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〔5〕 「原始的蓄積」 は、どうして

「コモンの解体」なのか?

 

 

 「原始的蓄積 ursprüngliche Akkumulation」という言葉からは、大量の貨幣や財貨が蓄積されているようなイメージが生じます。資本主義が発達していくためのモトデになる資金を貯めこむことが、「原始的蓄積」だろうか、――などと私たちは想像してしまいます。たしかにそれも、「原始的蓄積」の一面ではあるのです。

 

 政治経済や日本史の教科書には、明治の中頃に「松方財政〔非難して「松方デフレ」とも云う〕が行なわれて「銀本位制」を開始し、日本の資本主義の確立点になった、というようなことが書いてあります。1881-91年に大蔵卿-大蔵大臣を勤めた松方正義は、1882年日本銀行を設立、官営工場・鉱山の払い下げ、増税、緊縮財政によって、インフレの原因となっていた過剰な紙幣を回収し、中央銀行に貨幣準備(銀)を蓄積して、85年「銀本位制」を導入しました。

 

 しかし、そこで蓄積されたのは、あくまでも本位貨幣(金・銀)や財貨(工場や鉱山の設備、原料、生産物)であり、「商品」〔値段で価値を測られるもの〕です。前回の引用でマルクスが言っていた「商品の巨大な集まり」です。

 

 これに、《富》=〈コモン〉の豊かさ という・社会に対する見方を重ねてみると、‥たしかに、日本銀行には《富》が蓄積されたが、そのぶん〈コモン〉は搾取されて貧弱になった、社会の《富》は奪われた、ということになります。つまり、「原始的蓄積」とは、〈コモン〉から《富》を奪い取り、〈コモン〉を貧弱にし、解体に向かわせることにほかならないのです。

 

 「コモンの解体」という局面は、別の角度から見れば、公共的な〈コモン〉の上で生活の糧 かて を得ていた人びとを、〈コモン〉から締め出すことにほかなりません。この過程は、「原始的蓄積」のもっとも苛酷な局面であり、各国ごとに特徴ある形をとって進行しました。

 

 最初に起きたイギリスでは、「コモンの解体」は、急激な暴力的プロセスとして推進されました。16世紀の「第1次囲い込み」は、「羊が人間を喰っている」というトーマス・モアの表現で知られています。毛織物業がさかんになり、羊毛価格が高騰したことから、ひと儲けを当てこんだイングランドの貴族たちが、所領から農民を追い出し、農地と村をつぶして牧場に変え、商業的牧羊に狂奔したのです。追い出された農民は浮浪者や盗賊となって彷徨し、一部は都市に流入して貧民窟を形成し、王政政府を悩ましました。

 

 この動きに対してエリザベス王朝がとった政策は、「救貧院」という強制労働施設を設けて貧民や浮浪者を集め、訓練して働かせることでした。これが、「原始的蓄積」の第2の局面:

 

  •  2 〈コモン〉からの締め出し、教育と訓練

 

 にほかなりません。

 

 ひきつづく 17世紀は不況の時代で、羊毛価格も暴落して貴族の「囲い込み」は収束しましたが、物価が下がったぶんだけ賃金は高騰し、「日雇い労働者の黄金時代」であったと言われています。こうして、資本主義には必須の要素である「賃金労働者」層が成立し、18世紀イギリスは「産業革命」に突入します。

 

 

『マルクスの時代にも、イギリスでは、地主層が議会立法により合法的に土地を囲い込んだ「第2次囲い込み」〔商業的小麦生産のための大農経営を目的とする――ギトン註〕がありました。農地を追われ〔…〕た人々は、仕事を求めて都市になだれ込み、工場労働の担い手となっていった〔…〕

 

 そうは言っても、土地を追われた農民がいきなり真面目な「賃労働者」になったわけではありません。〔…〕国家と警察権力が介入して浮浪者や山賊を逮捕し、〔…〕ちゃんと言うことをきくように規律訓練していったのです。暴力的な歴史的過程の成果として、現代の私たちのような勤勉な労働者が生み出されたのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,p.32.  

