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最初に人が飼い馴したのは狼だった? シベリア,氷河時代の想像図。 

Ettore Mazza via ©2021 The New York Times,

 

 

 

 

 

 

【49】 柄谷行人――

原始の「自由」をどう見るか?

 

 

 原始の「自由と平等」。マルクスをはじめとする 19世紀前半――つまり「産業革命」開始期――の社会主義者たちにとって、それは人類史の出発点でした。先史時代の実体が未解明であった当時においては、それは未だ、ユートピア幻想の緒を曳いた想念であったのも事実です。その後、現存の未開民族に関する知見が供給され、先史遺跡の考古学的研究が進むにしたがって、私たちが手にしうる「人類社会の出発点」のイメージは、徐々に修正され、より具体的で精確なものとなってきました。

 

 ところが、そこで邪魔をしたのが、社会主義・共産主義「運動屋」たちの “宗教” まがいの教条的・保守的傾向です。彼らは、19世紀前半期の「教祖」たちの著作を金科玉条に祭り上げ、新たな考察の入りこむ余地を締め出してしまったのです。彼らの先史社会に関する認識は、200年近くにわたってストップしてしまったと言っても過言ではない。彼らの主張する「共産主義」とは、先史社会に支配していた(と彼らが信ずる)理念の、未来における「高度の再現」だと云うのですから、この「思考停止」は、彼らの政治構想全体を、博物館のケースに飾られた化石のようなものにしてしまうほかなかったのです。それを、現実の社会に無理に実現しようとした悲惨な結果は、20世紀 “社会主義” 諸国家の経験が雄弁に物語っています。

 

 社会主義・共産主義「運動屋」たちの政治的影響力が、「先進国」ではどこでも消滅に瀕しているのは当然の結果です。たまたま私たちの国では、彼らの救いようのない保守性が、彼らの敵であるはずの反動政府と知識利権が国民全体に蔓延させた保守的傾向に支えられて、「共産党」勢力として温存されているにすぎません。

 

 柄谷行人氏もまた、前回・前々回に見たように、マルクス(他のヨーロッパ人・米国人・中国人も同じ)の著作を検証なく “お手本” としてしまう日本の知識人の通弊から、完全に免れてはいません。しかし、マルクスが人類社会の物質的土台と見なした「生産様式」に換えて、「交換様式」による人類史の把握を試みるなど、柄谷氏は、マルクスを超える意欲的な構想を展開しており、現在までの考古学的および人類学的成果に基く先史研究の知見にも眼を向け、吸収しようとしています。

 

 その一方で、人類学のフィールドワーク、先史考古学の発掘調査、集団遺伝・進化論の数理的解析などによる知見は、柄谷氏のような・古典的社会思想の思惟に裏づけられて初めて、私たちが人類史とその未来を構想するための基礎となりうる。私はそう考えています。

 

 繰り返して言えば、原始の「自由と平等」……それこそが、近代における社会思想の原点だったのであり、現在も原点でありつづけているのです。

 

 

1819年に制定されたデンマーク王国の国章。2人の「善き野蛮人」

が国章の楯を護っているのは、現在の国章のデザインも同じ。

 

 

 ところで、前回に見た進化人類学者ボームの「社会的選択」理論の帰結では、原始の「自由と平等」のうち、徹底した「平等」の実現に力点がありました。原始的集団の「平等主義」は、自由よりもむしろ、集団内の成員間の厳しい「統制」によって維持されていたというのです。

 

 これに対して、柄谷氏は、「自由」のほうに力点をおいているように見えます:

 

 

『マルクスが、〔…〕〔ギトン註――氏族社会に、〕真に称賛に値するものとして見出したのは、成員個人の対等性独立性という側面であった。

 

イロクォイ族の氏族のすべての成員は、人格的に自由であり、相互に自由を守りあう義務を負っていた。特権と人的権利においては平等で、サケマ(族長)や首長たちはなんらの優越も主張しなかった。〔…〕(マルクス「モーガン『古代社会』摘要」, in:『マルクス・エンゲルス全集』,補巻4,1977,大月書店,pp.257-474.)

 

 つまり、マルクスが重視したのは、氏族社会における諸個人の平等や相互扶助のみならず、諸個人の自由(独立性)であった。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.348-349. 



