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Michel Gourlier
 

 

 

 

 

 

 

〔21〕 モノローグ(独白)とディアローグ(対話)

 

 

 NHKテキストは最終回に入っていますが、ここでのキーワードは、「良心」とともに「対話」です。

 

 「良心」は、自分が正しいと信ずることを、みずからの全存在をかけて正しいと判断する・プロテスタンティズムの精神を思わせます。「人は信仰によってのみ義とされる」――教会の権威ある教えに従っているから「正しい」のではなく、自己の内面を貫く判断であるがゆえに「正しい」のです。

 

 しかし、ヘーゲルの「良心」は、とにかく自分が普遍的でありたい、際限なくどこまでも通用させたいと願うような・〈啓蒙〉の素朴な意識とは異なります。世界には自分と同じような「他者」がいて、その「他者」もまた「良心」を持ち、主張している――ということを、当然の前提として織り込んでいます。

 

 そこで、「良心」にとっては、他者との「対話」が不可欠のプロセスになります。「良心」の「正しさ」は、他者との「対話」をへて初めて確証されるのです。自分ひとりの心の中にある状態では、まだ本物の「正しさ」ではない。「良心」は、じぶんが「正しい」と信ずることを他者に対して告げ、他者の応答(評価)を受けなければなりません。


 

『何が正しいかはダイアローグ(対話)によって決まる――〔…〕ヘーゲルの主張は、道徳法則をめぐる議論に大きな転換を迫るものでした。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,p.109. 

 

 

 デカルトやカントを読めば明らかなことですが、へーゲル以前の哲学はみな、ひとりの個人の熟考――モノローグ(独白)――によってできあがっています。性別も職業もない抽象的な個人が、じぶんの内面と環境世界をあれこれ思いめぐらして、論理的な筋道を立ててゆく――すべてはそれに尽きます。「われ思う、ゆえに、われ在り。ゆえに神あり。ゆえに世界あり」。あるいは、「他人が自分に対して行為してほしいと思うような仕方で、自分は他人に対して行為すべきである」――そこでは、自分を他人に置き換えて考えているのであって、じっさいに他人に対して行為して、他人からリアクションを受けるわけではない。基本的にモノローグの世界にいるのです。

 

 モノローグの世界からディアローグ(対話)の世界に出ていくと、とたんにすべてが引っくり返るような不安を覚えるかもしれません。どんな反応をするかわからない「他者」に依存して「正しい」ことが決まるなんて、耐えられない――そう感じる人もいるでしょう。そんなことが認められたら、自分が正しいと信ずることを正しいと判断する「良心」は、成立しなくなってしまう‥‥そう思うかもしれません。しかし、これは、「良心」がどうしても通過しなければならない試練なのです。「対話」を通過していない「良心」は「良心」ではない。これがヘーゲルの考え方です。

 

 

 

 

 

『「良心」とは何でしょうか。〔…〕伝統や宗教にしたがうのではなく、つまり、自分が正しいと思っていることを、みずからの判断で行なう意識を指します。

 

 良心は、みずからの判断が「みんなにとっても正しい」と思うから、そのように行為します。〔…〕

 

 ただそれだけだと、「良心」は非常に独りよがりなものになってしまいますよね。だから、みずからの判断や行為が、みんなにとっても正しいと思う根拠を、ちゃんと「説明すること」ができないといけない。〔…〕なぜそれが正しいと思ったのか、なぜ普遍的だといえるのか、みずからの言葉で説明できる。〔…〕正しいものであることを、他の人に承認してもらいたいから、きちんと説明し、行為する。それが良心です。


 ここで重要になるのが、他者の視点です。自分が正しい、あるいは良いと思うことが、〔…〕客観的で普遍的なものになっているかは、他者が私の挙げる根拠を受け入れてくれるかどうかで決まります。〔…〕他人が承認してくれる――つまり、評価し認めてくれることが重要です。つまりこの過程は、相手とのやり取りを通じて展開されるのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.108-109. 

