小説・詩ランキング


 

 

 

 

 

 

 

〔13〕 普遍的な自己になりたい――〈啓蒙〉の意識

 


 前回は、伝統的な “鉄壁” の規範から解き放たれた近代社会のもつ二面性について論じました。一方では、私たちは “鉄壁” の規範や「常識」から距離をとって、それらをよく見直して考え直すことができるようになります。しかし、他方では、何が正しいかについて共通の理解がなくなり、それぞれの個人が「自分こそは正しい」と主張するので、私たちは混乱に直面します:


『近代社会は、与えられた身分や伝統的な役割、既存の価値観とは距離をおいて(疎外して)、それらを反省的にとらえることができる社会です。そのため、何かを判断する際の根拠としての社会的規範――ヘーゲルの表現を使えば「実体」――が揺らぎ、流動化していく事態が起きました。〔…〕私たちは「このルールはおかしい」と声を上げることができます。』

 

 しかし、その『一方で私たちは、誤った考えにいつのまにか囚われてしまっていて、誰かに騙されているかもしれません。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,p.72. 

 

 

 そこで、さまざまな言説の洪水のなかで、客観的な証拠やデータを要求する態度が広まっています。しかし、それが問題の解決に寄与するかどうかは未知数です。もっともらしいデータを山のように挙げて、人びとを奇怪な結論に誘導しようとする陰謀論者も、現在のネット空間には溢れているからです。そもそも、データというものは、出所 でどころ を検証しなければ、信じてよいかどうかわからないものです。その検証をすべてやりながら膨大なデータを検討してゆくことなど、シロウトにできることではありません。

 

 情報と言説の洪水のなかで、私たちはいったい、どうすればいいのか? ‥‥この事態に直面して意識がとる両極端の態度として、ヘーゲルは、〈啓蒙〉と〈信仰〉を取りあげているのです。

 

 まず、〈啓蒙〉のほうから見ていきましょう。

 

 伝統的な価値や善悪、しきたりや「常識」が通用しなくなった世界で、個人は、価値の装いを引きはがしてすべてを無意味化するだけでは、「自由」は得られないことに気づきます。自分が「自由」を享受するためには、あるていど安定した規範や規則が社会になければならない。衝突と混乱のなかでは、「自由」な生き方を実現することもできないからです。

 

 そこで、意識は、みなに承認される考え方を持とうと努めます。つまり、自分は「普遍的」でありたいと望む。しかし、それは、自分で考えて納得したものでなければならない。伝統や「常識」に無批判に追随する態度に戻ってしまっては、「自由」を維持できないからです。

 

 

『自分の考えは「実体」にならないといけない。つまり、みなに承認され、社会のなかで共有されるものでなければなりません。そこで、単に自分で決めるだけではなく、みずからの判断を普遍的なものにしたい。――ヘーゲル的にいうと「普遍的な自己」でありたい――という欲求が意識のなかに芽生えてきます。それを体現するのが「啓蒙」の意識です。』

 

  それとは逆に、『「信仰」〔※〕は、伝統的な価値観や知、ふるまいといった自分でつくり出したのではない規範や規則を大切にして、その重要性を信じている立場を指します。

 

 これに対して啓蒙は、そのような伝統知を拒否し、みずからの理性を働かせて、合理的・科学的に考えようとします。自分自身の力で、普遍的な規範や規則をつくるのが、理想とされるのです。つまり、自律した生き方をめざすのが啓蒙です。

 

 啓蒙の戦いは、単に相手に反対したり、疑ったりするだけでなく、普遍的な理由を明示して、信仰の欠点を「悪」として批判し、みずからの立場がより良いもの、「真理」であることを示そうとします。

 

 例えば、宗教を信仰している人に対して、「あなたが信じているものに実証的な根拠はないので、神を信じるのは不合理な迷信だ」と説く。〔…〕


 信仰側にいる一般大衆は、素朴で無邪気なので、自分が信じているものを疑い、反省することを知りません。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.74-76. 

 

 

註※ 「信仰」というと、ふつうは宗教に関することですが、ヘーゲルがここで言っているのは、宗教に限らず、さまざまな伝統的な価値観や知を信じる態度のことです。




Mario Cattaneo, Napoli, 1950.
 


