んでいる市でも、先日市立博物館を訪れたところ、縄文早期の貝塚を、出土した石鏃や土器片とともに紹介しながら、「村ができた」と書いているパネルや、「環状集落」を、「家が増えたから丸い形になった」などと説明しているパネルを見て、思わず苦笑してしまいました。その前に、青森・岩手の「世界遺産」の縄文遺跡で、イメージ豊かな最先端の発掘と実験(!)の成果を見てきただけに、なおさら地元の低水準に落胆したのですが。

 

 狩猟採集・漁撈と農耕、牧畜を区別なく行なっていた・この初期の「定住」民は、「定住」以外の生活を知らなかったのではなく、自然環境と獲物の変動に応じて、しばしば遊動化してもいたのです。

 

 そのような初期の「定住」集落は、農村のようなものではなく、そこで行なわれていた “農業” は、いわば野生の植物環境に働きかけ、採集の “恵み” を最大限に引き出そうとするものでした。



『現在でも、アナトリアで大規模に群生している野生種の小麦からは、石刃鎌を使って3週間で、1家族が1年食べていけるだけの穀物を集めることができる。耕した畑に意図的に種子を播くずっと前から、狩猟採集民は、篩 ふるい、石臼、摺り鉢と摺りこぎなど、野生の穀物や豆類を加工するためのあらゆる収穫具を作り出していた。〔…〕
 

 〔ギトン註――農業社会となる前には、〕きわめて長い「低水準の〔つまり半栽培的な――ギトン註〕食料生産」期があった〔…〕つまりは、完全な野生ではないが全面的に作物化されてもいない植物の時期が長かったということになる。〔…〕栽培化のプロセスは最長 3000年にわたって多くの地域で続けられ、それが主要作物の大半(コムギ、オオムギ、イネ、ヒヨコマメ、レンズマメ)の、多角的で分散的な作物化につながったのだとされている。

ジェームズ・C・スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,2019,みすず書房,pp.10-11.  

 

 

レンズマメ。西アジア原産、径4-9mmの扁平な豆

 

 

 「私たちは、国家成立以前の祖先の敏捷さや適応力の度合いを過小評価してきた」。じっさいには、まだ国家に包摂されていない人びとは、「定住」して耕作労働に専念しなければならないという圧力を受けることはなかったから、気候変動などの自然の変化に適応して、狩猟採集、漁撈、移動耕作、遊牧などさまざまな「生業様式のあいだをいとも簡単に往き来していた」。そして、「肥沃な三日月地帯〔パレスチナ~メソポタミアに広がる先史農耕先進地域――ギトン註〕をはじめとする」各地で、それらの生業を組み合わせた「ハイブリッドの生業様式」を作り出していた。たとえば、紀元前1万2000年頃「メソポタミア南部沖積地」にできはじめた狩猟採集民の半定住集落は、「ヤンガー・ドリアス亜氷期」の到来とともに、より「移動性の高い生業戦略」に移行している。「植物の作物化や恒久的な定住に関する議論」の多くが、「人々は待ちかねたように1か所に定着し」二度と移動生活に戻ることはなかったと決めつけているが、こうした決めつけには何の根拠もない。国家のもとでの定住生活に関する固定観念を、国家以前の時代に遡らせているにすぎない。じっさいには、人々はさまざまな生業戦略のあいだを往き来して、ある時には定住し、ある時には再び移動性の高い生活に戻っていたのだ。(スコット,p.57)

 

 同様にして、「農耕民」「狩猟民」「遊牧民」といった区別も、絶対的なものではなかった。こうした用語は、国家以前の社会にあっては、生業の種類ではあっても、人間の種類の区別ではなかったと考えたほうがよい。古代中東では、「血縁集団や村落には、遊牧をするグループもあれば、狩猟や穀物栽培をするグループもあって、どれもが、統一された」村落「経済の一部だった」。(スコット,pp.57-58)

 

