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〔1〕 「青い色眼鏡」をはずせ! ――

「まえがき」と「あとがき」から

 


 むかし、東ヨーロッパで「社会主義」を自称(偽称)する国家群が支配していたころ、東ドイツの・ある人がシベリア送りになった。その人は、シベリアから出す手紙はソビエト当局に検閲されることを知っていたので、友人との間で、「赤いインクで書いた手紙はすべてウソ、青いインクで書いた手紙はすべて真実」と約束しておきました。しばらくして、友人がシベリアから受け取った手紙は、全文青インクで、ここはすばらしいところで、何不自由のない幸せな生活をしていると書かれていました。そして最後に、「ただひとつ困るのは、赤いインクが手に入らないことだ。」

 

 強制収容所では、検閲される以前に、批判的なことを考えたり書いたりする能力じたいが奪われてしまう、という皮肉なのですが、この話を、「社会主義国」以外の社会に置き換えて読むこともできます。つまり、不自由な生活を強いられている人は、「青い眼鏡」をかけさせられているので、自分の生活の不自由さを認識しにくいし、人に説明することもできない。ただ、なんとなく、不自由な感じがする、倦怠感と絶望感だけがある、ということです。



『日本に暮らす私たちは、ウーバーイーツで美味しいものを注文したり、ネットフリックスで好きな映画を見たり、ルンバの自動掃除機を買うこともできる。そんな世界では、私たちの望む自由がすべて実現されているように見えるかもしれません。

 

 でもそれはただ、この社会の自由を描くための赤いインクがないからだとしたら? だって、実際には、〔…〕

 

 実際には、これからも資本主義が続く、と言われて未来に希望をもてる人は、どんどん減っているのではないでしょうか。

 

 〔…〕現在のような絶望的状況でも、資本主義のもとでの経済成長や技術革新が明るい未来をもたらすと信じて、歯を食いしばって働き続けないといけないとしたら――それは単に、資本主義では赤いインクが手に入らなくて、世界が青いインクで塗りつぶされているだけなのかもしれません。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,pp.7-8.  

 

 

 

 

 

 たとえば、ウソア(みんなが誤って「アメリカ」などと呼んでいる・あの国のことです。アメリカとは、アメリゴ・ヴェスプッチが発見した大陸です。あの国のほうは United States Of A. ですから、正しい日本語訳は、ウソアです。「合国」も誤訳。正しくは「合国国」ですが、語呂が悪いので、ウソアがよい)には、たいへん完備した医療体制があり、優秀な医療従事者がいますが、国民皆保険のようなものはないので、この国の世界最高レベルの医療を、貧乏人は受けることができません。そのため、ウソア人の平均寿命はコスタリカより短いのです。また、ウソアに古くから住んでいるインディアンは、狭い居留地に押し込められていて、人間扱いされていません。彼らの伝統文化(たとえば民謡!)を、私たちは知ることさえできません。そういう状態にしながら、「インディアンてゆーな。アメリカ先住民と言え」などと無意味な規制ばかりかけてくるのが、ウソアの支配者たちと、彼らに右へ倣えのジャパニーズです。

 

 こうしたことは、何一つ秘密にされてはいないのに、私たちは「青い眼鏡」をかけているので、ウソアのウソが見えないのです。

 

 

『今、私たちに必要なのは、赤いインクです。そして、私たちが一度は捨ててしまった『資本論』こそが、赤いインクなのです。〔…〕『資本論』を読むことで私たちはこの社会の不自由を的確に表現できるようになるからです。さらにそれは、失われた自由を回復するための第一歩になるでしょう。〔…〕

 

 本書では、近年の研究成果も踏まえて、『資本論』をまったく新しい視点で―― “ゼロから” ――読み直し、〔…〕一緒に考えていきます。そうすることで、資本主義でない別の社会を想像する力を取り戻すことができるはずです。〔…〕

 

