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テューリンゲン,アイヒスフェルトの学校の壁に描かれた「農民戦争」記念画

Karl Holfeld, 1970年作。 中段に武装農民とミュンツァー、上下段に様々な

職業の人びと。壺絵の手法で描かれている。© Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 

 

【44】 農民戦争の結果――エンゲルス


 

 『ドイツ農民戦争』という標題をもつ・日本語訳のある3つの書物はみな、最後の章を「農民戦争の結果」と題しています。が、内容はそれぞれ大きく異なります。各著者の考え方の違いが、ここにはっきりと表れているのです。

 

 3種類の「農民戦争の結果」を、順に見ていくとしましょう。

 

 まず、エンゲルス

 

 

『農民戦争の最後の幕は下りた。農民はいたる処でふたたびその坊主や貴族や都市貴族の領主に隷属させられた。そこここで彼らと結ばれた契約は破られ、これまでの負担は、勝利者の課す異常な誅求によって増大した。ドイツ民衆の最も大規模な革命の試みは、屈辱的な敗北と、圧制がしばらくの間二倍もひどくなったことに終った。

 

 しかし、長い眼で見るならば、農民階級の状態は一揆の鎮圧によって悪くなったわけではなかった。〔…〕当時のドイツの農民は、彼らの労働の生産物における自己の取り分が、彼らの生存と農民種族の存続に必要な最小限の物質資材に限られていた点で、近代のプロレタリアと共通していた。そのため、平均的なことを言えば、これ以上取れるものは何も無かったのである。〔…〕当時〔…〕一般に農民階級は、租税を増やして彼らの状態を一層悪化させるには、あまりにも困窮しすぎていた〔ので、搾り取れる限界だった――ギトン註〕のである。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.94.



 「農民戦争」が農民側の敗北に終ったことは否定できない事実です。エンゲルスはじめ諸家は、この事実をどう受け取るか、どう評価するのかについて、まず熟考を求められるのです。

 

 「敗北」が農民に与えた効果は、経済的地位の悪化と、法的地位の切り下げの2面に分けて考えることができますが、どちらにおいても、「農民戦争」後しばらくのあいだは、「多数の裕福な中農が零落し、多くの小作農(Hörigen)がむりやり農奴の地位に落され、共有地が広汎に没収され」「圧制が二倍もひどくなった」。つまり「農民戦争」の結果、農民の状態は蜂起する前よりも悪くなったと言えます。

 

 

パンフレット『農民大衆の集会に宛てて』の扉,1525年。

上部中央に、「……誰が最上部にとどまるかは、神のみぞ知る、

運命の輪の・その時々の廻り合わせである。」

左に「農夫たち/善きキリスト教徒」 右に「ローマ派と詭弁家たち」

 

 

 しかし、この状態がずっと続いたわけではなかった、けっきょくは「戦争」前の状態に戻った、とエンゲルスは言うのです。この点のエンゲルスの理解は、「富農蜂起説」をとるギュンター・フランツと結論において一致します。が、エンゲルスがこの結論を導く根拠は、唯物史観による理論的なものです。領主と諸侯がいくら農民たちに復讐しようとがんばっても、無いものは取れない。取り過ぎれば、「農民の種族」が死に絶えてしまって元も子もなくなる、ということです。

 

 ところが、これに続けてエンゲルスは、「三十年戦争(1618-48)」による「大量の破壊と人口減少」、「三十年戦争」が農業インフラと都市の破壊によって「農民戦争〔後の圧制〕よりもはるかにひどい打撃を農民たちに与えた」ことを述べています。

 

 つまり、“どんな圧政者も、生産物のなかから、生産勤労者(農民)自身の生存と種族の再生産に必要な部分までも奪い取ることはできない” ――という「搾取の法則」は、なるほど一般論としてはそう言えても、どんな場合にでも言えるとは限らないのです。じっさい、「三十年戦争」の時には、支配層の行為によって生産者人口を減少させているのですから。