 「ヤンガー・ドリアス」亜氷期が過ぎると(前9000年頃)、メソポタミア南部沖積地の人びとは、本格的に「定住」を開始した。前8000~6000年頃、「すでにいくつかの穀草や豆類を作物化し、ヤギやヒツジを家畜化していた〔…〕人びとは、その時点ですでに農耕民であり、かつ遊牧民〔…〕、狩猟採集民でもあった。〔…〕単一の技術や食料源に特化するのを避けられることこそが、自分たちの安全と相対的な豊かさを保証する最善の方法」であることを、彼らは知っていたのだ。「歴史的に見て、狩猟民や採集民の生業の安全は、まさに彼らの移動性と、権利を主張できる食料資源の多様性にあった。(スコット,pp.58-59)

 

 『ギルガメシュ叙事詩』の古いヴァージョン(ウルク第1王朝:前2600年頃)では、「ギルガメシュの魂の伴侶」エンキドゥは「羊飼いで、作物の世話をしながら家畜の面倒もみる融合した社会を象徴していた。」ところが、1000年後、メソポタミアに帝国国家が成立して後のヴァージョンでは、「エンキドゥは人間以下の存在として描かれ、野獣とともに育ち、人間の女性と交わることでようやく人間となる。」つまり、農耕も牧畜も行なった「国家以前」の民は、農業国家が確立したのちには、人間以下の存在に転落させられてしまうのだ。(スコット,p.58)

 

 


ギルガメシュ叙事詩。ライオンと戦うギルガメシュと、エンキドゥ(左)

 

 

  農耕は、狩猟採集よりも格段に進歩した画期的な活動だ――「新石器革命」だ――と主張する研究者たちは、農耕は、収穫という「ずっと先の」報酬を見越して、「種を播き、作物が成熟していくのに合わせて」除草などの労力を注ぎ込む「遅延リターン」の活動であることを強調する。しかし、狩猟採集生活に対するこれほど不当な見方もない。「遅延リターン」は狩猟採集でも同じなのだ。「渡りをしてくるガゼルや魚類、鳥類など」の「大規模な捕獲には、協働での入念な準備が必要だ。」ガゼルの群れを捕獲するには、長い「追い込み道」を作っておかねばならない。「堰や網や罠を作らなければならない。」それぞれの獲物に適した多種類の道具や技術が必要になるから、農業よりも「はるかに高度な調整と協働が必要となる。」

 

 そればかりでなく、すでに見たように、狩猟採集民は、「長い年月をかけて景観を作り変え」てきた。はじめは意図的な改変でなかったとしても、長い年月のうちには、狩猟採集民は、いわば計画的に猟場を造成する活動として、森林の「火入れ」や焼き畑を行ない、実を稔らせる樹や有用な草が生えるようにし、若芽を目当てに猟獣が集まってくるようにした。(スコット,p.58)それは、農業民の新田開発よりもはるかに遠い将来を見越した「遅延リターン」の活動だったのです。

 

 たとえば、日本の「縄文時代」民の食料として重要なクリは、陽樹です。日なたでは良く育つが、高い木の蔭になると、それだけで花も実もつかない瘠せた木になってしまうのです。青森県の「三内丸山遺跡」では、今の日本ではどこにも生えていないような巨大なクリの幹を柱とした祭祀場らしき建物が検出されています(↑トップ画と↓次の写真。復元に使用したクリ材は、沿海州から輸入したものだそうです)。縄文の人びとが、いかに入念に、邪魔になる高い木を伐採するなど、クリ林の整備に心がけていたかが解るというものでしょう。

 


『多くの人々が厳密な意味で農業と考えるものが登場するはるか以前から、ホモ・サピエンスは周囲の生物世界を巧妙に再配置してきた。〔…〕

 

 まだ野生の段階にある植物について、その生産性や多様性、健康を向上させるために考えられたテクニックは何百とある。〔…〕望ましくない植物を焼き払う、好ましい植物や樹木』のために『競争者を除く、〔…〕間伐する、選択して収穫する、植え替える、〔…〕萌芽更新〔…〕などだ。動物についても狩猟民は、〔…〕森林を焼いて獲物のために若芽を出させる、繁殖期の雌は狩らない、間引く、選択的な漁をする、小川などの水源を管理して放卵床や貝礁の形成を促進する、〔…〕などのことを行なっていた。〔…〕

 

 完全に作物化されたコムギやオオムギ、家畜化されたヤギやヒツジに基く最初の社会がメソポタミアに登場するはるか前に、世界の大半が人間の活動によって(すなわち人為的に)形づくられていたことは明らかだ。

スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,pp.66-67.  