『この原理〔未開氏族社会における諸個人の自由(独立性)――ギトン註〕は、かならずしも生産手段の共同所有ということから来るものではない。むしろ、その逆である。

 

 たとえば、「アジア的」な農耕共同体でも、生産手段は共有されているけれども、そこに氏族社会のような個人の独立性はない。〔…〕下位にある集団は上位の権力に従う。

 

 一方、生産力から見てより未開である氏族社会では、下位にある個々の集団が上位に対して半ば独立している。〔…〕それが「兄弟同盟」をもたらすとともに、集権的な国家の成立を妨げるのだ。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.349.  

 

 

マルクスは、モーガンの『古代社会』を読んで、個人的所有に基づく共有〔正確には、マルクスは「共同占有に基づく個人的所有」と述べている。――ギトン註〕、つまり、共同体に従属しない「唯一者」たちの連合註※↓〕によって、それまでの共同体とは異質な共同体が成り立ちうることを悟った。モーガンはいう。《政治における民主主義、社会における友愛、権利と特権における平等、そしてまた普通教育は、経験、知性、および知識が着々とその方向をとっている次代の・より高度の社会を示している。それは古代氏族の自由、平等および友愛の・より高度の形態における復活であろう。》(『古代社会』下巻,岩波文庫)


 マルクスがこのとき考えたのは、未来の共産主義が、“アルカイックな社会の高次元での回復” だということである。』

柄谷行人『力と交換様式』,pp.352-353.  

 註※「共同体に従属しない唯一者たちの連合」:「私の考えでは、〔『資本論』の〕「個人的所有」という概念は、1840年代にマックス・シュティルナーが唱えた「唯一者とその所有」と関連するものである。唯一者は、エゴイストと似ていると同時に異なる。それは、個々の人間に存する人格の独自性・自立性を意味する。たとえば、通常、エゴイストが他者と連合することはない。しかるに、〔…〕唯一者は、というより唯一者のみが連合しうるのだ。」(柄谷,pp.351-352)

 

 

 つまり、柄谷氏の言う原始社会の「自由」とは、たんに何ものにも拘束されないという意味の「自由」ではなく、個人の・集団や他の個人に対する「独立、自立、対等」を伴なうものです。それらは、各個人の「自律」に基いています。

 

 そう考えれば、柄谷氏の原始の「自由」とは、「相互に自由を守りあう義務」を伴なうものであり、集団内の「平等」をもたらす「相互統制」と矛盾するものではありません。

 

 すでに何度か指摘しているように、先史社会の「平等」と比べて、その「自由」は、遺跡の発掘と解釈によって実証することは特段に難しい、ほとんど不可能と言ってよい。他方で、現存の狩猟採集民族のフィールドワークからも、やはり、彼らの「自由度」を客観的に検証することは困難でしょう。それというのも、観察するフィールドワーカーの側が持っている「自由」の概念があいまいだからです。

 

 それに加えて、考古学・人類学の専門研究者たちの多くは、自分たちの住んでいる現代文明社会に関する問題意識は希薄で、社会・政治問題に関して無反省です。文明国での政治状況――東西冷戦、新自由主義など――に左右された “社会常識” を、安易に先史/未開社会の考察に持ちこみがちです。

 

 ボームが、先史(定住前)社会の「完全な平等主義」を認定するのと引きかえに、先史集団内の「統制」を強調するのは、「集団内の平等は、厳しい統制によって実現される」という・現代社会にのみある先入見の投影に感じられます。それは、「平等な社会主義国には自由がない」というアメリカ流の思い込みの反映です。(じっさいには、「社会主義」国には「平等」すら無かったのです)

 

 

捕えた獲物を解体するブッシュマン(サン人)

 

 

 ボームは、集団の統制が成員の「平等」を確保していたと考える傾向が強い。「平等」を実現させた要因として、「処罰による社会的選択」を重視しています。しかし、その場合には、ある程度の統制的権力を想定せざるを得ないのではないでしょうか。それは、成員のあいだの「完全な平等」という想定と矛盾します。のみならず、そもそも、単純なバンド集団〔30~50人程度の・血縁性の強い野営集団〕の離合集散以外の社会組織を想定しがたい・原始狩猟採集社会の実態に適合しません。

 