 

 

 

 

 

 日本の場合には、「コモンの解体」「コモンからの締め出し」は、ずっと緩やかな過程として進行します。その背景には、水田稲作を中心とする伝統的農業と「里山」慣行があったと言われています。「里山」の〈コモン〉をある程度維持しながら安価な食糧生産を行なうほうが、労働者の賃金を低く抑えることになり、資本主義の発達にとってもプラスになったのです。

 

 そこで、日本の場合には、《むら》の伝統を温存しながら、次男・三男以下の「過剰人口」を都市に流入させ、のちには「出稼ぎ」労働や農家の「兼業」化によって、徐々に賃金労働力を増やしていったのです。

 

 これに加えて日本の場合には、明治時代からすでに、西欧の完備した「学校教育」制度を導入したという事情がありました。〈コモン〉が解体されて浮浪者が増えても、それだけでは、資本主義に必要な「賃金労働者」層が成立したことになりません。賃労働者となるには、一定の教養と技能が必要なのです。

 

 たとえば、日本では、明治の初めに徴兵制度を敷いた時、徴集された兵士に行進の訓練をしようとしても、兵士たちは、「右」がどちらで「左」がどちらなのか解らない者が大部分だったといいます。そこで、「右!左!」と号令をかける代わりに、「ハシッ!チャワーン!ハシッ!チャワーン!」と号令して行進させたという話が伝わっています。

 

 このように、明治日本では、小学校も、軍隊も、資本主義に必要な労働者を育成することに主要な存在意義があったといえます。

 

 

 

〔6〕 「原始的蓄積」 ――商品の買戻し、〈市場〉の創出

 

 

 〈コモン〉が解体され、人口の一定部分が農業と農地から切り離された結果、彼らは食糧その他生活必需品を自分の家でつくることができなくなり、おカネを出して買わなければならなくなります。つまり、「賃労働者」とは、――社会全体として見ると――自分の造った生産物を、賃金によって買い戻さねばならない存在なのです。

 

 これを逆に、資本家・企業の側から見ると、生産そのものがいくらうまくいっても、造った「商品」が売れなければ破綻してしまいます。生産される「商品」には生産財〔設備や中間生産物〕も消費財〔食糧,生活必需品,贅沢品〕もあって、生産財は資本家どうしのあいだで交換されますが、生産財はあくまで消費財を造るために生産されるものです。最終的には、「賃労働者」が存在して消費財を「買い戻し」てくれることが、資本主義の存続にとって必須なのです。

 

 ともかく、こうして、資本主義社会には〈市場 しじょう〉が成立します。これが、

 

  •  3 「商品」の買戻し、〈市場 しじょう〉の創出

 

 ――「原始的蓄積」の第3の局面です。

 

 

 

 

『農村民の一部の収奪および追放は、労働者とともに、彼らの生活手段と労働材料を産業資本のために遊離させるのみならず、国内市場も作り出す〔『資本論』, MEW XXⅢ, S.775.〕

 

 「商品」生産の担い手は、自らの労働力を提供するだけでなく、「商品」の買い手となって、資本家に市場を提供したのです。こうして市場経済が回りはじめると資本家や地主はどんどん潤い、資本主義は発展していきました。〔…〕

 

 マルクスによれば「商品生産が全面化された社会」――つまり、ありとあらゆるものが商品化されていく資本主義社会では、物を作る目的、つまり労働の目的が、ほかの社会とは大きく異なっています。

 

 〔…〕資本主義以前の労働は、基本的に「〔ギトン註――特定の物が欲しいという〕人間の欲求を満たす」ための労働だった〔…〕例えば、食欲を充たすために大地を耕して穀物や野菜を作る。風雨や寒さから身を守るために〔…〕衣服をこしらえる。〔…〕権力を誇示するための神殿の建設、領土をもっと広げたいという王の強欲を充たす戦争も、〔…〕基本的な目的は同じです。いずれも、〔…〕特定の物と結びついた欲求です。