 

 

三内丸山遺跡。大型掘立柱建物(復元)。巨大なクリ材

で建てられており、出土した柱穴の位置を結んだ直線は

冬至・夏至・春分秋分の日没方向と一致する。祭祀の

施設と見られる。左下の人と、大きさを比較せよ。

 

 

 

【53】 ジェームズ・C・スコット――

「穀物」定住と伝染病。

 


 狩猟採集的なさまざまな生業の混合生活から、「穀物」栽培をほとんど唯一の生業とする農村生活へ。この移行には数千年の期間がかかったとはいえ、なぜ人類は――正確に言えば、人類のうちで我々 “文明人” の祖先となった一部が――「穀物農民」に移行して行ったのか? 狩猟採集を続けたほうが幸せだったのに、なぜそうしなかったのか? ――この質問には、現在でも満足のいく回答が与えられていないのが実状です。

 

 ひとつの説明は「ブロード・スペクトラム革命」があったとするものです。野牛、赤鹿、海亀などの大型猟獣が乱獲によって減り、また、氷期・亜氷期終結後の人口増加圧力により、デンプン質の多い植物性食料や、甲殻類、カタツムリなどの貝類に食糧源をシフトしていかざるをえなくなった。しだいに、栄養価の低い食物を得るために、より多くの労働を注ぎ込まざるをえなくなり、その果てに、耕作農業と家畜の飼育に到達したとするのです。(スコット,pp.90-91)

 

 しかし、「ヤンガー・ドリアス」終息後の温暖・湿潤化は、環境の植物資源を大幅に増やしたはずで、それだけ、小さな労力での採集が可能となったはずです。しかも、この段階では、それほど急激に人口が増えているわけではない。紀元前1万年の世界人口 200-400万に対し、前5000年の世界人口は約500万です。(スコット,p.6)

 

 ともかく、メソポタミア、エジプトや中国のような場所では、長い時間をかけて「穀物農業」専業への移行が起こった。にもかかわらず、――「穀物」とくにイネの強大な人口支持力を考えれば、「にもかかわらず」だ――人口がほぼ横ばいなのは、なぜなのか? 1年に 0.015%増えるだけで、5000年間では2倍以上になる。じっさい、西暦紀元頃には、世界総人口は 20倍の約1億人に達している。にもかかわらず、前5000年までのこの停滞ぶりはなぜなのか?

 

 「有力な説明は、疫学的に見てこの時期が、おそらく人類史上で最も致死率の高い時期だったということだ。」つまり、密に「定住」した人びとのあいだに広がりやすい感染症(伝染病)が、人口の増加を相殺していた、とくに乳幼児死亡率を高めていたということです。

 

 残念ながら、伝染病は骨に病変を残さないので、この仮説は実証することができない。「それでも、最初期の人口センターの多くが突如として崩壊した理由を壊滅的な伝染病だったと考えるだけの証拠は充分にある。それまで人口の多かった場所が突然、ほかに説明のつかない理由で放棄された証拠が繰り返し見つかっている。」気候の寒冷化や土壌の塩類化が原因なら、もっとゆっくりとした人口減少が見られるはずなのだ。また、人間の伝染病の多くは、家畜や作物にも感染する。家畜や作物の病気が人間を襲ったと言ってもよい。人間の致死率が高くない病原体でも、家畜や作物畑が全滅すれば、人間は肥沃な場所を放棄せざるをえない。(スコット,pp.92-93)

 


『記録のない時期に人口密集地が放棄されたうちの相当多くは、政治〔征服戦争,内乱など――ギトン註〕ではなく病気が理由だったと考えてまず間違えないと思う。』

スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,p.94.  