 しかし、〈信仰〉の側には、素朴でない人たちもいます。それが「僧侶」と「専制君主」だ、とヘーゲルは言います。彼らは、大衆と違って高度な教育を受けているので、〈信仰〉に合理的根拠がないことはわかっているのです。にもかかわらず、〈信仰〉を正しいものとして大衆に説く。彼らは、無邪気な大衆を扇動しようという「邪悪な意図」を持っているから、そうするのだ。

 

 たとえば、福沢諭吉の少年時代の逸話として、幕末のことでしょう、こんな話が伝わっています。ある時、諭吉が、村の人びとが崇めている鎮守の祠 ほこら を開けてみたら、中には、ただの石が入っているだけだった。そこで、諭吉少年は、その御本尊の石を、そばに落ちている別の石と取り替えておいた。すると、村の人びとは相変わらず、祠の前にやってきて、ありがたがって拝んでいるので、諭吉はそのようすを木の蔭から見て、笑いをこらえていた。そこへ神職がやってきて、祠に向かって祝詞を上げはじめたので、諭吉は木の蔭から出て行って、「祠の中にあった神様は、あんたがいま踏みつけている・その石だよ」と言った。村人たちは、何のことか解らずに、きょとんとしていたが、神職は顔を真っ赤にして怒鳴ったあげく、逃げ出してしまった。


 この話の諭吉少年は〈啓蒙〉の役割をし、村人たちと神職は〈信仰〉を体現しているわけです。とくに、神職は、諭吉少年の言う合理性を理解できるのに、「邪悪な意図」があるので、あえて〈信仰〉の側に立っている、ということになります。

 

 もっとも、この逸話での福沢諭吉の態度は、「啓蒙」と云うには不十分です。「自分は正しい。普遍的だ」と自分ひとりで納得して、木の蔭に隠れて笑っているからです。自分の普遍性を、村人、つまり大衆に対して広げていこうとする態度が見られません。日本の場合の「啓蒙」思想家の限界なのでしょうか。その点、ヨーロッパ近代に現れた「啓蒙」家たちは、もっと積極的でした:

 

 

『啓蒙がめざすのは、あらゆる他律的な「迷信と先入見」を克服し、悪の批判によって自由を勝ち取ることです。〔…〕

 

 だから、一般大衆は啓蒙されなくてはならない。そこで啓蒙の意識は、大衆に対して「あなたたちは騙されている!」「専制君主の支配から目覚めよ!」と訴えかける。真理を突きつければ、大衆も気がついて、「未成年状態」〔カントの言葉。ヘーゲルの「信仰」意識に同じ。――ギトン註〕から抜け出せるはずだというわけです。

 

 その際、啓蒙の意識は合理性を重視して、主に、自然科学や実証主義の立場から信仰を「迷信だ」「妄想にすぎない」などと批判します。今日風にいえば、エビデンスやデータを使って啓蒙するわけです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.77. 

 

 

 しかし、このような〈啓蒙〉の大衆教化は成功しません。ヘーゲルは、このようなやり方は自己否定につながる、「理性的に真理を求めているつもり」で、そのじつ最終的には「非真理となり、非理性となってしまう」と言うのです。〈啓蒙〉は、僧侶や専制君主が大衆を欺いていると糾弾するけれども、そのじつ、「信仰」に関して〈啓蒙〉が言い立てていることのほうが、「意識した虚言」であり欺罔だ、とまで言います。

 

 なぜ、〈啓蒙〉は「非理性」となり「虚言」となってしまうのか? ヘーゲルによれば、2つの点から、そうなるのです。

 

 

『一つ目の理由は、啓蒙にも自己反省が欠けているからです。〔…〕啓蒙は伝統的な知を否定し、「本当はこうだ!」と対案を示します。〔…〕対案が本当に正しいかどうかは、直ちには保証されていません。〔…〕もしかしたら啓蒙の対案も間違っているかもしれない。逆に、信仰の側にも正しい要素がある可能性も捨てきれないわけです。

 

 〔…〕ヘーゲルによれば、自然科学やデータを特権視するような態度では、真理に辿り着くことはできない〔…〕これこそ、ヘーゲルが「精神」という 自然科学には還元できない 人間の社会的行為の次元を導入した理由です。〔…〕

 