 

 こうした具体的欲求〔…〕には、一定の限界があるものです。〔…〕食べられる量には限りがあります。〔…〕作り過ぎると腐ってしまいますし、いかに強欲な王も、巨大な宮殿を 100も 200も欲しがったりはしません。

 

 一方資本主義社会で暮らす私たちはお金が大好きです。貨幣はいつでも好きな時に好きなモノに交換できて、とても便利だからです。〔…〕ここから、無限に富を蓄えようとする欲求が生まれてきます。これが資本主義発展の原動力になるのです。

 

 貨幣には「何でも買える」という特別な力があるため、お金をたくさん持つ人たちはどんどん有利になっていきます。〔…〕たくさん献金すれば政治家も言うことをきいてくれて、自分に有利な税制や法律を作ってくれる〔…〕

 

 その結果、一部の人が富を独占するようになり、深刻な格差が生まれるようになっています。〔…〕

 

 一方で庶民は、長時間労働、不安定雇用、低賃金などを余儀なくされて貧しくなっていくばかりです。〔…〕

 

 なぜこうした事態になるかというと、資本主義社会では「人間の欲求を満たす」ということよりも、「資本を増やす」こと自体が目的になっているからです。〔…〕資本主義は利潤追求を止められない。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.33-37.  

 

 

 

エル・グレコ:「商人を神殿から追い払うイエス」部分   


 

 

〔7〕 〈市場〉は踊る ――「窮乏化」

 


『マルクスは、この暴力的な過程を「本源的蓄積原始的蓄積」と呼び、〈コモン〉を解体して人々を賃労働に駆り立てる、資本主義に固有の収奪行為だと指摘しています。ここでのポイントは、人々が自然という富から切り離されて、生活が不安定になり、貧しくなるということです。

 

 人間と自然の物質代謝が、従来とはまったく異なる形として展開されるようになっていくということです。

 

 これまで農地を管理してきた農業労働者〔日本の場合には農家――ギトン註〕が追い出されて、彼らの暮らしは貧しくなり、農地は荒れ果ててしまう。また、自然の富は商品売買の対象になっていくことで、お金儲けのために、徹底的に収奪されるようになっていくのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,pp.33-34.  



 資本主義のもとでの労働者の「窮乏化」について、マルクスは『資本論』で、たいへんに詳しく論じています。とくに重要なのは、技術革新によって工場の機械や生産設備が増え、労働生産性が高まると、要らなくなった労働力は解雇されて失業が増える。失業が増えると、労働者間の過当競争が、賃金や生活水準、労働条件を切り下げてゆくという議論です。じっさいに当時のイギリスでは、失業者群の存在は慢性的で、産業側はむしろそれを利用して、賃金への出費を節約し、女性や児童を低賃金労働に酷使して炭鉱などの基幹部門を支えている、といった実態がありました。

 

 さすがにこのような状態で社会を維持してゆくことはできないので、20世紀の先進国では、労働者保護立法や労働組合の合法化によって、このような原生的な「窮乏化」を排除してきました。かえって、最終的な消費者である労働者の生活水準をある程度高めたほうが、有効需要が増大して、資本の利潤獲得も好転するという考え方が主流になりました。現在では、深刻な「窮乏化」や奴隷的労働関係は、先進国の経済的支配のもとにある開発途上国、とくにその辺境地域(中国新疆など)にあるといってよいと思います。

 

 しかし、先進国について見ても、さらに重要なことがあります。人間の「欲望は無限」だという問題です。私は、学生の時に『資本論』(完読はしませんでしたが)とその解説類を読んで、資本主義生産が発展して生産量が増えると、労働者の「欲望」はそれに応じて増大する、――そういう前提で(解説者によっては明言して)書かれていることに奇異を覚えました。それだったら、「窮乏化」だなんて批判はできないじゃないか。たんに労働者が、いくら分け前が増えても満足せず、もっとくれ、もっとくれ、と言ってるだけじゃないのか!? ‥‥批判が道義的に正当か不当かの問題はおいても、ここには重要な留意点があります。

