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〔1〕 「脱成長コミュニズム」――

思想界に前例のない大胆な提起

 


 『マルクス解体――プロメテウスの夢とその先』:

 

 斎藤さんの英語での近著(ケンブリッジ大学出版部 2023)の日本語版。『人新世の資本論』『ゼロからの資本論』ではいまひとつ明確でなかった「ザスーリチ草稿」の関係、つまりマルクスの提示した最終的な未来社会像が、たいへんよく整理されてまとめられている。環境主義とマルクス主義の双方を踏まえた・このような考え方は、斎藤さんのこの本が世界で最初だという。専門的な議論も多いが、『大洪水の前に』よりはずっと読みやすい。ぜひ1冊手にとってみられることをお勧めする。

 

 

◆ ❖ ◆ ❖ ◆

 

 

 このハードカバーは、じっくりと読みこんだうえで、後日詳しくレヴューするつもりでいたのですが、電車のステッカー広告↑を眼にして、急遽予定を変えることにしました。驚愕 !! こんなマニアックな!‥ごく少数の左翼マニアか、時代遅れ(?)の専門家以外は読まないだろうと思っていた本が、上野東京ラインの眼につくドア付近で広告されているとは‥‥ しかも「マルクスうんぬん」の題名で... 「解体」なんて言われたら、左翼も退くんじゃないかって.....

 

 ためしに「読書メーター」を覗いてみると:… やはり、「読みたい」の登録者が多いわりに「読んでいる」は一人だけ。「読みおわった」が多いのにレヴューはまだない。ははぁ、これは、途中で読むのをやめたほうの「読みおわった」なんでしょうな。

 

 しかし、ざっと読んでみると、決して難解な本ではありません。専門書としては読みやすいほうでしょう。これまでの『大洪水の前に』『人新世の資本論』『ゼロからの資本論』を読んできた人なら、さほど難しくはないはず。

 

 『大洪水の前に』とは違って、『資本論』の深読みはないので、「重箱のスミ」を引き回されて目が回るという、マルクス主義のあの “苦行” は、この本にはありません。かわって、多くの論者による雑説の紹介、批判と反批判の分量がかなりあるので、そこに振り回されてしまうと、たしかに挫折しやすいかもしれません。しかし、そうした議論は全部飛ばして、著者の見解だけをひろっても十分に読めるし、欧米の思想界の動向に格別関心があるのでなければ、その種の甲論乙駁は読まなくてよいと私は思います。

 

 『人新世の資本論』を出した後の斎藤さんは、ふつうは「ウヨク」に分類されるようなマイナーな雑誌に寄稿するかと思えば、「哲学のノーベル賞」に輝く柄谷行人氏を招じて討論したり、共産党から除名宣告された松竹さんと対談したり、‥ いつのまにか、天下の「東京大学」に移っていたり、‥と、何かと目が離せなかったのですが、今度の本でようやく、斎藤さんのめざしている方向が見えてきました:

 

 

 

 


『現在の〔ギトン註――過剰生産・過剰消費の〕生活様式が、人類の破滅に向かっている〔人類を破滅に向かわせている――ギトン註〕という現実は、もはや無視できないものになっているが、資本主義は終りなき過剰生産と過剰消費に対する代替案を提供することはできていない。実際、パリ協定がめざす 1.5℃目標を達成しようとするなら、社会のほぼすべての領域における徹底的かつ急速なシステムの大転換が必要であるが、そのような動きはどこにも見られない。〔…〕

 

 環境運動にとって、資本主義はもはや進歩的ではない。むしろ、社会の生産と再生産の一般的諸条件を破壊し、人間とその他の生命を深刻な脅威にさらしているのだ。資本主義が歴史的進歩をもたらすというマルクスの考え方は、絶望的なほど時代遅れに見えるのである。〔…〕

 

 気候変動の問題を扱うのであれば、「自然」の問題を避けて通ることはできない。〔…〕

 

 自然の制御不可能性の増大に直面するなかで、人類と自然の関係を再考することが緊急の課題になっている。しかし、そこで主流になりつつあるのは〔…〕一元論的アプローチ〔人類と自然が互いを「共生産」してきた歴史過程を強調し、マルクス主義を、人間vs自然の二元論ドグマ、人間中心主義として批判する(ムーア)――ギトン註〕であり、彼らはマルクス主義に批判的な態度を取っている。〔…〕

 

 「資本主義の終りよりも、世界の終りを想像するほうがたやすい」〔…〕「資本主義の関係における実質的な変化を想像するよりも、地球上のすべての生命を終らせる全面的な破局を想像するほうがたやすい」(ジジェク)というわけだ。〔…〕