 たとえばボームは、40万年前と、20万年前の獲物の骨の切り傷の違いから、25万年前に始まった大型有蹄類の狩猟によって、獲物の肉の平等分配が開始されたと推測しています:

 

 

『40万年前の骨の切り傷は、無秩序で変化に富み、何人かがいろいろな角度からさまざまな道具で、それぞれ独自な切り方でさばけばそうなるだろうと思われるものだった。〔…〕チンパンジーやボノボが肉を食べる場面とかなり一致している〔…〕競争的な政治力学ばかりがはたらき、たいていは同時に何人かが肉を切り取っている〔…〕

 

 一方、20万年前の骨にあるのは、肉のすべてを解体する地位についていた、ひとりの人間による切り傷だ。〔…〕肉は用心深い集団の共有財産となり、深刻な争いを避けるように組織化され文化的に定型化されたやり方で広く分け合われる。〔…〕獲物の肉は狩りに加わらなかったある程度「中立的」な肉の分配者に手渡される。こうすることで、習慣上、狩りのうまい者が肉を自己中心的に支配することがないように取り計らうのである。〔…〕

 

 初期の人類が栄養効率の高い大型動物の肉を頻繁に食べるようになると、政治的な平等主義の確たるシステムを強制する必要が生じた――しかも殺傷力の高い武器〔刃先の鋭い石器――ギトン註〕をだれもがもっているときには、過度の争いを避けるためにも、そうする必要があった、』

クリストファー・ボーム,斎藤隆央・訳『モラルの起源』,2014,白揚社,pp.197-198.

 

 

 なるほど、狩り捕った獲物が、いわば「集団の共有財産」となり、「組織化され文化的に定型化されたやり方で」分配されるようになった、という推測は、いいと思います。しかし、集団が獲得したすべての獲物の分配を行なう地位にいる「中立的な肉の分配者」、のような者の存在を、出土した骨の切り傷から推測するのは無理でしょう。

 

 ↑上のブッシュマンの解体の写真を見れば明らかなように、この獲物を仕留めた数人のグループのなかで、1人が現場での解体を担当したとしても、同じ一様な切り傷は生じるからです。要は、切り傷から判るのは、20万年前には一つの、または同種の刃物で解体が行なわれるようになったという事実であって、これは、解体に特化した便利な専用石器――たとえば、ブッシュマンが使っているような・長い柄のついた鋭利なナイフ――が出現したということ以上ではありません。

 

 集団内の・すべての獲物の分配を、ひとりの管理者が独占し仕切っていたという推測は、そこからは出てきません。もしも、そのような専業管理人が存在したとすれば、それは容易に、集団内の支配層の抬頭と不平等の発生につながっていくように、私には思われます。

 

 ボームは、集団内の・こうした「垂直分業」による「統制」を、初期の段階から想定するのですが、たいへんに疑問です。むしろ、強力な「統制」は無くとも、「平等主義」が優位に立つ条件は、数千~数万年単位の時間をかけて、集団遺伝(進化)の「選択圧」によって徐々に形成されていったと考えなければならないでしょう。その間に、「処罰」による統制(法的・神話的暴力)よりも、法発生以前の、成員の反乱的な集団反応がアルファ雄(暴力的支配者)を排除する、といった事件(神的暴力)が、繰り返し何度も起きたと考えてよい。

 

 

火をおこすボツワナ・ブッシュマン

 

 

 また、ボームの云う「社会的選択」についても、そのうち「処罰」は重要ではなく、むしろ集団内での「評判」その他の要素のほうが重要な役割を演じたと考えなければなりません。というのは、集団遺伝による「選択圧」は、あれこれの個体の寿命ではなく、「配偶者選択」による子孫シェアの拡大を通じて作用するからです。繁殖期を過ぎた個体を処刑/追放しても、遺伝子シェアにはたいして影響しません。むしろ、集団のなかでの遺伝子分布の決定的要因は、配偶者の選択であって、そこに影響するのは「処罰」よりも「評判」なのです。

 

 以上のように考えると、先史人類社会の「平等主義」は、かならずしも「統制」の結果ではなかった。むしろ、大型狩猟時代以後の「自然選択」の結果として、「平等主義」が集団遺伝的(進化論的)に獲得され、その結果として、「統制」的な管理者/支配者の発生は阻止され、成員の「自由」(独立・対等)の維持によって「平等」をも保持してゆく「原遊動」社会が成立したと考えてよいのではないでしょうか?