 

 

 

 

 

 「窮乏化」といっても、“ポスト・マルクス” の現実では、貰う賃金額が減らされていくとは限りません。支配階級だって社会動乱はいやだし、弾圧にかかるコストも少ないほうがいい、博愛思想もあるので、労働者の生活水準は少しずつ良くなっていきます。それでも、社会全体の生産が増え、「分け前」が増えれば、それに応じて「欲望も増える」。より高いレベルの生活水準を望むようになる。その「逓増する欲望」で量 はか ると、だんだん貧しくなっていると感じるかもしれない。それを目して、「自分勝手なやつらだ」と非難することはできないでしょう。

 

 しかし、それを踏まえても、労働者は「もっとくれ」だけでよいのか、という疑問は残ります。要求闘争でもって、はたして本当に望んでいるような方向に進んでいるのかどうか、ということです。私たちは、量的に「もっとよこせ」、と要求するだけでなく、そうした “豊かさ” ――「商品」を買うことができる “豊かさ” ――は、ほんとうに人間を幸福にする豊かさなのか、と反省してみることが必要でしょう。

 

 このような時代的変化を踏まえれば、『資本論』の「窮乏化」の読み方も、変って来ざるをえないと思います。現在の日本で、「窮乏化」を、文字どおりの名目賃金の切り下げ(非正規雇用への転換という粉飾のもとに)、「サービス残業」の増大や労働強化として理解できる局面も、部分的にはあります。しかし、斎藤さんが最初に「ウーバーイーツ」や「ネットフリックス」を持ち出して語っていたように、現代の労働者は同時に消費者であり、あたかも豊かな生活を営んでいるかの幻想に、どっぷりと浸されています。そういう私たちにとっては、…〈コモン〉をふくむ社会全体の豊かさと、その享受の機会は、資本主義の発展とともに増大しているのか、減少しているのか。私たちは「市場のトリック」に騙されてはいないだろうか。……といった視点で、「窮乏化」の有無をチェックしていったほうが、より説得力のある洞察をもつことができると思うのです。

 

 

『資本主義のもとでは、ありとあらゆるものが商品化され、社会の「富」が「商品」に姿を変えていく〔…〕

 

 生産活動の主要目的が、「人間の欲求を満たす」ことから「〔ギトン註――利潤を獲得して〕資本を増やす」ことに変われば、当然、生産の仕方も、生産されるモノも変わります。

 

 資本主義社会で生産される「商品」は、人々の生活に本当に必要か、本当に重要かどうかよりも、それがいくらでどれくらい売れそうか――言い換えると、どれくらい資本を増やすことに貢献してくれるか――が重視されます。〔…〕

 

 「儲かるモノ」と「必要なモノ」は必ずしも一致しません。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,pp.34,37-38.  

 

 

 つまり、必要なものよりも、「売れそうなもの」が造られて、じっさいに私たちはそれを買う、ということです。それが、〈市場〉のしくみであり、資本主義のしくみなのです。必要な物よりも「売れる物」を買わされて満足している状態――それが、ほんとうの豊かさと言えるでしょうか?

 

 

 

 

 「商品」には、2つの顔があります。「使用価値」と「(交換)価値」です。

 

 

『「使用価値」とは、人間にとって役に立つこと(有用性)、つまり人間のさまざまな欲求を満たす力です。〔…〕生活のために必要な「使用価値」こそ、資本主義以前の社会での生産の目的でした。

 

 しかし、資本主義において重要なのは、商品のもうひとつの顔、「価値」です。


 「商品」になるためには市場で貨幣と交換されなければなりません。交換されない椅子は、座れるという「使用価値」しかもたない、ただの椅子です。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.38-39.  

