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西南ドイツの「農民戦争」。城を襲う農民軍の突撃に遭遇するミュンツァー。

農民軍は、槍・鉞等の完備した兵器と戦闘太鼓を持っている。

©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.

 

 

 

 

 

 

 

 

【32】 農民勢のシュトゥットガルト占領

――諸侯・貴族軍の反撃

 


 ヴュルテンベルク州都シュトゥットガルトを占領した「ウンネンシュタイン勢」は、指導者フォイヤバッハーのもとで組織を整え、いまや「キリスト教大農民勢」と称してヴュルテンベルク州各地からの農民勢を吸収し、総数2万人を超える大農民団に成長していました。「農民戦争」の農民勢のなかで最も組織の整ったこの集団を、「ヴュルテンベルク農民団」と呼ぶことにしましょう。

 

 ヴュルテンベルク州域を超えて、「オーデンヴァルト勢」からロールバハの1隊が、南方からは「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」の分派がやってきて、これらも「ヴュルテンベルク農民団」に合流しています。

 

 

ウンネンシュタイン山(Wunnenstein 394m)。©LKZ.de Ranoma Theiss.

 

 

 「ウンネンシュタイン山」立て籠もり以来、この農民団を指揮していたフォイヤバッハーという男は、繁盛 はんじょう していたワイン・ケラーの経営者で、貴族とも親交があり、かなりの土地を持つ裕福な市民でした。州政府の召集に応じて集結地に向かう途中で、部下の農民・平民たちに説得されて反乱軍の首領となったものの、彼の思想・行動は、出身階層にふさわしく穏健なものでした。ミュンツァーや他の農民指導者とは違って、アジテーションに熱弁を振るうようなことはありませんでした。その代わりに、彼は、計算合理的な財務や組織の能力が優れていたようで、シュトゥットガルトでの「ヴュルテンベルク農民団」の完備したシステムは、彼に負うところが大きかったと思われます。

 

 掠奪品の勝手な私物化を許さず、団員にきちんと給料を支払い、食糧の備蓄・支給も豊かな彼ら「農民団」の状況は、傭兵への給与不払いからしばしば反乱に悩まされていた鎮圧側貴族軍には考えられない潤沢さだったのです。(ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,pp.139-141,145)

 


『ヴュルテンベルクの農民に対しては、厳しい秩序維持規定が課せられたばかりでなく、無数の細かい制限が課せられた〔…〕

 

 ヴュルテンベルク農民団は、自分自身の官房を持ち、都市の書記を数人抱えていた。豊富な往復書簡が残されている。〔…〕にもかかわらずフォイヤバッハーは、農民団のなかの急進派が外部からの合流勢力によって強められていくのを妨げることができなかった。〔…〕全農民団がフォイヤバッハーの親貴族的態度についてしばしば審問したのも、彼ら急進派に負うところが多い。

 

 4月25日、シュトゥットガルト市は農民の手に落ちた。〔…〕フォイヤバッハーの意に反して、彼らはヴュルテンベルクの城や修道院に対する襲撃を独自に敢行した。5月9日、彼らは結局フォイヤバッハーを解任した。〔…〕

 

 トルーフゼスの・鎮圧側「シュヴァーベン同盟」軍――ギトン註〕との決戦が近づきつつある時、ヴュルテンベルクの大農民団は、こうした状態にあったのである。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,pp.142-143.

 

 

フォイヤバッハーは、〔…〕付近のすべての反乱勢に手紙を出して、決戦のための援軍を求めた。実際、〔…〕有力な増援軍がやってきた。なかでも、〔…〕〔ギトン註――南方でトルーフゼスに敗北して〕退却してきたライプハイム勢の残党を中心に集まり、〔…〕5月5日、〔…〕フォイヤバッハーと合流した。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.76.

 

 

ベプリンゲン市教会(旧:城教会)。第2次大戦後に再建。©Wikimedia.

 

 

 

【33】 「農民戦争」の分水嶺:ベプリンゲンの戦い

 

 

トルーフゼスは、ベプリンゲンで、この連合農民勢にぶつかった。その数、その火器、その配置は、彼を狼狽させた。

 

 彼はいつもの手で、さっそく交渉を始め、農民たちと休戦協定を結んだ。こうして彼らを油断させておいて、すぐさま 5月12日、休戦期間中トルーフゼスは農民たちの不意を襲い、決戦を強いた。

 

 農民たちは、長時間にわたって勇敢に抵抗したが、ついにベプリンゲンは市民層の裏切りによってトルーフゼスに明け渡された。そのため農民の左翼は拠点を奪われ、撃退され、後ろに回られた。これで戦いは決した。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, a.a.O.  