 

 

【50】 ジェームズ・C・スコット――

「火の使用」:食われる者が食う者になった。
 

 

プレパストニアン氷期(130万年前~80万年前)

 130万年前 ジャワ原人。

 

 78-68万年前 北京原人。

 

ドナウ氷期(60万年前~54万年前)

 60-40万年前 ハイデルベルク人。

 

ギュンツ氷期(47万年前~33万年前)

 40万年前     火の使用の最古の証拠。

 31.5万年前までに ネアンデルタール人がハイデルベルク人から分岐。

 

ミンデル氷期(30万年前~23万年前)

 

 20万年前 東アフリカでホモ・サピエンスの発生。

 

リス氷期(18万年前~13万年前)


ヴュルム氷期(7万年前~1.5万年前頃)

 6万年前 ホモ・サピエンスがアフリカから拡散。以後、各地でネアンデルタール人、原人などと混血し、現生人類が誕生。

 2.4万年前までに ネアンデルタール人が絶滅。

 

 1万2000BC 定住の断片的証拠。〔以下、場所表記のない記事はメソポタミア~レヴァント地方〕

 1万2000BC~ 中国・長江流域で、散発的な稲作の証拠。

 

ヤンガー・ドリアス亜氷期〔東アジアを除く〕(1万0800BC~9600BC)

 

 9000BC 通年居住集落の散発的証拠。作物化植物と家畜の断片的証拠。

 8000BC~6000BC 主要作物(穀草類・豆類)栽培の証拠。
 6500BC メソポタミア南部沖積地(湿地帯)に、恒久的定住地(原始都市)が成立。

 6000BC~5000BC 中国浙江省・河姆渡遺跡(稲作・定住)。 

 5000BC 農業集落(植え付けた作物と家畜に依存)の最初の証拠。

 

 3200BC までに メソポタミアに最初の城壁国家ウルクが成立。

 3100BC~2686BC エジプト初期王朝。

 2500BC~1750BC 中国四川省・宝墩遺跡:最古の城壁都市

 2300BC~2100BC アッカド帝国。

 2100BC~1940BC ウル第3王朝。

 1800BC~1500BC 中国河南省・二里頭遺跡(夏王朝か?)。

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Wiki「古気候学」,et al.;スコット『反穀物の人類史』から作成。

 

 

宮沢賢治『注文の多い料理店』は、ヤマネコが、狩猟に来た

人間をだまして食べる話。これは、単なるファンタジー

ではなく、先史人類史のなまなましい実話にほかならない。

 

 

 人類は、その誕生以来、人間の集団が自然環境のなかで生存することで、意識的・無意識的に環境を改変していき、同時に環境の変化が人間集団に反作用して、人間は生活のしかたを変えざるをえない、という相互作用をつづけてきました。その間、人間が環境を変化させる影響力は、次第しだいに大きくなり、それに応じて増大し速くなった環境からの反作用に、いまや人間が対応しうるかどうかが問われるに至っている――ということは、いまさら指摘するまでもないことです。

 

 人類にとって、この長い “自然との闘い” の最初の画期は、「の使用」を始めた時に訪れました。南アフリカで発見された洞窟遺跡は、最も下層にヤマネコの巣だった形跡があり、そこにはバラバラになった食べ残しの人間の骨があり、その上層には、炭素堆積物(焚き火の証拠)と人間の住んでいた形跡があり、食べ残しのヤマネコの骨があった。「の使用」の前後で、過ごしやすい住処 すみか の主人が入れ替わり、捕食連鎖上の地位が逆転したのです。

 

 

は、人類が自然界を作り変えるための、最古にして最大の道具となってきた。〔…〕

 

 人類による最初の火の証拠は少なくとも 40万年前のもので、わたしたちの種〔ホモ・サピエンス――ギトン註〕が登場するはるか前になる。〔…〕人間による自然界への影響を公平に見れば、』火の使用がもたらした改変は、『植物の作物化や動物の家畜化を圧倒するかもしれない。〔…〕

 