 伝統が失われ、実体が流動化した世界にあっては、たとえ自然科学であっても、唯一の特権的な、神のような立場に立つことはできません。啓蒙も含めて、どのような判断にも、自動的に真である保証がない。〔…〕自分にも間違っている可能性があることを認め、〔…〕絶えず反省する態度が必要になるのです。

 

 自分の考えが単なる独りよがりの思い込みではなく、本当に正しいのかを吟味するためには、他者と協働していくことが欠かせません。ところが、〔…〕伝統的な知に「誤謬だ」「つくりものだ」などと、はなから否定してかかるような啓蒙の態度では、相手は協働することができません。相手を否定して、自分の意見に丸め込もうとするだけなら、やっていることは、啓蒙が批判していた僧侶と変わらないことになってしまうでしょう。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,2023,NHK出版,pp.78-79. 

 


 


 

 

〔14〕 大衆は何を信じているのか?

――〈信仰〉の意識

 

 

 〈啓蒙〉が「非理性」となり「虚言」となってしまう第2の理由は、人が何を「正しい」と信じるのか、その根本を理解していないということです。これは、第1の理由以上に重大な〈啓蒙〉の欠点です。なぜなら、この点を理解しないかぎり、〈啓蒙〉は他の人間を説得できないからです。

 

 

『ヘーゲルは、啓蒙には「信頼する」という態度が欠けていると指摘します。〔…〕

 

 信仰が啓蒙より優れている部分もあるのです。それは、「信頼する」ということが、知にとって本質的な構成要素であると、直観的に理解している点です。さまざまな規範や規則が人々に是認され、通用するためには、みなが信頼をもって信じることが大事だと信仰はわかっている。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.79-80. 

 

 

 つまり、ヘーゲルが言うのは、言葉を「信じること(glauben)」の基礎には、それを言う人を「信頼すること(vertrauen)」がある。相手を「信頼すること」がなければ、相手の主張を「理解する」ことも「信じる」こともできない、ということなのです。


 

『相手を信頼することで、私たちは、一人だけの「思いなし」を超えて、他者と知を共有することができるようになると信仰は云います。

 

 私が信頼している相手がじぶん自身を確信しているとすれば、その確信は私にとっては自身についての確信である。〔熊野訳・ちくま学芸文庫(下),pp.188-189.――ギトン註〕


 つまり、じぶんが信頼を寄せている相手が「これは正しい」と思っているのであれば、「私もそれは正しいと思う」ととらえることのできるような共感や承認関係――それが信仰のベースにあるのです。他者と同じものを確信しあえること、そこにこそ共通認識が成立するといってもいいでしょう。

 

 裏を返せば、信頼関係がなければ、自分とは立場の異なる相手の知や主張の内容を理解することもできません。〔ギトン註――だから〕啓蒙は、〔…〕信仰の本質を理解しようとすることもなく、「ただ祭司の欺瞞であるとか、民衆の瞞着であるとかについて語っている」わけです。

 

 騙されているから信じている、というとらえ方は、「信仰」と「信頼」が生み出す知のあり方をとらえ損なっています。

 

 こちらの話を聞かず、理解しようともせずに、ただただ批判してくる人の話を誰が聞こうと思うでしょうか。そんな態度で来られたら、信仰も啓蒙の側を信頼することなど到底できません。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.80-81. 



 「信仰と信頼が生み出す知のあり方」ということで、ヘーゲルが念頭においているのは、カトリックの教団、とくに「修道会」のような厳格な信仰集団ではないかと、私は原著から感じます。もちろん、「修道会」などは、典型的すぎる・極端な例です。通常の人びとが、尊敬する先生の言うことだから信じる、選挙で支持して投票する、というような場合の「信頼」は、それほどのものではないでしょう。しかし、そこには〈信仰〉(信頼するから信じるということ)の本質が現れていると思うので、すこし引用してみます:

 


『啓蒙は信仰を以下のようなものと言明するが、それは正当な言明なのである。つまり啓蒙は信仰にかんして、「信仰にとって絶対的実在〔確固たる真理や真実――ギトン註〕であるもの〔「神」「キリストの復活」など――ギトン註〕は、信仰自身の意識にとっての存在であり、信仰自身が考えだしたもの(Gedanke)であって、意識が産出したものである」と語るのだ。啓蒙は信仰をもって、かくて誤謬であり、つくりもの(Gedanke)であると宣言する。』

ヘーゲル,熊野純彦訳『精神現象学(下)』,ちくま学芸文庫,p.188. 