 

 

 カントのようなモノローグ式の考察だと、さまざまな問題が置かれた状況――歴史的、文化的、社会的、個人的、等々の条件――はすべて削ぎ落されてしまいます。デカルトやカントは、それによって、いつでもどこででも通用する普遍的な真理を明らかにできると考えたわけですが、ヘーゲルに言わせると、そのようなやり方では、「現実の具体的場面で適切な判断を行なうことはできない」。

 

 例を出しましょう。非常に寒がりな人と非常に暑がりな人が、同じ部屋の中にいます。寒がりの人が暑がりの人に、「窓がきちんと閉まってないから、寒い風が入ってきて風邪をひきそうだ。君は窓の近くにいるんだから閉めてくれたまえ」と頼んだとします。ところが暑がりの人は、部屋の中は暑いので、もっと風が入ってほしいと思っていた。そこで、カントの定言命題:「他人が自分に対して行為してほしいと思うような仕方で、自分も他人に対して行為せよ」を思い出して、部屋じゅうの窓をすべて全開にし、風がビュンビュン吹き込むようにしてしまった。つまり、カントの道徳律に従ったのです。。。

 

 ヘーゲルのディアローグ式では、2つの・条件と視点の異なる意識――良心――が登場して、それぞれが自分の視点に基いて誠実に判断し、行動し、相手の判断と行動を評価(批判)します。しかし、それぞれの拠って立つ条件は異なるので、おのおのがどんなに誠実に、入手しうる限りの情報をすべて踏まえて判断しても、意見は異なります。ある「良心」の行動は、ある場合には承認され、ある場合には断罪されます。「よかれと思ってやったのだから」という言い訳は通らない、厳しい世界なのです。


 

 

〔22〕 衝突する「良心」と「良心」――行為と評価

 


『まず、一つの意識が、みずからの良心にしたがって誠実に行動します。判断材料となる情報を可能な限り手に入れようと努め、自分の儲けや利己心からではなく善意から義務を果たそうとする。

 

 良心にしたがって果たされた義務は、「他のものに対する存在(Sein für anderes)」になるとへーゲルはいいます。つまり、その行為は自分の手を離れて、他者にも関係するものになる、ということです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.111. 

 

 

 ここで「良心」は2つの態度に分かれます。「行動する良心 A」と「批評する良心 B」です。「A」は、自分の中で十分に考えつくして行為に出るのですが、まだ他人の評価は受けていませんから、完璧ではないかもしれません。「よかれ」と思ってしたことが、他人からは罪悪のように批判されることもあるかもしれないが、だからといって何もしないではいられない。「A」は勇気を奮って行為に出ます。

 

 他方、「B」は、頭の中では、ああすべきだ、こうすべきではないと、行為についてさまざまな考えを抱くことはできても、完璧に行為することはできないことを恐れて、自分では行為しない。自分は何もせずに、他人の行為を見て批評することに専念します。「B」は卑怯だと思うかもしれませんが、しかし「B」のような人も、「良心」が成立するためには必要なのです。なぜなら、他者の評価という試練を受けないことには、「良心」の行為は行為として完結しないからです。「B」もまた「良心」です。

 

 

 

 

 

 設例を出しましょう。ある日私(A)がテレビを見ていたら、アフリカのどこかの国で内乱が起きて、数万人の難民が砂漠をさまよっているというニュースが出ていました。難民の子どもたちが、すでに数千人餓死しているという。インターネットを検索したところ、あるNGOが、その国の子どもたちを救え、と募金を呼びかけていた。そこで私は、日頃節約して貯めていた定期預金を取り崩して募金に応じたとしましょう。私は、なんだかスッキリした気分になったので、友人たちにそのことを話して、君たちも寄付をしたらどうだと言って勧めます。

 

 ところが、友人の一人(B)が言います。おまえのやっていることは偽善だ。そうやって、救世主のような顔をして俺たちに褒められたいものだから、よく調べもしないで、いいかげんな団体に寄付をしたのだ。おまえの寄付の何割がアフリカに届くか分かったもんじゃない。おまえ自身、このあいだは、赤い羽根共同募金の何割が天下り官僚の給料になってしまうとか、慰安婦支援団体の幹部が横領で有罪になったとか、批判していたではないか。それどころか、おまえの寄付は、内乱を起こした軍事勢力の手に渡って、子どもたちを殺すために使われるかもしれないんだぞ。そうならないと断言できる証拠を、おまえは持っているのか?