 


 休戦協定を結んでおいて直ちにそれを破って奇襲攻撃するという鎮圧側「シュヴァーベン同盟」軍の謀略と、ベプリンゲン市「市民層の裏切り」のせいで、農民軍は敗北した――というのが、エンゲルスの描く戦いの顛末です。が、この叙述にはたいへん疑問があります。

 

 休戦協定が結ばれたという事実は確認できません。トルーフゼスの攻撃が農民軍にとって唐突だったことは確かで、これが鎮圧側の勝利につながるきっかけとなったのですが、それはあくまでトルーフゼスの作戦が優れていたというだけのことです。これに対して、ヴュルテンベルク農民軍は、決戦の直前にフォイヤバッハーを解任しています。戦闘を始める直前に総指揮官を交替させることが、どんなに味方を不利にするかは、言うまでもないでしょう。

 

 ベプリンゲン「市民層の裏切り」というのは、トルーフゼスの交渉の結果として、ベプリンゲン市が鎮圧側(シュヴァーベン同盟)に寝返り、トルーフゼス軍を入城させたので、トルーフゼスは、ここを拠点に農民軍の陣地を攻撃することができた。これが戦局の逆転につながった。そのことを指しているようです。

 

 両軍が出会った当初、双方の数と配置を見れば、農民軍が圧倒的に優勢なことは、誰が見ても明らかでした。そこで、トルーフゼスは戦闘の開始を避けて、まず、農民軍の陣地の隣りにあるベプリンゲン市と交渉し、味方にすることに成功したのです。ギュンター・フランツ『ドイツ農民戦争』,p.320)

 

 

進軍するヴュルテンベルク農民軍。©Bauernkriegsmuseum Böblingen.

 

 

 さきに↑引用したベンジング/ホイヤーの共著本は、戦後「社会主義」時代の東独の研究で、大枠についてはエンゲルスに忠実ですが、具体的な実証事実には新たな掘り起しがあり、西側の研究と比較しても、事実の叙述に信頼がおけます。東独で「軍事史研究」シリーズの1冊として出されていることもあって、軍事に関するデータがとくに豊富です。

 

 これによって、まず両軍の戦力を比べてみますと(ベンジング/ホイヤー,p.144.)

 

 

○ ヴュルテンベルク農民団 歩兵2万 騎兵? 大砲18門。

 

○ シュヴァーベン同盟軍 歩兵7千 騎兵1.5千 大砲18門。

  (トルーフゼス)

 


 このように、歩兵数では農民軍が圧倒的に優勢であり、火器装備においても、大砲(カノン砲)の数は互角でした。にもかかわらず、農民軍はなぜ敗北したのか?


 

『完全な勝利を確信する農民は、同盟軍〔トルーフゼスの「シュヴァーベン同盟」軍――ギトン註〕の迎撃に向かった。〔…〕フォイヤバッハーは、その後も引き続いて〔ギトン註――「シュヴァーベン同盟」との〕和解工作に努力していたので、決戦の前夜に解任された。〔…〕その翌日の 5月10日、〔…〕両軍隊は戦闘隊形をとって向いあった。農民のほうが有利だったので、トルーフゼスはあえて攻撃を仕掛けなかった。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』, 1989,未来社,p.320.

 

 

 10日夜、農民軍はベプリンゲン市と隣りの市のあいだに陣を敷きました。「車陣で囲まれた主力部隊は一方を湿地で、他方を山々で防備されていた。前衛部隊は、戦術上重要な処刑場の丘を占拠していた。イェルク・トルーフゼスは、大砲によっても騎兵隊を用いても、農民に対して何一つ手出しはできなかった。」

 

 そこで、ベプリンゲン市と交渉して味方に付けたトルーフゼスは、同市を足がかりにして丘上の農民軍・前衛部隊を攻撃し、見通しのきく有利な丘を占拠します。「この要害地を占拠してからは、彼の大砲が農民の主力部隊に命中することになった。騎兵隊も投入された。さらに歩兵が介入できる前に、農民は逃げ出した。」(pp.320-321.)こうして、歩兵数の圧倒的優勢という農民軍の強みは、まったく発揮されることなく終ったのです。

 

 

『訓練のない農民たちは混乱に陥り、やがて潰走した。同盟軍の騎兵に斬り刹されたり捕えられたりしなかった者は、武器を捨てて家郷へ急いだ。「キリスト教大農民勢」とヴュルテンベルクの全反乱は、完全に壊滅した。』

エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,p.76.  