 自然に発生する野火がいかに景観を変えるかを、わたしたちの祖先が見逃したはずはない。古い植生は焼き払われ、根付きやすい草や低木の繁殖が促進されて、人間にとって望ましい種子やベリー、さまざまなフルーツやナッツ類が実った。〔…〕燃えたあとに草木の新芽やキノコが生えだして、獲物になる草食動物が集まってきた。〔…〕動物を引き寄せそうな生息場所を注意深く作り上げることで、自分たちの食料になる動物を意図的に集めたのだ。また、〔…〕初期の人類は、〔ギトン註――弓矢や石器が登場するよりずっと前から〕火を使って大型の動物を狩ることもしていた。〔…〕

 

 〔ギトン註――火による人間の環境改変の〕成果は、長い時間をかけて、より多くの生業資源をより小さな地域へと集中させていったことだろう。〔…〕望ましい動植物を野営地周辺の小さな圏内に配置することで、狩猟と採食が容易になった。〔…〕作物化した植物の栽培や牧畜が行なわれる数十万年も前〔…〕の段階で人類は、意図的な生態系の攪乱を行なっていた。〔…〕長い時間をかけてモザイクのような種の多様性をつくりあげ、自分の好みに沿った望ましい資源を配置していったのである。進化生物学者はこうした〔…〕活動を「ニッチ構築」と呼んでいる。〔…〕

 

 わたしたちは生活習慣、食事習慣、身体を火の特徴に適応させてきた。そしてそうすることで、火の世話をすることと火を絶やさないことに、いわば縛りつけられている。


 植物が作物化しているかどうか、動物が家畜化しているかどうかの判断基準は、人間の助けなしに繁殖できないことだ。そうだとすれば、〔…〕わたしたちは全面的に火に依存している〔…〕本当の意味で、火はわたしたちを家畜化している。』

ジェームズ・C・スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,2019,みすず書房,pp.36-38,40.  

 

 

宮沢賢治『注文の多い料理店』

 

 

 

【51】 ジェームズ・C・スコット――

狩猟採集民の「初期定住」

 

 

 さて、先史人類史の重要な画期とされるのが、遊動生活から「定住」生活への移行です。

 

 かつては、「定住化」と農業生産の開始、磨製石器の製作開始などがセットで起きたと考えられ、「新石器革命」などと呼ばれていました。またそれは、生産能力を飛躍的に増大させることによって、比較的短期に「国家」の成立につながったと言われていました。しかし、これらの “同時仮説” には、現在では非常に多くの反例が提出されています。とくに、「定住化」の開始と農耕生活開始とのあいだには、5000年~7000年ほどの大きなズレのあったことが指摘されているのです。(そのあと、農耕生活開始から現在までが約 7000年です。「定住」してから農耕生活に入るまでと、そのあと現在までが、ほぼ同じ時間かかっているのですから、「定住」と農耕が同時だったなどとは、どうサバを読んでも言えないことになります。)

 

 そもそも、定住・農耕による生産力の増大によって “自然に” 「国家」が成立したという考え方は、今日ではたいへん疑問視されています。柄谷氏が、「国家」の発生を妨げる氏族社会の「独立・対等」「自由・平等」を求める傾向の強さを力説していることは、すでに何度も見てきました。しかしそれだけではなく、たとえば、メソポタミアや古代中国の・城壁で囲まれた国家のように、人が密集して生活する狭い場所では、伝染病の蔓延、寄生虫やネズミなどの増加、階級の発生による階級間/国家間闘争や戦争といった、初期人類にとっては致命的な危機が、かならず起きることになります。ですから、初期の小規模国家はみな短命なのです。

 

 国家に包摂されていない人びとには、国家のもとでの生活は、避けるべき厭わしいものに映ったことでしょう。まして、自ら進んで「国家」に服属したり、自ら「建国」したりといったことは、とうてい考えられなかったはずです。初期国家の人口増加は、主に征服と奴隷の連行によって行なわれたと考えられています。
 

 人類の「定住」「農耕」の開始、「国家」の成立、この3つは、先史における重要な画期とされています。が、スコットによれば、これら3つの画期のあいだには、大きなタイムラグがあります。時間的順序は、「定住」→「農耕」→「国家」の順。「定住」から、農耕生活の成立までが 4000~5000年、それから「国家」の成立(3200~3100年BC)までが、約 5000年です。

 

 

『固定住居(定住)は畑作農業の結果だと考えられてきた。〔…〕

 

 標準的な物語は、穀物の作物化を永続的な定住生活の――ひいては町、都市、文明の――基本的な前提条件としている。〔…〕しかし定住は、穀物や動物の作物化・家畜化よりはるかに古く、穀物栽培がほとんど行われない環境で継続することも多かった。

 

 同じく絶対的に明らかなこととして、作物化・家畜化された植物や動物が、農業国家らしきものが登場するずっと前から〔…〕存在していたこともわかっている。』

ジェームズ・C・スコット,立木勝・訳『反穀物の人類史』,2019,みすず書房,pp.9,42.  