 

 つまり、私(A)は、善意で、つまり人としての義務を果たすために行為したと主張するのですが、Bが言うには、私が行為した気持ちの中には、名誉欲や、自分がすがすがしい気分になりたいという欲望等々、「不純な」動機がたくさんあるではないか。

 

 ここで、私とBのあいだで問題になっているのは「純粋」な行為、「純粋な義務」の履行ということです。Bの論を突き詰めれば、私が行為に出てよいのは、「不純な」気持ちがまったく無い時、名誉欲もスッキリ欲もまったくない時だ、ということになります。つきつめれば、純粋に、人としての “義務” を履行するためになされた時だ。‥‥しかし、人間のする行為に、そんなことがありうるでしょうか? 「純粋義務」行為を要求するならば、けっきょく私は何もできなくなってしまう。。。

 


『〔道徳的〕意識〔…〕義務と現実とを矛盾するものとして把握する意識〔…〕そうした意識にしたがえば、私が道徳的に行為するのは、じぶんの意識するところ、ひとえに純粋義務のみを遂行し、他のなにごとかを遂行しているのではない場合である。これが意味するのはじっさいには(in der Tat)私が行為(handeln)していないときということだ。

 

 いっぽう現実に行為するさいに私が意識するものは、他のなにごとか、つまり目のまえにある(vorhanden)一箇の現実的なものと、造りだそうとしている〔もう〕一箇の現実的なものであり、私は一定の目的をいだき、一定の義務を果たそうとしている。他のなにものかが一定の義務のうちには存在するのであって、それは純粋義務、ただそれのみが意図されるべきであった義務、とはことなったものなのだ。〔…〕

 

 〔ギトン註――そうは言っても、行為に出るさいに〕良心は、純粋義務を〔…〕放棄してしまったわけではない。むしろ純粋義務は〔ギトン註――良心が行為に出たことの〕本質的な契機であって、それは普遍的な〔=抽象的な――ギトン註〕かたち(Allgemeinheit)で他者たちに関係することだ。


 純粋義務という契機は、共通の境位としてもろもろの自己意識にかかわっており、その境位〔「行動する良心」と他の良心たちとの間にある領域――ギトン註〕こそが実体であって、そこで なされたこと(Tat)存立し、現実のものとなる。この契機はつまり、他者たちによって承認されているという契機なのである。〔「行動する良心」の抽象的な動機である「純粋義務」自体は、あらかじめ他者たちによっても承認されている――ギトン註〕

ヘーゲル,熊野純彦訳『精神現象学(下)』,ちくま学芸文庫,pp.323,327. 

 

 

 


 さきほどの例で、私(A)の行為が他者(B)によって全否定されてしまい、それに対して私が何も言えなければ、私の行為は破綻してしまいます。かといって、私がBの批評をまったく受け入れず、「私は純粋に善意で行動した。偽善などみじんもない」と言いはるならば、2つの「良心」は分裂してしまい、けっきょくやはり私の行為は破綻したことになる。それでは、どうしたらいいのか?‥それは後ほど述べることにして、ここではまず、私の行為がBと友人たちによって「承認」された場合を考えてみましょう。

 

 その場合、私(A)の行為は、行為として現実化し存立します。そして、私は初め、これはかわいそうだ、なんとかしなければならない、という「純粋義務」だけを考えて行為に出たとしても、現実に行なわれた私の行為には、「純粋義務」以外のさまざまな気持ちが混じっていたはずです。純粋な「善意の行為」というものはありえない。このことは、Bがそれを指摘せずに私を「承認」したとしても、消えてなくなるわけではない。

 