 

 

 トルーフゼスは、『つぎにガルゲンベルク〔処刑場の丘――ギトン註〕を征服し、農民軍の前衛を粉砕し、ここから農民軍の本隊に砲火を浴びせさせた。

 

 そのあとで、騎兵中隊が四方八方から農民に襲いかかった。農民の本隊はといえば、前衛の退却を見て動揺し、ついに算を乱して逃走しはじめた。騎兵隊は 10キロ以上にわたって追撃し、農民 6000人を刹し、〔…〕

 

 ベプリンゲンの敗北をもって、ヴュルテンベルク大農民団は粉砕された。』

ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,p.145.

 

 

シュトゥットガルトの旧市街(Innenstadt) 1890-1905ころ撮影。

 

 

 ギュンター・フランツによれば、戦場を捨てた農民の大部分は、約10キロの距離にあるシュトゥットガルト市に駆け戻っています。その過程で、追いかけてきたトルーフゼス軍に、2000~3000人が刺し刹されています。まもなく、諸侯側の統治者であるオーストリア大公の政府が、ベプリンゲン戦勝の報を聞いてシュトゥットガルト市に戻って来、農民側の指導者は逃亡します。とは言っても、指導者と農民の一部は、まだ反乱を続けている南ドイツのヘーガウ、ザルツブルク方面へと向い、そこの農民勢に加わって、なお抵抗を続けるのです

 

 フォイヤバッハーは逮捕されましたが、彼と懇意の貴族が何人も弁護に回ったので、長い裁判の後に放免されています。ギュンター・フランツ『ドイツ農民戦争』,p.321)

 ※註「ギュンター・フランツ 1902-1992」: ドイツ農業史・農民戦争史の権威。第2次大戦前「ワイマル共和国」時代に発表された大著『ドイツ農民戦争』は、最も網羅的な通史として、今日に至るまでその地位を失っていない。戦後は西ドイツで活動し、エンゲルスと東ドイツ学界の「貧農蜂起説」に対して「富農蜂起説」を対置した。寺尾誠・他訳は、第12版(1984年)の翻訳。
 

 

 

【34】 北東ドイツ――ミュンツァーとミュールハウゼン

 


 5月12日の「ベプリンゲンの戦い」から、少し時間を戻します。西南ドイツで農民勢と接触したトマス・ミュンツァーは、新たなインスピレーションに満たされて北方・テューリンゲンへ戻ります。西南ドイツへ行くまでの彼は、もっぱら都市平民と市民を布教対象にしており、農民を味方に付けるということは、ほとんど考えていませんでした。ミュールハウゼン市での最初の運動の失敗は、周辺農民が都市貴族の古い市参事会の側に付いたためだったと言えます。

 

 西南ドイツでの農民勢のすさまじいパワーを見たミュンツァーは、同じことがテューリンゲンでも起きれば、もう諸侯を恐れる必要はなくなると考えたのです。

 

 ミュンツァーといっしょにテューリンゲンミュールハウゼン市から追放された脱走修道士ハインリヒ・プファイファーは、ニュルンベルクまではミュンツァーに同行していますが、そこで別れて一足先にミュールハウゼンに戻っています。それは、1524年暮れのことでした。

 

 自分の根拠地に潜入したプファイファーは、まもなく、仲間の信奉者たちを武装させて市庁舎を包囲し、市参事会を屈服させると、もとのように教会で公然と説教の集いを開くようになりました。その頃には、周辺農村でも変化が起きており、それが、市内の諸勢力の力関係にも影響を及ぼしたのです。

 


『村落の雰囲気は急変しており、〔…〕プファイファーは再びこの市で足場を固めることができたし、八人委員会はこの機会を利用して、都市法を聖書の原理の上に築き〔聖書の平等主義的原理に基いて都市法を手直しさせた――ギトン註〕、新しい裁判条例を発布し、修道院を廃止することができた。新年の最初の数週間で、〔…〕修道院が襲撃され、修道士、修道女とドイツ騎士修道会士が追放されて、宗教改革が正式に導入された。

 

 〔…〕2月に〔…〕ミュールハウゼンに帰還した』ミュンツァーは、『心から迎え入れられ、〔…〕教区民によって新市区のマリア教会の主任司祭に任命され〔…〕〔ギトン註――修道会士が追放されてカラになった〕ドイツ騎士修道会館に入居した。』

H.-J.ゲルツ,田中真造・他訳『トーマス・ミュンツァー』,教文館, 1995,p.209.