 

 このあとエンゲルスは、「農民戦争」が結果として各階層に与えた影響(損害と利益)について述べていきます。まず、「農民」は、さしあたって損失を甘受したが、まもなく戦前のレベルに戻ったと。

 

 「聖職者」は、最も甚大な損害を被った、とします。教会財産は没収され、修道院は破壊され、宝物は掠奪され、多くは戦後も元に戻りませんでした。奪われた所領は、世俗諸侯と一部の都市の手中に帰しました。「教会諸侯の支配権も侵害された。」たとえば、ヘッセン伯の封主だったフルダ修道院長は、一揆に見舞われた “責任” を取らされて地位が逆転し、ヘッセン伯の臣下に格下げされています。

 

 「貴族もまたひどい打撃を受けた。」居城を破壊され、没落して、多くの貴族が「諸侯に仕えてようやく生計をたてる」状態に陥っています。それというのも、彼らは農民に対して無力であることが、「農民戦争」によって確証されてしまったからです。

 

 「都市もまた全体として見れば、農民戦争から何の利益も得なかった。」「農民戦争」で打倒された都市貴族「名門の支配は、〔戦後に〕ほとんどどこでも再確立された。」都市貴族による商工業の束縛が回復し、それは、300年後にフランス革命がドイツに及んでくるまで、延々と続くことになります。また、農民に占領された都市は、諸侯から重い賠償金を課せられ、「自由都市」「帝国直属都市」の特権を奪われました。

 

 

「ドイツ農民戦争」 ラジオ・バイエルンⅡ © Bayrischer Rundfunk

 

 

『農民戦争の結果からひとり利益を得たのは諸侯であった。ドイツの工業、商業、農業の発展が不十分であったため〔全国的な中央集権は不可能で――ギトン註〕〔…〕地方的・州邦的な集中しか許されなかったこと、したがって、この分裂の内部における集中を代表する諸侯こそ、現存の社会的・政治的関係が変化すれば必ずそこから利益を得る唯一の階級であった〔…〕

 

 教会領は彼らのために没収された。一部の貴族は〔…〕没落して、しだいに彼らの支配に身を委ね〔…〕都市と農民階級に課せられた賠償金が彼らの金庫に流れ込んだ。〔…〕都市特権が取り除かれた〔…〕

 

 ドイツの分裂が尖鋭化され固定されたこと、これが農民戦争のおもな結果であった。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.95-96.  

 

 

 しかし、エンゲルスの主要な関心は、じつは 300年前の「農民戦争」ではなく目下の1848年革命と 19世紀ドイツ市民革命の行く末にあります。エンゲルスは、上の叙述に続けて、「ドイツの分裂」は、「農民革命」失敗の結果であるだけでなく、失敗の原因でもあったこと、1848年の革命諸勢力は、1525年の農民たちよりも分裂を克服しているとは言えない、同様の分裂を繰り返して敗北しようとしている、と鋭く指摘します。

 

 その上でエンゲルスは、1848年が1525年とは異なっている点を明らかにします。「1848年の革命は、〔…〕ヨーロッパが進歩したことを証明している。」

 

 1848年の革命から利益を得たのは、いわば「大諸侯」であるオーストリア皇帝とプロイセン王(ドイツ皇帝)であるが、彼らの背後にいるのは、1525年の諸侯の背後にいた町人とは比べ物にならない大きな力を持つブルジョワジーで、彼らは国債によって両皇帝をがっしりと覊束している。そして、彼ら大ブルジョワの背後には、プロレタリアがいる。

 

 加えて、「1848年の革命は、〔…〕ドイツという一地方に起きた地方的事件ではなく、大きなヨーロッパ的事件の一片であり、それを動かしている原因は、〔…〕一大陸の空間にさえ局限されない」。それは今や「全世界が関係している運動」の一部なのであって、この運動(資本主義)は「外的な力としてしか我々の眼には映じない」が、じつは「我々自身の運動にほかならない。したがって、1848年から 1850年に至る革命は、1525年の革命のような終り方をすることはできない。」

 

 こう言ってエンゲルスは、19世紀の世界運動のなかの “ドイツ革命” 路線に希望をつなぐのです。(pp.97-98.