 


 そのような椅子に対して、資本主義の市場社会は「価値」を認めません。〈市場〉で交換される、つまり、値段がついて、卵100箇と等しい、あるいは、シーツ10枚と等しいという交換比率(価値)が定まってはじめて、椅子は「商品」となるのです。(なお、そのような「価値」は、何によって定まるのか? 需要と供給の均衡か? 製作に要する平均労働時間か? 消費される「最後の1単位」がもたらす効用か? ――さまざまな説がありますが、ここでは触れません。)

 

 

『「価値」と「使用価値」〔…〕まったく別物であることは、空気のように、それなしに人間が生きることのできない使用価値の大きなものが無料である一方で、ダイヤモンドのように使用価値の小さなものが非常に高価であることからもわかるでしょう。〔…〕

 

 「使用価値」の効能は、実際にそのものを使うことで実感できますが、「価値」は、人間の五感ではとらえることができません。〔…〕

 

 資本主義のもとでは、「価値」の側面ばかりが優先され、肝心の「使用価値」は二の次になる。〔…〕ファストファッションのように、環境負荷を無視して安さを追求した洋服で、私たちのクローゼットはあふれかえっています。「儲かるモノ」(価値の側面)と「必要なモノ」(使用価値の側面)がここでは乖離しているのです。〔…〕

 

 価値の大きさは、交換者たちの意志、予見、行為から独立して、たえず変動する。交換者たち自身の社会的運動が、彼らにとっては、諸物の運動という形態をとり、彼らは、この運動を制御するのではなく、むしろ、この運動に制御される。〔『資本論』, MEW XXⅢ, S.89.〕

 

 マルクスが指摘している通り、「価値」は私たちの考えや思いとは関係なく、まるで天気のように、たえず、そして突然変動します。その結果、〔…〕「価値」という魔力の予測不能な変動によって、人間が振り回されるようになってしまうのです。

 

 「使用価値」のために物を作っていた時代は、〔…〕人間が「物を使っていた」わけですが、「価値」のためにモノを作る資本主義のもとでは立場が逆転し、人間がモノに振り回され支配されるようになる。この現象をマルクスは「物象化」と呼びます。人間が労働して作った物が「商品」となるや否や、不思議な力で、人間の暮らしや行動を支配するようになる、というわけです。〔…〕

 

 売れそうな「商品」を、人間はひたすら作りつづける。実際にはすぐゴミになる、大して役に立ちそうにない物も、売れるなら、とにかくたくさん作るのです。〔…〕


 それと並行して、広告業やマーケティングの仕事ばかりが増えていきます。なぜかといえば、消費者もバカではないので、すぐにゴミを買ってしまったと気がつくわけです。すると、商品の魔法が解けて、飽きてしまう。だから、次から次へと、手を替え品を替え、新しいゴミを魅力的な商品として売り出さなければいけないのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.40-48,50.  

 

 

 

 

 

 さきごろ、コロナ・パンデミックのさなかに、「go to キャンペーン」なるものが行なわれました。政府の補助金でホテルやレストランに割引をさせて、旅行や外食を盛んにして「経済を回す」というのですが、じっさいには利用できるのが大企業系列のホテルやレストランに限られていて、効果があるようには思えませんでした。なによりも、感染防止やら、ワクチンを打てやら、うるさく言う一方で、感染拡大に貢献する事業をわざわざやろうとする矛盾が理解できません。

 

 私は、格安ホテルのチェーンをよく利用する関係で、一度だけチェックイン時にフロントで外食のクーポン券をもらいましたが、それを持って出ても、商店街のふつうの店ではまったく使えませんでした。「経済を回す」という掛け声だけの事業に思われました。一部のチェーン店に客が集中するだけで、コロナで青息吐息の地元の店には、何の恩恵もない事業だったと思います。

 

 かりに、実際に、「経済を回す」効果があったとしても、それが優先されて、客の生命も、店の人の生活も後回しになるのは、本末転倒という以上に奇怪なことです。

 

 同じ不合理さは、オリンピック、万博、カジノ、リニア新幹線など、国民が必要としていない事業を、「経済を回す」「景気を浮揚する」という掛け声だけのために、はじめに事業ありきでやろうとしていることにも表れています。

 

 