 

 多くの人は、脱成長コミュニズムという本書の結論に驚くに違いない。これまで、マルクスのポスト資本主義の展望をこのような形で提示した人物は誰もいなかったからだ。しかも、脱成長〔↑「環境主義」のほか、アナーキズム、ナロードニキ、イスラム原理主義、儒教的復古主義など――ギトン註〕マルクス主義は長いあいだ敵対関係にあったのでなおさらだ。


 しかし、もし晩年のマルクスが、ラディカルに平等で持続可能な社会を求めて、定常経済や脱成長の理念を受け入れたとしたら、両者のあいだには新たな対話の空間が生まれる。』

斎藤幸平『マルクス解体』,2023,講談社,pp.8-11,19.  

 

 

 つまり、「環境思想」と「マルクス主義」という、これまでたがいに対立してきた2潮流の統一を、マルクスの晩年の思考の中に求め、「脱成長コミュニズム」として提起すること。それによって、2大思潮のあいだに「対話の空間」を創造すること。これが、本書において目指されていることなのです。

 

 

 

 

 

〔2〕 「もくじ」と「まえがき」から

――誤解された・マルクスのエコロジー

 

 

 じつは、私自身まだ、この本を隅から隅まで読んだわけではないので、今回のレヴューは、とりあえずの簡単な紹介とならざるをえません。

 

 具体的に言うと、まず「まえがき」を利用して本書の内容の概略を紹介します。

 

 そのうえで、とくに私的に興味がある「ザスーリチ草稿」をめぐる議論(第6章第3・4節)をとりあげてレヴューする予定です。個人的な趣味に読者を付き合わせてしまうかもしれませんが、じつは、ここの結論が、実質的には本書全体の結論でもあるのです。それほど、この「ロシアのミール共同体」をきっかけとしてマルクスが到達した・「西欧と非西欧」「資本主義・成長経済と非資本主義・定常経済」という理論枠組みの逆転は重要なのです。ここには、19世紀末から現在にまで尾を引く、社会思想と社会科学のパラダイム大転換があると言ってよい。

 

 さて、「もくじ」を見ると、本書の章立ては次のようになっています:

 

第一部 マルクスの環境思想とその忘却
  第一章 マルクスの物質代謝論
  第二章 マルクスとエンゲルスと環境思想
  第三章 ルカーチの物質代謝論と人新世の一元論批判

第二部 人新世の生産力批判
  第四章 一元論と自然の非同一性
  第五章 ユートピア社会主義の再来と資本の生産力

第三部 脱成長コミュニズムへ
  第六章 マルクスと脱成長コミュニズム MEGAと1868年以降の大転換
  第七章 脱成長コミュニズムと富の潤沢さ

 

 

 第1部では、「物質代謝」に関する議論の範囲・射程を明らかにして、第2部・第3部で議論する「環境社会主義」論の基礎とします。その場合、マルクスだけでなく、エンゲルス、ローザ・ルクセンブルク、ルカーチ、メサーロシュなども取り上げます。

 

 「脱成長コミュニズム」という斎藤さんの主張、ほかならぬマルクスその人が「脱成長コミュニズム」の思想を抱くに至っていたという主張に対しては、旧来のマルクス主義者や環境運動家から、つぎのような疑義・反論が投げかけられます:いわく、「もしマルクスが脱成長コミュニズムを提唱していたのなら、なぜ今まで誰も指摘しなかったのか?」「マルクス主義は、脱成長コミュニズムとは正反対の・社会主義国家による生産力発展を誇示してきたではないか」と。

 

 これらの疑問に対する答えはカンタンで、これまではマルクス主義者も非マルクス主義者も、マルクスのエコロジーを無視してきたからです。『資本論』にさえ、「物質代謝」の亀裂、環境破壊、労働者の健康破壊に関する記述があちこちにあるのに、それらはすべて無視されてきました。

 

 

 

 

 

 そこで、第1部(第1~3章)では、マルクスのエコロジーが、後継者たちによって、いかに歪んだ形で取り継がれ、または無視され、「周縁化」されてきたかを辿ることになります。


 

『第1章では、〔…〕自然科学に関するマルクスのノートを参照しつつ、物質代謝の亀裂」の3つの次元と、技術によって媒介される地球規模での時間的・空間的「転嫁」外部化――ギトン註〕を展開していく。

 

 資本蓄積にとって自然の収奪が必須の前提だという洞察は、その後、ローザ・ルクセンブルクによって深められる。彼女は『資本蓄積論』において、資本主義の周縁部における人々や環境に対する破壊的作用を、物質代謝論を用いて問題視していたのだ。

 

 とはいえ、ルクセンブルクは「物質代謝」という概念を、マルクス批判として定式化したのだった

斎藤幸平『マルクス解体』,p.15.  