 ※註「国債によって覊束している」: こちらの最初のグラフから判るように、産業革命期のヨーロッパ諸国は、現在の日本などよりずっと大きな債務超過(国債残高)をかかえていた。

 

 

ドレスデン文化宮殿の集団制作壁画「赤旗の道:1849-1969 市の革命的諸勢力

による進歩と社会主義のための 120年の闘い」1968-69年。© Wikimedia

 

 


【45】 勇気あるペシミズム――ベンジング/ホイヤー

 

 

 エンゲルスは、敗北した「農民戦争」が、ドイツの分裂と・人口減少にまで至る荒廃――という悲惨な結果をもたらしたことを明らかにしながら、しかし 19世紀の革命は、同じ轍にはとどまらない、として、最後に希望を持たせています。

 

 ところが、戦後東ドイツのマルクス主義史家ベンジング/ホイヤーの終章は、徹底して悲惨な結果論のままで終わらせています。私は、これは勇気ある歴史家の態度だと思います。ひとつには、そこには第2次大戦後の「東西分裂」という現実を、正面から見つめようとする視線があります。その一方、“ソ連軍の勝利によって社会主義革命は完遂された” とする公認の歴史に対して、無言の異議申し立てを対置する視座があると思うのです。


 

『この革命的運動は、古い封建的秩序の根底をゆるがすものであった。その敗北は、地方分権的権力を強化し、中央権力と領邦権力、つまり皇帝と諸侯とのあいだの対立を尖鋭化するものであった。

 

 勝利を得たのは皇帝、帝国ではなくて、諸侯であった。〔…〕

 

教会、あるいは世俗の封建諸侯に、人民大衆――農民,都市貧民,鉱夫,手工業者――は対立した。都市の財産家の大多数は、消極的態度に出るか、あるいは公然と貴族党を支持した。たとえ社会的にはなお未成熟であり、〔…〕新しい社会秩序を打ち立てる状態になかったにしても、この人民大衆は、社会的進歩のための偉大な先駆者であった。

 

 これに対して、大・中都市の市民階級は、一般民衆のごく初歩的な力に恐れを抱き、それを恐れるあまり、諸侯派を支持する動きを示したのであった。加えて、このグループは、〔ギトン註――ルター派の教会内的神学的〕宗教改革ですっかり満足し』てしまったし、彼らの『資本主義生産様式は』まだ芽生えの段階『であったため、封建貴族の支配の没落をさほど必要としてはいなかった。〔…〕

 

 農民たちの最初の突撃は、中・下級貴族の支配を一掃した。〔…〕

 

 強力なドイツの〔ギトン註――大〕諸侯も、この突撃をさしあたって食い止めることができなかった。』その後、『シュヴァーベン同盟〔中・南ドイツの鎮圧側都市・諸侯の連合体――ギトン註〕の行動開始とともに、反動側の攻撃も始まった。

 

 1525年4月以来、ドイツの広汎な地域にわたって諸力を結集することが、双方の戦列にとって主要な課題となった。諸侯の勝利、民衆の敗北の原因は、〔…〕基本的にはここに〔…〕見いだされねばならないだろう。

 

 諸侯側にあっては、〔…〕共通の階級的連帯性が貫徹し、決定的な状況のもとで地域をこえた軍事組織が成立したのに対し、

 

 農民たちは分裂したままであった。数的には何倍にも達する農民的平民的陣営が、短時日のうちに撃破され、全滅させられたのは、こうした理由からである。〔…〕


 

ドイツ農民戦争,ドメックの戦い。 右:農民軍,左:諸侯軍  © Welt.