『命を犠牲にしてでも経済を「回していく」――、という勇ましい覚悟の実態は、「回させられている」というほうが正しいのではないでしょうか。〔…〕

 

 人間のために経済を回すのではなく、経済を回すこと自体が自己目的化して、人間は、資本主義経済という自動装置の歯車としてしか生きられなくなっている。これこそが、マルクスが指摘した物象化の問題点なのです。〔…〕

 

 「商品」の領域が広がれば広がるほど物象化の力が強まり、ますます人間はモノに振り回されるようになっていく。この力がさらに強まっているのが、ここ数十年の事態です。

 

 20世紀後半、高度経済成長期が終りを迎え、資本主義経済の停滞が顕著になると、各国は公共事業の民営化や規制緩和による市場の自由化を進めていきました。〔…〕

 

 民営化というと、公営・国営の「独裁的」で非効率だった事業が、民の手で「民主的」に効率よく管理・運営されるようになる、というイメージを持つ人もいるかもしれません。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.44-48.  

 


 しかし、これは日本語訳のトリックです。原語は privatization で、直訳すれば「私物化」です。「民 people」「民主 democracy」という意味は、どこにもありません。



『private の語源は「奪われている」、〔…〕人々が共有して管理していた〈コモン〉が奪われた状態ということですね。民営化の実態は特定企業による権利独占であり、「商品」の領域を広げる現代版の「囲い込み」なのです。

 

 市場はけっして “民主的” ではありません。〔…〕市場にアクセスできるのは、お金を持っている人だけだからです。〔…〕

 

 また、市場では「利益」が優先されるため、儲からない物やサービスは容赦なく削られます。予算も、人員も削られる。〔…〕「使用価値」を無視した効率化は、必要な物やサービスまで削り、あるいは質を低下させて、社会の富を貧しくしていく。

 

 そんな行き過ぎた効率化で窮地に追い込まれている例の一つが、日本の公立図書館です。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.47-48.  

 

 

 

 

『今、全国の公立図書館で非常勤の職員が増えています。〔…〕非常勤職員を増やしているのは、図書館運営の「効率化」と「コスト削減」のためです。図書館が儲けることは不可能です。人件費をカットするしかありません。しわ寄せは労働者にいくわけです。〔…〕

 

 今、非常勤職員として、低賃金で〔…〕働き続けている方々は、本が大好きで、その使命感から、割に合わない素晴らしい仕事をしてくれています。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.48.  

 

 

 しかし、職員の犠牲的な善意に頼っている状態が、そう長く続くとは思えません。

 

 

『こんな状況が続けば、図書館で働きたいという人がだんだん減っていき、サービスの質も低下してしまうでしょう。〔…〕

 

 公共図書館〔…〕は、まさに社会の「富」、大事な〈コモン〉です。知識や文化というものは、誰もがアクセスできてこそ、伝承され、発展していきます。しかし、「商品」ではないので儲けは生みません。「使用価値」より「価値」を優先する資本主義の論理によって図書館運営が “改革” されれば、社会の富が瘦せ細ってしまうのです。

 

 「富」を削って「商品」を増やそうとする動きは、ほかにもあります。〔…〕神宮外苑の再開発は、大きな社会問題になりました。明治神宮が持っている土地には、樹齢 100年を超える木もあります。その木を 1000本ちかく伐採して、商業施設を建設しようというのです。

 

 木が生えているだけで貨幣を生まない、ならば切り倒して、そこを買い物や食事やスポーツを楽しめる複合施設にしてしまえばいい――。こうした「再開発」という名の囲い込みは、たしかにお金を生みます。

 

 しかし、東京のようなコンクリートのジャングルに残った希少なオアシス〔…〕を、破壊する必要がどこにあるのでしょうか。〔…〕価値の論理を突き詰めていくと、社会はむしろ暮らしにくい、貧しい場所になっていく可能性が高いのです。


 これこそが「社会の富が商品として現れる」ということの、現実の姿なのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.49-50.  

 

 

 

 

 

 

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