 


 「神とは信者の心が作り出したものにすぎない」というのは、よくある宗教批判です。しかし、それだから信仰は「誤謬で、作りものだ」、と〈啓蒙〉が断定してしまうのは、安易な結論です。なぜなら、実在(真理)を作り出す意識の働きは、〈信仰〉の意識も、〈啓蒙〉の意識も、何ら異ならないからです。〈信仰〉の意識は、神や精霊の支配する世界を作り出し、〈啓蒙〉の意識は、科学法則の支配する世界を作り出す。そうした・意識と世界の関係は、〈啓蒙〉だろうと〈信仰〉だろうと異ならない。

 

 しかし、そうだとすると、〈啓蒙〉の意識にとっての物理法則が、眼の前のリンゴの木から実が落ちる、というしかたで、現に眼の前にある現象として存在するのと同じように、〈信仰〉の場合にも、神、精霊、恩寵といった「実在」の秩序は、目で見ることができ、手で触れられる現実のものとして存在しているのです。

 

 ヘーゲルのいう〈信仰〉とは、何か遠くにあって目に見えない崇高な存在をあがめるのではなくして、すぐそばで目に見える現実的な存在を信じる意識なのです。その・現実的な存在とは、たとえば、日夜「勤行 ごんぎょう」を行なっている教団の精神として実在します。教団の精神は、「勤行」を行なう修道士たちの意識によって、また、彼らと教団に信頼を寄せる信者たちの意識によって、日夜産出されつづけています。すなわち、「〈信仰〉が信じる実在とは、〈信仰〉自身が作り出したものだ」という〈啓蒙〉の言明は、まさに〈信仰〉の正当な本質を言い当てている。それは、誤謬でも何でもない。


服従と勤行(ごんぎょう der Gehorsam und das Tun)が、そこで必然的な契機となる。つまりそのような契機をつうじて、存在を確信すること、すなわち絶対的実在〔まちがえのない真実――ギトン註〕のうちに存在しているという確信がなりたつのである。〔…〕信仰にとっての絶対的実在は〔…〕抽象的な実在として、信仰する意識のかなたに存在するものではない。むしろ絶対的実在は教団の精神であり、絶対的実在こそが〔ギトン註――意識と対象との〕統一(Einheit)であって、それは抽象的実在と自己意識とをひとつのもの(Einheit)とする。このような実在が教団の精神であるべきであるとすれば、そこでは教団の勤行(das Tun)が本質的な契機となる。教団の精神が絶対的実在であるのは、それがただ産出されることによるのであって、産出するのは意識なのである。』

ヘーゲル,熊野純彦訳『精神現象学(下)』,ちくま学芸文庫,p.190. 


 

 

シトー会 当別トラピスト修道院 入口  北海道北斗市三ツ石392

一般人は、ここから先に入ることはできない。

 


 カトリックの信者ならば、修道院の中に入って見学する機会があるのかもしれませんが、私たちにはそれはできないので、想像してみるほかはありません。日本の伝統的な教団で、それに近いのは、私は天台宗と日蓮宗ではないかと思います。真言宗や浄土系の諸宗など、習合色の強い教団は、ちょっと違うように思います。神社のお祓いや教派神道の行事も、宗教的な信仰の「実在」からは、かなり離れてしまうように感じられます。

 


 

〔15〕 なぜ「リベラル」は大衆を説得できないのか? 

 


『なぜ「リベラル」と呼ばれる人々の主張は、多くの日本国民の耳には届かないのか。それは、自民党支持者が寄せている伝統的な価値観への「信頼」を見逃しているからです。愚かな大衆が〔…〕自民党に騙されているのではなく、日本に暮らす多くの人たちが信頼を置く生活様式や慣習に依拠した日常的な価値観が存在しているのです。これが「信仰」です。〔…〕

 

 啓蒙は一方的に相手を否定するばかりで、相手の立場に対する理解や、自分たちが間違っている可能性への自己反省を欠いています。ゆえに立場の違う信仰と協働できない。ここに啓蒙の限界があります。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.82. 