 

 

 農民団は多くの場合、軍事的にも良く装備されていた。彼らは領主の傭兵軍隊〔…〕と同じ武器を使っていた。〔…〕農民戦争のいくつかの決定的な軍事的局面では、まったく互角の勢力が相対していた。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,pp.260-262.

 


 ……したがって、農民側の局所的勝利は可能であったし、それを戦略的・政治的に徹底して利用することができれば、農民部隊の組織的統制の弱さ、すぐれた指揮官の欠如、騎馬隊の欠如といった農民側の短所を補って余りあったはずである。局所的勝利を重ねることによって、農民たちは指揮者・兵士ともに、戦闘経験を蓄積して強力化することもできたであろう。

 

 しかし、そうはならなかった。農民軍が自己の利点を利用し尽くせなかった原因は、より具体的に見れば2つある。農民軍に有利な「軍事的諸要因が、有効に働くかどうかは、〔…〕封建的支配者の絶滅をめざして妥協のない戦いを遂行する心構えと、農民的平民的陣営のばらばらに散らばった諸力を、もっとも決定的な決戦場に集中できるかどうか」という2つの条件を、クリアできるかどうかにかかっていた。

 

 ところが、まずについて言えば、農民団の多くは「穏和派の指導者に」指導されていたので、「戦闘になる前に」交渉を行なって、かなり切り下げた妥協で和議を結んでしまうことが多かった。和議が成立せず戦闘に突入した場合にも、農民軍は「戦闘の初めに恐慌状態に陥り、」隊列は瓦解を始めるありさまだった。「農民戦争の中心地域」であった「シュヴァーベン,フランケン」、つまりドイツ中央部では、急進派は「指導権を握ることができなかった。」

 

 「テューリンゲンでは、」最初からミュンツァーの急進派が指導権を持っていたが、「ここでは」の問題で「大きな障害にぶつかった。多くの農民団が」小さな範囲で「行動していたにもかかわらず、それらは互いに連絡をもっていなかったのである。」〔しかも、ミュンツァーらは数的には少数であったから、各地に起こる一揆のすべてを支援することはできず、彼らが行ってプロパガンダと支援をしなければ、諸地域の群小農民勢は、他勢との連帯の必要を自覚することさえなかった。ミュンツァーは精力的に手紙を書いたが、十分な効果は無かった。――ギトン註〕

 

 もっとも、その反面において、とくに中・南部では、狭い地域ごとのバラエティーに富んだ諸要求・諸構想が噴出して、農民戦争全体を、政治的軍事的のみならず文化的・思想的にも意義あるものとしたと言えます。しかし、これも軍事的・政治闘争的観点から見れば、「多くのバラエティーに富んだ諸要求は、人民各層のさまざまな・全体としてはあまり発展していない意識状態を反映するものであった。」ということになります。そこには「中心的な綱領が欠けていた。」

 

 「中心的な綱領」の萌芽と言えるものは、『メンミンゲン12箇条』の「序文に見られるが、ここでも、実現可能な社会的諸要求は、ただ[神の正義]という考え方で根拠づけられているのである。それよりも、西南ドイツ「キリスト教同盟」の『同盟条令』のほうが、「中心的綱領としてはるかに適していた」が、「農民大衆の革命意識をあまりにも過大評価していた」ばかりでなく、これまた、「革命意識と並行して、宗教的情緒が底流としてあった」。「この宗教的情緒によって、下層人民大衆は、〔…〕国家〔帝国――ギトン註〕に対する態度とか、抵抗の権利〔圧政に対する暴力的抵抗権――ギトン註〕といった問題について、自分たちの考えを明確化することを妨げられたのである。」(ベンジング/ホイヤー,pp.262-264.)