 

 

 つまり、マルクスのエコロジー、その中心的な「物質代謝」の概念さえ、最初から正当に理解されていなかったことになります。このような「誤認と無視の系譜」が生じてしまった原因は、①ひとつには、マルクス自身がエコロジー方面の考察を著作としてまとめる前に亡くなったため、ノート・メモ類が 20世紀半ば以後に公刊されるまで、ごく断片的な記述でしか知ることができなかった、ということにあります。

 

 しかし、もうひとつの・より重要な原因として、②協働者であるエンゲルスが、マルクスのエコロジーを正当に理解していなかった(重要な点で誤解していた)ことが挙げられます。

 


『そこで、第2章では、マルクスの物質代謝概念がどのように歪められていったかを辿るために、エンゲルスの編集した『資本論』と、MEGA〔Marx-Engels Gesamtausgabe 原語版マルクス・エンゲルス全集――ギトン註〕で公刊されたマルクスの経済学草稿および抜粋ノートとを比較し〔…〕ていく。この考察によって、マルクスとエンゲルスの間にはとりわけ物質代謝の扱いに関して、〔…〕理論的には決定的〔…〕相違があることが判明するだろう。〔…〕この違いのせいで、エンゲルスはマルクスの環境思想を正しく理解することができず、物質代謝の概念は、マルクスの死後に周縁化されることになってしまったのだ。』

斎藤幸平『マルクス解体』,p.16.  

 


 こうした「周縁化」の結果、1920年代には、ソ連の正統派マルクス主義と西欧マルクス主義の双方において、マルクスは自然に関しては何も語っていないという・いちじるしく誤った先入見が固定されてしまったのです。この点では、西欧マルクス主義は、ソ連の正統教条主義よりも罪が重い。というのは、エンゲルスの『自然弁証法』などの自然科学研究を糾弾して、本来は人間社会を対象とするマルクスの理論を、不当に「自然」にまで拡張したと言って非難したからです。すなわち、たんに無視したのではなく、巨大な仮面をかぶせて隠ぺいしたのです。そして、「マルクスの人間主義」「人間の顔をしたマルクス」などと偉そうに吹聴したのでした。

 

 

 

 

 そうしたなかで、例外的に「物質代謝」を論じたのは、西欧マルクス主義の創始者とされるルカーチその人だったのです。たしかに、ルカーチは、有名になった『歴史と階級意識』の中では、エンゲルスの自然論を批判しています。しかし、彼は後に発見された『追従主義と弁証法』という未発表原稿では、マルクスのエコロジー・自然思想に連続する「物質代謝論」を展開しているのです。どうやら、ルカーチの本意はこちらだったようなのですが、『歴史と階級意識』では、そこが曖昧にしか書かれていなかったために誤解され、彼の後継者である西欧マルクス主義者からも、ソ連の正統マルクス主義者からも、その曖昧さを批判されてきたのでした。

 


『第3章で論じるように、〔…〕ルカーチは、西欧マルクス主義の一面性を反省し、物質代謝の概念に着目した例外的な人物であった。〔…〕『追従主義と弁証法』を読めば、ルカーチの人間と自然の関係の取り扱いには、社会的なものと自然的なものを区別するマルクスの「方法論的二元論」との連続性があることが判明する。ルカーチの物質代謝論は「形態」と「素材」が織りなす「非デカルト的」二元論であり、それは、現代の一元論とは一線を画す資本主義批判を可能にする。

斎藤幸平『マルクス解体』,pp.16-17.  

 


 ここで言う「デカルト的二元論」とは、哲学で言う「心・身」の二元論とは別で、「自然」と「社会」の二元論――「自然と社会を完全に分離・独立した2つの存在とする」(p.112)考え方――です。この「自然/社会二元論」を批判する現代の人びと(一元論者)は、現代ではもう人間の手つかずの自然というものは存在しないのだから、社会から独立した自然というものはありえず、地球の「自然」は、多かれ少なかれ人間による改変作用を受けている。そして、人間によって作られながら、人間に対して反作用を向けてくる(環境危機、気候変動といった形で)のだ。だから、よりいっそう自然に手を加えていくことによってしか、危機は解決しない、と言います。

 