 

 

 たとえば、私たち仏教徒は、仏像を、まるでそこに「ほとけ様」自身が居るかのように畏 かしこ まって拝みます。しかし、聖像崇拝の習慣がないイスラム教徒やユダヤ教徒から見れば、ただの木や金属の塊を崇める行為は、理解しがたいものでしょう。上で引いた福沢諭吉の逸話も同様で、〈啓蒙〉の精神を注ぎこまれた諭吉少年から見れば、村人の信仰は、「ただの石」を崇める愚かなふるまいとしか見えません。

 

 

『でも、〔…〕そんなことは信者たちもわかっているのです。〔…〕信者たちは〔…〕騙されて〔石を神様だと思って――ギトン註〕信仰しているわけではなく、私たちが日常的に知覚することができないものを感じたり表現したりするために、ある種のメタファー(隠喩)として、意図的にそれらを用いているのです。

 

 ところが、実証的な科学主義を重んじる啓蒙は、メタファーの次元をうまく扱うことができません。そこで、「ただの石じゃないか」「金属の塊じゃないか」「死んだキリストが生き返るわけはない」などと言います。しかし、『宗教が扱っているのは、そのような経験的な出来事の次元ではない

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.83. 

 

 

C.W. Eckersberg: Socrate et Alcibiade, 1813-1816.

 

 

『啓蒙の立場が、すべては科学的・実証的に説明されなければならないと考えるのに対して、信仰の立場はそれ以外の方法も使いながら、人生の意味や世界を理解しようとします。そうした信仰の知を、実証的で経験的な理解に矮小化してしまうと、宗教の意味や社会的な役割が見えなくなってしまいます。〔…〕

 

 宗教以外にも、世の中には、自然科学では説明のつかないことがたくさんあります。日常のなかで私たちが大切に感じている友情や愛、自然に触れて美しいと感じる気持ち。あるいは芸術や文学。さらには国家、民主主義。こうした実践や製作活動〔…〕まさにこうした人間的次元こそ、へーゲルが「精神」と呼んだものと重なります。〔…〕「私たち」がいかなる者で、何のために生きているのかを知るためには、自然科学だけでは不十分なのです。〔…〕自然科学によって説明できない次元を非真理として切り捨ててしまうなら、そこには精神の場所は残されていません。〔…〕

 

 啓蒙は、自然科学と客観的データこそが真理であり、エビデンスを伴なわないものはすべて迷信にすぎないと斥ける考え方です。〔…〕

 

 へーゲルは、「啓蒙にとって絶対的実在は一箇の真空となる」と書いています。「絶対的実在」とは、確固たる真理や真実のことです。〔…〕最終的に啓蒙が明らかにする真理は、無意味な「真空」にすぎないというのです。

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.84-86. 

 


 私たちは、「友情」や「愛」のような人間心理、また、「国家」や「民主主義」のような政治的なことがらも、もっと自然科学が発達すれば、いつかは科学的に説明できるようになる――と考えがちです。それは、言ってみれば「アメリカ流」の世界観です。戦後、私たちはアメリカを解放者として迎え、その後もアメリカの尻にくっついてきたために、「アメリカ流」が、自民党から共産党まで浸透しているのです。

 

 しかし、世界には別の考え方もあります。ヨーロッパでも、ドイツや中欧では、ヘーゲルのような考え方のほうが主流です。たとえば、M.ウェーバーは、科学というものは、どこまで行っても、一定範囲の自然的現象にしか通用しない。文化や歴史、法律や政治など、人間の「価値」が問題となることがらは、永久に、自然科学によっては説明されえないと断じました。






 

〔16〕 破滅の価値観――「役に立たないものはダメ」

 

 

 しかし、20世紀の初めに、M.ウェーバーのような「ドイツ流」が肩をそびやかしても、科学の発達はとどまるところを知りません。21世紀ともなれば、心理学から、ついには政治学や道徳論など、自然法則とは無縁と思われていた領域にまで、自然科学的な考え方が浸透し、幅を利かすようになってきました。

 

 そうなると、今度は、劣勢に立った「宗教」や「文化」の側から、疑似科学的な考え方で正当化をはかろうとする動きが出てきます。

 

 たとえば、旧約聖書には、エジプトで迫害されたユダヤ人たちが、モーセに率いられて故郷のパレスチナのほうへ逃げて行こうとした。すると、海が真っ二つに割れてユダヤ人たちを通し、追手のエジプト軍が入って来ると、突然元に戻ったので、エジプト兵たちは波に吞まれて溺れてしまった、という有名な話が書かれています。