 

 

『メンミンゲン市の歴史』第1巻の表紙。

 

 

『エンゲルスは農民戦争を、「ドイツ史全体の基点」であると書いた』が、『その敗北によって、これを基点とする新しい歴史の展開は見られなかった。それどころか、地方分権化の枠内での集権化、すなわち領邦君主制という形での小絶対主義国家の形成と強化、という傾向が、ますます貫徹していった。


 その傾向は、あらゆる階級、社会のあらゆる分野に重大な〔ギトン註――悪〕影響をおよぼした。はじまったばかりの国民経済生活は、群小国家の定着によって解体してしまった。経済的発展が急速に進みつつある西ヨーロッパの中央集権的諸国家と比べると、ドイツの経済は萎縮し、そのため市民階級は経済的にも政治的にも不具者と化していったのである。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,p.265.  


 

 他方、このころドイツの外では、経済史家ゾンバルトが「青天の霹靂 Donner aus dem Wetter」と呼んだ前代未聞の変動が起きていました。「価格革命」です。

 

 

『同じころ、〔…〕アメリカ産出の廉価な貴金属がヨーロッパの市場を征服するにいたった。世界的に貴金属生産のトップに立っていたドイツのこれまでの優位性は崩れることになった。ヨーロッパ経済の中心は大西洋に移動した。イングランド,フランドル,ネーデルラントの経済生活は、それによってとくに促進され、〔…〕南ドイツの商事会社〔フッガー家のこと。南独の鉱山を独占していた。――ギトン註〕は立ち向かうことができなかった。南ドイツの大商事会社は、〔…〕その資本を封建的土地所有に移してゆくようになり、また、ハンザ同盟は没落』することとなった。

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.265-266.

 

 

 著者らベンジング/ホイヤーのペシミズムは、政治・経済のみならず文化と軍事にも及んでいます。「農民戦争」とその戦後処理の結果、これらの分野においてもドイツの発展は抑えられ、長期間の停滞をよぎなくされてしまったというのです:


 

『文化、とくに芸術には、その高揚の前提である大きな国民的課題が失われてしまった。文化はますます領邦国家の中心部に集中するようになり、領邦君主や裕福な都市市民の寄生的な興味に奉仕するものとなった。

 

 とくに重要なのは、人民大衆が、最前列にあって積極的に行動した歴史的な人びとから分離されたということである。〔…〕領邦君主たちは、農民戦争後、その国家を強化し、反対勢力を発生させないよう、また〔…〕宗教的防壁をめぐらそうと懸命であった。〔…〕平和的再洗礼派の運動さえも危険と見なされ、〔…〕大量に処刑されたのであった。〔…〕


 支配階級内のさまざまな分派のあいだの対決は、人民の参加あるいは関与無しにおこなわれ、ついには帝国の崩壊、三十年戦争へと進んだ。それらは、人民の知らないあいだに演じられ〔…〕た。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.266-267.

 

 

 「農民戦争」後の 17世紀、イギリスのシェイクスピアとエリザベス朝文化、フランスのラシーヌ、モリエールとブルボン王朝文化のような・世界史に残る文化的成果を、ドイツは生み出すことができませんでした。わずかに、『阿呆物語』という・三十年戦争の戦災孤児が生存のために格闘する遍歴物語があるばかりです。すぐれた文化を生み出すことのできる民衆の頭脳は、文化の中心部から切り離され、抑圧され、潰滅していたと見るほかはないのです。

 

 

『阿呆物語』「聴く本」第2巻のジャケット。

 

 

『農民戦争における敗北は、ほぼ3世紀にわたってドイツの発展〔不発展――ギトン註〕を決定した。〔…〕

 

 偉大な革命運動とその重要な思想家たちの思い出は、どんなものであろうと組織的に根絶やしにされた。〔…〕封建反動を代弁する思想家たちは、数世代にもわたって革命的伝統の歴史を取り払うことにかかりっきりであった。〔…〕3世紀後、ブルジョワ民主主義の抬頭とともにようやく、ドイツにおける最初の国民的反乱の英雄たち〔ギトン註――ミュンツァーら〕は、忘却のなかから救い出されることになったのである。

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,p.267.