 

 

御所野遺跡。岩手県一戸町。環状に立ち並ぶ高床式建物(復元)

と環状列石。高床式建物は「もがり[死後安置]場」と推定される

 

 

 日本列島の場合には、大きな定住地が突然放棄されたという証拠は、縄文末期を除いて、見つかっていないようです。末期における集落放棄と人口減少は、まず大きな集落が放棄されて周辺に分散し、ついで、それらの小集落も無くなってしまうという漸進的な経過をたどります。したがって、これは気候の寒冷化のためだと推測することができます。寒冷・乾燥化にともなって、縄文人たちは、遊動的な生活に戻っていったのです。

 

 しかし、伝染病の間接的な証拠なら、無いことはないと思えます。乳幼児ないし子供の死亡率が高かったと思わせる証拠はあるのです。「三内丸山遺跡」では、大人の墓が集中する区域とは別に、子供の墓(と思われる埋設土器)が集中している区域があります。それは、海に近い・台地の先端部にあります。

 

 タヒんだ子供を特別に葬る意図は、何なのか? 子供の早すぎるタヒを残念がり、できることなら生き返ってほしいと願ったからでしょう。それだけ、縄文人にとって、人口の増加を妨げる子供の大量タヒはショックだったのです。

 

 先日訪れた岩手県「御所野遺跡」で、地元のガイドの方が、すばらしい説明をしておられました。墓地に建てられた高床式建物を前に、これらは「もがり」のための建物だと言うのです。たしかに、そういう学説はあります。しかし、説明の素晴らしい点はそのあとです。なぜ「もがり」をしたか?  タヒ者の「蘇生」を願ったからです。…


 縄文人にとって「葬送」とは、タヒ者を弔うことではなく、タヒ者を蘇生させるための儀礼だった。この世で生き返らないなら、別の場所に移って生き返ってもよい。他の人間や鳥になって生き返ってもよい。とにかく生き返ってほしいし、それは可能だと考えていた。……説得力のある見解ではないでしょうか。もちろん、学会誌や遺跡のパンフレットにそんなことを書くわけにはいかないのでしょう。遺跡は本を読むだけでなく、現地に行って説明を聞かなければ、ほんとうのことは、あるいは最新の見解は知ることができない。一つの例だと思います。

 


『紀元前3000年代後半のメソポタミアは、伝染病にとって歴史的に新しい環境だった。紀元前3200年までに、ウルクは世界最大の都市となっていて、住民は 2万5000人から 5万人、家畜や作物を合わせれば、以前のウバイド期〔多種の狩猟採集的生業による湿地定住期――ギトン註〕の密集ぶりがちっぽけに思えるほどだった。〔…〕

 

 作物栽培が大きく広がるよりずっと早く、定住からだけでも群衆状況は生まれていて、病原菌の理想的な「肥育場」となっていた。』

スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,p.95.  

 

 

 しかし、密集に加えて、伝染病にとってさらに好適な環境の変化が、「交易」の拡大によって、もたらされていました。交易の量と頻度は、「穀物農業」への専業化によって拍車がかかったと思われます。なぜなら、穀物以外の必要な物資を、外部に求めざるをえなくなるからです。小国家の成立以後は、兵士の移動や遠征が、さらに多くの伝染病を運ぶツールとなりました。

 


『定住と群集による疾患をさらに悪化させたのが、食餌内容の急速な農業化〔とくに穀物化――ギトン註〕による、多くの必須栄養素の不足だった。伝染病に罹って生き残れるかどうかは、〔…〕多くは栄養状態によって決まる〔…〕初期の農民の食餌が、相対的に幅の狭い貧しいものだったという証拠は、残っている〔出土した――ギトン註〕農民の骨格を、同時代に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較することで得られる。狩猟採集民のほうが平均で 5センチ以上も背が高いのだ。これは、食餌が多様で豊富だったからだと考えられる。

スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,pp.101-102.  