 

 

1525年3月17日,ミュンツァーはミュールハウゼン市に

農民勢と市民を集めて「永遠・市参事会」を結成した。

  Wilhelm O. Pitthan画, 1960.

 

 

 こうして、ミュンツァープファイファーらの「神との永久同盟」は再建され、「同盟」は市政の中枢を握ることになりました。しかし、改革の進展とともに、いまだ宗教改革が行なわれていない他の都市・領邦や諸侯側からの武力鎮圧が予想されたので、「同盟」は、市民・農民に呼びかけて、市外で武装予行演習と閲兵を行ないます。2000人以上が集まり、「ミュンツァーは馬上からこの志願兵たちを査閲して、皇帝と君主を批判する激烈な閲兵説教を行ない」、権力への隷従を拒否し「神にのみ服従する」挙手宣誓を求めます。

 

 しかし、ミュンツァーのこのような過激な神政思想は、一般の市民・農民には受け入れられなかったようです。志願兵のあいだから抗議の声が上がって大激論になり、けっきょく宣誓は行われませんでした。



『ミュンツァーとプファイファーは、〔…〕いまだ実現されていない「11箇条」の要求について、旧市参事会と交渉した。しかしこの交渉が〔…〕打ち切られると、市民たちは 3月16日にマリア教会に集まり、圧倒的多数の同意によって市参事会を解任した。市参事会は総辞職し、翌日には新しい市参事会が選出され任命された。これが「永久市参事会」である。』

H.-J.ゲルツ,田中真造・他訳『トーマス・ミュンツァー』,p.210.

 

 

 「神との永久市参事会」は、ミュンツァーらの「同盟」の名を冠せて誕生した改革派の最高市政機関ですが、実態は必ずしもミュンツァーらの意のままというわけではありませんでした。急進派が多数でもなかったようです。参事会員16名のうち、4,5名は旧参事会員の留任でした。「永久市参事会」すなわちこの新しい市政「指導部が代表した階層は、〔…〕小市民の上層と中産市民層であった。市外市区住民、村落の農民、市内の貧民の代表はいなかった。」「永久市参事会」を選ぶ選挙方式は、旧来の市参事会のままで、「選挙権を持つ市民は、〔…〕全住民のおよそ半分であった。」

 

 それでも、大きな変化はありました。市参事会に対する「服従宣誓」を、従来の・市民権を持つ市民だけでなく、都市の全住民が行なうことになったことです。ヨーロッパの中世都市では、市民の「宣誓」がきわめて重要な政治的意味をもっていました。都市とは「宣誓共同体」であって、宣誓した市民全員が、いわば平等の資格で主権者である、というたてまえがあったからです。

 

 「永久市参事会は、市の政治的・社会的・宗教的な勢力の諸利害を正しく見極めて、統治の職務を」バランスよく遂行することができる「唯一の機関」だったと言えます。旧・市参事会は、保守的な都市貴族層が牛耳っていたために、宗教改革派や下級市民とのあいだで軋轢が絶えなかったわけですが、その点が改善されたので、より安定した市政が可能になったのでした。

 


『「永久市参事会」は、〔…〕黙示録的=千年王国的――ギトン註〕熱狂の結果ではなく、〔…〕宗教改革を支持する多数派の産物であり、都市内の新しい安定を保証するものであった。〔…〕「永久市参事会」が遂行した任務は、主として次の点にあった。すなわち宗教改革を〔…〕発展させ、〔…〕保護すること。教会財産を新たに配分すること。貢租と十分の1税の支払い拒否に対する抗議を斥けることであり、〔…〕ミュンツァーの説教と行動を放任し、〔…〕できる限り支持すること、であった。〔…〕たしかに、都市内の紛争の度合いは減少した。』

H.-J.ゲルツ,田中真造・他訳『トーマス・ミュンツァー』,p.211.

 

 

ミュンツァーと農民勢。  © Wikimedia.