 Aは不純な気持ちもまじえて、アフリカの子どもたちのために寄付をした、そのカネが何に使われるかは、じっさいのところ、未来にならなければわからない。そういう事実が、現実の世界に現出し、もはや消すことのできない歴史として刻印されるのです。――これが、自己と他者の「境位」に成立する「私の行為」です。私が当初懐いていた抽象的な「義務の履行」とは、やや異なるものとして、それは成立します。

 

 

『「私」の行為は複数の人々の自己意識と関わり、吟味されます。ここで「善」として承認されれば、〔…〕みなも良いと思ってくれる客観的な規則に沿った行ないになる。つまり「実体」の境位に収まります。しかし、〔…〕周りから承認されない可能性もあります。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.111-112. 

 

 

 そこで今度は、「承認」されない場合を考えてみましょう。上の考察で明らかになったように、偽善の無い純粋な善意というものは、抽象的な動機(純粋義務)としてはありえても、現実に行なわれた行為としてはありえない。その限りでは「B」の批評は正当です。しかし、そのように批評するB自身には、偽善は無いのか?

 

 批評する良心 B」は‥‥

 

『何もしないのに、行為する良心行動する良心 A――ギトン註〕をただ非難し、「悪を暴いた」と満足している。身の回りにもいますよね。これもまた「偽善」なのです。〔…〕

 

 くだんの意識批評する良心――ギトン註〕は、さらにまた偽善でもある。〔…〕このように非現実的で、よく知りまたより知っているとうぬぼれているにすぎないのに、現になされたこと(Tat)を散々に扱き下ろし、じぶん自身をその所業(Tat)の上に置いて、みずからの なにもなさない(tatlos)語りが 卓越した現実と受け取られることを要求しているわけである。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),pp.368-369.――ギトン註〕


 〔…〕行為する意識行動する良心 A――ギトン註〕も、評価する意識批評する良心 B――ギトン註〕も、自分の立場は正しいと思っており、完全に対立しています。したがって、たがいに相手からの承認を求めると同時に、どちらも相手の主張は承認に値しないと主張します。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.114. 



 このままでは集団は分裂するほかなく、「良心」とその行為は、現実化することに失敗します。

 

 もし、どちらかが相手の主張に全面的に屈服して、相手に同化してしまうと、AはBを「承認」するが、BはAを承認しない、という「非対称」の関係になって、‥‥覚えているでしょうか?‥‥これは「主人と奴隷の関係」にほかなりません。AもBも、「良心」という高度な段階から、動物と紙一重の「主・奴」に転落してしまいます。

 

 では、いったい、どうしたらよいのか?


 

 

 

 

 

〔23〕 「良心」のアクロバット――「告白」と「赦し」

 


 極限にまで対立した「良心」AとB、‥ここで、およそあらゆる予想をくつがえすアクロバチックな挙に出ます。先に動くのは、「行動する良心 A」です。の前に跪いて、「たしかに自分は善ではなく悪であった」と「自己批判(告白)」するのです。しかし、「自己批判」とは、「自己」を反省し批判することであって、相手に「屈服」し奴隷になることを意味しません。むしろ、この「互いにどちらも偽善である」状況のもとでは、の自己批判は、も自己批判することを促す意味を持ちます:

 

 

評価する意識は一面では正しいわけです。寄付の仕方が悪いとか、その裏には私欲が潜んでいるといった批判は、的を射ている。「問題解決につながる、もっと正しい方法があるはずだ」という言い分は、一見すると普遍的で正しいように見えます。

 

 この批判を受けて、行為する意識が動きます。「私が悪である」と「告白」するのです。この展開が重要です。「なるほど、その通りだ」「良心にしたがって行為したけれど、自分がやったことはむしろ悪だった」と自己批判する。これは、教養や啓蒙の意識にはなかった、新たな展開です。〔…〕

 