 

 

 農耕の開始によって人類は定住を始めた、とヨーロッパの考古学者は考えてきました。つまり、農耕は、定住と同時か、それより先(以前から)だと。しかし、この順序は逆であったことが、現在では明らかにされています。このことは、私たち日本人にはわかりやすい。「縄文時代」は、狩猟採集の時代で農業はなかった、しかし定住生活だった――というのが私たちの常識だからです。弥生人が水田稲作を持ってくるまで、(焼畑以外の)本格的な農業は行われていなかった。しかし、定住村落の遺跡はたくさん発掘されていて、しかも、何代にもわたって定住していた証拠さえ出てきている。

 

 

奈良時代~平安初期には、國・郡ごとに政庁には「正倉」が置かれ、

取り立てた租穀を貯蔵していた。稲は、もっぱら税のための作物だった。

ここ伊勢國朝明郡衙では、6棟の「正倉」遺構が発掘されている。

8世紀後半~9世紀末、四日市市・久留倍官衙遺跡。

 

 

 ちなみに、先史の画期とされる「農耕の開始」とは、穀物栽培を主要な生業とする生活形態の始まりにほかならないのです。バナナやイモ類、クリ,オリーブなどの果樹は、ずっと早くから栽培ないし半栽培されていたと想像されますが、それらは狩猟・採集・漁撈など他の生業と両立する(兼営できる)ので、もともとの狩猟採集民の生活を大きく変えるものではありませんでした。

 

 これに反して「穀物」栽培は、‥とくに、固定した耕地での稲や小麦の栽培は、多大の労働投入を要求するので、これに従事する人びとは「農民」として専業化せざるをえません。他の狩猟・採集・牧畜などの活動は、少なくとも副業の位置におかれます。

 

 またその半面で、「穀物」には、「国家」の官僚的支配に都合が良いという性質があります。「穀物」ほど計量しやすく、保存がきき、植栽中は他人の目から隠しておけず、収穫期がそろっているために・その時期に訪れれば容易に収奪できる作物はないのです。「穀物」はまさに、徴税のための作物と言ってよいほどです。

 

 ちなみに、「メソポタミア南部やエジプトや黄河の沖積層」に最初の農業国家が出現した時、それは「古代世界の地図上では単なるシミにすぎなかったし、人口の面」でも、紀元前2000年の地球上の総人口約2500万の、せいぜい 1%にすぎなかったのです。「周囲には、国家をもたない野蛮人とよばれる人々が暮らす広大な景観があった。」それどころか、人類の大部分は、少なくとも 16世紀までは、「国家」に包摂されない、税も年貢も知らない世界で、狩猟民や農・猟兼業民、遊牧民として暮らしていたのです。「世界の大部分には、つい最近になるまで、国家などまったく無かった」「国家が支配してきたのは、私たちの種〔ホモ・サピエンス〕の政治生活の最後の1パーセントのそのまた最後の 10分の2にすぎない」。

 

 このように振り返ってみれば、人類にとって「国家」とは、まったく取るに足りない偶然的な飾りのようなものだということが、わからないでしょうか? 私たちは「国家」の中にいるから錯覚に陥っている。しかし、ユートピアンや共産主義者と呼ばれる人びとが抱いた「国家のない社会」の構想や幻想は、けっして根拠の無い夢物語でも非現実的なハッタリでもない。むしろ彼らのほうが、「国家」のもたらす狂信的な思い込みから逃れているのです。(スコット,pp.12-13.)