 私自身、リーマンショック後の転換期に 20代を過ごし、マルクスを研究すると決め、資本主義についての思索を深めてきました。私自身は新しい社会を展望しようとする世界中の革命の試みから、大いに刺激を受け、勇気をもらっています。革命の試みは「敗北」を続けていても、そこには公正な社会の実現を――ときには命懸けで――めざす仲間がいるのです。〔…〕

 

 一方で、人々の不満が良い社会を作る方向に向かう保証はどこにもありません。〔…〕現実に絶望した人々は、恵まれない境遇への怒りや絶望を誰かにぶつけてしまうかもしれません。移民や少数民族に対する排外主義、障害者や女性への殺傷事件、右派ポピュリズムといった動きは、日本も無縁ではありません。

 

 現状への不満や未来への恐怖が排外主義などの反動的欲望へと転化しないようにするためには、別のより魅力的な選択肢が存在することを説得力ある形で示す必要があります。〔…〕みなが当たり前だと思っていることを疑い、別の道を考え、行動するというのは、本当に難しい。それでも、まずは誰かが問題提起をする必要があります。

 

 本書は、〔…〕ひとつの問題提起です。だから、〔…〕資本主義批判として』『資本論』を読む『だけでなく、コミュニズム論にもなっています。マルクスについての本は膨大な数があるのに、コミュニズムという視点から書かれた入門書がないことが、現在のマルクス主義や左派の低迷をもたらしていると思うからです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.8-9,234-235.  


 

 


 

 

〔2〕 「原始的蓄積」―― 4つの局面

 


 今回はレヴューを書くにあたって、お断りしておくことがあります。新書版 250 ページ足らずの入門書ですが、その内容を全部紹介することはしません。章立てでいうと、第1章と、終りの第5・6章の各一部分:――内容的には、「原始的蓄積」と「コモンの復興」だけを扱います。

 

 「原始的蓄積」とは、かんたんにいえば、資本主義の始まり方です。資本主義でない社会から、どのようにして資本主義の社会になったか、という話です。ただ、このプロセスは、どの国でも、ひじょうに長い期間かかっています。イギリスでは、16世紀はじめの「第1次囲い込み」から 18世紀いっぱい。ドイツでは、ちょうどマルクスの生涯にあたる 19世紀いっぱい。日本では、明治の中頃に始まりますが、じつは 100年近くかかっています。「高度経済成長」が終る 1970年代までは「原始的蓄積」過程の続きだったと見てよいのです。

 

 「原始的蓄積」には、これから述べていくように4つの局面があります。しかし、それをつづめてひとことで言えば、「コモンの解体」ということに尽きます。〈コモン〉とは、共有地とか入会地、そういう共同の要素をたくさん含んだ《むら》のようなものをイメージすればよいと思います。

 

 「原始的蓄積」が「コモンの解体」だとすると、最終章の「コモンの復興」は、その逆のプロセスだということがわかります。「コモンの復興」は、コミュニズムがめざす・社会の変革です。「社会主義」に似ているし、「社会主義」の一種と言ってもよいのですが、ソ連・中国・北朝鮮のような中央集権的な「社会主義国家」とはまったく異なった・分散的な社会がめざされています。(日本共産党も、『赤旗』が一貫して斎藤さんを無視しているところを見ると、やはり彼らがめざしているのは、本物の社会主義でもコミュニズムでもなく、集権的「国家資本主義」だということがわかります。「共産党」という党名は、もう取り下げたほうがよいでしょう)

 

 〈コモン〉とは《むら》で、〈コモン〉を復興する、ということになると、あのギスギスして身動きのとれない蜘蛛の巣村を復活するのか?‥と思うかもしれませんが、そうはなりません。というのは、再生する〈コモン〉は、成員個人の自由・自立に基くものでなければ、再生することはできないからです。いったん資本主義のもとで解放され、自立して自由になった個人を、ふたたび枷 かせ につなぐことなど、できるものではないのです。