 これは、一見すると・もっとな考え方のように思えなくもありません。しかし、この考え方では、現代の環境危機の深刻さが正面から把えられないだけでなく、資本主義の生産・消費が危機をもたらしている実態が、見えにくくなってしまうのです。

 

 (【補足】 ここで言う「一元論」が解りにくいのは、私たちに馴染みのある東洋的「一元論」とは結論が真逆だからです。私たちの「一元論」は、人間は「自然」の一部だと考え、無為自然・ありのままを尊び、人為を退け、「自然」を越えた人間の「さ賢らな」ふるまいを戒めます。ところが、西洋・現代の「一元論」は、逆に、「自然」は人間社会の一部だと考えるのです。「自然」は人間にとって、とりたてて独立性のある存在ではないから、人間が社会を建設し改良するのと同様に、「自然」に対しても、放置するのではなく、意識的に手を加えることによってのみ、調和ある人間的な「自然」を築けるのだ、と。)

 

 彼ら「一元論者」からすれば、マルクスもまた誤った二元論者であり、社会と自然を別々のものだと見るから、「人間と自然の物質代謝の亀裂」という誤った見方になる。そういう対立的な見方自体が間違っている、ということになります。「一元論」に立つと、「亀裂」を生じさせる資本主義の利潤追求・成長至上主義に対する批判は、出て来にくくなります。

 

 しかし、ルカーチの考え方は、①「自然」は、社会に先立って、人間が誕生する以前から存在しており、「人間から独立して進行する」――という「二元論」を前提としながらも(p.129)、②自然と人間の物質代謝は「労働」によって媒介されており、「労働」は、「本質的に社会的活動」であって、自然条件のみならず「社会関係によっても条件づけられ」ている。そこから、自然についての人間の知識、人間の自然認識もまた、社会関係に制約されている、という結論が引き出されます。人間の自然に対する知識・認識は、社会関係から独立したものではない。(pp.133-134)

 


『社会は自然から生まれるが、社会的領域には、人間の言語と労働を媒介とする社会関係から生じる、質的に異なる新たな創発的性質がある〔…〕つまり、〔ギトン註――人間社会の歴史的発展によって〕人間の自然との物質代謝の過程に、根本的に新しい次元が生じる〔…〕

 

 例えば、商品としての机の「価値」〔商品価値,交換価値――ギトン註〕という形態は、資本主義における「純粋に社会的」な性質である。それゆえ、価値は机の感覚的な性質ではない。価値を見たり、触ったりすることはできないのだ。だがそれにもかかわらず、価値は〔…〕〔ギトン註――資本主義社会の人間にとっては〕机の形と同じように実在的なのである。実際、「商品」や「価値」という社会的形態は、資本主義の発展とともに社会的力を増していき、物質代謝を改変していくようになる。』

斎藤幸平『マルクス解体』,p.140.  

 

 

 こうして、これまでは知られていなかったルカーチの・自然と社会に関する考え方(存在論と認識論)を掘り起こすことによって、私たちは、この環境危機の時代に、危機の原因としての資本主義を、正面からとらえる視座を獲得することができるわけです。

 

 

 

 

 

 以上のような、ルカーチ、マルクスの「二元論」の・正確な理解に基づいて、

 

 

『本書の第2部では、マルクスの「方法論的二元論」と「物質代謝の亀裂」論を擁護しながら、人新世におけるさまざまな一元論とプロメテウス主義に応答していきたい。

斎藤幸平『マルクス解体』,p.14.  

 

 

 まず、第4章では、ムーア、スミス、カストリーら「一元論」者による現代の「物質代謝論」批判への反論を試みます。


 

『一元論は、失敗したプロメテウス主義を人新世によみがえらせ、自然へのさらなる介入を正当化することになりかねない。このような「地球構築主義」によれば、〔…〕人類生存の唯一の道は、惑星全体をさらに徹底的に改変することによる地球のスチュワードシップ〔スチュワード(執事,財産管理人)への管理委託――ギトン註〕しかないという。』

斎藤幸平『マルクス解体』,p.14.  

 

 

 こうして、今や「地球構築主義」は、マルクス主義者の一部にまで影響を与えています。彼ら「新しいプロメテウス主義」者たちは、情報通信技術と完全自動化を組み合わせ、無人衛星を駆使して地球外小惑星からレアメタルを掘り出し、地球の環境負荷をゼロにする、といった「技術の無限発展」が約束する・ポスト資本主義の夢のような未来を吹聴するのです。

 

 このような生産力至上主義に対する批判が、第5章で展開されます。

 

 

 

 

 

 

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