 行為する意識行動する良心――ギトン註〕が見いだすのは、〔…〕評価する意識批評する良心――ギトン註〕も、それ自身の性状からすれば、行為する意識とひとしいことを発見するのである。そのひとしさを直観し、それを言明すること〔=自己批判すること――ギトン註〕で、行為する意識が評価する意識に告白し、期待するのは、〔…〕この他方(das andere)〔評価する側〕も、じっさいにはじぶんとひとしい立場〔偽善――ギトン註〕に置かれるにいたったのだから、おなじようにやはり自らの語り〔自己批判,告白――ギトン註〕で応答し、その語り(Rede)のなかでじぶんとのひとしさを言明してほしい、ということである。かくてまた期待されるのは、相互に承認しあうありかた(Dasein)が到来することなのだ。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),p.369.――ギトン註〕


 つまり行為する意識は、相手の主張を深刻に受け取り、そのうえで、自分の一面性を反省し、〔…〕自分の立場が普遍的でないことを認めて相手に歩み寄り、相手にも同じ態度を期待するわけです。〔…〕B が〕他の人の行為をこきおろすばかりで、自分では何もしないのも、〔批判していた相手  と〕同じく偽善であった」と自己批判し、自分の言葉でそれを認めてほしい。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.115-116. 

 


 ――「自分の言葉で」。だからこそ、AはBに対して、「おまえこそ偽善だろう、云々」などとは言わず、ただ自己に対する批判だけを表明するのです。Bが「自分の言葉で」言わなければ、B自身が自己批判(告白)したことにはならないからです。

 

 ここで、Bがなおも自己批判せず、むしろAが無条件降伏したと思っていい気になり、「そうだ。悪いのはおまえだ。謝罪しろ。二度と偉そうにするな」などと攻撃を強めたりすれば、2人の関係は決裂します。それでも決裂しなければ「主・奴」の関係になってしまう。先日来何度か指摘したとおりです。



『その先にあるのは決別です。これでは分断を深め、社会の共同性は破壊されてしまいます。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.116. 

 

 

 

 

 そうではなく、BがAの「告白(自己批判)」を受けて、自分も「告白(自己批判)」する場合には、どんな展開になるでしょうか?

 


『行為する意識の告白に対し、評価する意識が「然 しか り!」という赦 ゆる しの言葉で応 こた える、〔…〕

 

 この赦しとは、〔ギトン註――批評する良心 B が〕自身を断念し、みずからの非現実的な本質(Wesen)を捨て去ることであって、この本質のかたわらに、後者の意識は問題の他者(andere)を――こちらが現実的に行為することであったのだ――同等のものとして定立し(gleichsetzen)〔…〕悪と名ざされていたものを「善」として承認する。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),p.375.――ギトン註〕

 

 「みずからの非現実的な本質」とは、行為しないで口先だけで批判していることを指します。そうした態度を反省して捨て去り、自分が相手の行為を一面的に見ていたと認める。そして、自分が悪と名指しして批判した相手の行為について、それはむしろ善だと承認するわけです。なぜなら自分とは違って、実際に行為しているからです。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.117. 

 


『あるいはむしろ〔…〕〔ギトン註――B は〕〔善悪という〕この区別を放棄し、みずからが 単独に存在する者(für sich Sein) として下す〔善悪を〕規定する判断・を手ばなすのであって、これは、他方の側(das andere)が 自立した存在(für sich Sein)として行為を規定するの・を放棄するのと、おなじことなのである。』

ヘーゲル,熊野純彦訳『精神現象学(下)』,ちくま学芸文庫,pp.375-376. 

 

 

『評価する意識の「赦し」は、自分は間違っていたと告白する相手に「やっとわかったか。謝るなら許してやるよ」というような、上から目線の応答ではありません。〔…〕自分の行為も「偽善」だったと認め反省し、行為する〔行為に完璧さを要求する立場を捨てて、自分も、不完全ながら行動に出る立場に転ずる――ギトン註〕――完璧さを追求していた自分の立場を捨てるわけです。これが、へーゲルのいう「赦し」です。


 〔…〕ここで重要なのは、「告白」と「赦し」の応答は、善悪をめぐる当初の自分の見解を双方が(部分的に)改め、対称的に変わっていく過程であるということです。相手との意見の違いを認めたうえで、協働して、吟味し合う態度がここに形成されます。双方が、批判し合い、〔…〕反省して歩み寄ることで、そこから協働で新たな知と正しさの基準を生み出していく――これこそが「赦し」が成立させる相互承認の関係です。〔…〕