 

 この点に、〈コモン〉復興の難しさがあり、《ポスト資本主義》の中心課題があるといえます。

 

 「原始的蓄積」つまり「コモンの解体」に対して、コミュニズムつまり「コモンの復興」は、いわば、資本主義でねじれてしまった社会を巻き戻す過程になりますが、資本主義の成果を踏まえているので、もとの状態に戻るわけではないのです。

 

 

 

 

 さて、「原始的蓄積」の4つの局面とは、

 

 

  •  1 〈コモン〉の解体、《富 とみ》の独占

 

  •  2 〈コモン〉からの締め出し、教育と訓練

 

  •  3 「商品」の買戻し、〈市場 しじょう〉の創出

 

  •  4 「窮乏化」

 


 です。以下、1から順に述べていくことにしましょう。

 

 

 

〔3〕 資本主義の特殊な《物質代謝》 

――《富》から「商品」へ

 


『人間だけでなく地球上のあらゆる生き物が、自然との物質代謝を行ないながら生きています。〔…〕けれども、人間とほかの生き物との間には決定的な違いがある。〔…〕それは、人間だけが、明確な目的をもった意識的な「労働」を介して自然との物質代謝を行なっているという違いです。〔…〕

 

 私たちの暮らしや社会、それを取り囲む自然環境の姿は、私たちが自然に対してどのように働きかけるかで決まります。この働きかけ方を大きく誤ると、社会や自然は荒廃してしまう。だから、労働は人間の自由や繁栄にとってきわめて重要な活動なのです。

 

 〔…〕マルクスが「労働」の概念に注目したのは、〔…〕搾取を白日のもとにさらしたいというような政治的な意図があったからではなく、物質代謝という人間と自然の本源的な関係を重視していたからなのです。〔…〕


 マルクスは、人間の〔…〕労働」が、資本主義のもとでどのように営まれているかを考察することで、人間と自然の関係に決定的な変化があることを明らかにし、そこから資本主義の特殊性に迫っていくのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.21,23,26.  

 


 つまり、「資本主義」の開始とともに、人間と自然の関係に決定的な変化が訪れています。それは、人間と自然のあいだの物質代謝の活動である「労働」のありようが、根本的に変化したからにほかなりません。「労働」というものを、もう少し人間社会のほうに引き寄せて観察しますと、「労働」とは、《富》を生み出すとか、維持するとか、何らかの意味で《富》にかかわる活動です。したがって、「労働」のありようの変化は、他面で見れば、《富》のありよう――存在形態――の変化にほかならないのです。

 

 《富》というと、おカネを真っ先に思い浮かべるかもしれません。金銀財宝、あるいは、蔵 くら いっぱいの高価な品物かもしれません。英語の wealth はそういうイメージです。でも、ドイツ語の「富 Reichtum ライヒトゥーム」のほうは、英語のリッチと同語源で、豊かさ、潤沢さというニュアンスです。「Reich ライヒ」といえば「帝国」「国土」です。日本語の「富み」も、富んでいるということで、それに近いですね。つまり、《富》の本来の意味は、自然の豊かさ、大地の豊潤さなのです。大地の《富》にかかわる人間の活動が「労働」で、「労働」の成果もまた《富》です。

 

 

 

 

 したがって、《富》には、もともと値段などはついていません。きれいな空気や水には値段はありませんが、これほど潤沢な《富》は、ほかにないでしょう。《富》に値段がつくのは、それが売り買いされる時、すなわち「商品」となる時です。

 

 

『資本主義的生産様式が支配的な社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現れ、個々の商品は、その富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの考察は商品の分析から始まる。』

『資本論』第1巻:MEW XXⅢ, S.49.〔斎藤幸平訳,以下同〕  

 

 

 つまり、資本主義社会では、《富》は「商品」という形態をまとって現れるのです。

 