 


 つぎに、「農民戦争」後の軍事史が語られます。「農民戦争」後の軍事の発展は、各地に割拠する諸侯によってもっぱら遂行され、ドイツのためにもドイツ国民のためにもならない・技術進歩の利用がつづいたのです:

 

 

『軍事上の主導権は、完全に諸侯の手に帰した。彼らは軍事技術の進歩を、自分たちの反国民的目的のために利用した。〔…〕

 

 事実、経済や文化が停滞したのとは反比例して、1525年以後、軍事技術の進歩が始まった。ドイツにとって、国民の諸力が大小無数の戦争のために使われる時代がはじまった。〔…〕ただ諸侯の利益のためにのみ遂行される戦争〔三十年戦争,ファルツ継承戦争,スペイン継承戦争――ギトン註〕は、ドイツをヨーロッパ諸列強の戦場にしてしまった。

 

 小銃の技術的改良と、領邦君主国の財政強化の結果、傭兵軍隊のなかで小銃手の数がいちじるしく増加した。〔…〕そこから必然的に生じたのは軍団の小規模化であり、機動戦術の採用〔…〕、戦闘隊形の分散化であった。

 

  〔ギトン註――領邦の絶対主義による〕財政制度の整備は、費用のかかる砲兵隊を編成し拡充することを可能にした。技術上の多くの改良、弾道学〔…〕などが大砲の威力を大いに高めた。〔…〕大砲の発達は築城(防禦体制)の改善をうながした。〔…〕

 

 重装騎兵は、小銃の普及〔…〕によって、もはや無用のものとなった。〔…〕軽騎兵には新しい可能性が開かれた。16世紀の前半期〔「農民戦争」の時期――ギトン註〕には騎兵は〔…〕長槍を持って戦ったが、世紀の終わり頃には剣とピストルを携行するようになっていた。〔…〕

 

 ごくふつうの民衆たち、しかも封建的関係によって根もとから遊離された農民、手工業者の息子たちが、いまや俸給をもらって諸侯の銃をかついで戦場に臨み、砲口を自分たちの村や都市に向け、傭兵として、ほとんど全ヨーロッパの軍隊に姿をみせることになった。これもまた、ドイツ農民戦争において人民大衆がこうむった敗北の一つの結果だったのである。

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.267-269.

 

 

アマゾンが表示しているこの本の表紙は誤り。2.28.訂正依頼済。

 

 


【46】 フランツとブリックレ

 


 「ドイツ農民戦争」というタイトルの翻訳書は3冊あると、きょうの最初に書きましたが、この間に、もう1冊あることがわかりました:

 

 ペーター・ブリックレ,田中真造・他訳『1525年の革命』,1988,刀水書房.

 

 「農民戦争」というタイトルでなかったから見つからなかったんですね。でもこれも、「ドイツ農民戦争」についての本です。ちなみに、ブリックレの著作があと2つ翻訳されていることもわかりました。1冊は宗教改革について、もう1冊は、14世紀から 18世紀にわたるラントシャフト運動に関するものです。

 

 注文しておいた『1525年の革命』が、たったいま私の手もとに届きました。目次を見ると、最後の「第3部」は「復古と協調――革命の結果」、その第3章は「革命の結果――ラントシャフト的国制の展開」とあります。ほかの3人のように、「農民戦争は敗北しました。おわり」とするのではなく、中世から近代にわたる息の長い民衆運動――民主化運動――の一階梯として、この事件を位置づけようとする意欲が感じられます。

 

 そういうわけで、次回は、ギュンター・フランツペーター・ブリックレ、この2人の「農民戦争結果論」をご紹介して、このレヴューを終えたいと思います。


 

 

 

 

 

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