 

 これについて、いや、それは実際にあったことだ。紀元前……年に起きた洪水の状況が、そのように脚色されて書かれているのだ、と主張して、古気候の研究によって実証しようとする人がいます。もっと先にいくと、海が割れたのは地磁気の異常による現象で、じっさいに起こりうることだ、として、地球物理学的な説明をしようとする人までいます。

 

 このようにして、〈信仰〉側は、‥‥

 

 

『「根拠を示せ」「証拠を出せ」という啓蒙側からの圧力が高まるなかで、〔…〕実証主義的に――つまり、相手の土俵に立って反論せざるをえなくなっていきます。

 

 こうした状況についてヘーゲルは、啓蒙という病が信仰側に「伝染」して冒されたと表現します。これは、信仰にとってはかなり不利な展開です。こうして、『「伝染が精神的生のいっさいの器官に滲みわたって」、ついには信仰の本質をみずから手放すことになってしまったと指摘しています。〔…〕


 ただし、伝統的な知や価値観に無反省なまま固執する信仰は、近代が理想とするあり方とはかけ離れているのも事実です。無反省な知のあり方が人間を自由にすることはありませんし、伝統に固執している彼らには、自分とは意見の異なる人々と協働することも、新たな知やルールをつくることもできません。

 

 結局のところ、啓蒙の側にも信仰の側にも、みずからを反省し、対立する相手と信頼関係を築こうとする態度は生まれないとへーゲルは書きます。』

 

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.89-93. 


 

 



 ヘーゲルによれば、これこそが、近代・現代社会で人びとが「分断」されている事態の本質なのです。この事態を、逆に〈啓蒙〉の側について見ると、つぎのようになります。

 

 〈啓蒙〉は、科学的なエビデンスによる説明をしているのに、大衆がそれを受け入れないのは不合理であり、愚かなことだと、ひたすらに糾弾します。しかし‥

 

 

『信頼なき知を受け入れるのは困難なのです。


 ここで強調しておきたいのは、エビデンスがあれば、対話のための信頼関係が構築されるなんてことはなく、信頼関係があって初めてエビデンスが意味をもつということです。ところが、啓蒙の側にはその批判相手と信頼関係を築こうとする姿勢が見られない。啓蒙は勝利するかもしれないが、信仰の側には、不満が溜まっていきます。結局、分断という問題の本質は、エビデンスの「正しさ」とは別のところにあるので、ファクトチェックでは事態は解決しないのです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.93. 



 このように〈啓蒙〉〈信仰〉双方が譲らず、「分断」が広がっていくと、そのどちらにも完全に帰依することはできない大多数の人びとのあいだには、「相対主義」が蔓延します。なぜなら、事態に責任を負わないですむ「相対主義」は、もっとも楽な態度だからです。しかし、「相対主義」と「分断」の先には、何があるのでしょうか? ‥‥それは「恐怖政治だ」、とへーゲルは言い切るのです。

 


『絶対的な基準がないという近代社会で蔓延する対立は、自分が信じたいものを信じるという相対主義を生みます。それ自体で普遍的な価値のあるものはありません。すると、すべては「他のものに対して」有用かどうか、究極的にはカネや権力にとって役に立つかどうかで決まる。〔…〕世界はもはや理性によってではなく、むき出しの利害関心に支配されるようになっていきます。〔…〕

 

 へーゲルは、フランス革命が恐怖政治に陥ったことを引きながら、近代の「疎外」〔伝統的な価値や規範から離れること――ギトン註〕が究極的に行きつくところは「絶対的自由」だと述べます。〔…〕良い意味で使っているわけではありません。〔…〕あらゆる固定から完全に(=絶対的に)解き放たれてしまった状態が「絶対的自由」です。

 

 「絶対的自由」のもとでは、自己意識にとって、それ自体で意味や価値をもつものが何もなくなってしまう。伝統だけでなく、名誉も、財富も、言葉も、法も、意味を失っていく。最後には、人間の命さえ。その帰結が、テロル〔「恐怖政治」に同じ。政府・公権力による暴力的支配のこと。たとえば、スターリン体制下の粛清。逆に、政府・公権力に対して武力で反抗することを「テロル」と呼ぶのは、現代権力による故意の誤用。――ギトン註〕です。


 権力が暴走し、いともたやすく他者の命を奪うような社会には、自由も共同性も、啓蒙がめざしたはずの普遍的な知も生まれません。〔…〕

 

 そして、意識は気がつくわけです。自由とは、あらゆるものの否定の先にはないのだ、と。むしろ、自由とは、他者への依存社会との摩擦のもとでのみ存在するです。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,pp.94-96. 