『きれいな空気や水が潤沢にあること、つまり、自然の豊かさも、社会の「富」ということになります。緑豊かな森、〔…〕公園、地域の図書館や公民館がたくさんあることも、社会にとって大事な「富」、「財産」でしょう。知識や文化・芸術も、コミュニケーション能力や職人技もそうです。貨幣では必ずしも計測できないけれども、一人ひとりが豊かに生きるために必要なものがリッチな状態――それが社会の「富」なのです。〔…〕

 

 そして、この「富」を生み出し、維持、発展させるのが「労働」です。〔…〕ところが、こうした社会の「富」が、資本主義社会では次々と商品に姿を変えていく、とマルクスはいいます。

 

 これは、今も私たちの身近で起こっていることです。例えば、〔…〕森を切り開いてゴルフ場にしたり、〔…〕太陽パネルを敷いたメガソーラーを造ったり。

 

 一番わかりやすいのは「水」でしょう。私が子どもの頃、飲料水は「商品」ではなく、水道からタダで飲めるものでした。ペットボトルに入った水が〔…〕「商品」として定着したのは、ここ 30年くらいのことです。

 

 〔…〕もともと気兼ねなく飲んでいた水を、わざわざお金を払って飲むようになる。私たちの感性や欲求が、商品社会のなかでは変わっていくわけです。その結果、企業は儲かる一方、私たちのお財布の負担は増えていきます。

 

 このように、ありとあらゆるものを「商品」にしようとするのが資本主義の大きな特徴の一つです。〔…〕でも、それが当たり前ではないし、豊かさの前提ではない

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.26-27.  

 


 つまり、「原始的蓄積」の過程は、じつは 1970年代で終ってはいないのです。いま現在も進行中です。なぜなら、資本主義が、無限の食欲をもつ芋虫のように、周囲の世界を喰い尽くしてゆく運動が、「原始的蓄積」だからです。もしも国内の《富》を喰い尽くしてしまったら、芋虫は手つかずの《富》を求めて海外に進出してゆくでしょう。もうむさぼり喰うものが無くなってしまうまで、つまり資本主義の終焉まで、蚕食の過程は続きます。

 

 

『今はどうでしょう。生活に必要な物のほぼすべてが商品となり、商品に頼らず生きることは、もはや不可能といっても過言ではありません。

 

 その代わり、巷には魅力的な商品があふれています。お金を出せば、いつでも何でも手に入るようになったことで、私たちの暮らしは「豊かになった」ようにも見えます。しかし、まさに商品化によって社会の〔自然の《富》や、誰でも利用できる公共の《富》――ギトン註〕の潤沢さが失われ、むしろ「貧しくなっている」ことを、マルクスは一貫して問題視しています。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.28.  

 

 

 

 

 

 

〔4〕 公共の《富》の囲い込み・独占 

――「コモン」の解体

 

 

『社会の「富」が「商品」に姿を変えるということは、簡単にいうと、値札がついて “売り物” になるということです。


 かつては誰もがアクセスできる〈コモン〉(みんなの共有財産)だった「富」が資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、すなわち「商品」になる。たとえば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて「商品」として売り出してしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければスーパーやコンビニで買うほかなくなる。これが商品化です。

 

 もちろん、お金があれば何でも買えますが、お金がない人は生活にどれだけ必要なものであっても、もはや手に入れることができません。〔…〕

 

 資本主義は、人工的に「希少性」を生み出し、人々の暮らしを貧しくするシステムといってもいいでしょう。

 

 けれども一体なぜ、資本主義はそんな不合理なことをするのでしょうか。

 

 〔…〕お金を出して買わなくても生活に必要な物が手に入るなら、商品を作ってもまったく売れないからです。だから、〈コモン〉を解体して独占し、あるいは破壊までして、買わなければいけないモノ、つまり「商品」にしようとするのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.30-31.

 

 

 

 

 

 

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