 

 「告白」と「赦し」によって、A(善)と非A(悪)がぶつかった状態から、双方が変わることで、「行為する意識」と「評価する意識」が統一されていく。まさにこれは、へーゲルが重視した弁証法的な展開です。〔…〕

 

 相互承認によって、「絶対的な精神」が現実的なものになります。〔…〕

 

 評価する意識の「然り!」という和解の言葉によって、行為する意識と評価する意識は現に存在する一つの「精神」――「私たち」となることができるのです。私たちは自分たちの個人としての自由と自立を保持しながら、同時に普遍的な価値や正しさを他者と共につくり上げることができる。〔…〕まさにこの種の自由を可能にするのが相互承認なのです。

 

 しかし、これで万事解決とはいきません。〔…〕完全な調和はないからです。「絶対的な精神」は神ではない。〔…〕精神すなわち「私たち」は、有限ながらも自分なりに洞察し判断し、行為する人々の集まりです。いくら集まっても有限であることには変わりありません。〔…〕

 

 ですから私たちは、「普遍的でありつつも、必ずや有限性にとらわれている」という前提で、あらゆる知をつねにとらえ直し、新たな知(真理)を生み出していかなくてはなりません。コンフリクトがなくならないなかで他者との協働作業を可能にするのが、告白と赦しの「相互承認」なのです。〔…〕

 

 たとえば、差別的なルールや考えに対して、マイノリティの人たちから〔…〕異議申し立ての声が上がる。これに対して、差別をしてきた(あるいは是認してきた)マジョリティの人々が、「良い価値観だと思ってきたが、たしかにおかしい」と、みずからの誤りを認め「告白」する。

 

 ただし、マジョリティの「告白」があったとしても、マイノリティの側の要求や価値観がそのまますべて反映されることはないでしょう。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.118-121. 

 

 

 ‥‥量的に、要求項目のごく一部しか実現しないかもしれないし、実現された部分についても、マイノリティ側が望む価値観とは真逆を向いているように思われる仕方で実現されるかもしれません。

 

 

 

 

 これは、最近の「LGBT理解増進法」の例で考えてみればわかると思います。そうすると、これに対するマイノリティからの反応は、2通りがありえます。

 

 ひとつは、こんな法律なら無いほうがよい、と言って、マジョリティからのオファーを頑 かたく なに拒絶する対応です。私自身、当事者なので、そう思う心情はよく理解できます。しかし、ヘーゲルの「良心 A B」の応酬を思い返せば、このような「頑なな心情」では、事態は先へ進まないのです。相手との「協働」によって、さらなる変化を引き起こすことは、難しくなります。不十分にもせよ、マジョリティ側からの「告白」に対しては、まず「赦し」を与えることが必要です。

 

 もちろん「赦し」とは、闘いをやめるとか、もう要求しないということではありません。相手は不十分にもせよ、マジョリティの価値観を反省し(一部)改めたのですから、その点を評価したうえで、それでは不十分だということを認識させなければなりません。どこがどう不十分なのか、具体的な説明が必要ですし、説得力のある説明ができないとしたら、できないマイノリティ側にも問題があると思わなくてはなりません。相手を「赦す」ことは、自己の至らなさを反省し「告白」することでもあるのです。

 

 

『多様な意見や価値観の完全一致はない以上、さらなる正義の実現を求めるコンフリクトは続きます。その過程で、私たちは再び互いを批判したり、相手の主張の妥当性を多角的に吟味することで、自分たちの規範や規則をより意識的に扱えるようになっていく。

 

 これこそが、ヘーゲルのとらえた近代の自由の姿なのです。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,p.121. 

 

 

 

〔24〕 『進撃の巨人』

 


 さて、斎藤さんのNHKテキストは、ほとんどお終いに近づいているのですが、あと1回だけ続けます。

 

 次回は、ダーク・ファンタジーの傑作『進撃の巨人』を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

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