 

 

 

 


 

〔17〕 〈啓蒙〉と〈信仰〉を超えて ――「薔薇の理性」

 


 〈啓蒙〉と〈信仰〉との不妥協の対立による「分断」が、21世紀の世界で深刻化しています。ヘーゲルが 19世紀はじめに剔抉した事態の本質は、いま現在の世界にまでつづいていることになります。

 

 これを、現在の日本での政治・社会問題に絡めて論じることも、できなくはありません。しかし、問題の渦中にいながら事態を正確に見るのは、難しい。斎藤幸平さんは、福島汚染水放出の問題を取り上げていますが、適切な「あてはめ」になっているとは、私には思えません。むしろ、アメリカの大統領選挙を見たほうが、わかりやすい。トランプ陣営の頑迷な〈信仰〉者たちと、バイデン政府の〈啓蒙〉的な空虚なエリートたち。太平洋という距離をおいただけで、ずいぶん見通しがきくようになります。

 

 この・民主主義と自由を崩壊させかねない対立・「分断」を解決するカギは、あるのでしょうか? 本意にフタをしての「妥協」や、足して二で割る「折衷」では、一時しのぎにしかならないことは明らかです。つまり、ヘーゲルの言うとおりです。19世紀以来、「妥協」と「折衷」だけを繰り返してきたから、問題が解決されずに残ってきたともいえます。

 

 ひところ、ある政党が、「要求の一致点で手を結ぶ」ことを提唱していましたが(なぜか、最近は言わなくなったw)、「一致点」だけを見るということは、一致しない点に眼をつぶるということです。そこには、討論を避ける態度があります。異なる意見と討論すると、自分も自己否定しなければならなくなるので、「一致」しない点は見てみぬふりをして、自分の意見は絶対に変えない。これでは、新しいものは生まれません。(‥というその政党も、そろそろ年貢の納め時に来ているかもしれません。)

 

 相互の対立を正面からとらえて・討論し、「妥協」でも「折衷」でもない・新しい考え方を生み出す。その結果、対立していた〈信仰〉と〈啓蒙〉は、両方とも乗り越えられて消えていく。――これが「弁証法」の処方箋ですが、このように抽象的にいうのはかんたんで、じっさいに「新しいもの」を生み出すのは、人類 200年の難題です。しかし、どちらかといえば、〈啓蒙〉が自己改革して「新しい」考え方に変わってゆくほうが、解決に近づくかもしれません。〈信仰〉は、伝統的価値観からどうしても離れられない、それが〈信仰〉の核心部分なのだとすれば。

 

 

 

 

 

 ここで、斎藤さんは、「薔薇としての理性」という新しい考え方を提案しています。

 

 

『へーゲルは、啓蒙は〔ギトン註――「自分は普遍的でありたい」として目指していた〕普遍性を手にすることはできず、有用性の世界へと没落していったと結論づけています。啓蒙に決定的に欠けていたのは、科学だけでは説明できないものを大切に考える「精神」としての理性です。

 

 私はそのような理性を「薔薇としての理性」と呼ぶといいと考えています。』

斎藤幸平『ヘーゲル「精神現象学」――100分de名著』,p.96. 

 

 

 「薔薇としての理性」――つづめて「薔薇の理性」と呼びたいと思いますが、NHKテキストのかんたんな説明では、どうも、‥ピンと来て、ああなるほど! と思うほどにはイメージがわきません。そこで、斎藤さんが引いている出典2冊を読んでみました。レベッカ・ソルニットオーウェルの薔薇』と、ヘーゲル法の哲学』です。


 ところが、困ったことに、もう字数の限界が近づいています。「薔薇の理性」を途中で切ることになるのは耐えられません。

 

 そこで、次回は、『オーウェルの薔薇』と『法の哲学』の該当部分にさかのぼって、斎藤さんのいう「薔薇の理性」とは何かを探ったあと、最後の「第4章」に入りたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!