 

 さて、‥‥「定住と農耕のタイムラグ」という本題に戻りますと、「縄文人」が、定住する狩猟採集民であったことは、日本列島の特殊性ではありません。メソポタミアでも、最初の穀物農業国家(ウルク)が成立する 3000年以上前に、「南部沖積地」の湿地帯に恒久的定住村落が成立していました。

 

 それは、紀元前 6500年頃。すでに初期的な農耕も牧畜も、散発的に行なわれていましたが、定住した人びとは、それらに依存したわけではありません。農業は、それだけで生活を維持しようとすれば莫大な労力を注ぎ込まなければなりません。先史の人びとは、1年じゅう1日の大部分を “仕事” に費やすような生活を嫌いました。メソポタミア南部沖積地のような・多数の生態系が交錯している豊かな場所では、鳥や魚群や有蹄類が通過する「渡り」の時期に集中して猟を行ない、その他の1年の大部分は、仲間どうしで遊ぶ余暇とする……そのような生活が可能だったし、人びとはそうした生き方を好んだのです。

 

 

 

 

『実際には、農耕以前の環境でも、生態学的に豊かで多様な場所――とりわけ魚や鳥、大型猟獣の季節ごとの移動ルートに接する湿地――では、ふつうに定住が見られた。古代メソポタミアの南部では、ほぼ農業なしに定住する人びとがあちこちに見られ、住民数が 5000人に達する「町」まであった。〔…〕

 

 最初の大規模な定住地は、〔…〕湿地帯で発生した。そうした定住地が生業のために依存したのは、圧倒的に湿地の資源であって穀物ではなかった。また、ふつうの意味での「灌漑」は必要なかった。

 

 当時のメソポタミア南部は、〔…〕狩猟民の天国ともいうべき湿地帯だった。〔…〕海面が今よりずっと高かった〔…〕大幅な「海進」が起こっていた。ウバイド期〔6500BC~3800BC〕には、湿地で豊富に獲れる魚、鳥、カメなどから大半の食物が得られていた。〔ギトン註――穀物農業や灌漑工事を組織するような強大な国家が出現しなかった理由の〕第二は、あまりに広い生業の網――多様性に富んだ生態学的環境のでの狩猟、漁撈、採食、採集――は、単一の政治的権威を強要するうえで、克服しがたい障害になるということだ。〔…〕

 

 紀元前6000年代から5000年代の温暖で湿潤な条件の下で、野生の生業資源は多様で、最も豊富で、安定していて、しかも回復力があった。狩猟採集民や遊牧民にとってはほぼ理想的だった。

 

 〔…〕アザラシ、バイソン、カリブーといった大型の獲物を追う狩猟採集民と比べると、〔ギトン註――沖積湿地の〕植物、貝類、フルーツ、ナッツ、小型魚類など〔…〕の食物を摂取する人びとは、移動がうんと少なくて済む。〔…〕メソポタミアの湿地帯には』こうした『生業資源が豊富にあり、それがまたとない好条件となって、早い時期に多くの定住コミュニティができたのだろう。〔…〕

 

 こうした〔ギトン註――湿地の〕社会が、中央集権化や上からの支配に環境面で抵抗しつづけた〔…〕こうした社会は今でいう「共有的資源」〔斎藤幸平氏らのいう「コモン」――ギトン註〕を基礎にしていた。つまり、植物も動物も水生生物も育つにまかせ、それをコミュニティ全体で利用していたのである。

 

 単一の資源が支配的ではないので、中央からの独占や管理ができないし、ましてや簡単に課税などするわけにいかない。〔…〕生業は多様で、変化しやすく、きわめて多くのテンポに依存しているから、中央での会計処理が容易ではない。』これらのコミュニティは、『初期国家とは違って、中央の権力が耕作可能地や穀物、灌漑用水の利用権を独占することが――したがって分配することも――できなかった。そういうわけだから、こうしたコミュニティに何らかの階級構造があったという証拠はほとんど残っていない。〔たとえば、墓には副葬品が見られない。――ギトン註〕〔…〕比較的平等主義の定住地が網の目のように複雑に絡み合った地域では、大酋長や王国は生まれないだろう。ましてや王朝などありえない。国家には――たとえ小規模な原始国家であっても――ここまで見てきたような湿地の生態系よりもずっと単純な生業環境が必要なのである。』

   スコット『反穀物の人類史』,pp.9,44-45,47,53-54. .     

 

 

 

 

 

 

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