 

 

 以上の経過が、エンゲルスの筆にかかると↓次のように描かれます。誇張は、ことさら指摘するまでもないでしょう。ミュンツァーが「永久市参事会」を「ひきいた」と言うのは事実ではありません。「主席」になどなっていないし、そもそも、ミュンツァープファイファーも、参事会員にすら選ばれていません。

 

 それでもまぁ、耳を傾ける価値のあることは書かれています。

 


『1525年3月17日、〔…〕ミュールハウゼンは革命を起こした。都市貴族の支配していた旧・市参事会は打倒され、政権は新たに選任された「永久市参事会」の手に握られた。その主席はミュンツァーであった。〔…〕

 

 ミュールハウゼンの永久市参事会を率いるミュンツァーの立場は、近代の革命的執政者の誰よりもはるかに向こう見ずなものであった。〔…〕彼の空想していた社会的変動は、当時の物質的諸関係にはまだほとんど根拠のないもので、むしろ当時の物質的諸関係は、彼の夢見ていたのとは正反対の社会秩序を準備していたほどだった。それでも彼は、これまで説いてきたキリスト教的平等や福音的財産共有〔…〕の実行を、せめて試みなりともしなわけにいかなかった。あらゆる財産の共有、万人平等の労働義務、そしていっさいの官憲の廃止が宣言された。

 

 しかし現実には、ミュールハウゼンは依然として、いくらか民主化された憲法、普通選挙によって構成され・民衆大会の監督下にある市参事会、そして貧民に対する急拵えの現物給与制度を持った・共和制の帝国直属都市であるに留まった。〔…〕

 

 ミュンツァー自身は、彼の理論と、直接眼前にある現実とのはるかな隔たりを感じていたようである。〔…〕彼は、かつてなかったほどの熱心さで、運動の拡大と組織に没頭した。四方八方へ手紙を書き、使者や密使を送った。彼の書簡と説教は、〔…〕革命的熱狂の息吹きにあふれた。〔…〕素朴な若々しい気分はすっかり影をひそめ、〔…〕思想家としての冷静な・啓発的な言葉はもはや見いだせない。ミュンツァーは今やまったくの革命の予言者となった。彼は支配階級に対する憎悪をやむことなく掻き立て、このうえなく激しい情熱を煽り、もはや、旧約聖書の預言者たちが宗教的民族的恍惚状態に陥って口にした猛烈な言い回しでしか語らない。〔…〕


 ミュールハウゼンの実例とミュンツァーの煽動は、すみやかに遠方にまで影響をおよぼした。テューリンゲン、アイヒスフェルト、ザクセンの諸公国、ヘッセンおよびフルダ〔中部ドイツの都市――ギトン註〕、上フランケン〔フランケン地方の南部――ギトン註〕およびフォークトラント〔東部,チェコ国境近く――ギトン註〕の至る処で農民が蜂起し、集まって農民勢をつくり、城と修道院を焼き払った。ミュンツァーは、〔…〕全運動の指導者として一般に認められ、ミュールハウゼンはその中心地であり続けた。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.86-89.

 


ウルス・グラーフ「戦いのあと」1525年,線画

 

 

《1525.2.~5.》  「農民戦争」中葉の主な経過

  • 1525年2月下旬 ミュンツァーミュールハウゼンに帰還。28日、聖マリア教会の主任司祭に就任。
  • 2月末~3月1日 西南ドイツ・メンミンゲン市で『農民12箇条』成立(メンミンゲン12箇条)。
  • 3月初めまでに、西南ドイツ6ヵ団の一揆農民勢合計4万人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,p.79. による〕
  • 3月16日 ミュールハウゼンで市参事会が総辞職。17日、「永久市参事会」成立。
  • 4月中旬 ヴュルテンベルク州で召集兵の反乱、ウンネンシュタイン山に立て籠もり、州都シュトゥットガルトを占領(4月25日)。
  • 3月下旬~4月 中部ドイツ・フランケン地方各地で農民勢の蜂起結集。うちヴュルテンベルクほか4団の合計3万9000人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,pp.97,144. による〕
  • 5月9日 ヴュルテンベルク農民団、総指揮官フォイヤバッハーを解任。
  • 5月12日 ベプリンゲンの戦いトルーフゼス麾下の「シュヴァーベン(都市・諸侯)同盟」軍、ヴュルテンベルク農民軍に勝利。
  • 5月15日 フランケンハウゼンの戦い。ヘッセン・ザクセン等諸侯軍がミュールハウゼンテューリンゲン農民軍を潰滅して勝利。
  • 5月27日 ミュンツァープファイファーの処刑。

 

 

 

 

 

 

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