 

 

三内丸山遺跡。第11号環状配石墓。副葬品がほとんどないことから、

三内丸山は階層分化のない社会だったと考えられている。が、環状に

石で囲まれた墓が、道路跡に沿って並ぶ。顕彰される者はいたようだ

 

 

 「穀物」を中心とする農耕民の食餌・に不足する栄養素としては、まず、オメガ6・オメガ3脂肪酸があります。これらは「猟獣、魚、ある種の植物油などに」豊富に含まれています。これらは「赤血球の形成に必要な鉄分の吸収」を促進します。不足によって最も影響を受けるのは、月経による失血を補わなければならない女性です。穀物食(コムギ,オオムギ,ヒエ,アワ)への集中度が急上昇したことによる鉄欠乏性貧血の登場は、出土人骨に顕著に現れています。

 

 必須ビタミンとタンパク質(必須アミノ酸)の不足も、深刻な影響を及ぼしたと考えられます。ただ、それらの欠乏症は、くる病などを除いて骨には証拠が残らないので、推測以上のことを言うのは難しいのです。

 

 このように、伝染病の蔓延などによる潰滅の危機につねに晒され、人口増加を相殺してしまうほどの人口の急減にしばしば襲われたとはいっても、「穀物」農業化以後の集落の人口増加それ自体は爆発的で、メソポタミアでは続々と小さな都市を発生させました。「狩猟採集民と比べて全般的に不健康で、幼児と母親の死亡率が高かったにもかかわらず、定住農民は、前例がないほど繁殖率が高く、死亡率の高さを補って余りあるほどだったのだ。」その原因は、ひとつには、移動しなくてよいことで年子の出産が可能になることにある。移動狩猟民の場合、母親が2人以上の子供を抱えて運ぶのは難しいので、「子供をつくるのは4年ごと」になる。離乳を遅らせる、堕胎薬を使うなどの避妊方法があり、間引きも行なわれた。定住狩猟民も、気候条件などで遊動する可能性はあるので、同様の問題があった。しかし、「穀物」定住農民ならば、そのような出産の制約はない。

 

 第2に、「穀物」生産では、「農作業の労働力として、子供の価値が高くなる。」狩猟の場合、一人前の狩人・漁師となるには長期間の訓練が必要だが、穀作畑の場合には、草取りなど、子供でも投入できる作業がたくさんある。

 

 さらに、「定住によって初潮が早ま」り、「穀物食では離乳〔…〕が早ま」るので、母親は早く次の妊娠が可能になる。また、「排卵が促進される」結果、閉経が遅くなり、これらによって女性の繁殖期間は長くなる。(スコット,p.107)

 

 以上から、「穀物」定住農民は、人口を爆発的に増加させる要因を、少なくとも宿していたと言えます。にもかかわらず、この初期の段階では人類の総人口はほとんど増えなかった。

 

 それでは、人口中の「穀物」農民と狩猟採集民の割合には、変化はなかったでしょうか? これは推測してみるよりほかありませんが、狩猟採集民に対する農民の比率が、趨勢として増大していったのは間違えないでしょう。この初期の段階で、出現まもない「穀物」農民が飛躍的に増大して狩猟採集民の数を上回った――狩猟採集民は、そのぶん急激に減った、と考えることはできるでしょうか?

 

 スコットは、その可能性があると言っています(p.108)。そう言えるのは、「伝染病」というものの性質からです。「伝染病」はある地域に蔓延して住民の多数が免疫を獲得すると、その地域の「風土病」となり、致死率は極端に低下します。しかし、周辺の、この病原体に免疫をもたない狩猟採集民が、そこに来て接触する――あるいは、農民が狩猟民のところへ行く――と、狩猟採集民にとってはこれは致命的な悪疫で、ばたばたと人口を減らしてしまう。

 

 「穀物」農民の世界が拡大して、あちこちに彼らの定住農村ができ、周囲との交易も増えるにしたがって、狩猟民集団が絶滅する悲劇は頻発することになります。このようにして、「穀物」農民の人口が増え、それを相殺するかのように狩猟採集民が減っていったとすれば、初期農耕社会の「人口停滞」は説明がつくことになります。

 

 ところで、時期はずっと後になりますが、日本列島に「穀物」農耕民、つまり「弥生人」が移住して来た時、それまでおおぜいいた「縄文人」は急速に姿を消して、本州の北部と北海道に「エゾ」として残るだけになった――と言われています。この謎も、もしかすると同じ原因だったのではないか?「弥生人」の持ちこんだ・風土病化した「伝染病」――たとえばハシカのような――が西日本の「縄文人」を絶滅させた……。考えられないことではないと思います。
 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!